モノローグ01 すべての発端

  はっきりと言うと、あの時の俺はまだ、別れという言葉づかいが表れてからというもの、自分の人生にどれだけ深刻な意味を与えてくれることになるのが、さほどよく分からなかったのだ。

  「じゃ~笙(しょう)くん、パパとママは仕事終わりにすぐ帰るから、わたしたちがいないうちに、おばさんの家にちゃんとおとなしくしなさいよ。分かった?」

  「うん!分かった!笙はそうするよ、約束する!」

  「おう!えらいだね」

  どこかのシアターの個室みたいな閉め切った空間に体育座りで座って我に返りそうだったばかりの気がするらしい俺の目の前にきらきら光っているのは、くるくるの暈(かさ)が飾ったステージみたいものだ。

  そよ風に乗って軽く遥かな遠くから伝わってきてくれた二つの会話中の声につれて、初めに俺の目に実感の映るのはかすんだステージの上で周りにこぼれている靄(もや)にじめじめ潤むハローがじわじわと一筋の明かりと化して、追いかけるように周りの景色とシルエットが濁りから清さにかけて鮮明に浮き出てきた。

  やや西寄りの空が、たった今夕霞(ゆうがすみ)でボタン色に彩られて、湿り気を含める空気から透けて、屈折された光がきらきらと俺の辺りにまき散らして、なんだかうたかたが風にうろちょろ漂っているごとく色とりどりに包まれる感じがするのだ。

  すぐそこの道の傍らで黙りこくって立っていて、かたむけた体で日を背にして横顔が見にくくて、スマホをいじってたぶん誰かに返信しているはずのお父さんの姿と、優しくて軽く俺の頭を撫でて、口元から笑みを浮かべて俺に念を押しながら褒めてくれるお母さんの姿と。

  純粋な目を細めて明るい笑顔があふれてきてあどけない口調でよろこんでそう返した俺の姿。

  一番明らかなかすみの色が遥かに延びそうに掛けている架け橋みたいな境界線で見分けられる街でゆらりと流れかけるこのシーンに、俺についての物語がこうして幕を切って落とした。

  普段ならまだ五歳の子どもにとって、親愛なるお父さんとお母さんを目の当たりに見送るのはどこでも悲しいことはずなんだけれど、俺にはちょっとちがう思いを持ち合わせた。なぜならあの二人はときどき出張したり、連日も行方不明がちになったりすることがあったのだからだ。もちろん言うでもなく、そばにいない毎日にさみしく思っていた俺にとって一番心配しているに間違いないのだけれど、ただ最後に安らかな気持ちになるのは、その「連日」を過ぎた後の断っておく日に至ると、また順調で無事に帰る姿を迎えてきてくれたと、よく分かったのだ。

  強いて言えばたしかに今回もまた外出して仕事をしようとせざるを得ない二人に付き添われてもらった時間がだいぶ少ない俺だったが、全然いわゆるそんな喪失感を持ち合わせるようにならなかった。なぜなら家族のために頑張っているお父さんとお母さんは俺がずっと持ち合わせて心にしっかり覚えていた唯一の人生信条、かつて母が話せたばかりの俺に絵本を読んでくれたときに言っていた、「いい人になったら幸せになれる」という一言そのものを実行するベスト手本だからだ。そういう二人にならって頑張りつづけていったらぜったいに幸せを手に入れると確信していた俺がいまここにいるのだ。

  それだけでいいだろう。

  ついにあの二人にさようならって言ってあげなければならない時が来る。

  「じゃ、行ってくるわ」

  「いってらっしゃい!」

  低くてはっきりと聞こえてくる二つの会話の声につれて、もともとなお靄(もや)に少しだけ立ち込められた周りの雰囲気は夕方にほぼ沈んでいって薄暗くなったはずなのに、いきなり買いたての新しいミラーに照り返されるように鮮やかになって、くっきりと見えてきた。

  あそこの道の傍らで後ろ向きに誰かと電話をかけながらみるみるに遠ざかっていくお父さんの姿と、もう数歩を運んでいってまた足を止めて振り返ってくれてゆるりと俺に手を振るお母さんの姿と。

  二人を見やりながらひたすら右腕を持ち上げてぐいぐいと振って、バイバイと大声で叫んだ俺の姿。

  夕暮れ時に夕映えに見事に緋色に染められた空の下で、二人の後ろ姿と地面に映って長く引き伸ばされた人影はじつにきれいだ。対照的に入り日に薄香色に照らされた俺の顔に、大きい笑顔がさんさんと咲いている。あんな不思議な景色は今でも俺の中に深く刻み込んでいる。

  その姿たちがだんだん小さく縮んでいって消えてしまったまでじっと見つめていた俺は、ただの親がいつか帰るのを待ちはじめる子どもだった。ちっぽけな心の中に親を想う気持ちやおばさんの家に身を寄せるのを期待する喜びしかなにも抱きかかえなかった。ちらっと見れば、ほかの子どもともなんの違いがないかもしれなかったのだ。

  実のところは、正直に言って今回の別れもいつもと同じように、時点につくと約束の通りに無事に帰ると思い込んでいた。生涯に会えなくなるという本当の別れなんてのは、生まれからずっとお父さんとお母さんのところに抱きかかえられてもらうのを真(しん)にかつて失わずに生きてきてくれた俺にとって、遠すぎてどうでもよかった言葉だけなんだ。

  いや、もちろん言うでもなく、わ・か・れという三文字が組み立てる言葉が単純に分からないわけでもなくて、ただ、そのパッとしない単語にそっけなく語られる事実がいつか急に俺の身に降りかかる瞬間に、自分の人生にどういう意味を与えてくれるのが、まださほどよく分からなかっただけなんだ。

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