第20話
そこまで思索が進んだ時、考えることを中断した。どうせろくでもない答えが待っている。今は私の物なのだから出自などどうでもいいじゃないか。
本でも読もうかと重い腰を上げたが自分の本棚にはもう読んでいない本が一つもないことを思い出した。ここ最近は疲れ切っていて本屋にも図書館にも寄っていなかったから。
「…」
しばらく考えた後、母さんの本棚から適当なものを見繕うことに決めた。母も昔はそれなりの読書家だったらしく小説や小難しい学術書などがぎっしりと詰まっている。母さんからも『読みたければ好きに持って行っていい』と言われていた。私の読書好きは間違いなく母の影響だろう。
母の持っている本を読むことで母を感じられる、母に近づけるような気がした。あまり話し合うことがないけれどこうやって私達は繋がっているんだと信じたかった。
居間に置いてある大きな本棚の扉を開けると古い紙の香が鼻腔を突き抜ける。嫌いな匂いではない。
本棚は高さが二メートル弱、幅が一メートル強、奥行きが三十センチ弱で、縦六段、横四段の合計二十四段に分かれている。中には雑多といっていいほどジャンルも年代もバラバラな本が並んでいて純文学や歴史もののような堅いものもあればジュブナイルやコメディのような大衆向け小説も揃っていた。
一度母にどういう基準で本を選んでいるのか聞いたことがある。“偏ったものばかり読んでいると思考も偏ってしまうから”という答えを返された。今思い返すと本の話をするときは少しだけ饒舌だった気がする。
「…これにしようかな」
上から三段目、右から二段目にあるレイ・ブラッドベリの『華氏451度』。前に読んだ彼の短編集が面白かったから気になっていたのだ。
「…わっ!」
引き抜くときに隣にあった本までうっかり落としてしまった。地面に落ちる直前になんとか掴むことに成功する。
「よかった…」
不幸中の幸いというべきか、手で掴んだのは背表紙だから本に折れや傷はついていなかった。
人のものだからもっと大切に扱わなければいけないのに、と自己嫌悪を再発しかけた時あるものに気づいた。
右端最下層、アルバムや図鑑などの背丈の大きな本が並んでいる中、一つだけ小さな文庫本が隠れるように置いてあった。
母は案外大雑把なところもあるが流石にここまで奇天烈な物の配置をするような人ではない。
なにか手違いで置いてしまったのか、それとも私が返した時に適当にこんな場所に置いてしまったのか。どちらにせよ相応しい場所に置いておいた方がいいだろう。
その本を手に取ってすぐにあることに気づいた。表紙にマーカーペンで文字が書いてある。
「サインだ…」
書き殴るように書かれていたそれは見たところ作者の名前らしい。胸が高鳴る。母がこういうものを持っているということにも驚いたし、自分の家に価値のあるものがあるということがなんだか嬉しかった。お宝を見つけたような気分だ。
しかし浮かれているのも束の間、あることに気づいた。名前の下に日付と‘お母さんへ’という短い文が書かれていた。
「…」
本の一番後ろにある発行日付を確認する。初版、そしてその年は九年前。
パラパラとページをめくると一枚の写真が挟まっているのが分かった。そこには照れくさそうに笑う母と満面の笑みを見せる‘ワタシ’が写っていた。
この本が一番下に置かれていたのはミスなんかじゃない。これが母にとって一番特別で大切なものだったから、場違いとも言えるような場所に置いたのだろう。
実の親の暖かい一面を見ることが出来たのだから喜ぶべきなのに、私の胸には大きな杭で穿たれたような痛みと寂しさしか湧いてこなかった。
「…母さんも、なんだね」
翼と同じ。大切に思っているのは昔のワタシで今の私じゃない。この写真の中にも大きなアルバムの中にも私はいない。どこにもいない。
最初から、生まれた時から誰にも必要とされていなかったのならまだ受け入れることが出来た。けれど記憶を失う前は愛されていたのに、今はまるで見向きもされないというのはあまりに酷いじゃないか。
「…私だって、頑張ってるのに……」
記憶を失ったせいで最初は下から数える方が早いほど散々な成績だったけど、認められるために成績は常に上位になるよう勉強し続けた。どれだけ嫌な気持ちになっても毎日学校に通い続けた。母がなにも答えてくれなくてもきっと本心では愛してくれているのだと自分を納得させ続けた。
それだけでは足りない、そもそも努力の方向性が違う。それは分かっている。でも本当になにも分からないんだ。どう他人と接すればいいのか、どうすれば好かれるのか。
「っ…!」
写真の少女の笑顔がまるで今の無価値な自分を嘲笑うかのように見えて、思わず破ってしまいそうになったが、すんでのところで止め、元の場所に戻し、扉を閉めた。
この世の全てから見放されたような感覚に陥りながら居間から立ち去った。自室すらもう自分の居場所じゃないように思えたから靴を履いて外に出た。
たっぷり三時間ほど歩き詰めて、自分の居場所などどこにもないことを再確認した。
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