第37話

 泣き声が止んで、彼女が立ち上がった。

「駄目、ダメ、出来ない、そんなこと今更。助けてもらう資格なんて、ない、違う!そうじゃない…私は、一人で生きていけるんだから、翼なんて、いらない」

 彼女がこの場から去ろうとする。だが今回は黙って見過ごすつもりはない。オレも立って彼女に向き直った。

「唯、今度ばかりは逃がさない。オレはキミみたいに人の心を感じ取れるわけじゃないし、鈍いってよく言われるけれど、今のキミを一人にしちゃいけないことくらいは分かる」

 夜通し泣いていたかのように目が真っ赤に腫れて、顔もやつれている。こんな有様で強がられても騙されるわけがない。

「お母さんの記憶を戻そう。きっと許してくれる。オレも一緒に」

 言いかけた言葉を叫びが遮った。

「無理なんだよ!!ここに来る、前に、やろうとしたの!記憶を戻して、謝り、たかったから!でも、出来なかったの!!どれだけやっても私のことを思い出してくれなかった…!」

 悲嘆と絶望の色を湛えながら彼女は自分の頭を掻き毟った。極限まで追い詰められた人間にしか出せないような、痛切な叫び声を上げながら。

「そんな……」

 確かに、オレの知っている限り彼女が他人の記憶を弄った後に治したことはない。けれどそれはそんな必要がないくらい小さなものだからやらないだけだと思っていた。

 今思うと以前の彼女は自分が他人の記憶を改竄するリスクを知っていたから大きく人の記憶を弄ることをあえて避けていたのかもしれない。

 まさか彼女の母親の記憶は一生元に戻らないのだろうか。あのままずっと虚ろな表情をして生きていくなんてあまりにも…いやとにかく今は唯のことだ。

「…戻る場所なんてもうない、の。一人で生きていくしか私には…」

「唯…強がるのはもう」

 オレが近寄り手を伸ばした刹那

『来ないで!!』

 つんざくような悲鳴が構内を走る。そしてバタバタという足音が幾重にも重なって周囲に殺到した。

 数十人もの人間がオレと彼女の間に立ち塞がる。触れた人間を操るのが彼女の力だということは知っている。ならばこれもその力によって生まれた状況なのだろうが、ここまで大勢の人間を一人一人触れて回ったとは考えにくい。一体これは。

「…?何これ…?」

 ほかならぬ彼女自身が困惑していた。しかしすぐに状況を把握のか平静を取り戻し再び叫んだ。 

『っ…翼を私に近づけないで!』

 すぐさま彼女は階段を昇っていった。追いかけようと歩を進めると人形のように生気のない顔をした集団が壁のように横並びになって通路を塞いだ。

「ふーっ…」

 どけと言ってどくようには思えない。かと言って突き飛ばしていく訳にもいかない。ならこうするまでだ。

 鞄を置いて数歩後ろに下がる。そして助走をつけ壁を飛び越えた。着地の勢いそのままに駆け上がる。

「どこに行った…!」

 階段を昇った先には彼女の姿は見えない。向かい側の階段を下って逆回りの車線の電車に乗ろうとしているのだろうか。それとも改札をくぐって外に出たのだろうか。

 電光掲示板を見る限りもう車両は到着している。どちらを選ぶにせよもう猶予はない。

 選択を誤れば見失ってしまう。もし、ここで彼女を見逃せばまた次会うまでどれほど時間が…いや、次なんてあるのか。早く決断しなければならないのに焦りが思考を鈍らせる。

『電車は…嫌いだから。人が多くて狭い場所は…全部嫌い』

 どちらも選べずに立ち尽くしている時、彼女がそう言っていたのを思い出した。

 この状況、オレから逃げるためなら電車に乗る方が合理的だ。仮にオレが読みに勝ったとしてもあの場所では自由に動けないし、人を操って目くらましをすればどの駅で降りたかも誤魔化せる。乗ること自体を妨害することも十分可能だろう。

 逆にもし乗り物を使わず地上に向かうならオレがそちらの択を選んだ時点ですぐに捕まってしまう。人をいくら操れても開けた場所なら何人だろうがオレは捌けるし、彼女が走っても追いつくまで十秒もかからない。

 彼女がそこまで考えているかは分からないが、あの言葉を思い出したことで、どちらにせよ電車に乗ることは選ばないと確信した。

 まだほんの数日しか過ごしていないが、それでも彼女が感情的に動くタイプの人間であることは十分すぎるほど分からされた。

 パニックに陥っている今なら尚更衝動的に選択するだろう。自分の嫌いな電車ではなく外に逃げることを。

 改札を通って地下から出る。構内で起こったことは外にまでは伝わっていないみたいでいつも通りの日常が送られている。

 強い雨が降っているから大抵の人間は傘を差しながら歩いていた。だからこそ、息を切らしながら諸手を振って走る彼女の姿は殊更目立った。

 視界に捉えた瞬間、彼女もまたこちらを振り返った。視線が交錯する。焦燥と疲労の色に染まり切った目の中には微かに期待するような思いが滲んでいたように見えた。

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