第29話

 昨日の夜はホテルで過ごした。一人夜道を歩いていると汚い欲望を腹の中でブクブク膨らませた、中年の男に喋りかけられたのでそいつを操って宿代を払った。

 金銭をどう手に入れようかと悩んでいたがそんな必要はなかった。夜一人で立っているだけで金蔓が向こうから来てくれるのだ。触れられることを警戒するどころか喜ぶような奴ばかりだから本当に助かる。

 けれど触れた後、蛞蝓が体中に這いまわるような感覚に襲われて、しばらくの間嘔吐が止まらなかった。眠っている時も得体の知れないなにかに触れられるような夢を見て叫びながら起きた。

 結局眠りについたのは午前四時を少し過ぎた頃。そのせいで昼過ぎまで起きられなかった。

 触った相手が悪かったからか姫川の時以上に気分が悪くなった。今でも鳥肌が止まらない。ほんの少し触れただけなのにまるで本当に犯されたかのような不快感が付きまとっている。

「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い…!」

 目の端に涙が浮かんでくるくらいに気持ちが悪かった。やっぱり人間の心なんてみんな醜いんじゃないか。触れていい気持ちになった相手なんて一人も…

『はい、どうぞ』

 優しく落とし物を手渡してくれた時のことを思い出す。彼に触れて嫌な思いをしたことなんてなかった。ほんの僅かな時間だけど一緒にいる間ずっと優しくしてくれたのに―

 どうして突き放すようなことをしてしまったのだろう。あの時あんなことをしなければ、素直に苦しいって言えていれば、私はここまで落ちぶれはしなかったのに。

 堪えていた涙が後悔で溢れそうになった時に手首の傷を強くかきむしった。

「うっ…く…!」

 今度は痛みで泣きかけたし、包帯に血が滲んだが構わない。今更後悔して泣きじゃくるよりは遥かにましだ。そんなことをしたら惨めさのあまり二度と立ち上がれなくなる。

 元はと言えば全部アイツの、姫川のせいだ。私が味わって、今も感じている惨めさと苦痛を全部倍にして返してやる。自分をそう奮い立たせて顔を上げた。

 つい二日前まで通っていた校舎を見上げる。三階にある私の教室、姫川がいるであろう場所に視線を向けた。

 今の時刻は三時五十分程。部活に入っていない生徒の大半は帰っているはずだが姫川はいつも教室で長い時間取り巻き達と喋っている。まだいる可能性は十分ある。

 もっと早くに来ていれば確実にことを進められたのだが仕方ない。

 服装は制服のまま来た。というより病院から準備する間もなく外に出たから制服以外持っていない。

 染めるのを止めたおかげで髪色はすっかり元の金色に戻っていた。髪の色が違うと言うだけで鏡に映った自分が別人のように見えて少し嬉しかった。

 誰かに髪の色のことを咎められることも覚悟して校舎を歩いていたが、運の良いことに三階に着くまで誰とも会わなかった。校舎の中には自分の足音だけが響いている。

 教室の前まで辿り着いた。中には人の気配がする。一人だが姫川かどうかは分からない。そうでない確率の方が高いだろう。

「……」

 私の中の臆病な部分は姫川がいないことを望んでいた。復讐すると息巻いていても、人を操れる力があっても、アイツの目の前に立つことを怖がっていた。

「だからやらないといけないんだ…!」

 強く唇を噛んで、そんな臆病な自分を押しのけるようにドアを開けた。

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