モノローグ03 一人の“いい人になったら”
「おい、笙くん!どこだ!」
「笙くん、ちょっと来い!」
「はい!」
なのに、まだクルミ色のランドセルを背負って孤独にあの明るみに徒歩で歩きつづけざるを得ない俺の真ん前に待ち受けているのは、絶え間なく湧き出てきて淡い霧にみちびかれておもむろに現れるたくさんのシルエットたちは、よくもそんな理不尽な会話を交わしかけるものだ。
ためらいもなく答えてあげながら機嫌を取るほどの気持ちそうに早足で歩かれるのはもちろん俺のことはずだ。
そしてこう鋭い声でビシビシと呼んでくれるのは俺のいわゆるクラスメイトたちだ。
「いたらすぐ返事しろよ、口の無駄遣いだな!」
「ったく、何やってるんだ?ぐずぐずしねえよ」
「ほら、はやくこの国語のワークブックをみんなに出してくれ!」
「あ、笙くん、英語も頼んだぞ」
「数学も」
「分かりました、任せてください、えへへ~」
返事がちょっとだけ遅れるならすぐ不満を漏らしはじめるほうはもちろん俺のクラスメイトたちのことはずだ。
そして、こう後ろ髪をぼりぼりと掻いて、バカみたいにほほ笑みながら返事してあげるほうは俺のいわゆる自分だ。
外見から見ると、ちょっと悪ふざけが過ぎるらしい言葉を除いたら、何らのひどいことなんかもされなくて、かえって俺の手を引いてあちこちのさまざまな「メイト」と待ち合わせて、とくに先生がいるならときどき俺を誘っていっしょに雑談に時を過ごしたこともある。
ただ実のところ、この何年間で彼らと彼女らと同じ時間、同じ教室でいっしょに授業を受ける以外には、昼休みにいっしょにご飯を食べられることも、授業後にいっしょに読書サークルをスタートされることも、放課後にいっしょに帰り道を歩けることも、クラスの上でさまざまなトークグループを参加されることさえもほとんどないから、一人一人それぞれの趣味、性格はともかく、その顔すらまるで赤の他人みたいにまだあんまり薄ら覚えていなかった俺なんだけれど。
クラスメイトだからこそお互いに助け合うことをすべきのは当たり前のところだろうと、幼稚な子供の頃からテレビに教えてもらえた常識のようなことを考えていながらいざと誰かがどうしてもやりきれないことに遭遇するというときになると、ぜったいに無条件でその人に手を差し伸べてあげてその件を引き受けてきた俺なんだけれど。
「まだ出来てねえのかい?おせえなお前」
「は~?自分の宿題?あたしのことよりいっそう大事なの?」
「お前が引き受ける仕事だろ!ちゃんと働いてよ、先生に俺たちが叱りつけてもらいたいの?!」
「ほら、寝た子を起さねえよ、できないなら引き受けるなよ!最後引き継がざるを得ないのはまた俺たち、まったく、ほんと邪魔だてするやつ!」
「そこまで引き受けるなんて、ただのお人よしを装いたがるのかい?」
「気取るなよ!」
さっきまで穏やかな口調でやんわりと任せてくれたのに、一瞬でいきなりガラリと顔色が変わるのは、もちろん俺のクラスメイトたちのことはずだ。
そして気の迷いでどう言い返せばいいとまったく思いつかないでやむなくおろおろとするのは、俺のいわゆる自分だ。
ただたぶん前触れもなくじかにそしりが招かれると言えないはずのこのシーンに、みんなの態度はまるでぬいぐるみのくまさんの背後に縫い付けられたチャックがぱっと外されるときに、飛び散ってくる綿のように勢いよく俺の視界をさえぎるだけじゃなくて、鼻にも口にも封印しそうに息づまるようになるのだけれど。
ただしできる限りみんなに手を差し伸べてあげたくてしかもそのようにする俺だったが、いったんできない場合になるときにはそんなわたぼこりっぽい評価たちがわがままに俺の世界へと突き込んでひらひら舞い降りてくれた結果から見ると、やっぱりみんなに現実離れして高すぎる期待を与えられてあげた答えと俺の物足りないスキルとの下にずらずらと並べ立てていて純真でない善心は、あの前触れに数えられるものだろうか。
そんな一理に浮かんでもらった考えを持ち合わせている俺だったが、けっきょく真白の明るみに一歩ずつ前へ踏み出しつづけるはずで、なにせいい人になったらというしるべを追いかけたいのだ。気持ちを片付けてから、その部分を手直ししながら前へ歩きつづけようとする俺にまじめに進んでいるのだけれど、なのに。
いつからともかく、クラスメイトたちの後ろでまた一人のシルエットがふとこっちへ近寄ってくる。淡い霧がうずまきながらのぼるにつれて、その人の様子もしだいに鮮明に浮き出てきた。ほかのみんなの誰よりも背が高くて、いつもピンク色のうわぎにさえた音色の出るハイヒールをはいて、たぶんあの女はずだ。
「笙くん!黒板は拭き消しきれない!」
「はい、いますぐ拭きなおします!」
「笙くん!明日の当番は遅刻しちゃダメよ!」
「はい、分かりました!」
「笙くん!また隣席と喧嘩するの?」
「…」
「先生は何度も話したでしょ!優しくしゃべるって、なんで大人しくしないできかん坊にならずにはいられないの?」
「あの…実は…」
「まだ先生になにか言い訳があるのか?」
「いいえ…」
「はやく仲直りしなさいよ!ったく、本当に安心させない坊やだね」
「…」
緊張感がみなぎっていていい返事に困って言葉も一時失いそうになるのはもちろん俺のことはずだ。
そしていつもこんな見下ろした視線でこんな疑いを差しはさむ余地がない口調で返事をされてみないまでに諭してくれるのはあの女、俺のいわゆる先生だ。
外見から見ると、普段なら言いつけと成績だけに目を留めるときに少し柔らかに話し合ってもらいそうな先生だったが、いざクラスでなにか巻き込んでもらった件が表れるときになると、聞かれながら責められた人にぜったいに俺を捨てるはずがなかった。
ただこんなところに、先生の驚くほどの鋭利な声で啖呵(たんか)を切る身振り手振りを見上げてみる勇気もなくて、ひたすら頭を人差し指でちくりと突っつかれるに至っても一言を出せない俺は、ひしと目を閉じて頭を下げてガクブルの手でふところにぎゅっと抱き寄せてくるワークブックをつかまえるしか何もしていなかったのだ。
あれから以来何度も自分に注意をくり返しながらできる限りクラスで透明な人間にするみたいに恐る恐る生活を送ってみて、面倒でも迷惑でもトラブルさえも一切後へしりぞいてなにも起こさずにいられる俺だったが、相変わらずいつもそんなことが起こるときに、真っ先にクラスメイトたちと先生に思い浮かべられてきてもらうことになった。
「笙くん、なぜそのたびにお前だけを厳しく諭さずにいられないと分かってるのか」
「それは…」
「まだ自分の欠点を意識してないのか」
「わたしの問題じゃ…」
「君の問題じゃないならなんでクラスメイトのみんなはそんなことが言えてくれたのか」
「…」
「君の家の事情は先生もよく知ってておばさんを呼ばないけど、しっかり自分のことを反省しなさい!」
「はい…わかりました…」
放課後でまた俺に居残りを命じてくれるほうはもちろん俺の先生のことはずだ。
そして少し反論してみようとしたけれど、待ちわびそうで理不尽な言葉にもう一度囲まれるほうは俺のいわゆる自分だ。
ただたぶん前触れもなくじかにむかっ腹を立てられると言えないはずのこのシーンに、先生の言い分はまるで羊の群れを小屋まで無理やりに追い立てるときに、よく振りかざす鞭(むち)のようにガツンと俺の方向をもみ消すだけじゃなくて、言葉をも行動をも阻みそうに行きづまるようになるのだけれど。
ただしできる限りみんなにひどい手数をかけなくたくて厄介がらせなくたくてしかもそのようにする俺だったが、いったんケチをつけられる場合になるときにはそんな鞭(むち)っぽい訓話たちが俺の世界へと突き込んでバチバチと振り下ろしてくれた結果から見ると、やっぱり先生に諭してもらったようにおとなしく悪いくせを改めてあげない答えと俺の物足りないスキルとの下にずらずらと並べ立てていて純真でない善心は、あの前触れに数えられるものだろうか。
そんな一理に浮かんでもらった考えを持ち合わせている俺だったが、けっきょく真白の明るみに一歩ずつ前へ踏み出しつづけるはずで、なにせいい人になったらというしるべを追いかけたいのだ。気持ちを片付けてから、その部分を手直ししながら前へ歩きつづけようとする俺にまじめに進んでいるのだけれど、なのに。
いつからともかく、かろうじてクラスメイトたちと先生の身近を受け流して、じわじわ成長して大きくなってやっと勇気を出して本当の自分の道に進みつづけようとする俺の周りに、なんだか「お兄ちゃんお兄ちゃん、いっしょに冒険しよう」というようで、どこから届いてくれて空耳みたいな男の子らしい声が響いてきて、追いかけるように俺の目の前に一人のちょっと小柄のシルエットも前よりもっと淡くなった霧にみちびかれて鮮明に浮き出てきた。
その場面に淡く入るとともに、くるくるのハローもまた凸レンズに映るように柔らかに突き出ることになった。
「お兄ちゃん、いいところを見つけたよ、いっしょに冒険しようぜ」
だんだんはっきりと聞こえてきた気がするその儚い声だけれど普段なら傷つきやすく気に留めることのないこんな一言はずだったが、なんだかアイスの海に沈んだように俺の体を凍り付かせそうになった。
あどけなげにお兄ちゃんと呼ばれるのはもちろん俺のことはずだ。
そして茶目っ気のありそうな口調でしばしば言い繰り返して誘ってもらう悪たれ小僧はおばさんの一人息子、俺のいわゆる弟だ。
「ねえ、お兄ちゃん、いいところを見つけたよ、いっしょに冒険しようぜ」
「いいよ、どこだ」
初見からすでに五年を過ぎて少しずつ成長中の弟について、いい思い出ばかりじゃないけれどたまに子ども連れのできないおばさんとおじさんでいっしょにいる時間がたくさんあって、分かり合えそうなものもたくさんあっていたはずだ。
ただ幼稚園と小学校が順番に続くと常識的に考えていた俺の目の前に、瓜二つの履歴を持ち合わせているはずなのにまさに真反対な性格ができちゃった彼の伯母(おば)さんの息子と俺の叔母(おば)さんの息子との二人がそこに立っているのだけれど。
今ときまだなにも気がつかない俺はおのずから軽く言い返した。
「へんへん、ぼくにつれるだけでいいぞ、まだまだぼくしか誰にも知らない場所だから、ぜったいにパパとママに秘密してよ」
「そっか、分かった、秘密するよ」
こうして、そういたずらをはじめたおばさんの俺より二つ下の息子と、そう約束した俺が、さりげないうちにパンドラボックスを開けるみたいにあのひどく恐ろしい事件の主役になった。
しっかりと俺の左手を引きながらさんざめいているところどころをそろりと遠ざけて明るみから分かれる小路へ進み出るようにする彼の顔はぼんやりと見えそうになったのだけれど、なんだかおばさんみたいな気振りが何気ないうちにうすうす見せられた気がするのだ。ただの弟が遊びたわむれるのについていくだけだと思ってそこまで深く考え回らずに歩き出してばかりいる俺は彼の後ろにしたがって、どこから現すのも分からなくて一つの冷ややかなそよ風がそっと吹き出して周りへ蒼白い霧がそっと湧き出てきて白いドアの前に立ち止まった。
「ここは、冷蔵庫じゃないか」
ちょっと違和を覚えてきてくれる俺はうじうじ聞いてみた。
「そうだよ、ここだよ、パパは言ってた、中にはくだもの、イカなど、とくにいろんなさかながいっぱいあるそうで、でも日ごろにずっと出入りを差し止めてもらって…」
「うんん、そうかもしれないね、だけど中にはめっちゃ寒いから、入らないほうがいいよね」
「いいのいいの、ちょっとだけ見巡ったら大丈夫だ。入りてえな、お兄ちゃんといっしょ」
「…」
「見てみようよ、お兄ちゃん、一目でいい」
「…」
あれからなにも言わなくてひたすら俺に口をとがらせながらじっと見上げてくれる彼のずるげな目つきにも、たのむたのむなんて繰り返す口振りずくめの期待をこめてきらきら光っていそうで、そんなにかわいそうにせがむ顔を禁じ得ないすえに、彼をつれて中に行くのを引き受けることにした俺なんだけれど。
「は…じゃ、勝手にちょこまかと飛び回ってないなら一目で見に行くのをつれてよ」
「おっし!」
大声で少しも邪気のないらしい笑顔で答えながら高く右手を上げて気を付けと聞くときにすっとした立ち姿を変えてくるのはもちろん俺の弟のことはずだ。
そしてほっとため息をつきながらも頭を下げずに目を細めてじっと見つめているのは俺のいわゆる自分だ。
白いドアに近寄ろうとすると考えながら一歩を踏み出すうちに、二人と五メートルぐらい隔てるドアの片側に一つの銀色に塗られたドアノブがすっと湧き出す泉みたいに表れてきた。ちょっと怖がっているのだけれど恐る恐る近づいてドアの前についた二人は、軽くそのノブに手を当ててつかまえてほやほやと回しとまってそっと押し開く瞬間に、一枚の真っ黒な場面が口を開けるように、二人の左へ、右へ、上へ、下へ柔らかな明るみをがりがりと嚙みこなしかけた。なんだか違和を覚える二人が一歩後ずさろうとすると、追いかけてすっと周りの明かりもガラスみたいにくだけて、真っ暗闇の中で淡い淡い霧と化して、だんだんと溶けていってすべてが飲み込まれることになったのだ。
こうして、一言の断りなく、俺と弟二人はおじさんが経営しているシーフードレストランの冷蔵庫にひそかに忍び込んだ。
突然に真っ黒な環境に押し入ってあげそうになるのだけれど俺たちの顔にまったく怖い様子がなくて、なぜなら入っていたところに最初から靄(もや)から晴れる一筋の明かりもなお二人の足取りに気づくように後ろの遠くも近くもないところから灯してきて、差してくれたあの光も俺の目の前の地面で長い長いシルエットをすっきり残している。
「じゃ、一目で見るとすぐ帰るよ」
「はい!」
ドアがこのまま開いてあるならいざとなると来た道を引き返すこともできるとあどけなく考えていながら煮え切らなく歩きこんだ俺と真反対、弟のほうが答えるとすぐさっさと走り出しながらせかすことになった。
「まってよ!おい!」
暗闇に適応しながら遠くへ流れていっておぼろな彼の後ろ姿を、ぽつりぽつりな彼の笑い声を絶え間なく追いかけざるを得ない俺はようやく左にかたよる奥のところに彼の姿を見つけた。ただすさまじいことに、その一筋の明かりがなお俺の足取りにしたがいつづけて足元のところについてしっかり明るくさせてくれて、おかげで外の真白のように明らかにできないながらも真っ黒な空間でも基本的に見えるといえるほどに柔らかにできて少なくともはっきりと見分けることができたのだ。
「あのな、飛び回ってないってば…」
「お兄ちゃん、ほら見てよ」
すぐ通路を駆け抜けて彼の横に行きつきながらぶつぶつ言っていてあげる俺に、びくともしなく、そこに据えているなにかを一途に見つめそうな顔つきでこうあどけなく話してくれた。対照的に見抜かれるらしく引き付けられて行って、彼の指さした方向へ見晴らしかけている俺なんだけれど。
そこの台座に乗っているのはたしかに水生動物に間違いないのだ。
「あわび、かき、えび、かにまで…」
こんなに豊かな品種のさかなを見かける自分ははじめてのことだから、すぐさまこのきれいなものたちに引かれて、一歩を踏み出せなくなった。なぜならしっかりと焼けつけられたこんな舞い踊る魚群の元場面といえば、お父さんとお母さんがつれていくシーパラダイスなんだからだ。
「さあ、帰ろうよ…あれ?おい!」
うっとりと見入っているあまり、さかなを張り詰められた視線に彼の姿が静かにいなくなったことさえも神経を巻き起こせない俺はガクンと気がつくときに、もうその弟がさっきの一言を捨ててからあっという間に離れて俺一人に置き去りにしていた。
「おい!どこにいるの?」
「おい!聞いたら返答しろ!」
「早く帰ろうぜ!鬼ごっこやめよう!」
一時にさかなを見てばかりで彼を見失う自分に責めながらも気をもめないで、開けっ放しのドアで見つかるといつでもここから離れていい一方で、遊び好きな弟がきっと隠れん坊をしたがって走り去ったと思ったのだけれど、とっくりと考える暇もないと分かった。まだ冷えない記憶に残っているドアからここにかけてのルートで歩き回りながら探していて、ここで隠れるかと見つけたときに楽しく叫ぼうとしていいかなと落ち着いて考えている俺は、ふいにどこからガチャっとなにかがかけられてさえた快音が届いた気がする。
まずい、なにかやばいことが起こるようにうすうす分かりながらも、ひたすら彼を見つけることにかまける俺にはやっぱりそっちのほうがもっと大事だと考えついて、余計な思いをしないでまだルートに沿って微かな明かりで密に織り合わせるねずみ色と薄明るさが流れる前へ歩きつづけながらこの冷蔵庫のところどころまでに行き渡ったあげく、ついにドアの前にそのシルエットをもう一度見つけてしまったのだ。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「お兄ちゃん、助けて!」
せかせかじたばたノブを回してみたのだけれどけっきょく無駄になって、声も潤むらしく話してくれるのはもちろん俺の弟のことはずだ。
そしてはっはっと息せき切って立ち寄って慌ただしく聞くのは俺のいわゆる自分だ。
あのうろうろとした「助けて」の声聞くとやっとさっきに聞こえたガチャっと立てる快音を連想してくれた俺は、そのさきに俺の近づいた空気を感じてもらいそうな弟があたふた叫び出した間に、もともと開けっ放しのはずだがロックが立ち上げられることになったドアを見かけると、すぐ電子キーをつけてあるドアが閉ざされた状況に気づいてしまった。
しかしさりげないうちに振り返ってどうやってこんなことになったと聞こうとするときに、ちらっと見られて違うところが表れてきた。
もともととなりに前後に暮れるらしい弟の顔には初めて、俺をねだるときに漏らして小悪魔みたいな笑みと、さっきからドアを開けないで零して小悪魔みたいな涙とがだんだん一つに重なり合っていくことになって、追いかけてさらに薔薇らしい花のつぼみが芽生えてきてくれそうになったみたいだ。しかも彼の周りにおもむろに消え去ったはずの淡い霧もが静かに深くなってはびこってきた。
ただ、そこまで気を回せる暇もないですぐにしきりにドアを叩きかけながら大声で叫びかけたのだけれど、いくら呼んでもずうっとちっとやそっとの返事がなくて糠に釘みたいだ。それどころか、ドアの横に寄る壁に据えている機関のようなものの上でかっとスクリーンなどが明るくなってきて、同時にピッピッと警報音みたいな鋭い音が鳴り響きかけたのだけれど、プライムのパスワードと非常スイッチもずっとどこにも見つからなかったのだ。どうしてもこんな危ないところを逃げられなくなって手も足も出なくなった状況にぐっしょり汗をかいて気を落とさざるを得なかったあげく、おばさんとおじさんを待つしかないと思う俺らは早めに見つけてもらいたいと黙りながらドアのすぐ前にくっついて座ってきた。
その後のことについて、どうやってぞくぞくひやひや震えきれない数時間を耐え忍んで過ぎてきてくれたのかとなんて、正直に言って今になってはぼんやりしてはかない記憶しかなにも残っていなかった。お兄さんだからこそお兄さんらしくすべきのは当たり前のことだろうと思えていながらひっしに彼の体を揉みながら、しだいに飛び降りていく温度で彼が避けられずにだんだん冷えてくるだけじゃなくて自分でも全身の動くことがのろのろとなって間もなくできなくなりそうだ。それにしても、彼を守りぬくためにもうガタガタした俺は身につけるスウェットさえ小刻みに脱いだり彼の上体にかぶったりしていったのだ。
真っ黒な空間にくるくると包まれる俺にはだんだん力が入らなくなる気分で、正確に言うと力を入れば入れほど筋肉が緩むことになっていく気分だ。強引にドアを開ける手順をもう一度考え込んでみようとする頭まで支配されなくなりそうだ。それどころか、もともと俺の身に降り注いでいた一抹の明かりも暗くなりかけてきて、追いかけてちらほらのハローしか何も見えなくなった。
最後はときの流れで意識が途切れそうになる二人がやっとおばさんとおじさんに見つけられて病院へ運んでもらったそうだ。ところでたぶん我に返りそうだったはずの俺の目に映るのはなお二つの景色、限りなく広がる暗闇と、限りなく広がる暗闇だ。
「幸いにして、前の助けられっ子はただ少し風邪を引くだけで、検査が終わったら帰っていい、あとは気を付けるよ」
「それから、後の子はもう救出されまして…ただ凍えすぎるので、今後もお体を大切にしてください」
どれくらい経ったかも分からないで、なにか人の声が聞こえた気がしそうなときに、かすんだハローの指した方向に一点の明かりがまた周りの空気を溶けて包んでくれたこの空間には、まだ灰色の靄(もや)が晴れなかったのだ。
前の助けられっ子と呼ばれるのはもちろん弟のことはずだ。
そして後の子と呼ばれてそっけない敬語で状況を知らせてくれるのは俺のいわゆる自分だ。
後の子なのか、こんなときまで後の子と呼ばれる俺には、不幸の幸いで生き残ってくれるのは幸いと言えるほどの結末なのかと、まだよく分からなかった。もしくは分からなくなったかもしれないだろうか。
たぶん前触れもなくこんな重大な事故をきたすと言えないはずのこのシーンに、弟の、いや、自分の身からむき出した問題はまるで冷蔵庫の差し控えられない温度のように身そのものを飲み込んだ。
ただしできる限り弟のお相伴をするつもりの俺だったが、何気ないうちに彼に累を及ぼすことになった結果から見ると、やっぱりなにかが欠けて災いを招く答えの下にずらずらと並べ立てていて純真でない善心は、あの前触れに数えられるものだろうか。
やっとふいに押し入った真っ黒な空間から逃げ出したすえに、もともとステージで一筋の明かりが真ん中で光っている明るみはなにか煙に染められるようになったのだけれど、仕方がなくて、そんな浮かんだ考えを持ち合わせていそうになっても進まざるを得ない俺なんだけれど、なのに。
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