第9話
彼と別れた後私も家に帰った。外観も内装も特筆するようなことがない7階建てのマンションの一室。ここで母さんと私は暮らしている。マンションである以上シングルマザーが買うには高い物件なのだろうから母さんは凄く苦労しているのだろう。そのことを思うと申し訳なさで胸が苦しくなる。
扉を開けて部屋の中に入る。薄暗かったがキッチンに明かりが点いている。母さんがいるみたいだ。近づいて声をかけた。
「……ただいま」
「……おかえり」
母はいつも通りこちらに目を合わせず無表情で返事をした。
母は、音羽冴耶は、藍色のスーツを着たまま黙々と野菜を刻んでいた。いつものように仕事帰りで着の身着のまま料理を作っているのだろう。大変だろうから私も手伝う、と何度も言ったけれどその度に撥ね除けられてしまってもう今は諦めている。
規則的に流れ続ける包丁の音を聞きながら息を整える。母さんに個人的な質問をすることなんて久しぶりだから緊張する。
「…ねえ、母さん」
「…なに」
平坦な声は否応なく分厚い壁、隔たった距離を感じさせる。生まれてからずっと一緒に居るはずなのになぜこうも他人行儀なのだろう。
「…あ、あのね母さん。私、昔の…私が記憶をなくす前の知り合いっていう人に会って」
「…」
ぴたりと包丁の音が止んだ。何を話しても眉一つ動かさない母にしては珍しい反応だった。
やっぱり母さんはなにか隠していた。さっき翼という少年と会ってから抱いていた疑念は確信に変わった。
「…その人が何度も私に連絡しようとしてたって言っていたけど、母さんはなんで教えてくれなかったの?」
「……そんなこと知らないわ。嘘をついているんでしょう」
「…そんなこと…ない…!」
頭ごなしに否定されたこともイヤだったが、彼が嘘をついているというのが何より受け入れがたかった。
「……いいからそんなこと忘れなさい……昔のことなんて思い出さない方がいいんだから」
母さんはようやくこちらに視線を向けた。いつもの平坦な声で語られた言葉なのにいつもより少しだけ重みを感じる。
結局いつもこれだ。記憶をなくす前のことを聞いても『今となにも変わらない』、父親は誰なのかと聞いても『そんな人はいない』の一点張り。私の質問になにも答えない。せめて答えられない理由を教えてくれれば納得出来るのに。
「…でも」
「…知らないって言ったでしょ。同じことを何度も言わせないで」
「………」
母さんはそう言ったきりもう私に目を向けることはなかった。いつもと同じ。母さんに答えてもらえると思ったのが間違いだった。
部屋に入って鞄とブレザーを放り投げ、ベッドに腰掛けた。どうしようもなく憂鬱な気分になって枕元に置いていたカッターナイフを拾い上げる。
「……」
死にたいとまで思うことはそう多くないが、なぜ生きているのかは時々分からなくなる。人を信用できないから誰にも信用されない。楽しいと思えることもない。実の親ですら私を見てくれない。
死んでしまえば楽になれると思って刃を手首に突き立てることがある。もちろん力は入れないし、そんな勇気もない。けれどその気になれば人生という舞台から降りられると思うと少しは気が楽になれた。
それにもし死んじゃいそうなくらい血を流せば、母さんが振り向いてくれるんじゃないかという期待もある。
昔高熱を出したとき母が仕事を休んで付きっきりで看病してくれたことがあった。本当に苦しくて頭が割れそうなくらい痛かったけれど母さんがずっと私を見守ってくれた。起きている間はあまり触れてくれなかったけれど、眠りについたフリをすると優しく頭を撫でてくれた。あの時ほど幸せを感じたことはない。
一度だけ誕生日を祝ってくれたこともあった。十歳の時だった。
真っ暗な部屋の中で蝋燭の火を吹き消して、ケーキを一緒に食べた。イチゴが乗ったチョコレートケーキ。蝋燭を一度じゃ全部消せなくて何度も必死に息を吹いた。橙色の明かりに照らされた私を見る母さんの目はとても穏やかだったことをよく覚えている。
私は母さんが大好きで大嫌いだった。いつも無関心で何に対しても答えてくれないのに時折優しい顔を見せてくる。いっそのことずっと冷たく接してくれれば憎めたのにそれすら許してくれない。
キリキリと音を立てながら刃を出して、それを手首に当てる。意識が刃を当てている皮膚に集中していって視界が狭まる。そのままぐっと力を入れようとした瞬間、電話のコール音が鳴った。
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