第35話

「──」

 ホテルに戻って、ベッドの上で何も食べず何も飲まないまま横になっていた。眠っているとも起きているとも言えない状態のまま視線を虚空に彷徨わせて。

 金銭面についてはまだ問題ない。ここに来る前、男から掠め取った金を使えばあと四日は滞在できる。そういえばアレはいつのことだったのだろうか。つい昨日のことのようにももっと昔のことのようにも思える。そもそも姫川を殺したのは現実だったのだろうか。私の作ったただの妄想だったりしないだろうか。あの試算は二日前に行ったものだからあと二日じゃないのか。

 頭に霞がかかって何も思い出せないし、筋道立った考えができない。関係のない言葉が頭の中で泡のようにフワフワと浮いて、消えていく。

「…お腹、空いた」

 姫川を突き落としてから何も口にしていない。このままだと餓死するかもしれないが、もうそれでもいいか。どうせなにも望みはなく、もう誰も私の死を悲しむことはない。

「……?」

 振動音が遠くから聞こえる。机に置いたままの携帯が鳴らしているようだった。

 深く考えもせずくたびれた体をゆっくりと起こした。長い間動かしていなかったせいか関節がさび付いたように上手く動いてくれない。

 ノロノロと這うように動いたが、着いた頃には切れていた。時間をかけすぎたようだ。

 栄養と睡眠が不足したせいで機能していない脳味噌を使って誰がかけてきたか確かめる。

「え…」

 たしかに彼からの、黒羽翼からの電話だった。なぜだろう。あんなに酷いことを言ったのにどうして。

 理由はさっぱり分からなかったが自分が電話に出られなかったという事実に動悸が激しくなる。どうしよう。これが最後のチャンスだったのかもしれないのに。

 なんのチャンス?分からない。

 けれど、電話はまた鳴った。また彼からだ。

「……っ」

 出るのか出ないのかそんなことも決めることが出来なかった。ただ手を震わせている間に電話はまた鳴り終わってしまう。

「あ…ああっ」

 視界が滲んだ。泣いている、ということを何秒も経ってから気づく。何故なのかはやはり分からない。

 次こそはもうかかってこない、かかってほしくない。これ以上期待したくないから。

 またかけてきてほしい。たすけてほしいから。

 そして、電話はまた鳴った。何度もコール音が鳴ってあと数秒待てば消えてしまうというところで、通話マークを指でなぞった。

『…唯?』

 息を呑む音に続いて私を気遣う声が聞こえる。けれど舌が固まって返事が出来なかった。

『色々言いたいことはあるけど…ああどこから話せばいいかな…』

 電話が繋がるとはかけてきた彼自身も想定していなかったようでぎこちない喋り方をしていた。私自身、自分が電話に出たということがいまだに信じられない。

『その…キミが学校で苦しんでいたことにも気づけなくてごめん。それと…正直に言って昔の唯と今の唯が違うってことを、心の底では受け入れられなかったんだと思う。そのせいでキミを傷つけた。本当にごめん』

「……」

 私の方こそ酷いこと言ってごめんなさい、そう返事をしようとしたのに、つまらない意地とそれ以上に下らない臆病さが邪魔をしてまた声が出てこなかった。

『それでも、もう一度会って話したいんだ。助けになれるかなんて分からないし、キミの抱えてるものを代わりに背負うことも出来ない……ああ、本当に役立たずだな。ごめんね』

 自嘲して、また謝った。悪いことなんて何もしていないのに。したとしても私に比べればほんの僅かなものだというのに。

『ただ、もう一度会いたいんだ。これだけは伝えたくて』

 なにかを考えるように低く唸ってまた言葉を発した。

『午後五時から八時まで、初めて会ったあの駅のホームで毎日待ってる。他に約束できることなんて何一つないけれどこれだけは絶対守るから』

「ぁ……」

『今日はもう切るね。聞いてくれてありがとう』

 彼は本当に穏やかな声で感謝して、電話を切った。切れるまで私はとうとう一言も喋ることが出来なかった。

「──」

 待ってくれている、そう言っていた。もう一度会いたいとも。

 行って何をするつもりなのか、そもそも会う資格など自分にあるのか、会ってもまた過去の自分に嫉妬して全部台無しにしてしまうんじゃないか、浮かんでくる言葉は全て私を止めるようなものだった。

 それでも私は…

 どんな選択をするにしてもなにか食べなければ。そう思い立ち、この部屋に来る前にコンビニで買ってきたおにぎりを取り出した。数分前までは餓死してもいいとまで思っていたのに、こんなことをするなんて。

「んっ…うぐっ」

 震える手で包みを破ってゆっくり口に運んだ。丸一日ぶりに口にするご飯は美味しかったけれど、少ししょっぱかった。

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