第38話

 息を切らしながら全力で地下から這い出る。大勢の人間が私の意思に従う状況を最初は理解できなかったが、糸のようなものが彼らと私の間を繋げているのを感じる。仕組みはどうあれ今の私にはそういうことが出来るのだと言うことは理解した。

 怖い。彼のことが怖い。また優しくされるのが怖い。自分の人生にもいいことはあるんだとまた期待してしまうのが怖い。そうして期待したものが全部ひっくり返ってしまうのが怖くてたまらない。

 それに、ここに来る前に見たお母さんのことも考えると猶更彼のことを受け入れられなかった。彼から聞かされていたから覚悟はしていた。しかし想像以上に母さんは苦しんでいた。

 昨夜彼の電話を受けた後、家に戻り、十時頃に呼び鈴を押した。その時間帯なら家にいる筈だと思ったから。

 けれど何度押しても母さんは出てこなかった。留守の可能性も考えたがなにか嫌な予感がしたから鍵を使って家に押し入った。

 物音ひとつなかったが食卓の明かりがついていたからいることは分かった。意を決して進むと異様な光景が待っていた。

 テーブルには二人分の食事が載っていた。母さんと私がいつも座っていた場所に。母さんはそれに口をつけるでもなくただじっと座っていた。誰かを待つように。

 一体いつから座っているのだろう。米もスープも冷めきっている。一時間どころではなさそうだった。

『…母、さん?』

『…どこかで会ったような…なんでこの家に…?』

 他人を見るような視線で見上げられた。自分がそうさせたのだというのにショックを受けてしまった。それでもなんとか息を整えて言葉を続けた。

『なに、してるの?』

『待っているんです。誰かを。名前も顔も分からないけれど、私の大切な人だから』

 彼の言っていた通りだった。記憶を消せば空白が出来る。それが大切な物であれば尚更空白はその人間を苦しめるだろう。こうなると知っていればこんなこと絶対にやらなかった。

 けれど、まだ間に合う。私の力でしたことなら戻すことだって出来る筈だ。そう自分に言い聞かせて母さんの白い蝋で出来たような手を握った。

 『思い出して、私のこと』

 必死になって念じた。戻れ、戻れと。それでも母さんの心にはほんの少しも変化が起きなかった。

『お願い、思い出してよ。私が悪かった、から。これからはなんだってするし二度とあんな酷いこと言わないから』

 泣き喚いた。頭の中で何度も何度も戻るよう念じたが最後には手を振り払われて他人のような視線で見下ろされた。

『出て行ってもらえませんか?ここは私と私の家族の家だから』

 結局どれだけ泣き縋っても氷のように冷たくなってしまった母の心には届かなかった。この瞬間に私は自分がどれだけのことをしでかしてしまったのかようやく理解した。

 紙を破くことが出来るからといって元通りにすることが出来るわけではない。私の力も同様に消すことは出来ても戻すことは出来ないのだと。

 きっとお母さんは今日も存在しない’誰か’を待ち続けるのだろう。二人分の料理を用意していつまでも。母さんがあんな風になっているのに私だけ救われるようなことがあっていいはずがない。

 彼から逃げる時、どちらに進むべきか迷った。逆回りの電車に乗るか、このまま駅を出るか。

 彼の力はもう知っている。超人的な身体能力。ビルの谷間を乗り越える跳躍力に自動車を容易く追い越す速度。人で作ったバリケードくらい難なく飛び越すことくらいは想像できた。立ち止まっていたら追いつかれるから急がなければいけないことも。

 電車に乗れば手駒はいくらでも揃えられる。スペースも狭いから彼がいくら速かろうと操った人間で動きを封じることが出来る。無理やり引きはがせば怪我をさせることになるから性格上抵抗出来ないはずだ。ダメ押しで車両間の通路や出入り口を塞ぐことも出来る。乗ってさえしまえば私の勝ち、それは分かっていた。

 しかし、もうこれ以上この地下に留まることも人の目に晒され続けるのも嫌だった。元々ここは大嫌いなんだ。それにさっきから頭痛が止まらない。複数の人間を同時に操った代償なのか。この状態では電車に乗っても人を操ることなんて出来るか分からない。

 だから私は地上に逃げることを選択した。階段を駆け上がる時、誤った選択をとったのかもしれないという思いが過ったが今更やり直すことは出来なかった。

「…あ」

 目と目が合ってしまう。強い意志のこもった私を見つめる彼の真っすぐな瞳。思わず縋りついてしまいそうになっている自分に気が付いて目を逸らした。

「どうして…!?」

 なぜ彼はこちらを選んだ。私の考えが読まれていた?それともただ勘で当てただけ?

 どちらにせよもう逃げられない。人通りはそれなりにあるから足止めは出来るが精々十数秒程度しか保たないだろう。その間に稼げる距離なんてたかが知れている。

 なら諦めて足を止めてしまえばいいじゃないかとなにかが囁く。捕まっても刑務所にいれられるわけでも命を取られるわけでもない。むしろ助けになろうとして来てくれたことは言葉以上に心で理解している。私が素直に手をとりさえすればきっと───

「そんなこと…今更…」

 そう。今更そんなことが出来るわけない。あれだけ好き放題暴れて、肉親も他人も傷つけてきたのに、彼のことも手ひどく突き放したのに。ただ一人で身勝手に生きる、そう決めて他人を傷つけてきたのだから最後までそれを貫くべきだ。今更手の平を返して救われようとするなんて都合がよすぎる。

『…翼を止めて!』

 なけなしの力を振り絞って周囲の人間に命令する。視界の端で彼らが私の背後にいるであろう翼に向かっていくのが見えたが様子は確かめずにそのまま走り続けた。

 目についた立体駐車場に駆け込む。身を隠そうと視線を周囲に向けたがその時気づいた。

 雨に晒され続けてきたせいで足跡と水滴がべったりとコンクリートの上に滲んでいる。跡を辿られれば隠れたとしてもすぐ見つかってしまう。

 大きな足音がこちらに近づいてくる。彼が障害を乗り越えたのだろう。もうすぐここにやってくる。隠れる時間はない。地下に行こうが上に行こうが袋の鼠だ。足掻く余地すら残っていない。詰みだ。

「…」

 けれど私には投了は許されていない。となればやるべきことは決まっている。

 視線が自然と上に引き寄せられる。どうせなら地下みたいなジメジメした場所より屋上の方がいい。それに私が姫川にしたことを考えると一番ふさわしい末路だろう。

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