モノローグ08 「いい人になったら」を信じてみたいという気持ちがまだまだ心の底のどこかで姿をひそめていながら

  ただ、幸いだね。柔らかな明るみを嚙みこなしてしまった真っ黒な空間へと突き落としてもらってここで生きざるを得ない人は俺一人だけじゃないかもしれなかったのだ。

  もちろん言うでもなく、それはおじさんと「先生」に両手で肩を押し込んでもらったときに一人だけで床につきながら点滴をしているあの子のことはずだ。

  ただ、今の俺にそんなささいなことにこだわる気持ちがなかったのだ。

  実のところ、もともと罪の続きを引き受けるべきだけれどけっきょくちんぷんかんぷんなところで裁判長の審判による牢屋の懲罰(ちょうばつ)から救い上げてきてまたすぐにこの見知らぬ病院の部屋に投げ落として行ってもらったほどのシチュエーションにガクンと落ち込んでいってしまった今になって幸いぐらいのまぐれな言葉すら選んでこそ描き出した生活をたんたんと送ろうとしてみたい俺だったが、まだまだ自分に追い求めていたいその答えを探しつづけている勇気があるのだろうか、まだまだ自分にこの地獄に近いところから俺を救い上げて「いい人になったら」と理屈に合う道へ戻れて進む蜘蛛の糸を探しつづけている方法があるのだろうか。

  分からなかった。分からなくなったのだ。

  俺の進む足取り、俺の後ずさる嘆息、俺の走る身振り、俺の待つ躊躇、俺の恐る恐る探りを入れることにもつれつづけていた糸は、あのみんなに不思議な世界線と名付けられて俺の体をずっと付きまとっていた糸は、いつしかぼっとかすんでいくことにになりかけたらしいだ。

  しかしまじめに考えてみたら、また知らず知らずのうちに自分の想像していた世界の方向にずれが生じた現実について自分の思いに反論しかけてきて、そう話しやすいわけでもないかもしれなかったのだろうか。

  ただの「コースを外した世界線」だけで話しやすいことべきではないだろうか。

  なのに。

  どうして、いままでさっと勇気を出して腕によりをかけてあげて何度も命がけで出来上がろうとしてみたのだけれど、けっきょくパット調子に乗って手を差し伸べてあげて何度もひたすら努力を払い出したら一滴の成功の水しぶきも巻き起こされずに終わらせていくどころか、山を押しのけたごとき勢いであちらこちらからその意味不明の物言いをたくさん打ち寄せさせてもらったすえに苦しがらせてくれたものをすべて一人だけで飽きるほどに味わわざるを得ない自分に効く能力がないのか?

  どうして、いままでずっと辛抱強く聞いたり省(かえり)みたり尋ねたりしてみることを繰り返してあげて何度も物足りない欠点をおぎなってゆけるその答えを探し求めつづけようとしてみたのだけれど、けっきょくふっとやたらに求めたり考えたり表したりしてあげて何度もわがままに自分でも分からなかった行動を取ったら一つの問題のうわべも解決できずじまいであるどころか、ありがた迷惑をかけていなくて目的を遂げてしまったと思いながら褒め言葉をたたえてほしさのあまり、おばさんに叱り飛ばしてもらったときに殺人の罪さえも犯してあげた自分がこんな答えだけを見つけてくれたのか?

  どうして、何度もどうしても変えられなかった結末になってくれたのか?

  どうして、何度も欲しい結末じゃなかったのに。

  分からなかった。分からなくなったのだ。

  ただ、なるほどね。早いうちに分ってくるはずだったことだろうか。もうその「いい人になれる」答えを探しつづける資格は、もともとどこかを間違えているからいくら進もうとしてみたのだけれど、いくら探し求めようとしてみたのだけれど間違った道しか踏み出せずに生きている自分にたぶんなかったかもしれないのだろうか。

  たしかにただの「コースを外した世界線」だけで話しやすいことべきではないと反論できるはずだ。なぜならコースを外したのは世界線なんかじゃなくて自発的にもつれつづけて付きまとっていた糸をぼっとかすませていったのはこの俺のいわゆる自分だからだ。もしかしたらこのままなにも考えていなくてなにもしていずに済んでもいいだろうか。どうせ蜘蛛の糸を切られてくれて突き落としてもらった今になってここで殺人の罪を起した病気を「なおす」しかない生き方があるかもしれないのだ。

  なのに。

  いつも俺の思いのままに順調に進行している現実のシナリオをうまく演出してもらえないで無理やりに苦しがる意を味わわれながら考えられざるを得ない現実だそうだ。

  そんなに不条理なことたちをひとつひとつ受け付けさせてさらに信じさせてしょうがなくなりかけてくるのは間違いなくこの見知らぬ病院に入られることになった日から以来、日ごとに起こっている大した出来事ではなさそうな日常そのものだから。

  もちろん言うでもなく、そんな大騒ぎするほどの日常の中で唯一の時の流れにつれても変わられずに生き抜いてくるらしいのはやっぱり俺なんかじゃなくて、前に述べた如くときには薬を飲んだりときには点滴をしたりときには検査を受けたりする必要があって、いっしょに鉄格子の窓にバラバラに散らばされた光が告げてくれる朝から一日の始まりを迎えてきてずっと隣の席に住んでいるあの女の子のことはずだ。

  さらさらして真っ黒で長い髪、真っ赤でまるい瞳、つややかな肌をしている清楚な少女である彼女にとって大事な日常は毎日、ときには部屋にうろうろと歩き回っているうちにすらすらと流れてなんの物音、光色、熱の跡も引き起こさなくてしかもなんの違和を覚えさせてくれないはずの空気のどこかになにか気づきそうに怖気がついた顔をしていながら金切り声を上げてきて、追いかけて部屋にある新しく見つけたすみへとあわててうろうろ逃げるようにして走って行ったり、ときにはなにか分かってくれないわけでベッドでふらふらと座り込んでいるうちにいきなりなにか気づきそうにうんともすんとも言わないながらどさっと頭を枕元に近い壁に叩きつけたり、ときには部屋にある新しく見つけたすみでそっとしゃがみこんで姿を隠していながらひくひくして怪しい語調でなにか分かってくれない中身の話を小声でひそひそと独り言ちたり、ときには「ナース」らしいお姉さんに検査してもらっているうちに、いざちょっとだけもどかしげな口調で厳しい言い方を言いかけられるという段になると、すぐさま恐ろしさにびくびく震えてくるばかりのことになったりする場面を見かけた経験がよくあるのだ。

  そういう場合だけじゃなくて、ときおり思いがけないことに、ぼそぼそと完全に聞き分けていなくて謎みたいな言葉をつぶやきながら呼びつけてくることになって、追いかけてふらふらと歩いているうちにテトテトと転んでしりもちをつけることすら見かけられた彼女の中に、まさに無口と無表情とのノーマルな状態で平日にずっと白いワンピースしか着ていないイメージであんな身振り手振りを動かしながら踏み出している陰キャと言えるぐらいの魂が生きているとたぶん誰しもそう考えついた女の子なのだけれど。

  だけれど、それにしても何の奇奇怪怪な状況を遭遇していても元気いっぱいを出して奇奇怪怪な身振り手振りを動かしながら向かうようにしてみる女の子なのだけれど。

  そして、俺がここに入られることになった日から知り合えた唯一の本当の友だちだった。

  実のところ、「先生」という男と「ナース」というお姉さんの他にこのつまらない罪の続きをつぶせる人間はたしかにいないわけではないだ。たったひとつの鉄格子の窓とひとつの鉄扉と周りの壁がぎっしりと閉め切っているこの十数畳ぐらいの部屋からじかに出かけたら、間違いなく完全に違った別の風景に満たされたアウトドアが見つけられたかもしれないのだけれど、なんだかそれは俺なんかの人に持ち合わせるべきものじゃないと初めの日からうすうす確信てきたのだ。

  もちろん言うでもなく、常識に考えてみると鉄窓の向こうに、一番の奥のほうに本物の透明なガラス窓も備わっている部屋だから、そのガラス窓をからりと開けていながら軋んでいる音とともに、部屋が属しているこの高層ビルらしい建物の外から涼しくて心地よい風がそよそよと吹き抜けていたのだけれど、よりいっそうその方向に、正確に言うとこの部屋から出かけると出会えてきた広いアウトドアに存在するのは俺なんかの人に取り上げられるものじゃないとうすうす確信てきたのだ。

  強いて見つけられざるを得ない理由と言えば、たぶん今になってもどれだけそよそよと吹いている風でも寒いより寒いとしか思えなさそうな気がしているはずのだろうか。

  ただ、そう考えていながら出かけたくなくなりかけてきて、ひとすら自分の周りにもしかしたら自分のために備え付けてくれた壁をじっと見つめている俺には、ときどき顔に泣いたり笑ったり、気持ちに上がったり下がったり、手足に立ち止まったり動き出したりしていて、そしてときどきつまずくことになっていそうな隣の席に住んでいる女の子がじわりと気になりかけてきそうな気がする。

  正直に言ってどうしてそんなに気になるかってなんて聞かれても分からない俺には、たぶん彼女のように道をうろうろと歩く途中でよろよろ転げていったらすぐに傷ついたままにまた立ち直りしてみたくて、もう一度踏み出してみようとする時期があった自分がここにいてくれると思えたかもしれないのだろうか。

  ただ、そう考えていながら少し彷徨うらしい俺に案外にさせるのはまだまだ思考しているかないかのうちにいるはずなのに、急に体が先にかってに動き出してきてまた今一度前へつまずきそうになってくる彼女のそばに一瞬で飛び込んであげて、ぎゅっとその前に飛びついている手をつないで引き起こしてくれたのだ。

  強いて言えば何と言ってもずっと持ち合わせているお母さんからの人生信条が話してくれた「いい人になったら」を信じてみたいという気持ちがまだまだ心の底のどこかで姿をひそめていながらときどきその一縷の望みを呼んでいそうな俺なんだけれど。

  たとえいくつかの間違えた努力を払い出していながらいくつかの間違えた言い分を取り入れてきて、いくつかの間違えた意味の答えを探し求めていながらいくつかの間違えた罪の続きを引き受けてきた俺なんだけれど。

  「あり…が…とう…」

  たった一つの言葉をぽつりぽつり残してくれてからすぐさま踏みとどまってきてまたよろよろ歩き去ろうとしてみる彼女だ。

  まだ返事もなにも考えない一刹那(いっせつな)に、もともと奥を真っ暗闇な色に塗られて満たされてきたこの明るみから分かれる小路での虚しい空間に、もともとそのたったひとつの鉄格子の窓とひとつの鉄扉からにじみ出ている淡い霧、かすかな陽光と月光たちがすっと明らかになって溶けてきながらはびこってきて、まるで空中から零れ落ちていったミルクみたいな輝くけれどまばゆくない光芒(こうぼう)たちと化して、少しずつその真っ黒なしるしを消していったのだ。

  知らず知らずのうちにこの部屋にあった真っ黒なしるしすべてがそのさまざまな光と淡い霧に白く塗られて染められてきて、だんだんと色褪せていく霧につれて周りに本物の病室にあるべき飾りつけのかっこうが鮮明に浮き出てきた。かえって鉄格子の窓とその向こうのガラス窓から漏れてくるのはもうすでに単純でさまざまな光じゃなくてまさにアウトドアの豊かな景色で、そしてその柔らかに混ざった光から懐かしい一筋の明かりもひさびさに帰ってきた。

  ピンとこないで呆気にとられた俺の目の前に現れたその素晴らしいシーンは、実になにも知られたくなくて知られずに生きている自分と、なにも知りたくなさそうで知らずに生きている彼女との思い出からの初対面だった。

  その信じてみたい気持ちが呼び上げた一縷の望みであろうと無意識に体に深く浸っていった慣れであろうと、はた何度も現実に自分の思いを吐き出していても分かりやすく応えてくれない俺に初めてまともな返事をしてもらうことであろうと、たぶんあのときからもう一度隣の席に住んでいる女の子に自分の中にしか存在しない、いわゆる世話を焼こうとする覚悟を決めそうな俺なんだけれど。

  ただあの日からそういう場合だけじゃなくて、ときおり思いがけないことに、何が何だか分からないのだけれど、たぶん「先生」の男とナースのお姉さんたちが語調、表情などのどこかで怖すぎるらしく現れた場面を怖がるあまりなのかもしれないでいざ検査されたり質問されたりしなければならばいという段になると、さりげないうちに俺の背後に隠れてきながら黙りこくってくることになったり、俺の繰り返しにしか応えてくれなかったりする彼女に、唯一の頼りになる人と見なされそうなことをはじめて分かりやすく感得(かんとく)しかけて大切にしようとする覚悟を決めそうな俺なんだけれど。

  いままでの俺の人生にまだなにか頼もしい部分が生き残ってこれるのだろうか、俺の中にまだ友だちだからこそお互いに助け合うことをすべきのは当たり前のことだろうという信念が生き残ってこれるのだろうか。

  分からなかった。分からなくなったのだけれど。

  ただ、たぶんこのまま仲良くしている気分に続いてくれるなら、ましなのかもしれないだろうか。

  ただ唯一の知っているのは、かつてずっとランドセルを背負って孤独にあの明るみに踏み出していざるを得なかったままに生きてくる自分に寒いより寒い光を浴びていたのだけれどだんだんと居心地のよくなりかけてきてくれる日々がほんとうにこうしてありつづけてきそうで、俺の過去を知らなくてもいっしょに遊べるようにしてくれる人、彼女がたしかにここで生きてきてくれるのだ。

  最初からは一日じゅう自分の世界にもっぱらに浸っていながら元気いっぱいを出して奇奇怪怪な身振り手振りを動かしていたうえに、誰一人(もちろん言うでもなく、俺)に一つのことばのやり取りをはじまられもしてくれなかったばかりか、自発的に尋ねたいときに恐る恐る探りを入れようとしてみることばすらもさっぱり無視することになって、ときおり金切り声、ときおり独り言をあげるしかない彼女なんだけれど。

  あの件からはつねにひたすら自分自身の感覚に心を凝らしている場合があったのだけれど、ときおりたぶん遊びたわむれる身構えをしているうちに俺のほうに目を向けてくれてひとしきりまじまじと見てからまた遊びに続いていくことになったり、ときおりふらふらとベッドから立ち上がっていながら歩いているうちに俺の周りに飛び出してくれてぐるりと巡ってからまたつばめみたいにふらふらと走り去っていくことになったり、ときおりぴょんぴょんはねていながら目の前のこっちへ近寄ってきて立ち止まってから俺の顔をじっと見つめては触れていることになったりする場合にもじわりと変わる彼女なんだけれど。

  たとえばときには俺の反応を物見高いらしく気にする表情たっぷりの微笑みを浮かべてくれた顔つきで部屋のあるすみのところを遊びたわむれるように軽やかに歩いているところを、鉄扉のほうへ出かけようとする俺の姿が見つけられてきてからすぐさまそっちからふらふらと踏み出していながら留め立てしたがるように大手を広げてくれた彼女は、一歩ずつ俺の近くに足を止めて顔を寄せてくれて、左から右にかけて右から左にかけて矯めつ眇めつ見てみたのだ。

  なにか実験にいるラットみたいな観察対象と見られたのだろうか、俺が。

  ただあの件からそういう場合だけじゃなくて、ほんとうに居心地のよい気持ちほかには仲良くしている気分が呼ばれると言えば、かつていくら聞こうとしてみてもけっきょくまったくなにも応えてくれなくて、たとえ目の前においってたびたびはっきりと呼びかけてあげてみても返事ひとつも全然ありえなかったはずで、今になって簡単になあって軽く話してあげてみるとすぐこっちのほうへ振り返って目を向けていながらとなりにふらふらとやってきてくれて話の続きを星がきらめいている空みたいにすごく期待する目つきで見やってくれる場合もだんだんと増えてくる彼女なんだけれど。

  ただ、朝ご飯を食べてしまったからもう一度空想にふけるみたいにずっと探し出せなかった物足りない欠点をおぎなってゆけるその答えを探し求めつづけてみながらのらりくらりと時間をつぶしている中で少しずつ過ごした俺の一日一日に、じわじわ深くしみてきながら吐き出してあげた思いに優しく応えてくれた彼女の奇奇怪怪な姿たちにつれてもともとすべてのものはありきたりと思われていたのだけれどふと土砂降りから照り雨が生まれて追いかけて虹もかかってくる空模様みたいになにかすばらしい変化が現れそうだったのだ。

  もうすでにさまざまな光と淡い霧に白く塗られて染められてきてばらばらに追い散らされた元の真っ暗闇な色がぼんやりと見えたのだけれど、まだ短時間でさほど見知った場所わけでもなさそうなこの部屋にまんざら受け入れる生気があるというわけでもないらしくて、かえってその一筋の明かりのさえぎらない直射(ちょくしゃ)でよりいっそう蒼白く見えて、もしくは青ざめそうになった気のほうがいいかもしれないのだ。

  光と霧の直射で鮮明に浮き出てきた病室の飾りつけのかっこう、検査つくえやクローゼットなども青ざめる分まで完ぺきに受け継いで、まるで久遠(くおん)の昔から伝わってきた色欠(しょくけつ)の形見のようにもっと寒い感じがされてくれたのだ。

  ただ、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。あの件からはすべてのものは常ならずと名付けられたルーレットが回り出しはじめることになった。

  もともとそよそよ吹き抜けていた風で淡い灰色だらけの周りの壁も、もともと一筋の明かりでさまざまな深い紺色だらけのあちこちの飾りつけも、鉄格子の窓も鉄扉もガラス窓も俺の目の前に純粋な聖なる水に練れられてすっきりになって生気があふれた金属製の物みたいにすべて鮮やかで豊かな色に彩ってきた。

  黒、白、赤。もともとこんな「三原色」にぎっしりと満たされた俺の目の前に展開していた世界は初めて、口元から優しく笑みを浮かべてくれるように五つの、とおの、数十種の色に分解して変わって、まるでしっかりと揺らされた炭酸水に沸き起こる気泡(きほう)みたいな湧き出てくれた色たちの波がぞくぞくと立っていながら打ち寄せてきて、追いかけて引き波と海鳴りが混ざった次の荒い波も激しく勢いを乗って襲い掛かってきて、俺の足も手も、膝も腕も、胴体も顔も、そして論を俟たなく俺の二つの瞳にも、その数えきれない色が粉みたいに塗(まぶ)されることになったのだ。

  また瞳を凝らすことができて見まわそうとしてみることに気づいたときに、すでにあの逆巻く怒涛(どとう)みたいな色たちの波がすべて消えてしまったことで、まるでいまだ出演したことがない役者のように記憶から消えてしまいそうになったのだけれど。

  ただ、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。あの件からはすべてのものは常ならずと名付けられたルーレットがたしかに回り出しはじめることになった。チクタクと絶え間なく回りながら金属音が聞こえた気がするだけじゃなくて、動き出す「世界」のいいにおいも嗅ぎつけられた気で、そして論を俟たなく俺の目の前に浅い霧から繰り広げてくれた絵巻物みたいなこの「世界」のシーンには新鮮にきらめいているけれど温かい色とりどりだ。

  もちろん言うでもなく、虹の晴れ渡る空模様みたいにすばらしい変化が現れそうな主役は俺じゃなくて、彼女なんだけれど。

  「自分の名前を、憶えていませんか」

  「…」

  「いま、なにをしてるのが分かっていませんか」

  「…」

  「後は例(れい)の検査がありますから、ナースのお姉さんからあの薬を受け取るのを忘れないでね」

  「…」

  一言でも言い返せてあげないでも柔らかい口調でゆっくりと聞きながら心添えをしてから間もなく検査を受けさせてくれるのはもちろんあの「先生」のことはずだ。

そしていくら聞いてみても頭をやや下げながらそっけなく無表情な顔で答えてあげるのは俺のいわゆる友だちだ。

  普段なら毎日の見回りのほかには週に二度、三度この部屋へとやってきて覗いてくれた「先生」の男としばしば検査とか治療とかを知らせてくれたナースのお姉さんだったが、実際になにか隠れ仕事を進行していそうにここに住んでいる者に内緒でただの身体検査と語らいとかを説いてくれただけなのだ。

  しかし、前に述べたごとくいままでこういう場合を遭うたびに口をつぐんだままに首を横に振ることをほとんどしていなくてひたすらつとにそこに座っている彼女なんだけれど。

  「なあ、ナースお姉さんといっしょに行こうじゃないか、俺もついていくから」

  沈黙の三秒後。

  「あ…ん…うん!」

  なあって柔らかに話して誘おうとしてあげるのは間違いなく俺のことはずだ。

  たった三秒だけを考えた後でしっかり首を縦に振って同意してくれるのは俺のいわゆる友だちだ。

  ほんとうにかくして簡単に説得されることになったのだろうか。なんだか不思議な気分だね。いったいどうしてこんな状況になったのだろうか。

  分からなかった。分からなくなったのだけれど。

  会話を練習させたがる意図を抱きかかえている「先生」にでも、検査を準備させたがる仕組みを抱きかかえているナースにでもほぼ全部だんまりの断わりで答えてあげていた彼女だったが、なんだか行こうじゃないかって俺の声が聞こえると、だんだん静まっていって、顎に手を当ててちょっぴり考えっぽい様子のふりをしてからすぐうなずくことになったのだ。

  ただ、不思議な気分に変わらせるのはそれだけでなさそうだ。

  「どうした?え~?なんで後ろへ?」

  「う…こ、こわ…い…!」

  ぽつりぽつりと語る彼女。

  「こわい?」

  まだ話が見えない俺。

  「…うん!」

  「なにか?」

  「うん…こわ…い!」

  「大丈夫、よく隠れよ、傷つけさせない」

  恐る恐る軽くガラス窓を開けたら、ちらほら見えそうなミルク色の雲が飾った青空を見上げている間に、いきなりさっと顔色が変わってきてこっちのほうへ走り出して、俺の裏に回った彼女がそう一連の話を吐き出してくれた。

  詳しくはさほどよく分からなかったのだけれど、なんだか襲撃につながる危険性がるみたいなものを嗅いだはずみですぐさま俺の裏に隠れたり、親指と人差し指でそっと俺の袖をちょっぴりびくびくしていながらしっかりとつかまえてとやかく気をもむ顔で俺を見上げたりする彼女に仕方ない俺がこう宥めていながらそっちへじっと見ていた。

  ただ、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。さっぱり新たに変わってしまったシーンにほんとうに不思議なのはずっとそれだけでないはずだ。

  「へい!れい、れいか…しょ、う!」

  「へい?!」

  ある日、のらりくらりと朝を送っていながら壁に向かってぼけっとしている俺に急にこんな声が飛びだってくれた。

  ちらっとその声を立てるところへ見やっていったら、疑いなく別の人と思われないのだけれど何かを持っていてたどたどしい足取りでひょろひょろと歩きつつ近寄ってくる彼女がやあって呼び上げる様子から見ると、もしかしてまたなにか見せてくれたがるのだろうか。

  ただ、へい?すぐに頭に届いた合図が爆発するみたいに弾けた。

  なに?俺の名前か?まじか?

  追いかけてもう近づいてしまった彼女が届けてくれた開けたままな練習ノートみたいなものには、ミミズがのたくったような文字でべったり書いてあるこの不器用な俺の名前なんだ。

  この前にたった一度だけ書き方を教わった、俺の名前なんだ。

  「これは…」

  「れい…か…しょう!」

  もう一度俺の名前をはっきり言い出した彼女は初めて、にこにこ笑った。

  その瞬間に俺は見えそうだった。

  このいつもうっとうしいらしくて変わった女の子のまだまだ濁ってアウトフォーカスをしている瞳の中に、たしかになにかがありそうだけれど。

  なのに。

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