第30話
ドアを開けた先には姫川が携帯をいじりながらつまらなそうな、少し寂しそうな顔で座っていた。取り巻きの姿は見えない。
「は?音羽?なにその髪?」
私に気づいた姫川は呆気にとられたようで呆然とした顔をしていた。私も今更ながら怖気づいて固まっていた。
「馬鹿じゃないのアンタ、学校とっくに終わってるってば。お母さんに起こしてもらえなかったんですかー?」
その耳障りな声が、嘲るような言葉が最後の一押しになった。
「………うん、そうだよ」
自分から出たその声は今までにない程に平静を保っていた。心の内で生じていた波も凪いでいる。
「は?なにその顔?ちょっと…来ないでよ」
ゆっくりと姫川に歩み寄る。一方的に嬲るだけの存在が自分を脅かそうとしていることに怯えて、姫川は無様な格好で椅子から転げ落ちた。
まだ何もしていないのにこの有様とは。攻撃的な性質は臆病さの裏返しということらしい。
後退りする姫川を窓際にまで追い詰めて、ゆっくりと人差し指を額に押し当てる。
「話をしよう、姫川」
「おはよう」
学校の屋上。私が声をかけると姫川はハッとした様子で目を数度瞬かせた。そして自分が手すりの外側に立っていることに気づいて悲鳴を上げる。
「フフッ…アハハッ!」
聞いたことのないような大音声を聞いて思わず笑いがこみ上げた。またこんなヤツに触れたせいで吐き気と眩暈に襲われていたがそれを帳消しにするくらいに愉快な悲鳴だった。
「足…動かない!?なんで!?どうして!?」
手すりを乗り越えようとしてようやく足が動かないことに気づいたらしい。さっき触れた時に『手すりの外側に立って一歩も動かない』そういう命令を与えたのだ。
教室で一人座っていたところを見た時も思ったがなぜ今までこんなヤツを恐れていたのか不思議でならない。
どれだけ虚勢を張って教室でふんぞり返っていても一度触れてやれば私と同じように、いやそれ以上に脆い内面が剥き出しになる。
さっき触れたことで私はこいつが成績不振で悩んでいることも知っているし、付き合っていたサッカー部の男と別れを切り出されて傷心中なことも、あまりに傍若無人な振る舞いをしていたせいでついに取りまき達からも見捨てられたことも全て知っている。
大層惨めな有様だが同情の念は湧かない。自殺を決心させるほど虐めぬいてきた相手にそんな感情抱けるはずない。
「ねえ、姫川?なんで私にあんなことしたの?どうしてあんなことが出来るの?答えてよ」
「…助けて…!死にたくない…死にたくないよぉ…!」
姫川は私の質問にまるで答えず喚き散らす。いい加減被害者ぶった態度にイラついてきた。詰め寄って胸倉を掴む。
「なんでやったかって聞いてるんだ!答えてよ!!」
「分かんない分かんない!!」
納得できる答えが得られるなんて最初から思っていなかったがいざ面と向かって言われると腸が煮えくり返る程怒りがこみ上げる。結局鬱憤と加虐心を満たすため以上の理由なんてなかったんだ。
悔しくて唇を強く噛んだ。なんでこんなヤツの気まぐれであそこまで怯えて、泣いて、苦んで、一生残るような疵を抱える羽目になったのだろう。そう思うとやりきれなかった。
「……」
恨みが晴れたわけではないが、これ以上顔を見たくなかった。もうここから立ち去ろう、そう思い手を離そうとしたその時
「こ、殺すつもり!?狂ってる!!あんな古臭い機械壊したくらいで!」
姫川が目を剥いて私を罵倒した。見当違いな推測も狂人扱いされたことも最早気にならなかったが、最後の一言だけはどうしても看過出来なかった。
今、なんと言った。‘あんな古臭い機械’?憂鬱な朝も一人ぼっちの昼も眠れない夜もずっとずっと私を励ますように音を奏でてくれた大切な宝物だったのに。それを泥水の中に放り込んだ挙句ゴミ扱いするなんて。
衝動のまま姫川の頭を鷲掴みにした。そのままもう一度命令を吹き込む。
『私が一つ数えたら左手を、二つ数えたら右手、三つ数えたら飛び降りて。こっちを向いたまま』
「え?なに?なにしたの!?」
その結果どうなるかは勿論分かっていた。この校舎の高さは十分とは言えないが、それでも屋上から地面までの距離は十メートルを優に超えている。受け身もとれずに落ちれば死ぬ可能性は高いし、そうでなくとも重傷は絶対に避けられない。
「一」
姫川が命令した通り左手を離した。表情が恐怖と困惑で一杯になる。
「…二」
両腕が離れた。まだ落ちはしないが、姫川は恐怖で膝をガクガクと震わせ始めた。
「待って!?ねえ謝るから!弁償するしもう二度と関わらないから!!お願い!止めてよ!!」
泣きながら謝罪の言葉を捲し立て始めた。今気づいたがこの女ここに至るまで一度も謝罪していなかったのか。そしてこの謝罪も命乞いで言っているだけで反省などしていない。
「…もう遅いよ」
最初から私を虐めたりしなければ、私の大切な物を壊さなければ、せめてあの時教室で謝っていれば、私もここまではしなかったのかもしれないのに。
「は」
笑った。醜態を見ても、悲鳴を聞いても、最早微塵も愉快ではなかったがあえて笑った。笑って私を傷つけたコイツに倣って。そうするのが相応しいと思ったから。
「三」
合図とともに足が屋上の縁から離れる。体が後ろに倒れて、地面に引っ張られていく。
ほんの一瞬見えた姫川の表情は暗がりに閉じ込められた子供のように怯え切っていて、その手は縋るように私の方に差し伸べられていた。
「…あ、まっ」
反射的に手を伸ばしていた。けれど間に合わず落ちていった。
長い悲鳴に続いてバキバキとなにかが砕ける音がした。下を覗く勇気は、なかった。
死んだ、殺した。望んでそうした筈なのに震えが止まらない。誰も近くにはいない筈なのに、なにかがジッとこちらを見て、私の罪を咎めているような感覚がする。
「…どうしよう?」
逃げなければいけない。いくら能力で自分から落ちるように仕向けたと言っても私と姫川の関係を知っている人間がこの場を見れば私が突き落としたのだと判断するだろう。
けれど得体の知れない恐怖に押しつぶされて体が動かなかった。自分でしたことだというのに未だに現実を受け入れられない。
「………!?」
頭を抱えて蹲っている時、なにかがコンクリートを擦るような、大きな音がした。
音の出どころに視線を向けるとそこには彼が、黒羽翼が立っていた。
「つば、さ…?」
「唯……なにをしているんだ…?」
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