第26話
「ありがとうございます…!本当に…本当に…!」
聞きなれた声が聞いたこともないような音を立てていた。いつも抑揚のない喋り方をしているのに、今は縋るような声で誰かに感謝している。
ここは、どこだろう。どうして、こんなに頭が、腕が痛いのだろうか。
「痛い、痛い…」
呻き声を上げると、女が落ち着きのない様子で私の近くに駆け寄ってきた。
「唯!?唯!!…なんで、こんなことを…」
女は、お母さんは涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。アイシャドウが崩れてまるで黒い涙のようになっている。
そうしてようやくここがどこなのか、自分がどんな状況に置かれているのかを把握した。
私は死に損なったのだ。あれだけ痛い思いをして、あれだけ血を流したのに死ねなかった。
理由は明白だ。母さんが通報して病院に私を運んだからだ。いつも私を無視していたくせに何故こんな時に限って気づいたのだろう。
「あ、あのね唯。で嫌なことがあったのなら話聞くから…!今の学校がダメなら転校してもいいから…こんなことは二度としないで…!」
「…おかあ…さん…」
ほんの少し前までは何も希望が持てない、だから死んでやるのだと息巻いていたのに母に見てもらえただけで私の心はグラグラと揺らいでいた。
やっぱりおかあさんはわたしをちゃんとみてくれていたのです。むねがあつくて、かなしくて、うれしくて、わたしはむいしきにてをのばしました。
けれどおかあさんはおびえたかおで、どくむしをはらいのけるようなしぐさでわたしのてをはねのけました。
「……………………………………は?」
全身に満ちていた喜びは一瞬で憎悪に裏返った。どうして、どうして、どうして、どうして。
「あっ…違うの唯…その…私は…」
母は自分のしたことを上手く認識できていないような顔、同情を誘うような顔でこちらを見つめていた。
腹の底で煮えたぎる怒りを抑えるように私は自分を必死に押さえつけた。
「ねえ母さん誰かに触るといつも声が聞こえるって話した時、こう言ったよね?『そんなのただの妄想』だって」
「……」
「なら触ってもいいでしょ?ただの妄想なら何も心配するようなことないよね?」
もう一度伸ばした手を母は後退りして避けた。やっぱりだ。知っていて私に嘘をついていたんだ。知っていたから今まで避けていたんだ。
許せない。頭に響くあの嫌な声は全て妄想だと断じられて、私がどれだけ苦しんでいたかと思っているのか。
「……私の幼馴染だっていう男の子、翼のことも本当は知ってたんでしょ?ねえどうして?どうして嘘ばかり吐くの?」
「…理由は、言えないけど、アナタのためなの…信じてほしい」
「…私の、ため?」
ろくに目も合わせなかったのも、誕生日も祝ってくれないのも、勇気を出して頼んだのに授業参観にも来なかったのも、全部私のためだとでも言うつもりか。
今までずっと嘘をついて私を一人ぼっちにさせてきたのに、今更そんな言葉。
さっきから、いやもっと前、
「信じてほしい…?出来る訳ないでしょ!いつも裏切ってきた癖に!」
母に自分の正直な気持ちを伝えたのはこれが初めてだった。いつかはそうしたいと思っていたけれど、こんな一方的に傷つけるようなことを言いたかったわけじゃなかった。
私だって叶うのなら好きと言いたかった。何気ないことを喋ったり一緒に料理したり、普通の親子みたいに触れ合いたかった。一人で育ててくれてありがとうって言いたかった。
でも母さんがそうさせてくれないんじゃないか。優しい言葉をかけてくれない、何も教えてくれない、触れることすら許してくれない。
泣き崩れて何度も何度も謝る母を見て、私も堪え切れずに泣いた。母に対する怒りや失望、傷つけてしまったことへの後悔、こんな力がなければ普通になれたはずだという悲嘆、その全てが堰を切るように零れ落ちていくみたいだった。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、涙が涸れ切った時、私の心も伽藍洞になった。
なにもかも嫌だ。大嫌いだ。だから逃げるために死のうとした。けれど出来なかった。またあんなに痛い思いはしたくない。それなら
もう大嫌いなもの全部を壊して自分の目の前から消してしまおう。
「母さん…!ねえ、母さん…!!」
ベッドから体を乗り出す。体が言うことを聞いてくれなかったせいで安っぽいホラー映画に出てくるゾンビのような遅くぎこちない動きになったが、母は咄嗟のことで判断が遅れたようだ。腕が届かない距離に逃げる前に抱き着いて無理やり押し倒した。
「…おかあさん」
今でも、この人を心の底から憎んではいない。愛してくれてはいるということは理解している。触れさせなかったのも、翼のことを教えてくれなかったのも本人が言った通り理由があるのだろう。
だけどそれだけで納得できるわけが、満たされるわけがないだろう。理由があるのだから放置されたことも、幼馴染から引き離されたことも、嘘を吐かれたことも全部受け入れろと?私が今までどれだけ寂しくて苦しい思いをしてきたか母さんは知りもしない癖に。
「ゆ、い…おねが」
「さよなら」
尚も泣いている母の顔を両手で包むように触れた。母さんの中にある記憶、思い、その全てが流れ込む前に
母さんの中にある私を全て消した。
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