第10話
驚いた弾みでカッターナイフを落とす。正気に戻って青ざめながら着信表示を見た。
「…あ」
間違いなくあの少年、翼のものだった。さっき必死に暗記したものだからすぐ分かった。震える指で通話ボタンを押して声を絞り出す。
「…もしもし、音羽、です」
『ああ、唯?繋がってよかった。ごめん急に電話かけて。驚いたよね』
「…そんなことない、です」
驚きはしたが、それ以上に胸が躍っていた。こちらから連絡をかけるのは気恥ずかしいし恐れ多いから助かった。
「…ど、どんなご用ですか?」
『また会おうって言ってくれたでしょ。都合のいい日とかあるなら聞いておこうかなって』
「………」
『…聞こえている?』
涼しげな声に惹かれて完全に思考が止まってしまっていた。慌てて返事をする。
「…え、ええ!そうですね、えっと…」
学習塾は火曜と木曜に通っていて、他の曜日は文芸部に出入りしている。正直何をやるでもなくただ本を読んだり喋ったりするだけのたまり場みたいな所だが案外気に入っていた。
友人と言えるような人間はいないがたまに話しかけてくれる人がいて苦手なタイプの人間がいない。私が学校で落ち着ける数少ない場所の一つだ。
だがいつも顔を出しているわけではないしその必要もない緩い部活だ。空けようと思えば空けられる。
「火曜、と木曜以外はいつでも大丈夫です…あ、もちろん放課後っていう意味で」
『うん、分かった。じゃあ…二日後でどうかな?待ち合わせ場所は最初に会ったあの駅で。あそこオレの帰り道の途中にあるし、唯も帰るとき通るんだよね?』
「……………」
どうしてかこの人に名前を呼ばれると頭がぼうっとしてしまう。訳が分からないくらい胸がかき乱されてしまうのに、それがちっとも嫌じゃなかった。
『唯、大丈夫?』
電話越しでも感じる暖かい気持ち。それにあてられて熱を帯びた頭は冷静な判断が出来なくなっていた
「…名前、が」
『名前?ああごめん。会ってすぐだっていうのに馴れ馴れしかったよね…音羽さんって呼んだ方が…』
「…呼んでくれるの、すごく嬉しい、です」
自分が途轍もなく恥ずかしいことを言っているのは自覚していたがそれでも言わずにはいられなかった。
『…そう、ならよかった。うん。それならいいけど…』
若干、というかかなり引いているような声音でさっと頭の中が冷える。気持ち悪いやつだと思われたらどうしよう。
「えっと、別に今のは深い意味とかはなくて、そ、そのただ嬉しいなって思って…」
早口の弁明を彼は笑い流した。
『キミは面白いね。本当にそう思うよ』
「……ほ、褒められている気がしません…!」
ちょっとむかっ腹は立ったが不快感はない。私も釣られて笑っていた。
『じゃあ二日後の午後…四時半くらいでどう?』
「だ、大丈夫です」
『じゃあおやすみ、唯』
「…おやすみ、なさい、翼」
電話が切れる。名残惜しいがそれよりも明後日のことが楽しみでにやけ顔が止まらない。ばたばたと子供のように足を振ってしまうくらいに嬉しかった。けれどその途中なにかがつま先に当たった。
「いたっ…」
足下に視線を向けるとカッターナイフが落ちていた。さっき落としたのを忘れていた。
刃を手首に押し当てて自己憐憫に浸っていたさっきまでのことを思い出して、また粘着質な絶望が頭の中を這い回り始めた。こんな馬鹿みたいなことをやっている人間と知ったら彼はどんな顔をするだろうか
ナイフを拾って勉強机にある引き出しを開ける。こんなことをやっている事実そのものを消し去るために奥の方へ、見えないところにねじ込んだ。
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