第4話

 霧に覆われた渡り廊下を駆け抜け、神官用の第一居住棟に到着し、リィルはあまりの惨状に思わず足を止めた。

(そんな……、聖水の護りは……? 紅龍皇帝の加護は……?)

 第一居住棟は玄関の目の前に水質調査用の噴水があるおかげで、他の居住棟よりも聖水の護りが強い。にもかかわらず、一階は既に黒い霧が流れ込んでいて、リィル達の部屋がある第三居住棟と変わらない。

 最悪な想像を振り払い、両手でメイスを握り締めた。

(叔母様達の部屋は二階だから……、きっと無事なはずよ……、ううん、無事でいて……、お願い……っ)

 第一居住棟にはベリア達神官だけでなく、サラとシャーリーの部屋もある。

 叔母が霧に気づいてくれていれば、サラ達を助けに行ってくれているはずだ。

 二階へ駆け上がり、叔母の部屋のドアを叩いた。

「叔母様っ! 無事!?」

 ほどなくして開いたドアの向こうから紅い光が漏れた。叔母の無事な姿に安堵する間もなく、ベリアが腕を引いた。

「リィル……! 早く中へ!!」

 タリスマンの光が満ちた部屋の中で、温かい腕が抱き締めた。

「よく無事で……、今から迎えに行こうとしていたの……っ」

「叔母様も……、よかったあっ」

 ようやく会えた家族の顔に、堪えてきた涙が溢れた。このまま何もかも忘れて眠ってしまえたなら、どれだけいいだろう。

「怪我はない? この瘴気じゃ、いつ魔獣が出てもおかしくないわ」

「あたしは、大丈夫……」

 そっと離れ、涙を拭った。

「でも……っ、リタさんと……、ルーシェは……っ」

 それ以上は言葉にできなかった。

 ベリアは重々しく頷いて、優しく抱き締めた。

「自分を責めては駄目よ……? 精霊族わたしたちだって、魔の霧の前には無力なのだから……」

 頷きながら、溢れてくる涙を拭った。

 自分だけが生きていることを赦されたような気がして、少し心が軽くなった。

 奥のベッドではタリスマンが明々と光っている。紅い光が降り注ぐ先に、横たわる幼い少女達の姿を見つけ、心が弾んだ。

「サラ! シャーリー! よかった、ちゃんと逃げてたんだ……!」

 二人を覗き込み、凍りつく。

 精気のない蒼白の顔は、リタとルーシェの状態に酷似していた。

「サラ……? シャーリー……?」

 囁くような呼びかけに、全く反応しない。

 眠っているというよりは、まるで……。

「叔母様……、サラと、シャーリーは…………?」

 振り向くと、ベリアは沈痛な表情を浮かべていた。

「廊下に出てしまっていたの……。危険な状態だけど、シャーリーはまだ助かるわ……」

「サラは……」

 ベリアは静かに首を横に振った。

 ――そん……、な……

 サラ達の部屋は突き当りの大部屋だ。

 子供用のベッドがある部屋で、フルスで引き取られた子供は十歳くらいまでその部屋で過ごす。

(どうして……、部屋から出ちゃったの……っ)

 子供部屋にもタリスマンがあるし、魔の霧が出た時は部屋に留まるように教えている。霧に気づかずに出てしまったのかもしれない。

(こんな時に……、サファルさんとリーノさんがいてくれてたら……っ)

 普段通りなら、彼らが巡回中にいち早く瘴気に気づいただろう。

 すぐさま敷地内の護りを強化し、警報の鐘を鳴らしてくれたはずだ。

 鐘さえ聞こえていれば――、その意味を知っているサラとシャーリーは部屋から出なかっただろうし、リタやルーシェも身を護れたかもしれない――!

「……よく聞いて、リィル」

 いつになく真剣な表情の叔母に、早くなる鼓動を必死に宥める。

 頭も心も満杯でおかしくなりそうなのに、叔母は更に大変なことを告げようとしているのが、その表情でわかった。

「シャーリーを連れて、宿泊棟へ向かって。トラウム殿と一緒に、裏門に行きなさい。三人でフルスを離れるの」

 言葉を失うリィルに、ベリアは神官長の顔で続けた。

「一刻も早くシャーリーをお医者様に診ていただかないといけないわ。瘴気からも遠ざけないと……」

「それ……は、わかるけど……、叔母様は……? 一緒に来ないの……?」

 裏門にはフルスの職員用の舟がいくつか置かれている。

 六人くらいしか乗れない小さな舟だが、タリスマンで補強されていて、レプス湖から伸びるレプス川を下れるくらい頑丈に造られている。

「私は第四棟へ行くわ」

 このフルスには四つの居住棟が存在する。家族用の大部屋が集まる第二居住棟、リィル達の部屋がある独身女性職員専用の第三棟、独身男性職員専用の第四棟だ。

 昔はどの棟も満室になるくらい職員がいたというが、今は部屋のほとんどが余っていて、第二居住棟に至っては誰も住んでいない。

「む、無茶よ、叔母様! 第四棟は第二棟の向こうなのよ!? ここからじゃ……っ」

「大丈夫。忘れているかもしれないけど、私も精霊族なんだから。避難所を作って、皆で待っているから、川を下って、ブルクル中央聖殿に救助を頼んできてくれる?」

 「皆はもう手遅れかもしれないのに……っ」喉まで上がってきた言葉を呑み込んだ。激しい自己嫌悪が込み上げる。

 ――あたし……、何てこと考えてるんだろう……!?

 ベリアはフルス聖殿の神官長だ。

 僅かでも望みがある限り、聖殿の「家族」を救うのが使命だ。たとえ、自らを危険に晒すことになっても。そんなことは、わかりすぎるくらいわかっている。

 だけど――、リィルにとって、ベリアはたった一人の血が繋がった「叔母」で――。

「叔母様……っ、一緒に来て……! こんな時に、あたしだけで舟を出すなんて……っ」

 舟の操縦には自信がある。

 神学校に戻る時はいつも舟で下っていくし、川の流れや難所だって心得ている。

 ベリアだって、それくらい知っている。

 本当は、こんな屁理屈じゃなくて、「一緒に逃げよう」と言ってしまいたい。

 だけど、「神官長の姪」として、「巡礼士候補生」として、そんなこと、言えるはずがない。

 温かい手が両肩に触れた。

 全てをわかっているように、ベリアは微笑んだ。

「自信を持ちなさい、リィル。貴女は自分が思っているよりも、ずっと強いわ。もう私がいなくても大丈夫なくらい……、本当よ?」

「そんなこと……、全然ないから……っ」

「自分を信じて……。姉さんの、巡礼士カナリス=ワイトフォールの娘として、胸を張って生きなさい」

 まるで遺言のような言葉に、弾かれたように顔を上げた。

 母と同じ茶色い瞳に宿る「決意」に気づき、漠然と叔母の考えを悟る。

(ああ、そうなんだ……、叔母様は……)

 ――神官長として、最期までフルスに残るつもりなんだ……

 何故か、魔の霧の中へ戻って行った母の笑顔を思い出した。

 十二年前のあの時、母もまた死を決意していたのだろうか。

「うん……、わかった……。ブルクルへ行ってくる……。すぐに戻ってくるから……、待ってて……」

「ありがとう……、何があっても生きるのよ……? 愛しているわ、リィル……」

 もう一度リィルを抱き締め、ベリアは外套のフードを被った。

「奥の棚に予備の外套とタリスマンがあるわ。シャーリーと二人で使いなさい。ありたっけのタリスマンを持って行っていいから」

「そんな……、叔母様は!?」

「途中で副神官長アルゲオの部屋に寄るから大丈夫。彼の部屋にはタリスマンの保管庫があるの、知っているでしょう? イルクの部屋には治癒用タリスマンも沢山あるから何とでもなるわ。貴女は、三人でブルクルに行くことだけを考えなさい。いいわね?」

 毅然とした微笑みを残し、叔母はメイスを手に霧の中へと消えて行った。

(あたし……、何を、勘違いしていたんだろう……?)

 旅先、町や村の中、聖殿の中でも――、パンタシアのどこにでも、魔の霧は現れて、人々から命を奪うのに。

 このフルス聖殿だけが例外なはずがなかったのに。

 精霊族は瘴気を感知する能力が人間よりも遥かに高く、魔力が強いほどに感知能力も高くなっていく。

 なのに今日、異変を感じたのに、何もしようとしなかった。

 聖騎士コンビも、副神官長もいない時、叔母に異常を知らせられたのは、自分だけだったのに――!

(行かなくちゃ……、シャーリーを助けなくちゃ……っ)

 叔母から託された「使命」を何度も念じながら、重たい手で棚の取っ手を引いた。

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