第2話
「へえ、リィルは巡礼士候補生なんだ。それなら、卒論は急がなくてもいいね」
中庭の噴水の
巡礼士は神学校生の進路の一つで、神官研修、高等神学校進学と並んで人気がある。
十二の大聖殿を巡り、最後に自分が魔力を授かった精霊王を祀る大聖殿に旅の成果をまとめた「卒論」を提出することで晴れて巡礼の旅が終了し、神学校も卒業となる。
巡礼はどの大聖殿から始めても良いし、ルートは自由、期限もなく何年かかっても問題ない。
ただし、基本は一人旅になる上に、昨今の物騒な情勢と相まって、旅の途中で命を落とす者も珍しくなく、予めテーマを決めて安全ルートを調べてから出発するのが普通だ。それでも、行方不明になる巡礼士は後を絶たない。
「巡礼士試験って、実技とか教養分野とか何段階か試験があるよね。どのくらいまで合格してるの?」
「実技も知識も合格してるから、後は面接だけ。面接は本当に旅に出るかどうかの最終確認みたいなものだから、落ちる人はほぼいないわ」
「じゃあ、もうほとんど合格なんだ。おめでとう。出発はいつ?」
「面接は祭典月が明けてすぐだから、普通は、再来月の火獣王の月の終わり頃に発つけど……、この調子じゃ、その次の深淵王の月の出発も怪しいかもしれなくて……」
「テーマが決まってないなら急がないほうがいいよ。精霊王祭を順に追いかけるとかなら別だけど……」
「そうなんだけど……。一年くらい探してても、『これ!』っていうテーマが見つからなくてね……」
イグは不思議そうな顔をした。
「行きたい国とか、見たい遺跡とかないの? 巡礼士目指す人って、目的があって、巡礼はついでの人が多いんでしょ?」
「……行きたい国も遺跡も、特にないから……」
巡礼士試験受験者の八割は、十二の大聖殿の支援を受けながらの世界一周の旅が目当てだ。一緒に試験を受けた受験仲間達はほとんどがそうだった。後の二割は、家の事情や出世が目当てで、そのどれでもないリィルはかなり異端といえる。
「もしかして、
「フルスは関係ないの……。自分探しをしたくなったっていうか……、ただの我が儘なんだと思う……」
少し日が傾いた空を見上げると、すぐ傍の枝に降りてきた白い水鳥と目が合った。フルスは国内最大のレプス湖の真ん中にあるので、山間部の小鳥だけでなく、水鳥も沢山入ってくる。
「あたし、
精霊族といっても、能力にはかなり差があり、家柄や家系が大きく影響する。
一般的に、魔力容量が大きいほど他の能力も比例して高くなり、精霊王や精霊の加護が強いとされる。大聖殿の幹部や王侯貴族が上位精霊族ばかりなのは、そんな理由からだ。
リィルは魔力容量、能力共に上位精霊族には一歩及ばず、中位精霊族と判定された。地方聖殿の上層部は中位精霊族がほぼ占めているので、妥当といえばそうなのかもしれない。
「上位精霊族と張り合って十位内? 普通に凄いよ。中央聖殿でその成績なら、大聖殿にも推薦してもらえるんじゃない?」
「推薦の話はあったけど……、そんな大それた話、怖くなって断っちゃって……」
神官になって叔母を手伝おうと神学校に入っただけだった。だから、地方聖殿の上の中央聖殿のさらに上、大聖殿での就職なんて、寝耳に水だった。
だけど、成績を競ってきたライバル達は皆、巡礼士や高等神学校への進学、大聖殿への就職を考えていて、さらにその先に大きな目標や夢を持っている人ばかりだった。
推薦を断った噂はすぐに広まって、ライバル達は驚いた顔で「他に何かやりたいことがあるの?」と口を揃えた。
笑ってごまかしたものの、そんなもの、あるわけなかった。
「それから、なんだかスッキリしなくてね……。よく考えたら、神官になるのは急がなくていいんだし、神学校で頑張ったことを詰め込めるような大きなことをやってからフルスに帰るのも悪くないな、って思い始めたの。母さんが巡礼士だったから、とりあえず巡礼士試験を目標にして頑張ったんだけど……。世界のことなんて考えたこともなかったから、世界規模の研究とか目標なんて、何にも出てこないのよね……」
愚痴のようになってしまっていることに気づき、慌てて隣を見た。
「ごめん、暗くなっちゃった! こんなこと考えてるようじゃ、巡礼士失格よね……」
「ううん、全然」
イグはにこやかに笑った。まるで、雪原に陽が差したように周りの空気が温かくなった気がした。
「今のうちにしっかり悩んでおいたほうがいいよ。旅に出てから迷ったり悩んだりしたら、それこそ命とりだもの。何年かかってもいい旅なんだし、スタートがちょっと遅れるくらい、大したことないよ」
「うん……、そうよね……」
情けない自分を肯定してもらえたような気がして、心が軽くなった。
(この人に相談して、よかったな……)
彼と話していると、全てを受け入れてくれそうな心地良さに包まれる。
会ったばかりなのに、つい弱音を吐いてしまったのも、きっとそのせいだ。
足元を見るふりをして、少し熱くなった頬を髪で隠した。
「……いっそ、本当に……、『幻想夜』を追いかけちゃおうかな……。目的がない旅だし、ピッタリかもね……」
「……お勧めできないなあ。わからないことだらけだし、発生した痕跡も残ってないし……、噂を頼りに世界中を探し回るのは厳しいよ?」
「う……、でも、物騒なのとか重たいのはちょっと……、どうせなら、楽しかったり面白かったりするほうがいいんだけど……」
「リィルらしいのでいいんじゃない? 長旅なんだもの。好きな事じゃないと続かないよ?」
「好きな事かあ……。全世界の名物料理食べ比べとか……、あ! そうだ! 精霊王祭の屋台調査なんて、どうかしら!?」
「悪くないと思うけど……、巡礼士の研究っていうより、行商人とか新聞社が喜んで買いそうな情報だなあ」
「やっぱり……? 凄くやる気が出るテーマだと思ったんだけどなあ……」
小さな水飛沫に振り向いた。勢いを増した噴水が陽の光を反射してキラキラと光っていた。
紅龍皇帝領の聖殿は噴水と川がシンボルだ。このフルス聖殿も敷地の至る所に噴水が設置されていて、周りを囲むように小川が流れている。
(ん? ちょっと底が見えづらい……?)
いつもは陽光で底まで見えるはずの噴水がやけに暗い気がする。
眼を凝らし、息を呑んだ。噴水の水がうっすらと濁っている。
(まさか……、瘴気……?)
自分の考えにスウッと背筋が寒くなる。
十二の精霊王と魔王の戦いは、伝承の中だけの出来事ではない。
魔王が持ち込んだという瘴気は、現在でも世界を蝕み続けている。
特に、高濃度の瘴気が霧状になって移動する魔の霧は、ひとたび発生すれば町一つが一夜で滅ぶほど強力だ。
魔の霧ほど酷くなくても、瘴気が溶け込んだ水で魔獣化した獣達の被害は深刻で、近頃は山間部や街道だけでなく、町や村にも出没している。
たとえ、「十二の精霊王」や「魔王」が伝承や神話の中の存在だとしても、瘴気は実在する、現在の「魔王」だ。
(昨日の雨で濁ってるだけ……、瘴気のはずがないわ……。だいたい、フルスは精霊遺跡なのよ? 精霊の加護だけじゃなくて、地底湖にも護られてるんだから……っ)
ルーリョ王国は紅龍皇帝の加護を受けた清らかな川が流れていて、少しばかり瘴気が溶け込んだところで自然に浄化される。
中でも、フルス聖殿は聖水が湧き出る地底湖の上に立っていて、そこから汲み上げた噴水の水は強い浄化作用を持っている。
だから――、瘴気が入り込むわけがない。
だけど、なら、どうして……、水が濁っているのだろう?
「どうかしたの?」
不思議そうな声に我に返る。
穏やかな蒼い瞳が覗き込んだ。
「あ……、えっと…………」
イグの出身地が祀る蒼月王は聖炎を司る浄化の精霊王だ。その加護を受ける精霊族もまた浄化魔法を得意とする。
研究者として世界を旅している彼ならば、この手の現象にも詳しいかもしれない。
「な、なんでもないから! そろそろ、宿泊手続きに行きましょうか!」
相談するべきか迷い、結局口から出たのは当たり障りのない言葉だった。
(あと三日で紅龍皇帝の月だもの。そのうち回復するはずよ……。でも……、後で、叔母様に報告しといたほうがいいわよね……)
大きくなってくる不安を呑み込んだ。
聖なる流れを司る紅龍皇帝領を祀る聖殿の噴水が濁っている――、そんな格好悪いこと、異国の旅人に言えるはずがなかった。
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