第31話

「つば、さ…?」

「唯……なにをしているんだ…?」

 唯は暫く呆然とオレの顔を見上げていたが、よろめきながら立ち上がった。

「…アナタこそ、何しに来たの…?」

「なにってキミが…心配で」

「…学校のこと…気づいてくれていたの?」

 唯は目を僅かに見開いて期待するような視線を投げかけた。彼女はやはりあの日オレに気づいて欲しかったのだとこの反応で確信した。

 嘘でもここは頷くべき状況なのは分かっていたが、オレには出来なかった。

「…いや、知り合いが教えてくれて…」

「…へえ、やっぱり気づいてなかったんだね」

 彼女の目に落胆の色が宿る。居た堪れない気持ちになって一言謝罪しようか迷ったが止めた。

 とにかく彼女に先ほど見たことについて問い質さなければ。

「…キミのお母さんに会った」

「そう…記憶消えてたでしょ。私のことを忘れて生きている。でも、いいんだよ。どうせ元から会話すら碌にしてこなかったんだし。私がいなくたって…」

 冷たい言葉とは裏腹に視線が泳いでいた。未練がないわけではないらしい。

「キミのお母さんは苦しそうだったよ…キミを大切に思っていたから、覚えていなくてもなにかを忘れてしまったことに気づいているんだ。これで満足なのか?」

 なにか言い返そうとする素振りを見せたが結局俯いた。そして長い沈黙の後か細い声を出した。

「…アナタには…関係ない。放っておいてよ」

 確かに今の彼女とオレには接点があまりない。個人的なことにまで踏み入れる程仲を深めているとは言えないだろう。それでも…

「…関係がなくても、昔約束したんだ。キミが困ったら助けるって」

 彼女は俯いたまま僅かに肩を震わせた。その震えは段々大きくなって彼女は堪え切れないといったように腹を抱えた。彼女は、笑っていた。

「…アハハッ。困ったら、助ける?八年も見つけられずに、私が虐められていたことにも気づかないで、今更のこのこやってきた癖に?」

 嘲笑うような声に向かって、オレだって必死に探し続けたんだ、伝えてくれなければ気づける筈がないじゃないか、そう反論したくなったが堪えた。彼女の立場からすればオレは無能なお節介焼きにしか見えないのだろうし、オレも今では自分がそうだとしか思えなかった。

「……本当にすまない。でも今なら助けに」

「何から私を助けるっていうの?」

「それは…」

「聞こえていたでしょ。アイツの…ヒメカワの悲鳴」

 ヒメカワというのは誰か知らないが、ここに着く直前強い風の音の裏で誰かが叫んでいるのが聞こえたような気がした。あれはまさか

「もう終わったの。私がやった…殺した」

 殺した。殺した?あまりに重たい単語に思考も体も固まる。ずっと憧れていた幼馴染が、あんなに嬉しそうに笑っていた彼女がそんな罪を犯してしまったなんて。頭が事実として認識することを拒んでいた。

「失望した?ショックだった?昔の音羽唯ならこんなことやらなかったのに、って?」

「違っ…」

「どうせ昔の私のことにしか興味ない癖に…母さんも翼も…」

「そんなことは…」

「…さっき自分で言ったでしょ。約束を守りに来たって」

 言葉に詰まった。オレがここに来ることを決意したのは彼女との約束を思い出したからだ。そして彼女の前でもそのことを言ってしまった。オレは、本当に今の彼女を見ていたのだろうか。

「そんなこと知らないよ!私が覚えていない約束なんて!勝手に守ろうとされても迷惑なだけ!」

 その叫びがオレ達の間にある断絶をなにより雄弁に突きつけた。結局オレ達の繋がりは彼女が記憶を失くしてしまった時点で失われてしまっていたのだろう。気づいていなかったのはオレだけで。

「…それでもオレはっ…」

「助けなんか、いらない。私はアナタの知っている音羽唯じゃないんだから」

 引き止めるための言葉はオレの内になかった。唯は俯いてオレの横を通り過ぎ、屋上から去っていった。

 すれ違いざま、左手首に包帯が巻いてあるのが見えた。乱雑にまかれた包帯には赤黒い血が滲んでいた。


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