モノローグ07 “救い上げてきてからまた突き落としていって”の深淵

  目の前にぐにゃぐにゃと倒れてしまったあの女が着ているワンピースの傷口からまだ心臓の鼓動で血のしぶきがずきずき湧き出てきながらぼちぼちと中央から周囲にかけて染みわたって、追いかけてだんだんと冷えていって干されることになった。対照的にグルグル回ってくるこの景色すべてをぼんやりと見つめていてなにかすべきのかも知っていなくて考えつかなくなった俺はいま、大きな荷物を持ってみようとしたのだけれど持ち上げなさそうでかえって荷物に両手を垂れられてよたよたと這いずりながら歩いていかなければならない。ただ一歩ずつ彼女の横に近づこうとしはじめるうちに、また誰かに一抹の強い力でぐいぐい引きずりだされて、すでに何の力が入らなくなった俺に足がガタンとへなへなになって直ちにしりもちをついて座り込むことになる以外に何の反応は現れられなかったのだ。

  「覚めてよ、ねえ、おばさん…」

  しっかりと叫んでみたいのだけれどけっきょくぼそっとささやく声を吐き出しそうで口の中でみなぎっていて渋すぎる味ばかりが一つ一つの熱気とともに後ろ向きに流れ回ってきた。

  しっかりと推し進めて彼女の顔を触れてみたいのだけれどけっきょくびくびく震える腕を差し伸べそうで体じゅうでしょぼしょぼしていてぎゅっと掴まえてもらう誰かの手に持たれざるを得ないことになったあげく、声につけ腕につけちっとも届かなさそうだったのだ。

  口に含んでつぶやきみたいな叫びと手にねばついて冷えてしまった血は、たぶん俺の最後の返しかもしれなかったのだ。

  その後のことについて、どうやってその場面から少しずつ遠ざかられて抜け出ることになってきてくれたのかなんて、正直に言って今になってはぼんやりしてはかない記憶しかなにも残っていなかった。おばさんの目を覚まして答えを教えつづけてもらいたいとひたすら思い当たる自分が力を入れば入れほどよりぐにゃぐにゃになったすえに、誰かの腕にもたれずにはいられなくなった。ただし外見と真反対するのは胸の鼓動からどんどんより強くなる衝撃、口の味からどんどんより濃くなって息づまりそうな吐き気、血の流れで針がねが芽生えるみたいにぴりぴり刺さりあがって引き裂かれるようにどんどんよりひどく腫れる痛む気分はいっしょに、胴体から首を経て頭にかけて一口ずつ飲み下すように溶けていく。気を失う前に唯一の知ったのは、手足がねじ伏せられてカラカラした音、パトカーのサイレン音、せかせかした足音、及び何人がいそうでぼそぼそした声などがわらわらと散らばっていて、ちらほら俺の前から、後ろから、左から、右から、上からひびき回って、追いかけて流れ星みたいに余所へ飛び交っているばかりだったのだ。

  すさまじいことに、もともとステージの上で色褪せてきた部屋も、さびついてきた骨組みみたいな跡も、ぞくぞくと湧き出していって濃い霧も濁りから清さにかけてすっきりになったらしくて、淡く淡くぷにぷにひょこひょこになって、おもむろに天井へのぼってそよ風に乗ってほとんど無色と化して、もう一度薄い靄(もや)に軽く戻りながらくるくるのハローもまた凸レンズに映るように柔らかに突き出ることになった。

  俺の手をしっかりとつかまえてしばってきてざわざわしたさまざまな音と声もそのハローのかげにしたがうみたいに五彩の軌跡を飛び交いながら描いてきたすえに、霧にすべすべに溶けていって、五彩の縞模様(しまもよう)のリボンみたいなものと化しそうで流れかけてきて、そしてもう一度前の明るみと同じようにしだいに俺の頭と体がその靄(もや)に包まれて囲まれて溺れているのだけれど完全に息づまりそうな気分でない自分の意識に、まるで海の底で沈んでしまったときにほっと長い長い泡の流れを吹き上げた探査機(たんさき)みたいな感覚だけが存在している。

  きめ細かい海の底で柔らかに横たわって上を見つめるなら吹かれたシャボン玉が引き伸ばされて熱帯魚(ねったいぎょ)の形になりそうなリボン、正確に言うとリボンみたいな霧の波が頭の上をおもむろに流れ通っていって、さりげないうちに一筋の明かりもじわっと透き通ってちらほら光ってくれた。五彩で曲がった霧の波、星影でかすれた明かりがこのまま鮮明に俺の顔の前に浮き出て動き回ってきて、ほんとうに素晴らしい覚えだ。

  またどこかの深い夢みたいな空間に落ち込むのかと、その爽やかな霧をちびちび吸い上げるらしい気分で芽生えかけてくる疑問につれて、なんだか一抹の怪しい思いがすっと頭の上に吹き出してくれた。

  「ここは、夢なのか…いままでのは、夢なのか」

  「…」

  「あの殺人も…夢なのか」

  「…」

  「よかった…まだ幸せになれることに進むだろうか」

  「…」

  「いや…ちがう…これからはどこに進んでいいのか」

  「…」

  ただおばさんの目を覚ましてみてその答えを教えてもらいたいのだけれど、けっきょく殺人の罪を犯すことしかなにもできなくなったあげく、すべてが夢みたいにバーチャルなイメージなのか。ならば俺がずっと探し求めている答えはどこにあるのか、歩いていくのか戻っていくのか、それともまたおんなじものを行き過ぎるのか。

  ならば、また俺がどこに生きるのか。どこに進んでいいのか。

  ああ、誰でもいい、教えてくれよ。

  しかし、いくら問いかけてみても周りの果てのない深淵(しんえん)のような海盆(かいぼん)からグルグル回っている波音たちが届いてくれそうだった気がする。

  ときどきの水がごくごく流れる音を除いたらなにも聞こえなさそうな俺の五感もだんだん弱まっていって、まるでセメントっぽく感じがする凝り固まりに沁みこむらしくて全身は重たすぎて、このままずっとじっと動けずにここに残ってきて石と化しはじめることになりそうだった。

  「ここは、夢か現か…なにもできないのに…」

  「…」

  「やっぱり現実なのか…このなにも見えなくても感じれるところも…」

  「…」

  「そうなのか…もうなにも取り返せずに沈んでいくだろうか」

  「…」

  「いや…だって…これからはどこへ推し進められるのか」

  「…」

  もしかすると現実じゃなければこういうことに解釈できぬ状況に直面していなければならない勇気もまだ出せない俺なんだけれど、けっきょく殺人の罪を犯すことでどこかのとある地獄に落ち込んだのか。ならば俺がずっと探し求めている答えに懲らしめられるのか、置き去りになるのか責任を持たれるのか、それともまたおんなじものを行き巡るのか。

  ならば、また俺がどこに溺れられるのか。どこへ推し進められるのか。

  分からなかった。分からなくなったのだけれど。

  まぶたも見開けなくて、体も動けなくて、ただ本能でもってそのまま浸っていながら周りに流されるままに生きている。今の答えさえも吸い上げられる空気と同じようにどう探し求めてみてもつかまえていなくて手に入れていなくなりそうだったのだ。

  「ここで住んでいたら最善の治療を与えていただくことになりますが、ご安心ください」

  「はい、よろしくお願いします…」

  「いいえ…」

  はかなくて聞き知らぬ声とそっけなくて落ち着いた口調がひらひら届いてくれるにつれて、もともと五彩のリボンみたいな霧の波が少しずつゆれゆれと波打ちかけながらごしゃごしゃになりかけてきて、遠くからの声が近寄れば近寄るほどはっきりになって大きくなればなるほど霧の波がわらわらになったすえに、初めに筋が通っている赤、黄、緑、藍、紫五つの色の縞模様(しまもよう)がざっと不安定な震動に騒がされたごとくだんだんばらばらになるらしい気配が起こりそうだ。追いかけて絶え間なくちらほらの泡の流れが一つ一つ割れて飛び回りながらごくごくの音を立てるとともに、それぞれの表に照り返されているちがいの色とりどりもいっしょに割れて飛び回りながら重なり交ってますます深い色に溶けていったのだけれど、さまざまな泡の流れがますます増えてきたすえに、すべての霧の波が完全に消えてしまったのだ。

  すべての色とりどりも完全に消えてしまった。

  「ここは…夢うつつなのか…」

  「…」

  「それとも…これからさきの光景(こうけい)…」

  「…」

  最初に鮮明に浮き出てきたのはステージ、そしてその上でぞくぞくと湧き出してくれて淡い霧がもう一度前へ、後ろへ、左へ、右へ、空へすべすべはじけ飛んで行くときに、背後の明るみもおもむろだけれどすっと視界に染み入ってくれて、脂が浮くみたいにもぞもぞぬたくりはじめるハローも、柔らかに霧に舞い踊りはじめる一筋の明かりもその瞬間にいっしょに突き出てくることになった。

  そうか、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。すべてが完全に消えてしまった。すべてが戻ってしまった。そしてすべてもチクタクと時を刻むように続いている。また我に返りそうだったばかりの気がするらしいのだけれど。

  ただ、夢か現か、もしくは夢うつつから目を覚ますべきのは俺のほうかもしれないだろうな。なにせ今回はその答えを探し求める罪の続きがページをめくってセリフを発表しはじめる。

  あれはいくらかが分からなくて長い時間を経た数日後のことだった。

  もともとちかちかまばゆいほどに光っているその明るみがだんだんと柔らかになってきて、さっきからずっとかすかに話しかけているらしいのだけれどはっきりと聞こえそうな気がするらしい声のソースから知らず知らずのうちに淡い霧にシルエットがさっと鮮明に浮き出てきた。

  「ここで住んでいたら最善の治療を与えていただくことになりますが、ご安心ください」

  青白っぽい真白のうわぎに深い色のズボンを着てマスクをつけている様子のある見知らぬ人がおだやかな口調でこう話していてくれそうだとうすうす知っていた。やっと自分でやや分かりやすい場面を見やってなにか意味を持ちそうな言葉を返事として出せると思いきや出そうとしはじめたとたんに。

  「はい、よろしくお願いします…」

  俺の背後に、上のほうから懐かしいのだけれどこよなくぎすぎすした声がゆっくりと伝わってきそうな気がする。懐かしいというのはたしかに普段ならときどきその音質(おんしつ)をよく聞き分けてくれて、かえってぎすぎすというのは一番聞き分けるとびくびく震えるようになる特質(とくしつ)なんかじゃないのだけれどやっぱりすっきり返事を出そうとする思惑を諦めさせてもらうことになった。

  なぜならありがたく俺の保護者の身分としてそばに現れてもらうのはたぶん初めてのことだからだ。

  こういうときまでにあの真白の仕事着を着ている見知らぬ人の目つきは真向いからこっちのほう一通りへふりふりと放たれているのだけれど、その実目を向けるピントが俺のことじゃなくて、正確に言うと話をつづる合間だけになにげなく俺のより小柄な体に目を落として、すぐさま俺の背後に、上のほうへと戻ることになったなんてことに俺はようやく気付いてしまった。

  あの立っている男の目つきは俺の顔にまったく当てないで俺の後ろだと、後ろの返事している男のほうもたぶん同じだとそう直感に頼ってみるとどっちにも話の相手が俺なんかじゃないはずだ。

  ならば、俺がまたどこに生きているのか、どこに進んでいいのか。

  シアターの個室みたいな空間、演劇の舞台みたいなステージ、ドライアイスみたいな靄(もや)、スポットライトみたいな明かり、そしてすべての幕を切って落とした明るみ、もしかしたらバーチャルなまぼろしにも似ていなくて夢枕に立つらしい黙示(もくし)にも似ていないとある走馬灯(そうまとう)の光景(こうけい)みたいだ。

  なにしろ俺がまだここに生きていて、しかもさりげないうちに何度も衝撃を打ち寄せる鼓動と何度も吐き気を燃やしあげる味と何度も痛みを咲きほこらせる血の流れともすらすらと外されることになった。

  なにしろ俺がまだここに溺れていて、しかもさりげないうちに長い長い時間で飛び回る五彩の縞模様(しまもよう)のリボンみたいな霧の波もぐつぐつと泡の流れのごとく散らばって消えることになった。

  なにしろ…チクタクと時を刻む時計がまだここに続いていて、しかも…さりげないうちに戻されて五感も直される自分にまだその答えが探し当てられなくて、罪の続きを引き受けていてもまだ探し出せない今なら、そのまま探しつづける道に進んでいいだろうか。

  ああ、誰でもいい、教えてくれよ。

  ただ唯一の知っているのは、いくら「なにしろ」なんての仮作(かさく)で自分を釣りこもうとしたのだけれど、鼓動も味も血の流れも引き潮になったあげく、そよ風に乗ってかすかなにおいがなおぴっちりと周りを立ち込めることになった。まるで時々刻々自分に現実を告げてくれそうだけれど、そのまま引き受けていてもいいだろうか。

  分からなかった。分からなくなったのだけれど。

  夢か現か、もしくは夢うつつから目を覚ますべきのは俺のほうかもしれなかった。

  そして本当の罪の続きかを引き受けるべきのも俺のほうかもしれなかった。

  山積みになった疑問に浸っていていくら思い出してみてもほとんど出せなかった記憶に途方に暮れる俺には、いつの間にかもともと自分の身につけていた血まみれの服が行方不明になって、代わりに白地に青い縞の上着とズボン、つまりなにか病気になって病室に入れされて四六時中医者の看護をしてもらわなければならない状態になるあのシンボル、入院着という服が身につけられることにようや気づいてしまったのだ。

  言ってみれば、いまからすでに病院に住まざるを得ない病人になった俺なんだけれど。

  そうか、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。おばさんを突き刺した件でおじさんに病院に運ばれることになりそうだった。

  「いや…ちがう…ちがうんだ…たしかに突き刺された人はおばさんじゃないか」

  「…」

  「だって…左手の刃が突き刺さった人はおばさんじゃないか」

  「…」

  「なので…運ばれるべき人はおばさんじゃないか」

  「…」

  「だって…左手の刃を使って差し伸べてあげた人は俺なんかじゃないか」

  「…」

  「なので…俺の運ばれるべき目的地は警察署じゃないか」

  「…」

  「だって…殺人の罪を犯して法律の審判をこうむるべき俺なんかじゃないか」

  「…」

  「なのに…どうしてここに運んでもらったのか」

  「…」

  ああ、誰でもいい、教えてくれよ。

  俺の行く先になるはずの場所はどうして病院なのか。

  「笙くん、まだ精神が確かでないだと分かったけどしばらくここで生きていればいい治療を教えてやるよ…へ…われわれもしょうがないな…」

  ほぼしびれてギトギトになりそうな顔、夜更かしを続けて腫れそうなくまめ、みだれてぼさぼさになりそうな髪、苛まれを続けて屈みそうな腰、まるで電気が切られて水にざぶり沈められたからさびついたロボットみたいですでに病んだ様子とちがうところがなさそうでもう何の反応も出せなくなった俺には、この長い間にいったいなにが起こっているかと思い出しようとしてみたかったのだけれど、けっきょくなにも思い浮かべなくて、ただひたすら茫然としてなすところも知らぬ顔で真ん前にじっと見つめていて、罪を犯した現場からまぐれで生き返そうな一つ一つのシーンたちをパズルゲームをするように一つ一つの断片(だんぺん)を組み立てなおしてみて、そしてポカンと受け止めてくるしかない。

  対照的にありがたく俺の保護者としてのおじさんには動かぬ口調でいかめしくてくどくど同じことを言ってくれて、まるでのっぺりした俺の中にしっかりと植え付けてくれてどうしてもわからせてくれるみたいだ。

  鮮血みたいな色の印章(いんしょう)で手続きみたいな紙に深く捺印して、ちらっと見ればなにか大変な大事(おおごと)が解決してもらいそうな顔でほっと軽くため息をついたおじさんは先生と呼ばれるあの男にその紙を手渡してもらうことができたのだけれど、こっちから見れば一枚の薄い紙で押してもらったのはなにか命にかかわって自分の運命に判決を言い渡しようとする文字と印章。

  その紙を慎重にカバンにしまったおじさんにまたなにかくだくだと伝えはじめてくれそうなあの「先生」はそう話していながら俺の後ろに歩いてしまった。正確に言うと今ならすでに俺の左後ろのところに立ち止まったあの「先生」ととなりに、つまり俺の右後ろのところに立ち止まったおじさんのふうに二人がいるのだ。

  鮮明に浮き出てきたステージ、蒼白い明るみ、左後ろと右後ろの二人のシルエット、前に向ける俺、まるでお父さんとお母さんが消えてしまった後ではじめて一人になってランドセルを背負って孤独に踏み出しかけるときのシーンみたいだ。

  こうやって二人が柔らかに手を俺の肩に押して、この前へ進めって言いつけを伝えてくれそうな動きにともない、俺の体が潤滑油(じゅんかつゆ)をさされはじめたロボットのごとくまたふらふら踏み出しはじめることになった。

  しっかりと手を俺の肩に押しながらコツコツの足取りで静寂な明るみを歩いてくれた二人にまるで護送(ごそう)しているように俺の後ろにしたがってもらって、そしてまたこのままぞくぞくと止まらずに歩きつづけようとすると思ったら、すぐやや東寄りの方向に途轍もなさそうに分かれる小路へ向かって進み出ていってもらった。

  あのこよなくぎすぎすした声からほとんど深く考え回ることを諦めそうになって二人の顔も思いもぼんやりと見えるらしい自分の前にいきなり、どこから現すのも分からなくて一つの冷ややかなそよ風がそっと吹き出して周りへ青白い霧がそっと湧き出てきて白いドアが立ち止まったのだ。

  俺の近寄っていくと気づきそうにドアの片側に一つの銀色の塗られたドアノブがすっと湧き出す泉みたいに表れてきた。なんだか気味が悪いらしいのだけれどためらいもなく、「先生」が軽くそのノブに手を当ててつかまえてほやほやと回しとまりながらそっと押し開いてきて、追いかけておじさんもいっしょに中に入った。もちろん言うでもなく、俺も入られることになったはずだ。

  口を開けるように左へ、右へ、上へ、下へ柔らかな明るみをがりがりと嚙みこなしかけた真っ黒な場面、その明るみから淡い霧を抜けてきた一筋の明かり、どうしようもなくて受けながら立ち止まるしかない入口とたぶん一人だけが床につきながら点滴をする奥の真ん中で形がくっきりと見えてしょうがない境界線が存在している。

  「では先生、これからよろしくお願いします」

  「いいえ…」

  「すう…」

  まだなにか話したかったのだけれどけっきょく軽く息を吸い上げて黙りこくるしかないおじさんがほっとため息をついてから、またコツコツの足取りで歩き出しはじめるのは間違いなく俺のおじさんのことはずだ。たださっきと正反対なのは今度の音がやや遅くなってきながらやや小さくなってきてくれて、そっとそっとだんだんと静かになって針が地面に落ちるときに立てる音より軽いまで、一目でも見返せなくて、そのまま離れ去って、まるで晴れてしまった霧みたいにすっぱりあの明るみに溶けて消えてしまったのだ。

  「えっと、黎柯笙(れいかしょう)くん、ですよね」

  「…」

  「では、今日からここでの生活がはじまることになって、先生の話におとなしく聞いたら、きっと間もなく病気を治ってしまって元の家に帰れますよ」

  「…」

  「なにか問題があったら、この呼び鈴を押していいですよ」

  「…」

  まだなにかしゃべりたかったはずの自分だったが、気がついたらもはやすべての思考能力も談話能力も失ってしまったのだ。

  そんなダメ人間になりそうな俺に一言の余計な言葉も交わしてくれない「先生」はそう話し終えてからゆっくりと両手を真白の上着のポケットに入れながら離れ去ってしまった。

  振り返るまでもなく、より深く感じれているのはその方向に今日の炎が燃える最中にある太陽が、花火を打ち上げてくるみたいに差したまばゆい光がちょうど完ぺきに鉄窓(てっそう)から俺の胴体に、俺の首に、俺のあごに差し掛かってきたのだけれど、まだまだ足りなくてやけに寒すぎてびくびくになりそうな気分はずだった。

  ただ、病気なのか、帰るのか、そういう意味なのか。なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。左手の刃でおばさんを突き刺したのはたしかに俺のいわゆる自分はずだ。殺人の罪を犯してあげたのはたしかに俺のいわゆる自分はずだ。いままでのは夢じゃないはずだ。

  夢か現か、もしくは夢うつつから目を覚ますべきのは俺のほうはずだ。

  そして本当の罪の続きかを引き受けるべきのも俺のほうはずだ。

  ただ、病気なのか、帰るのか、そういう意味なのか。なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。警察署に運ばれるべき人は俺のいわゆる自分はずだ。法律の審判をこうむるべき人は俺のいわゆる自分はずだ。いままでのは現じゃないはずだ。

  なのに。

  本物の俺が自ら左手の刃でおばさんを突き刺したことを不安定な精神を持ち合わせている俺が大人の不注意であやまっておばさんを傷つけたことに改めて描き出したのは間違いなく俺のおじさんのことはずだ。

  どうしてそんな突拍子もない術でそんな真っ赤な嘘をついて俺を見逃してくれることになったのか。

  すでに警察を呼んでくれて本物の俺をつかまえたのに、つづいて直接に裁判所へ突き出して審判を受けさせることを送ったらいいじゃないだろうか。

  どうしてそんな突拍子もない術で重い病気でもたらした事故として大げさに扱ってくれることになったのか。

  もう一度彼らに見捨てられる人になってもらうつもりだろうか。

  分からなかった。分からなくなったのだ。

  たった一つの俺が知っているのは、炎みたいな光がはげしく照らしてくれたこの部屋だったが、実に寒いより寒いとしか思えなかったのだ。

  ただ、なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。もうその光が俺の目にも頬にも、胴体にも手足にも差して映していても染み入ることができないのだろうか。窓の上に電気溶接(でんきようせつ)をした鉄格子にさんざんと散らばしっぱなしにされた光の影も、死ぬまでここで生きているという意味をくっきりと与えてくれそうだ。

  ただ、病気なのか、帰るのか、そういう意味なのか。なるほどね。早いうちに分かってくるはずだったことだろうか。もうギトギトの顔、腫れた瞳、ぼさぼさの髪、屈んだ腰ばかりでいる俺の身にまったく病んだ様子しかなくて、殺人の罪を犯した病気になったことから、永遠にここで釘づけられて残されて閉じ込められたことになったかもしれないだろうか。

  もともと小さい頃から善良を自称する偽者としていい人になれる道でひたすら進んでいると思いきや、自分の中に不完全な善良を持ち合わせているからずっとその道へ進むふりをして、けっきょくそんなバカみたいなことをして他人からの意味不明なんだけれど苦しがらせてくれた物言いを遭うなんてことになった俺だったが、あげくの果て、突拍子もない術で蜘蛛の糸を投げ落としてもらってあんな地獄に近いところから救い上げてきてもらったとたんに、また別のどこかの地獄に近いところへと突き落として行ってもらったのだろうか。

  どん底な生活にガクンと落ち込んでいってしまった俺は、あの絶望的な深淵の外ぶちで立っている人、おじさんと「先生」などの瞳に映る俺は一体どんな風に見えているのか。

  なのに。

  どうしてそんな突拍子もない術で俺をこの一つの希望のようなものでも見えない場所に突き落としてくれることになったのか。

  ああ、誰でもいい、教えてくれよ。

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