モノローグ02 “見捨てられる”だけで話しやすいわけでもないだろう

  しかし、切実にそのその意味をつぶさに味わってもらって分かるようになることは、まるで世間にいわゆるストンと胸に落ちるなんてことのようにあっという間の出来事じゃないだろうか。

  お父さんとお母さんのシルエットがおもむろに遠のきながら色褪せるにつれて、夕焼けにきれいに灯された空にはもう一度みるみるに靄(もや)が濃く立ちのぼってきてかすむことになったのだけれど、もともといっしょに夕暮れに沈みこんで見えなくなったはずのあの一筋の明かりがまんざら霧に静かに溶けていかなくて、かえってきらきら光りながら俺の目の前にゆらゆら揺れてきた。ゆるりと振り子の動きみたいな行き交いの中で俺の五感にも見通させない霧がふわふわと覆ってくれてくるくるのハローもまた凸レンズに映るように柔らかに突き出ることになった。

  またステージの上で周りの景色とシルエットが鮮明に浮き出てきたことに気づいたときに、すでに完全に自分一人で蒼白い明るみに包まれるすぐそこの見知らぬ街並みに立っていてなにか見分けられなくなりそうなものを恍惚(こうこつ)と見入っている俺が残されたのだ。

  その口元から浮き上がってきた一抹のややにがい弧線が描いてくれたのは、お父さんとお母さん二人は仕事で遠くへ出かけざるを得なくて俺をおばさんに任せて養育しはじめてもらったあの日から、すべてがすっかり変わっていくルーレットも回りかけたことだ。

  独りで真白の前へゆっくりと踏み出しかける俺には目的地がたぶんないけれど、つねにくっきりと見える赤い電波を結んだ入電が指さした方向はきっとお父さんとお母さんが教えてくれて自分の努力で進むべきところだと、お母さんからの人生信条のようにずっと信じていた。なぜならあれはお父さんとお母さんからの、いつか帰るという朗報を申し渡してくれる着信だからだけれど。

  ただ、けっきょくのところに想像と現実の中でなにかずれが少しずつ生じかけた。

  最初の数ヶ月には週に二度三度ぐらいの電話がすかすかで定時にかかってきてもらって、時には晩ご飯の前にお父さんの厳しく「学校はどうだった」とか問いかける声で、時にはお風呂の後にお母さんの慈しみを込めて「最近は寒くなったそうで気を付けてね」とか心遣いする声だ。何度も何度もとっくに聞き慣れたはずの声に話しているうちに、涙がそっと滑り降りてきた俺が正直に言って、やっぱり声より顔はもっと会いたいだけれど、ただ仕事のことから会えない状況に手詰まりのこともよく知っていて、いつも受話器が熱くなってしょうがないまでに話し合ったすえに未練が残るほどの気持ちで「また今度ね」って聞いて電話を切るしかなかったのだ。

  帰る合図が待ち遠しいだけれどいつか辿りついてもらったら大喜びすることになるとずっと確信していた俺には、そのまま平凡な生活を送りつづければまずまずのように思えながらも、あのもともと俺一人だけに届いてくれるはずの連絡はやっぱりなにか前触れしそうに少しずつ少なくなってきて、週に一度の「ごめんねパパとママは最近忙しいけど」とか、半月に一度の「もう少し頑張りな」とか、月に一度の「なにか欲しいものがあるの」とか、半年に一度の「ちゃんと暮らしたらママも安心するわ」とか、最後は一年に一度の「誕生日おめでとう」とかなんとか、精いっぱい掴みたい俺と家族の間につながる間柄という唯一の、この電波を結んだ赤い糸が捕まらずじまいでだんだんにこの明るみの遥かに散り散りになって、六年前までに。

  知らず知らずのうちにもともと淡いひまわり色のベストに白い半ズボンをはいてクルミ色のランドセルを背負って孤独にあの明るみに絶え間なく歩きつづけるはずだけれど途切れ途切れ彷徨うようになりそうな俺の左後ろと右後ろから二つの淡い霧がしだいに浮き出て、またすぐに女と男各一人のシルエットと化して、追いかけるように周りにきれいな部屋のかっこうは断片が一つ一つ綴り合せられるパズルみたいに見えそうになったのだけれど、目の当たりに見た俺はまったく楽しめなくなって、ただあの「帰る」じゃなく、「変える」のシナリオと描いたシーンを見かけるだけなんだ。

  あれは十歳を過ぎたばかりの夏休み期間のいつもながらの昼過ぎだった。

  朝っぱらから家事に追われはじめて、昼ご飯を食べたが早いかまたおばさんの言いつけに応えて買い物に行って帰った俺は、イライラされずに済むためにそっと鍵をかけて部屋に上がろうとするときに、誰かと喧嘩するらしく話しかけているおばさんの声が壁越しに聞こえた気がする。

  「…」

  「は?行方不明!どういうこと?」

  「…」

  「へえ~?今さら連絡できないなんて嘘をついてくれないの?お前たちみたいな同僚さえもこんな芝居を打つつもりか」

  「…」

  「あのくそ兄の養育費だから引き取ってくれて、後は野となれ山となれなのか?!なんでこのごみをあたしに捨てろよ!」

  「…」

  「なに?もしもし?おい!なにさまだよ、くそ兄!」

  大きなレジ袋をぎゅっと両手で提げて、背中を玄関の壁にそっともたれてひっそりと盗み聞きする俺は、ガチャンと切りそうな音を聞いてから、びくびく震えながら鍵を掴む手でドアを閉めて、こっそり靴を脱いで、足音を盗むようにして歩いて、ちょっとだけ見てあげたいと思ったら、いきなりおばさんの罵声がじきに伝わってきた。

  「なにぐずぐずしてんの?ガキのくせに、完全にこの家を眼中に置かないじゃないか?!」

  「ごめんなさい~」

  またののしられる俺にはほとんど無表情でしかりにまったく意に介さなさそうに、もくもくと頭を下げて冷ややかに誤ってあげて、なにせ養育してもらった五年間にほぼ毎日現れるぐらいのこのシーンとしては、むしろすでにこんな場合でののしられることに慣れてきてなにか出来映えをしておかないかと考えるようにしか乱れない心になるかもしれなかったのだ。

  それに、いまの腹を立てさせる電話の内容がなんだか気になる。

  「なにか言い訳?へん~てめえのくそおやじはもう行っちゃったよ、てめえも今後あたしの家に従順にいなきゃでてっけ!」

  「え~?あの…行っちゃったのは、どういう意味ですか…」

  ぼっとした俺はあわてて聞いてみたのだけれど。

  「は?ふん、てめえを要らなくて行っちゃったよ」

  おばさんのその後のぶつぶつすべても聞けなくなった俺に、あっという間にぱっと言葉をつづる糸が切れた。

  そうか、そういうことか。なるほどね、さっきの電話の相手はお父さんたちの仕事の上のパートナーなのか。連絡できないぐらいの物言いなんて、そういうことなのか。ならば、そのごみと言われるのは俺なのか。待ちに待ったあげく、彼らに見捨てられる人になったのだろうか、俺は。

  しかしよく考えてみたら、また自分の思いに反論しかけてきて、そう話しやすいわけでもないかもしれなかったのだろうか。

  ただの「見捨てられる」の六文字だけで話しやすいことべきではないだろうか。

  なにせそのまま俺を見捨てる心が決してない両親だろうと確信していた俺に、きっとなにか大事なことに行かざるを得ないでしばらく帰られなくなると絶えずに独り言ちてくれた。

  ほんとうにそううまくこんなめずらしい結論を出せたのは、お父さんとお母さんが俺の世界から完全に消えきったずっとの後のこと、ある日におばさんに叱りつけてくれたのだからだけれど。

  普段なら自分がなにか悪いことをしてお父さんとお母さんに嫌われるとか考えた子どもがたくさんいるかもしれないけれど、家族でそろって出かけて遊んだり散歩したりする場合を独りで街で見かけるたびに、たちまち眩しく差してくれて、完ぺきに俺と彼らを切り分ける昼からの視線がそう告げてくれた、「お前はそう思えた人ごみの中に入り込める人ではない」という答えに、より深く気づいてくれたのだ。

  振り返るまでもなく、浅い霧がしだいに晴れるとともに、二人のシルエットに顔も表情も仕草もすでに完全に別人の様子になって、しかもよそ見して、目に入れても痛くないのは女のそばに寄る小さい男の子に間違いないのだ。その一筋の明かりがじかにみんなの身に投げてくれるときにも、どうしようもなくて受けながら進むしかない自分とかげの下に立ち止まって嬉しく笑い合う彼らの真ん中で形が見えなくてくっきりと見えてしょうがない境界線が存在している。

  それにしても、俺もそういう時期から一歩一歩苦しく生きてきてくれたとよく知っている。なぜならお母さんから受けた人生信条がまだ心の中に流れつづけるだからだけれど。

  ただ、両手を差し伸べてとっくりと見れば、「幸せになれる」を手に入れる条件、「いい人になったら」とはずっと俺の唯一のルートと見られるこの一言だけれど、実際は俺にとってきわめてわかりづらい一言だ。

  お母さんも人並みだから誰でも言い出したり、誰でも聞こえたりすることができるはずのこの一言に、いい人になれるやり方とか、どこからどこまでするほうがいいとか、なにか正しさなのかなにか間違いなのかとかなんとか、手に取らないものがまったく分からなくなった。そもそも一人になった俺にも、確実に教えてもらえないそんなものが分かるようになるわけがないだろう。

  仕方ないことに、俺は自分の気分に則するのを選んだのだ。

  詳しいスキルを習うことができないけれど、昔からテレビによって、恩返しを追い求めずに他人事(ひとごと)を助けてあげて、誰でも親切に接するらしい行いを規則に、なるべくおばさんたちとクラスメイトたちをおとなしく嬉しがらせるように頑張りつづけていく俺にまじめに進んでいるのだけれど、なのに。

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