第11話
宇賀の携帯が鳴った時、宇賀の元へ友人が土産を手に訪ねて来ていた。
空調設備も無くほぼほぼ廃墟である自宅の方で、久方振りに友を迎え入れる。主に、その手土産である食い物を歓待する。
田山と云うその男は、時彦が父親を亡くし天涯孤独になったばかりの頃にひょんな事から知り合っていた。この男の手土産は普段、時彦が口にできないコンビニおにぎりやファストフード等が多く、時彦にとっては歓待するに価する相手である。
塩のきいたポテトフライを詰まみ、田山の趣味であるツーリングの話をふむふむと聞いていた時に、宇賀の携帯が鳴った。画面には、元教え子の名が表示されている。
雛子は、ジリジリと後ずさった。祖母の部屋がやけに遠い。
早く、早くここから逃げなきゃ。
どこへ?
どこまで?
わからない。
池から伸びた手は、その細さ、幼さには相応しくない程に長く、スルスルと池から出続けている。
手が消えた、と思う間もなく、次の瞬間には鞭のように窓へと迫っていた。
悲鳴を上げて祖母の部屋へと飛び込む。
だが、雛子の予想とは違い、ガラスの割れる音は、聞こえなかった。
部屋へ飛び込んで来た雛子に驚き、何事かと祖母が立ち上がって廊下へと歩を進める。
「お婆ちゃん、ダメぇ!」
気付いた雛子が声を荒げた。
義父と義弟と一緒に降魔の経を読み上げる。あの時と一緒だった。娘の奇行、あの、去年のアレと同じ、経を読んで手応えが無い。気を込める、が、何かを掴もうとした手が空を切るかのように、それは虚ろに感じる。固く目を瞑る。横で読経する義父の声さえ、軽く聞こえる。義弟の声が遠く細く感じる。本堂に反響し、本来なら何重にも聞こえてくる筈の経が、ほんの薄っぺらい小さな単音にしか聞こえない。まるで宇宙に独り放り出されたかのような心許なさが心臓を掴んでざわつかせる。
「お婆ちゃん、ダメぇ!」
姪の叫び声に、一瞬、気を取られた。
それは、義弟も同様だったのだろう。腰を浮かし、既に声の方へと身体を向けていた義弟が走り出そうとする。が。
「オン!」
一際大きく、義父、住職の声が響いた。
座れ、と。続けろと言うように、住職の経が響く。
止んでいた義弟の経が重なる。
そぞろになっていた気を、改めて込め直した。
寺の電話が鳴る直前、雪乃の心臓が跳ね上がった。思わず電話を振り返った直後、ジリリリリンとコール音が響く。
ダメだ。と思った。
これに出てはダメだ、と。
だが、「はいはい」と夫の母が受話器を取る。
瞬間、おぞけが立った。
「貸しなさい」
いつの間に来ていたのか、義父が義母へと手を差し出した。
そのまま無言で義母が受話器を渡す。
「はい……ええ、私です。はい……はい。スピーカーにしてください」
義父は子機へ持ち替え、義母へお弟子さんを本堂へ集めるように言うと、本堂へと向かう。
本堂の夫が、何事かと問う前に、子機を本尊の前に置き、その前に正座した。夫がその横に座る。バラバラと集まってきたお弟子さんが倣って後ろに座し、揃う前に鈴が澄んだ音を立て、義父の朗とした声が上がる。
恐らくお弟子さん達も夫すら、何もわからないまま、住職に合わせ、経を読む。総勢五十を超える僧侶達の経の声は、電話の子機へと渦を巻いて吸い込まれていく。少なくとも、雪乃には、そう、見えた。気付けば、おぞけは治まっていた。
「お婆ちゃん、ダメぇ!」
叫んだ雛子の声に、祖母は開けた襖を音を立てて閉めた。
一瞬、足元が揺らいだ気がする。それが何なのか、雛子にはわからない。
祖母は廊下を、中庭を見たのか見ていないのか。
ガシャンと硝子の割れた音が、廊下から聞こえた。
だが、それだけだった。
立て続けに何かが起こると身構えたが、何も起きていない。
祖母が、雛子の手を取って立たせた。電話の子機を手に、何処かへと電話を掛けながら本堂へとゆっくりと移動する。
本堂の隅で中腰になっていた奏翔が、慌てて駆け寄って来た。おろおろとしている奏翔を雛子と共に本堂の中、敷山の後ろへ座らせると、祖母は子機をその後ろ、皆の背後へ置き、スピーカーへと切り替えた。
子機から、低く高く奔流の様に経が流れ出す。それは、背後から全身を貫き、本尊へ流れ、拡散し、うねり、本堂を満たす。
脳の、思考の全てが経に押し流され、上下の感覚を失う。祖父達の経で似た感覚に陥った事はあったが、ここまでではなかった。経の奔流に身を任せ、雛子は目を瞑った。
警策で叩かれたかのように、びくりと身が締まった。
突如、背後から聞こえ始めた経に、自分の背後に数百数千の僧が、自分の周囲に数万数億の佛が居る気がした。
声に出した経を佛が受け取り佛が経を世界へと満たす。そしてその経が自然と口から溢れ出る。それをまた佛が受け取り世界を満たす。
世界が正常に循環し始めた。
肩の力が抜けるのが、己でわかった。
そのまま、何時間経ったろうか。
気が付けば、背後から聞こえていた経は止み、住職はゆっくりと最後の一説を唱えると、深く本尊へと一礼した。
振り返ると、家族、そして敷山家の面々が全員、そこにいた。
妻が電話の子機を手に、近付いてくる。
耳を当てなくても解っていた。
孫の雪乃の婚家だ。
「角流さん、助かりました」
「納富さん、やっかいな事になってますね」
四海寺の住職が電話口の向こうで苦笑したのが手に取るようだ。四海寺の住職とは親子ほども年が離れている。
「いやはや、お恥ずかしい」
「いや、電話越しでも、アレのやっかいさは理解りました。一時的に追い払っただけです。できれば封じるか滅するかしてしまいたいですが、はて……」
「ですなぁ」
「一度そちらに息子を向かわせましょう。アレなら自分より若いので何かわかるかもしれません」
息子、とは雪乃の夫だ。
「わかりました。お待ちしておりますが、雪乃はくれぐれもこちらに来させないよう……お願いします」
雪乃の名を出し、そうだ、と思い当たる。
敷山を追って来たのであろう、迫って来ていた気配に何か覚えがあった。が、その迫力に圧され、考える暇無く降魔業を始めたが、そうだ、あれは雪乃の、あの時の気配に似ていた。残り香の様な微かな気配だったが、確かにあの時の怪異の残り香に似ていた。それはつまり、あの時の雪乃の異常行動が同じ怪異によるものだとしたら……。それは、今回の敷山の一件は【喃堊寺】が原因だとでも言うのだろうか? 前回、敷山の家で雪乃が発見された。やはり敷山の家が原因なのだろうか? 敷山の何が? 誰が?
否、ただの不幸な偶然かも知れぬ。
決め付けは危険だと、通話を切った電話の子機を見つめ、【喃堊寺】の住職は深く息を吸った。
「は?」
宇賀時彦はすっとんきょうな声を上げていた。
田山が思わず時彦を振り返る。
スマホを耳にあてた時彦は、口をパクパクと動かした後、ややあってから溜め息をついた。
「流石に知らねぇよ。え? 来んの? いや、良いけど、今きゃ……」
客が来てる、と言う前に切られたらしい。
困ったように通話の切れたスマホを眺める時彦を放置して、田山は玉ねぎのフライを口に運ぶ。
「あー……うちの教え子が来るって言ってるんだけど、良い?」
「悪くはないでしょ」
「なんか、嫁の実家への手土産をどうしたらとか言ってて」
「プフッ。そりゃ、俺らに聞く事じゃ無いなぁ」
思わず吹き出して、慌てて口許を紙ナフキンで覆う。
「あー、カガチ様の脱皮した脱け殻でも持って行かせるか」
この荒れた山寺が蛇の神様を祀っているので蛇を飼っているとは聞いていた。
「いや、それ、人を選ぶ土産だから」
「他には近所の婆ちゃんが漬けた漬け物くらいしかないぞ」
「それもなぁ」
何が悲しくて、独身男二人で新婚の嫁の実家への手土産を相談に乗らなければならないのか。
教え子とやらが到着するまでに、ううんと二人で知恵を絞る事とした。
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