第36話
「流石に今日は来ないだろうな…」
駅のホーム、以前彼女と話したあのベンチに座っている。
明に傘を渡したすぐ後、昨日の午後五時頃に電話をかけた。正直、ダメもとで電話したから繋がったことに驚いて最初は言葉が上手く出てこなかった。
しかし彼女が電話に出てくれたからといっても今日来る可能性は高くはないだろう。昨日は運がよかっただけだ。たった数日で状況が変わるとはオレも思っていない。
ならばなぜここで待っているかというと約束したからだ。五時から八時まではここで待っている、それだけは絶対守ると。
「でも、三時間はちょっと長かったかな…」
適当に時間を決めたことに今更ながら苦笑する。毎日三時間も座りっぱなしで時間を潰すのは少々辛い。
まあ一応対策というか用意はしてある。以前唯と話した時彼女が面白いと言っていた本を買ってきた。
『ライ麦畑でつかまえて』。周囲との折り合いがつけられない不器用な少年の話。近所の本屋には置いてなかったが何件か古本屋巡りをしてようやく見つけた。
共感できる部分もあるし当然その逆もある。まだ序盤だがとにかく敏感すぎる子だなと感じた。
唯はそこに自分を重ねていたのだろうか、などと想像しながらページを進めていく。そうして十数ページほど捲った時、コンコンと小さく、誰かが階段を降りる音が聞こえた。
足音の主はオレの背後に回って座った。息を吐いた時、微かに漏れた声は聞き覚えのあるものだったから、本を閉じて目を上げた。
「…来た、よ」
電車や人が往来する音で溢れているこの場所では押し退けられてしまいそうな、儚げな声。それは間違いなく彼女のものだった。
「…驚いたな。こんなに早く会えるなんて思ってもみなかった」
あえて振り返ることはせず背中合わせのまま口を開いた。顔を合わせたくないからこそ彼女は後ろに座ったのだろうし、それは尊重するべきだと思ったから。
「………」
電話した時と同じで彼女はあまり口を開こうとはしなかった。会話する気がない…わけではないのだろう。それならば最初から電話に出る必要も、こんな場所に来る必要もないのだから。
オレとしても今日全ての問題を解決しようなどとは思っていない。本題にすぐ入らず、他愛のない会話で少しでも距離を詰めるとしよう。
「今日はどうやってここまで来たの?やっぱり電車?」
「…タクシー。電車は…嫌いだから。人が多くて狭い場所は…全部嫌い」
彼女の性格、というより力のせいなのか。自分の意思に関係なく思念を感じ取ってしまう彼女には人混みは心地よいものではないというわけか。
「それに………………」
「…それに?」
続きを促すと彼女は躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「…ど、どこで乗ったり降りたりするのか分からなくなっちゃう…」
やっぱり声は小さいままだったけれど冗談を言ってくれた。いや、冗談ではないのか。どちらにせよ愉快で笑い声が零れた。笑ったことを怒られるかと思ったが彼女もクスクスと一緒に笑っていた。
けれど、それも長くは続かなかった。唯は夢から醒めたような平坦な声でオレに問う。
「…会ってどうするつもりだったの?私は人殺し、なんだよ」
彼女がそう言ってくることは予想出来ていた。そしてそれが間違っていることもオレは既に知っていた。
「唯、キミは勘違いしているみたいだけど姫川っていう子は死んでない」
「………え?」
驚愕の声とともに衣服が擦れる音がした。どうやら思わず体が動いてしまう程に驚いたようだ。
「落ちる途中で木に引っかかって、植え込みの上に落ちたんだ。骨は何本も折れているけど意識もあるし生きている。数か月もすれば治るそうだよ」
屋上で一方的に別れを告げられたあの日、オレはすぐに下に降りて突き落とされた姫川という生徒を見に行った。唯が人を殺しただなんて信じたくなかったから。
そして姫川なにがしが植え込みの上に仰向けに倒れているところを見つけて、救急車を呼んだ。救急車が来るまで大雑把に彼女の容態を確認したが致命的な傷は見受けられず呼吸も安定していたし、呼びかけにも反応出来ていた。
姫川が泥に投げ込んだものは唯だけじゃなくオレにとっても大切な物だったし、それがなくたって唯に危害を与えていたというだけで許せない相手ではあったが、それでも生きていることが分かった時には安心した。
「…そんな、死んで、ない、なんて…でも、それなら…」
動揺もあったが彼女は明らかに安堵もしていた。やはり後悔していたのだろう。
「けど…私が殺そうとしたのは変わらない。死ななかったからって罪がなくなるわけじゃ…ない」
「そうだね。キミがやったんだってことを知れば他の人はキミを責めると思うし、それが正しいと思う」
なおも重々しく言葉を吐き出す彼女にオレも最大限の誠意をもって答えた。気休めの言葉を一切使わず自分が思うままに。
どんな事情を抱えていようが、人が人を殺していいわけがない。それが世の中のルールだ。けれど
「オレはそれでも唯の味方でいたい。それにさ、正しいか正しくないかで言えばオレも多分正しくない方だろうし。そこはどうでもいいんだ」
滅茶苦茶なことを言っている自覚があったからつい笑みが零れた。けれどこれがオレの偽りない本心だ。
背後で彼女が荒く呼吸するのが分かる。鼻を啜る水っぽい音も聞こえた。
「それでも、私はアナタの知ってるユイじゃない…」
「それもそうだ。でも、だから知りたいんだ。また一緒にどこかに行ってキミのことを教えてほしい」
最後まで気持ちを伝えると呻き声が大きくなった。泣いているようだった。年端のいかない子供のように大きな声をあげている。だが決してそれを情けないことだとは思わない。
何度も接してみて感じたことだが彼女は記憶を失った影響で実年齢より精神が幼いのだろう。ほとんどの子供が与えられる無条件の愛情も、人前で泣き喚いたり駄々をこねたりといった子供だからこそ許される特権も彼女は経験していないから。
周囲から要求される振る舞いに自分の精神がついていけなくて苦しんだこともあっただろう。彼女のしてきた苦労はオレなんかでは想像もつかない。
失った幼少時代の埋め合わせは出来ないが、せめてオレの前くらいでは好きに振舞わせてあげたかった。
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