第5話

 ガタゴト、ザワザワ、ヒソヒソ。午後五時過ぎ。帰りの電車の中、朝と同じような音が頭の中に流れている。


 嫌いだ。同じ歳、同じ教室にいても彼らのことを好きになれない。もっと言えば八年前病室で眼を覚ましたあの時から私は一度だって他人のことを好きだと思えなかった。誰も彼も嘘ばかりついていて薄っぺらい関係を保っているだけ。腹の中には悍ましいものが詰まっているのに皆へらへら笑って取り繕っている。

 私には人の心の声が聞こえる。いつもじゃないけど、肌が触れ合う時は必ず声がする。生温かいなにかが自分の頭に流し込まれるような気持ち悪い感触と一緒に。

 はっきりとそれを自覚したのは小学三年生の時。記憶喪失で右も左も分からない私に優しくしてくれた同級生、カリンという名前の女の子がいた。

 遠足の日、私が髪飾りをなくしたことがあった。きれいな桜色の髪飾り。派手でも高価でもなかったけれど珍しくお母さんがくれたものだったから、私はとても気に入っていてよくつけていたものだった。

 歩くとき邪魔になるとカリンに言われてバスの中に髪飾りを置いていった。その間になくなってしまったのだ。家に帰るまで気づかなくて、気づいた時は本当に青ざめた。今でもたまに思い出す。

 私は母にも先生にも誰にも言えず、カリンにだけ相談した。いつも明るくて友達もいっぱいいるカリンなら魔法のように問題を解決してくれるのだと、幼い私はそんな理屈の通らないことを考えて彼女に話しかけた。『髪飾りをなくしてしまった』と言うと彼女は驚いたふうにこう返答した

『あの綺麗な髪飾りなくしちゃったんだ。でも遠足の時になくしたなら学校にはないんじゃないかな』

 泣きそうになった私の手をカリンは優しく握って励ましてくれた。

『大丈夫だよ。髪飾りなんてなくても音羽さんは可愛いから!』

“毎日こんなつまらない子の相手してあげているんだから髪飾りくらいもらってもいいじゃん”

 二つの言葉が同時に耳と頭に響いた。私を励ます言葉はすぐに消えてしまったのに、私をバカにする言葉は胸の中にいつまでも残った。

 呆然と手を離して、他の友達の方に走っていくカリンを見送った。今のはただの勘違いだとなんとか言い聞かせようとした。

 けれど私は気づいた。そもそもあの日髪飾りを外すよう言ったのはカリンだ。それに彼女は私が遠足の日になくしたことを知っていた。私はなくしてしまった、としか言わなかったのに。

 なぜか。それはなくなった原因が、盗んだのがカリンだから。

 その後も声は誰かと触れ合う度に必ず聞こえた。その全てがコールタールのようにドロドロと黒く濁った不快なものだった。他人への嫉妬や怒り、現状への不平不満、薄汚い欲望。どれも聞くに堪えない。

 元々内気だった私はさらに人を避けるようになった。他人は醜くて関わる価値なんてない。それでいいんだ。

「……」

 けれど、こうも思っている。頭に響くこの声はただの幻で、誰とも仲良くなれない自分を慰めるためについている嘘なんじゃないかって。

 カリンとの一件だって本当に彼女が盗んだという証拠を持っているわけじゃない。“遠足の日”と言ったのも偶然だったかもしれないし、私の記憶違いという可能性もある。昔、母に相談したこともあるが思春期にありがちな被害妄想だと言われたし、実際その方が現実的だ。普通に考えれば人の心を読むことなんて出来る筈がない。

「……ははは」

 私はただの病人だ。ありもしない声に怯えて、勝手に人を嫌っているだけの病人。いや、病人と言うのは本当に苦しんでいる人に失礼だろうか。自分のそれはただの仮病なのだから。

 そう考えるとますます胸が苦しくなって、頭の中に響く声がうるさくなる。気のせいなんかじゃないと自分自身に訴えかけるように。もういい加減にしてくれ、と自分の馬鹿げた頭に直接言いつけて黙らせられればいいのに。

 音を掻き消すためにウォークマンの音量を耳が痛いくらいに上げて、カバンを抱きかかえた。早く電車から、人混みから抜け出したい。いつになったら着くのだろう。

 車内アナウンスが流れた。次の駅で乗り換えられる。まだ家には帰れないが、少し息をつけるだろう。

 電車が止まり、扉が開いた。クラクラとする頭を抱えながら立ち上がり出口に向かう。気力を振り絞ってどうにか車外にまで辿り着いた瞬間、躓いてしまった。

「あ、れ?」

 体勢を立て直すことも出来ないままグラリと重力に引きずられる。頭が地面に強く打ち付けられる直前、なにかが後ろから私の体を支えた。

「キミ、怪我して……な…い?」

 私の体を抱き留めた人物が声を上げた。同年代の少年の声。異性の知り合いなど一人たりともいないのだから聞き覚えなどない筈だが、どこか懐かしいような不思議な感覚がした。

 彼が私の顔を覗きこんだ時、心臓が大きく跳ねた。細い顔の輪郭、吹き出物や染みのない綺麗な肌、意志の強そうな瞳。均整の取れた顔だったが、この胸がざわつくような感覚はそれだけのせいじゃないような気がした。

「………」

 少年は幽霊でも見るような目で私の顔を覗き込んでいた。戸惑いの色が全身からにじみ出ている。なにを疑問に思っているのかは分からなかったけれど、その表情が怖くなって彼の腕を振り払った。

「…っ!」

 カバンを強く抱えてその場から走り去った。自分でも信じられないくらい長く、速く走った。

 改札付近に辿り着いてようやく足が止まった。駅構内で乗り換えないといけないのだからここに来る意味はないのに、そんなことすら考えている余裕がなかった。

 やってしまった。助けてくれたお礼を言わなければいけなかったのに逃げ出してしまった。

「……こんなだからダメなんだよ、私は」

 頭に響く声なんて関係ない。私が臆病で最低限の礼儀も持ち合わせていないクズだから誰とも仲良くなれないんだ。

 自己嫌悪に浸っている内に周りが騒がしい、というより音楽が聞こえないことに気づいた。耳に手をやってもイヤホンの感触がない。

 慌ててポケットを探ってもウォークマンがどこにもない。生徒手帳もだ。

「…もうなにやってんだ、私…!」

 倒れた時二つともあの場に落としてしまったようだ。どうする。引き返して拾いに行くか。今ならまだ間に合うかもしれない。

「…」

 しかし戻ればあの少年がまだいるかもしれない。礼も言わず突然逃げ出した私に腹を立てているかも。

 あのウォークマンは私にとって大切なもので赤の他人に怒られようが取り戻さないといけないものだ。その筈だ。

 けれどあの少年だけには怒られたくない、嫌われたくない。そんな訳の分からない感情が渦巻いて足を固まらせる。

 結局何もしないまま私は家に帰った。時刻は五時半を少し過ぎた頃。ベッドに体を預けてぼんやりと天井を見上げた。

「…」

 落としたウォークマンのことも気がかりだったけれど、それ以上にあの少年のことが頭から離れない。

 助けてくれたのが嬉しかった。これは間違いない。異性として惹かれている部分もある。それも否定できない。けれどそれだけじゃなくてもっと大きいものに自分の中のなにかが突き動かされているような気がしてならないのだ。

 あの制服は家とそう遠くない公立高校のものだ。偏差値はまずまずで部活動もそれなりに力を入れている。私も入ろうと一度考えたことはあったけれど中学の知り合いと顔を合わせたくないから今の学校に決めた。彼もこの近くに住んでいるのだろうか。もしかしたらまた会うことも…

「馬鹿馬鹿しい…!」

 寝転がって自分に毒づいた。あんなことをやらかしておいてどの面下げて会うつもりだ。

「けど…」

 やっぱりまた会いたい。怒られるかもしれないし、上手く喋れる自信もないけれど、会って話がしたい。どんな人なのか知りたい。

 明日また同じ時間帯、同じ車両に乗ってみよう。会えるかどうかは分からないけどとにかくそうしてみよう。

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