第28話
「…」
送られた住所はこの学校から走れば数分で着く場所に位置していた。
六時限目と七時限目の授業が残っていたがもうこれ以上待つことは出来ない。荷物をカバンにまとめて教室を出る。
見立て通り四分足らずで彼女の家に辿り着いた。古臭くもなくかといって見栄えがいいわけでもない平凡なマンションの一室。玄関には傘立て以外何も置かれていない。なんとも飾り気のない玄関だが表札に“音羽”と書いてあることからここで間違いないだろう。
インターホンを押そうとした時僅かに躊躇の念が過る。
彼女はオレを避けている。理由ははっきりとは分からないがそれは間違いない。虐めで苦しんでいる今の状態で突然オレに押しかけられたら彼女はきっと怯えるだろう。
「…」
けれど
『私が本当に困ったことになって、どうしようもなくなったら助けに来てね』
口にした当人が忘れてしまった約束。今となっては守る義理も意味もないかもしれない。それでもオレはあの時頷いた。
気の利いたことが言える自信はないがそれでも会ってみよう。昔の彼女がオレにしてくれたことを今の彼女に返すんだ。
逡巡を断ち切ってインターホンのスイッチを押した。呼び出し音が外から内へと鳴り響く。しかし、反応はなかった。
「…?」
聴覚には自信がある。扉越しでも人が何人いるか、動いているかどうかも判別できる。そしてその感覚がこの家に動いているものはなく、誰一人いないことを告げていた。
居留守を使われたわけじゃない。この家には誰もいないみたいだ。
「どこかに出かけているのか…」
美月が一時期不登校になっていたことがあったがあの時の美月は外出どころか立ち上がることさえままならない状態だった。
一括りに不登校といっても個人差はあるのだろうがなにかしっくりこない。虐められて精神を徹底的に傷つけられた人間に外出なんて出来るのだろうか。
ともあれいないのであれば仕方がない。また明日来ることにしよう。そう決めてこの場を離れようとした時、声をかけられた。
「…どちら様でしょうか?」
細い体つきをしたスーツ姿の女性。その顔立ちは彼女によく似ていた。
「唯のお母さん…?」
間違いない。小さい頃数える程の回数でしかないが会った覚えがある。しかし何故だろうか。あの時よりも生気が感じられない。鉄面皮と形容できるような強張った表情が印象的な人だったが、今はまるでマネキンのように無機質な顔をしている。
「…ゆいって…誰のことですか?」
焦点の定まらない目をこちらに向けて彼女は訳の分からないことを口にした。冗談を言っているようには見えないし、そもそもそんなことを言う人ではなかった。
「…え?何言っているんですか?アナタの娘ですよ」
「むすめ…?私に子供はいません。ずっと一人で…一人で暮らしています」
訳が分からない。なんのつもりでこんなことを言っているのか。困惑を通り越して恐怖さえ感じる。
「…帰ってくれませんか。急に頭が痛くなってきて…」
彼女はそう言ってよろめきながら家の中に入っていった。その声は本当に苦しげでとても悲しい顔をしていた。
閉じる扉を前に身動き一つ出来なかった。一体何が起きているんだ。明が間違えた住所を教えたのか。ここは性が被っていただけの別人の住所だった?
いや、そうじゃない。あの女性は唯の母親だ。それが確かな以上ここは紛れもなく唯の家なんだ。
だというのに何故彼女はあんなことを。嘘を言っている感じではなかった。本気で、というより無理やりそう思い込まされているように…
「まさか…」
昔唯が何度かオレの前で実演してみせたことがある。人の心を読む力、それを応用して行動や記憶を操ることを。あの時は意地の悪い同級生を追い払ったり、教師から宿題の存在を忘れさせたりとほんの小さなスケールで悪戯めいたことにしか使っていなかった。
唯はその力を利用して母親から自分の存在に関する記憶を消したのか。しかし彼女はつい最近まで自分の力が本当かどうかさえ知らなかった。こんなこと出来る筈が
『………手、出して』
あの時、「会いたい」と言ってきたあの日。彼女は去る直前オレの手を触れた。あの時に知ったのか。
だが何故彼女がそんなことをしてしまったのかという理由はまるで分からない。彼女の母は記憶を消されて抜け殻のようになっていた。こんな酷いことをなぜ。
母親の記憶を消したということはもうここに戻るつもりがないということ。ここで待っていてもなんの意味もない。
かといってどこへ行けばいいのか皆目見当もつかなかった。まだ今の彼女のことをよく知らないのだ。オレの知っている彼女に関わる場所なんて家と学校だけ。家に戻る可能性は限りなく薄いし学校も同様に望みはないだろう。なにしろ虐めが原因で不登校になったのだ。足を運ぶはずが…
「……」
彼女はウォークマンを大切にしていたみたいだった。返した時も胸に押し当てて、感触を確かめるように握っていた。明が送ってきた動画には背中しか映っていなかったけれど、あの時も泣いているように見えた。
一ヶ月もの間虐められて、その上大切な物を壊されたのだ。復讐を考えていてもおかしくはない。普通の高校生なら頭の中で考えるのが関の山だが今の彼女なら実行することも十分可能だ。
「…!」
屋上に向かって階段を上った。もう一度屋根伝いに走るために。
間に合わないかもしれない。というより見当違いの杞憂に終わるかもしれない、そもそも彼女を見つけることすら出来ない可能性の方が高いだろう。
しかしどうせ他に心当たりもないのだ。行くしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます