第7話
私は昨日会ったばかりのあの少年と一緒に駅のホームにある椅子に腰かけている。どちらかが提案してそうなったわけじゃなくて、気づいたらそうしていた。
『……久しぶり、唯』
少年は確かにそう言った。生徒手帳を見たなら名前を知っていても不思議ではない。けれど久しぶり、というのは奇妙な表現だ。昨日今日の付き合いの相手に普通そんなこと言うだろうか。
「これ、キミのだろ?拾っておいたよ」
手が差し出される。掌には生徒手帳とウォークマンが乗っていた。黒くて薄い、数世代前の古いもの。昔からずっと使っている私の大切なもの。
「……あ、りがとうございます…」
震えながら手を伸ばす私を見て彼は苦笑した。こんなことをすることにも緊張して手許がおぼつかなくなってしまう私の姿が滑稽だからだろうか。
「えっ、そんなつもりじゃなかったんだ。キミを笑ったわけじゃなくてただオレは」
気分が沈んだことを顔に出してしまっていたらしく、彼が慌てた様子で私を慰めようとする。それからガラス細工でも触れるような手つきで私の震える手を押さえて、そっと落とし物を私の掌にのせてくれた。
「はい、どうぞ」
「……」
手と手が僅かに触れ合ったけれど、少しも嫌な感じがしなかった。心が安らぐような暖かい感じ。胸がポカポカと熱くなって頭がぼうっとする。
「あの、いいかな?」
「ひゃい!?」
突然声をかけられて心臓が飛び出るかと思った。返事をした後も息を整えるのに時間がかかった。彼は私が落ち着くのを待って、それからまた話を切り出した。
「その、オレのこと覚えてない?小学生の時、って言っても途中までだけど一緒にいたと思うんだけど」
ようやく合点がいった。彼が私のことを一方的に知っているのはそういうことだったのか。記憶力にはそれなりに自信があるのにおかしいと思っていたのだ。
しかし謎が解けても気分は晴れなかった。それどころか罪悪感と得体の知れない悲しさがもやもやと胸の中で膨らんでいく。
「…私、生まれてから八歳の頃までの記憶がないんです。小学校も元居たところから一度転校してて…」
「………え?」
少年の口から漏れた声はとてもか細かったのにこれ以上ないほど如実に彼が驚き、傷ついたことを表していた。そのあまりの痛切さに顔を上げていられなくなる。
彼は少しの間考えるような仕草を見せてからまた口を開いた。
「何が理由でその、記憶喪失になったの?」
「覚えてない、です…でも母からは頭を打ったからって聞きました」
「…家にも何度か連絡取ろうとしたんだけどな。お母さんからもなにか聞かなかった?」
「…そんなこと…一度も聞いたことない、です」
まだ全ての事情を飲み込めた訳ではないが、どうやらこの少年は安否確認をするくらいには私に好意的な感情を持っていたらしい。それが友愛からかそれとも…いやそこはどうでもいい。
問題はなぜ母が彼から連絡があったことを教えなかったかということだ。連絡が届かなかったから?それとも私が忘れていただけ?
いや、前者も考えづらいが後者だけは絶対にない。記憶を失ってすぐの私は一人でいることがとても心細くて友達が欲しくて仕方がなかった。前の学校の友人から連絡がついたと聞けば喜んで応えたはずだ。忘れるはずはない。
ならなぜ?もしかして母さんがわざと伝えなかった…
「そう、か…」
少年は力なく笑って俯いた。彼の寂寞とした感情がじんわりと私にまで伝わってくる。申し訳なくて、胸が痛くて、謝罪の言葉が零れた。
「本当にごめんなさい…」
「………なんで謝るのさ。唯はなにも悪くないよ」
困ったように笑って彼は私を慰めた。私を気遣って憂いを誤魔化そうとする悲しい笑み。それを見て心臓が音を立てて脈打った。
いくら私が社会不適合者だとしても流石に下の名前で呼ばれることくらいそう珍しくはない。それでも彼が言葉にする私の名前は他の人間のそれとは決定的に違うような気がした。
「…それじゃ。落とし物は返したし、そろそろ帰るよ。……無事でいてくれてよかった」
彼は立ち上がって踵を返してしまった。どんどん距離が離れていく。
「あ、あっ…」
どうすればいいのだろう。いや、どうするもなにも見送る他ないだろう。彼は自分から別れを告げたのだ。落とし物も渡してもらって事情も説明してくれた。これ以上引き留める権利も筋合いもない。
けれど私の心が強く訴えていた。ここで別れてしまえばもう二度と会えなくなってしまうと。
それだけは絶対にイヤだ。まだ聞きたいことが沢山ある。昔の私はどんな人間だったのか、私達はどんな関係だったのかとか。
何よりもう一度あの優しい声で名前を呼んで欲しかった。もう一度手と手を触れあわせたかった。
「あ、あの!!」
自分でもびっくりするくらいに大きな声を出した。彼は振り返って不思議そうな顔をしながら私の元に戻った。
「…もしかして他に落とし物があった?ごめん、その二つ以外は見つからなくて…」
「そう!…じゃなくて…」
なにかいい言い回しがないか考えたが生憎と人との会話経験の乏しい頭からは浮かんでこなかった。だから素直に言いたいことを伝える。
「…む、昔のこととか……母さんから全然教えてもらえなくて、知りたい、から…も、もう一度会え、ませんか……?」
「………え?」
驚きの声を小さくあげて彼は押し黙る。しまった。断られた時のことなんか何も考えてなかった。いきなりこんなこと言って気持ち悪いと思われたかもしれない。
言葉にしてしまって今更怯える私に、彼はさっきみたいに困ったように笑いかけた。
「うん、いいよ」
「……本当、ですか…?」
どくどくと血が回って顔が赤くなっているのが鏡を見なくてもはっきり分かる。それが恥ずかしくて顔を俯けた。
「じゃあ電話番号教えるよ、メモメモ…」
彼は胸ポケットから手帳を取り出して素早く自分の番号を書き写した。そして何の躊躇いもなく頁を破って私に手渡す。私は書かれている番号を食い入るようにじっと睨み付けた。なくしても問題ないように覚えておきたかったから。
「がさつでごめんね」
「…い、いえ!大丈夫です…えっと私のは、ですね」
電話番号なんて教えたことがないから記憶から拾い上げるのは大変だった。結局自力で思い出すことは出来なかったから携帯を出して確認した。
私の番号をサラリと書き写してありがとう、と小さな声で言った。
「いつでも電話すればいい。自分で言うのも何だけどそんなに忙しくない身だからさ」
じゃあまたね、とまた背を向けようとする彼を慌てて引き止める。
「あ、な、名前聞いてない…です」
「………そっか。覚えてないんだもんな……」
彼は悲しげに小さく笑った。罪悪感がまた重みを増して潰れそうになる。
「黒羽翼、って言うんだ」
黒い羽根に、鳥の翼。重言みたいでおかしな名前でしょ、と少し照れ臭そうに補足した。
「つばさ…ツバサ…翼…」
一度も口にしたことがない筈なのにやはりその名前はどこか特別な響きがした。何度でも呼びたくなるような不思議な感じ。
「…翼でいいよ。昔もそう呼んでくれていたから、その方が嬉しいかな」
「いいの!?」
その返答がとても嬉しくて笑みを抑えられなかった。視界がパッと明るくなるような、目の奥がジンと熱くなるような、こんな喜びを感じたのはいつ以来だったろうか。
「………」
翼は目を丸く見開いてしばらく言葉を発さなかった。石膏かなにかで固められてしまったように。
笑顔が気色悪かったのかと不安になって笑みを消すと、彼は慌てた様子で釈明した。
「ごめん、ついぼうっとしちゃって…じゃあ、またね、唯」
「さ、さようなら…つ、翼、さん」
複雑そうな笑みを見せて彼は背を向けた。また会えるとは分かっているのに、呼び止めたくなってしまう自分に驚く。
記憶を失う以前に会っていたとはいえど今の彼と私は赤の他人同士、執着する理由なんてない筈なのに。
「………」
今も収まる気配がない胸の鼓動を感じながら、ただ戸惑うことしか出来なかった。
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