第12話 角流和修

 初めてその少女を見たのは、合同説話会の日だった。

 まだ中学生の和修と宇賀の時彦が、幼い子供達をまとめて面倒を見ていた。

 隣の県から来たと言う父より若い僧侶が連れていた美幼女は、ひどく大人びており、落ち着き無く騒ぐ子供達の中で浮いていた。子供同士で遊ぶ事よりも書を読む方が好きなのか、読めもしないのに経本を手に取りたがった。時彦が「他の子が欲しがって破くと大変だから」とやんわりと断ると落胆した様に溜め息をついた。そして、その後は観察するような目で子供達や時彦や自分を眺めていた。その醒めた目が気になった。

 数年に一度の合同説話会で見かける幼女は、小学高学年になり、十年の間にすっかりと大人びていた。

 綺麗な子だなと思っては居ても、十も下の子供である。ただ、最初に会った時の自分のように子供達の面倒を見ているのを目の端に捉えただけだった。

 数年後、それが己の結婚相手として話を出された時、冗談かと思った。その後、父の認知症を疑った。冗談を言うような人間ではない。そして、彼女は自分より十は下の筈だ。大学を卒業し、修行の道へと本格的に足を踏み込んだ若輩とは言え、流石に有り得ない。聞けば未だ中学三年だと言う。子供ではないか。卒業と同時に家に入って貰い、十六の誕生日に籍を入れろと言う。馬鹿なと、思わず口走り掛けた。上司でもあり父でもある寺の住職へ、初めて怒りと反発心を抱いた。

 だが。

 連れて行かれた先で、その相手を見た瞬間、抱いたモノは霧散していた。

 頭から毛布で包まれ、両親に両側から抱えられた少女が見えた。

「お願いします」

 何に怯えているのか。何から隠れているのか。頭を下げるのは、彼女の父で、自分もよく見知った顔だった。

「あの……まずはお話を伺っても……?」

 それは、恐らく、やむにやまれぬ事情が有るのだろうと察するに余りある姿だった。 


 雪乃の身に起きた怪異。自らの意思と関係無く特定の人物の家の窓へ蛙を貼り付ける行為。意味がわからなかった。理解ができない。しかも、池から溢れ続ける蛙。そんなに沢山の蛙が池に溢れれば、まず酸素不足になるかして池は死骸で埋まるだろう。なのに。

「その……」

 えーと、と言う言葉を飲み込む。

「病院へは行かれたのでしょうか?」

 愚問だ。口の中で言葉を探し、ようやく出てきたのが、これだった。

 明かに雪乃の顔色が悪く、彼女の両親の表情が険しくなった。

 己の父が渋い顔をして睨むのがわかる。

「いえ、お話を伺うに、大変疲弊されたでしょうから、一応他の異変を含めて診察を受けられた方が宜しいと……」

「医者には、かかりました」

 雪乃の母親の言葉に、ですよね……と力無く呟く。

「蛙の怪異だ。うちが少しは役に立つかもしれん」

 角流の家、四海寺は八大龍王尊を祀っている。そもそもは川の神であった龍神が旅の高僧に悟りを説かれ仏に帰依したのが始まりと言われているが、はっきりはしない。その縁でもって、過去には川上にある竜神を祀る三杜神社と合祀されていた。が、三杜神社の人間を寄せ付けない手入れの殆どされない山と禁足地とされる奥社の滝、それに荒御霊と呼ばれる恐ろしい大蛇姿の竜神より、人は仏に帰依した穏やかで勇猛な龍王尊を求めた。だが、古く水源を護る宇賀家を、角流の祖先は尊敬の念を持って支えた。祟らないで下されと神に請い願うのが三杜の神主の役目であり、大丈夫だと民に拠り所を与えるのが四海寺の役目だった。


 四海寺へと連れ立って帰り、角流家の客間を雪乃と母親に与えた。弟子達が寝泊まりしている道場のある別棟ではなく、宿泊施設である宿坊でもなく、角流の自宅の客間だ。父親である祥郎は部屋に腰を落ち着けた二人を確認し、暗くなる前にと帰って行った。深く深く頭を下げて。

 ひどく怯えた様子だった雪乃は、和修の母と雪乃の母である温子と過ごす内に、目に見えて明るくなっていった。

 朝からキャッキャッと台所で女だけで盛り上がり、和修達が早朝のお務めから戻ればはにかみつつ食事の支度をする。日に三回の食事の支度、自宅の掃除、それに帳簿付けを和修の母としているらしい事は何となしに伺い知れた。が。和修は忙しい。何事も無ければそれで良し。何事かあれば母が言ってくるだろう。それにまだ中学生の女子である。いづれ結婚するとしても、それが一年後だか一年半後だかだとしても、恋愛の対象に見るのは難しい。それこそ犯罪である。

 順調に回復を見せる雪乃の姿を、目の端に捉えつつ、和修は日々の業務をこなしていた。

 そうして三週間が過ぎた頃、母が爆発した。

 アラームを止め、布団から身体を起こすと、小気味良い音を立てて引戸が勢い良く引かれた。

「和修さん、お話があります」

 普段、息子を「かずちゃん」と呼ぶ母だが、叱る時は何故か敬語になる。敬語になった時の母に逆らって良い事など今まで一度もなかった。

「な、んでしょうか?」

「身支度を整えて、居間へいらっしゃい」

「……はい」

 何故かわからぬが、母が怒っている。心当たりなど無い。叱られるような覚えなぞ無い。

 父に一言言わねばと、作務衣に着替え、顔を洗いに居間の前を通り過ぎて立ち止まる。開け放された居間を二度見した。

 父が、母の前で正座をさせられていた。小さく縮こまる父の前で、母が優雅に茶を飲んでいる。

「あら、和修さん。先に顔を洗っていらっしゃい」

 穏やかなゆっくりとした口調は、とても丁寧に紡がれた。ゾクリと走る悪寒に、母へと良い返事を返し、慌てて洗面台へと走る。蛇口を捻り、勢い良く飛び出す水を手で顔へと叩きつけた。

 和修は必死で頭を巡らせる。何をした? 父は、自分は、何をして何をしなかった? 何が母の地雷を踏んだ? 昨日まで雪乃と温子と三人で楽しくやっていたではないか。三人の笑い声でこちらも癒されていたのだ。きっと良い嫁姑になるだろう。家族としてうまくやれるだろうと。

 乱暴にタオルで顔を拭うと、深呼吸をして、居間へと戻る。

「お待たせいたしました」

 父の横、母の対面へ腰を下ろし、正座する。

 父は、なぜか土下座になっている。が、自分には謝罪しなければならない理由がとんと見当たらない。まずは説明を求めたかった。

「和修さん。あなたね。そりゃあお務めも大事でしょう。だからと言ってヨソ様の大事な娘さんをお預かりしておきながら……」

 母の説教は、3時間に及んだ。

 遠巻きに様子を窺いに来た弟子達は、無言で道場へ戻って行き、オロオロとする雪乃は、彼女の母に肩を抱かれて客間へと戻って行った。

 要は、雪乃と和修の接点が朝食のみであり、会話もほぼ無いのが、人間として如何なものかと、気遣いの一つも使えぬ子に育てた覚えはないと。己の夫にすら、うどの大木だの朴念仁だの言いたい放題である。

「嫌なら最初から嫌とおっしゃい!」

 一喝され、和修は反射的に顔を上げた。

「嫌ではありません」

 それは、本心だった。

 確かに結婚前提の相手を「元気そうだから」と特にこちらから何もアクションを起こしていない。だが、放っておいたのか、気を遣わなかったのかと詰られればそれは違う。和修なりに気を遣い、様子を窺い、見守っていた。それを女心が解らぬ奴と罵られては仰る通りとしか言いようがない。だが、けして雪乃が嫌で避けていたわけではない。

「正直、雪乃さんの事はよくわかりません。子供の頃を少し知っているだけです。ですが、嫌いなわけではありません」

 和修には女と言う生き物もよくわからぬ。女友達もいない。女と付き合ったことなぞない。そんな暇は今まで無かった。

「でしょうね」

 にっこりと母が微笑む。父が視線を反らした。忙しくさせていた犯人はまるで父であるとでも言うように。

「あなたのお父様があなたの年齢の頃、どんな風に遊んでいたかお話しましょうか」

「のぶこさんんんんんっ」

 父が動揺した声で母の名を呼んだ。普段、「母さん」や「坊守さん」と呼んでいる父には珍しい事だ。余程の弱みを握られているのだろう。

「どうなさいました?」

「ああ、いや、和修には時間を作らせる事を約束しよう! な! そうしよう!」

 焦って言う父に、母が、今度こそ心からだろう晴れ晴れとした笑顔を向けた。

「雪乃ちゃーん!! 今から和ちゃんがデートに連れて行ってくれるってー!!!」

 母は跳び跳ねるように立ち上がると、客間へと小走りに消えて行った。

「……良いんですか……?」

「……あー、良い、良い。行ってこい」

「昔何が……」

「良いから、行ってこい!」

 呆然と母を見送った後、今度は父の怒声に自室へと追い立てられた。

 作務衣で出掛けるわけにも行かず、簡単なTシャツとジーンズへと着替えると、車の鍵と財布、それに携帯電話だけをセカンドバッグへ放り込む。仲間内ですらオジサン臭いと言われるセカンドバッグはパイソン革の黒いもので、祖父の遺品だ。使い勝手が良く、手触りが気に入っているが周囲の評判は良くない。財布は小学生の頃に父の日に買った二つ折の黒い財布だが、スーパーで買ったブランド物の偽物風の安物であるため、父が使うのに躊躇ってお蔵入りさせていたのを、高校生になった時に貰い受けた物だ。ジーンズとTシャツは大学時代に友人と買いに行った古着屋でサイズが合ったから買っただけの物だし、靴は大学の友人から売り付けられたナントカとかいうブランド物らしい。

 とにかく、和修はファッションに無頓着ではある。

 よく見るとチグハグながらもパッと見は纏まっている姿に、和修の母は眉根を寄せつつ「まぁまぁね」と呟くと、手に小遣いを握らせてきた。

「お金を出し渋ったりしない事」

 母の厳命に、恭しく頷く。贅沢は教えに反するが、使うべき時は使わねばならない。恐らくこれがそういう時なのだろう。

 しかし、問題は……。

 車にエンジンをかけ、冷房を回す。七月の照りつける太陽は車の中の温度を容易に上げまくる。

「時兄、女の子って、どこに連れて行ったら喜ぶかな?」

 和修は宇賀の時彦へと電話をしていた。向こうで盛大に咳き込む音がして耳を離す。

「何、かずちゃん、キャバ嬢にでも貢いでんの?」

 まだ喉がおかしいのか、ややガラ付いた声で時彦が返してきた。

「そんなんじゃないよ。この間、見合いしてさ」

「あー……大丈夫か? 嫌な相手なら無理するなよ?」

 時彦は神社で、和修は寺であるにも関わらず、依然兄のように心配してくれる、この関係が和修は気に入っていた。

「嫌なんかじゃないよ。俺が守ってあげなきゃって思って」

 時彦は再び電話口で噎せたようで、暫くゲフンゲフンとしているのを聞きながら、和修は自分の台詞に愕然としていた。

 そうか。自分は、彼女を護りたいのだ。これが庇護欲というやつか。と。


 初めてのデートは、ほぼ無言でのドライブだった。

 雪乃の実家の方とは逆へと車を走らせる。途中で時彦から聞いた評判の店で昼食を取り、更に海へと車を走らせる。道の駅で野菜や土産物を眺め、少しでも気になっている様子があれば買った。小さい声で「そういうつもりじゃ……」と言う雪乃の頭を笑顔で撫でた。子供の頃を知っているからか、どうしても子供扱いしてしまうのはもう仕方ないと納得した。

 最初に両親に抱えられるようにして来た頃のあの怯えた様子はもう見えない。

 夏休みが終われば二学期が始まる。中学三年生とはいえ、学校に行かないわけにはいかないだろう。だが、いつでもここに、和修の元へ戻ってきて良いと知っておく必要が雪乃にはあるだろう。和修は、雪乃にとって安心できる場所でなければならない。その為には、まぁ、多少の努力が必要なのだ。

「人と、人、だからね」

 窓を開けたいと言う雪乃の要望通り、海沿いを窓を全開にして走ると、海風に言葉をさらわれる。

 そうして、 特にどこへ行ったわけでもなく、特に何を話したわけでもなく、ソフトクリームとたい焼きなんかを食べ、景色を眺め、夕方前に四海寺へと帰ってきた。帰りは疲れたのか必死に眠気を堪えているのが、更に雪乃を幼く見せた。

 翌日、雪乃と雪乃の母親は自宅へ帰る事になった。

 事態が落ち着いた、と言う事もある。雪乃が落ち着いた、と言う事もある。

「あの……」

 言いよどみ、視線を泳がせる雪乃に、和修が頷いた。

「お恥ずかしい話ですが、この年まで女人と親しくお付き合いした事はございません。不躾があれば遠慮せず仰ってください」

「そんなっ、こちらこそ……」

 頭を下げる和修に、狼狽えたように雪乃が頭を下げる。

「まずは、ひと月に一度、昨日みたいにでかけましょう」

「はい」

「気休めになれば」と昨夜に経を上げておいた小さな護り袋を雪乃へ手渡した。中には白蛇の脱皮した皮の破片と龍王尊の小さな絵姿が入っている。

 迎えに来た雪乃の父、喃堊寺の副住職の車へと、雪乃と雪乃の母が乗り込む。

 雪乃の父が降りて「お世話になりました」と深々と頭を下げると、和修の父である四海寺の住職が「いやいや、うちの大事なお嫁様だからね」と雪乃の父の肩を叩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カエル沼 右左上左右右 @usagamisousuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る