第14話
私はいつも憂鬱で、学校にいる時は殊更そうなのだけれど今日は少しだけ気が楽だった。学校が終わればまた彼と話せる、会えるという希望もあったし、彼がそばにいなくても私のことを気遣ってくれる人間がいるという事実が私を勇気づけてくれた。
眼鏡を外したまま学校に行くのは久しぶりだ。それこそ小学校以来じゃないだろうか。
流石に髪の色までは戻していない。いきなり金髪になったら間違いなく教員に咎められるだろうし、クラスの中で浮くのは避けたかった。
以前の私はどうしていたのだろう。そのままで学校に通っていたのだろうか。そもそもどんな人間だったのだろうか。今まで意に介さなかった物事が今はとても気になる。
「音羽さん、綺麗な目の色をしてるんですね、眼鏡かけてたから気づかなかった」
「え?」
授業中英語の教師に突然声をかけられた。まったく予想していなかった出来事に頭が真っ白になる。
「音羽さんってハーフだったりするの?肌もすごく白いし、英語が上手なのもそういうこと?」
「…あんまりよく分からないですけど、多分そうだと思います」
直接聞いたわけではないが外見から判断して母に白色人種の血が混ざっていることは間違いなく、その子供である私も当然そういうことになる。しかし、よく思い返してみると私は私の家族についてまるで知らない。父親が生きているかどうかも知らないし、祖父母とすら顔を合わせたことがない。話を聞いたこともなかった。
「変な答えだね。他人の話をしているみたい」
冗談めかした教師の言葉が重く響く。私は自分のことを何も知らない。私は一体誰なんだろう。
その疑問に頭が占められたせいで午前中の授業はまるで身が入らなかった。
クラスメイトの一人に声をかけられた。下の名前は憶えていないが声が大きくてよく目立つ女だという印象だけは残っている。確か瀬木とかいったか。
「先生が言ってたから気になっちゃって。少しでいいからよく見せて」
「いいけど…」
「凄い!ほんとに青色だ!カラコンとかじゃなくて地の色でそれなの!?」
「…うん、そうだよ」
「今まで全然気づかなかったけど音羽さんってすごい可愛いんだね!ねえ皆!」
「えっ?ちょっと…」
瀬木が興奮した様子で自分のグループの人間に声をかける。止めようとしたが間に合わずあっという間に数人に囲まれてしまった。
解放された時には昼休憩がもう終わってしまっていた。褒められるのは悪い気がしないがああやって見世物みたいに扱われるのは好きじゃないし、目立つことは利益よりも不利益を産む可能性が高い。ああいう事態を避けるために眼鏡をつけていたのに、彼に褒められて舞い上がってしまっていたかもしれない。
ため息を吐いた時に生温かく、ジメジメとした嫌な視線を感じた。その方向を向く。
姫川がこちらを見ていた。無表情だったけれど目の奥で薄暗い情念がゆらゆらと燃えている。
静かに、素早く視線を逸らした。
なにか癇に障るようなことをしただろうか。自問しても答えなど見つからなかったが先ほどの出来事を思い出す。
まさか多少目立ったのが気に入らないなどという理由なのか。あんな一過性の出来事に嫉妬するなんて、そんな馬鹿な話があるわけ…
「ねえ、音羽さん」
姫川はいつの間にか背後に回っていた。馴れ馴れしくも肩に手まで置いている。
「変わった目の色してるらしいじゃん、私にも見せてくれない?」
瀬木と違って好奇心は感じない。苛立ちと、ネズミを嬲るネコのような嗜虐的な感情しかなかった。
「……別に変わってなんてないよ、わざわざ見るほどのものじゃない」
こんなヤツにジッと顔を覗かれたくないし何をされるかも分からないからさっさと逃げよう、そう思い席を立とうとした。
しかし肩にかかる力は強くなりそれを許さない。どうやら無理にでも言うことを聞かせたいみたいだ。
恐怖と混乱で頭が真っ白になる。こういう時はどうすればいいのだろう。助けを呼ぶか。しかしこんな下らないことで声を上げたらそれこそ笑いものにされる。
「あのさ、なんで逃げようとするの?瀬木に見せたなら私にも見せてよ」
お前だからイヤなんだ、とはっきり口に出来れば爽快だろうがそんなことは出来なかった。
「私、用事あるから、手をどけて」
「私のを先に済ませてよ」
痺れを切らした姫川に頭を掴まれる。無理やりにでも顔を向かせようとしているのだ。
遂に不快感が恐怖を上回って体が動いた。
「触らないで!」
立ち上がって手を振りほどく。その時に指が姫川の手に、コンマ一秒に満たないわずかな時間だが、触れてしまった。
「…うっ…!!」
瞬間悪寒と吐き気がこみ上げてきた。下水を体中の穴という穴全てに注ぎ込まれたような気持ち悪い感触。
先日翼の手に触れた時はこんな風にならなかったのに、相手によってここまで変わるなんて想像もしてなかった。
吐き気が収まる気配はまるでない。呆然と立っている姫川や立ち話をしている生徒をどかして教室を出た。
だけど結局間に合わなかった。
「う゛っ…っ!!」
トイレに向かう途中、廊下の上で胃の中身を全て吐き出してしまった。淡黄色のドロドロとした胃液が床に撒き散らされる。
霞がかった意識の中でざわめきと誰かの笑い声が聞こえる。死にそうなくらい苦しいのに誰も助けてくれない。それどころか笑いものにされる始末だった。
何十もの視線に囲まれて鼓動と呼吸がどんどん速くなる。息を整えようとしても全く収まらない。荒い呼吸音と不規則な鼓動以外何も聞こえなくなって気づいた時には視界が真っ黒に染まっていた。
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