第6話
【第五章】
平成八年、里峰中学校の体育館では十五人の精鋭が、大きな声を出しながら練習に励んでいた。七月の体育館はいくら窓を解放していても蒸し暑く、汗が止まらない。
榎本陽一はいつも通りランニングとストレッチを終えた後、二人一組でのパス練習を行っていた。相手は陸山肇(はじめ)だ。
ハンドボール部の中で一番背の低い陽一は、背の高い陸山がとても羨ましかった。陸山はまだ十四歳だが身長が百七十五センチあり、手足が長い。
スポーツにおいてやはり身長が高いのは有利だ。それにゴールキーパーを担当している団野仁志(ひとし)も身長百七十三センチ、体重は七十五キロでガッチリした体型をしている。
身長百五十八センチの陽一と仁志が隣に並ぶとまるで親子のようであった。
この頃の里峰中学校は全校生徒が八十名で、部活はバレーボール部、ハンドボール部、陸上部があった。
バレーボール部とハンドボール部が体育館を使用するのに対して、里峰小、中学校には体育館が一つしかない。
そのため、バレーボール部が体育館を利用する際は、ハンドボール部はグラウンドでの練習となる。
屋外練習では全員真っ黒に日焼けして汗だくになっていたが、中学三年の夏の大会を最後に部活を引退するため、大会前のこの時期は皆気合が入っていた。
「声出せ声っ‼」
「おーっす」
キャプテンを務めるのは相模原聡一(そういち)。副キャプテンは杉孝典(たかのり)だ。
今日は屋内練習の日だが、屋内だろうが屋外だろうが暑いことに変わりはない。
「よーし、五分間休憩!」
聡一の声で皆、一斉に水筒を求めて体育館の隅に集まる。
「お疲れ様」
朋子が一人一人にタオルを渡していく。
「あっちー。体育館にエアコンつかないかな」
陽一がTシャツの裾をまくりあげる。
「教室にもエアコンねぇのに、体育館にはつかないだろう」
肇が水筒のお茶をガブガブ飲んでいる。
「温暖化だよな」
「ああ、子どもの頃こんなに暑くなかったよな」
仁志の言葉にキャプテンの聡一が
「オレらいまも子どもだろう」と笑う。
「十五歳は子どもか」
「オレまだ十四だよ」
「オレ明日誕生日だ!」
孝典が何気にアピールするが、みんなお茶を飲むのに必死で無視をする。
「おいおい無視かよ」
「しゃあねぇな。オレの汗がたっぷりしみ込んだタオルでもやるよ」
仁志が孝典に自分のタオルを手渡す。
「いらねー。オレ、朋子ちゃんのキスが欲しい」
それを聞いていた朋子が「えっ」ととぼけた声を出す。
「私のキスは一回百万円だけど」
「ああ、くそー」
朋子は男子ハンドボール部のマネージャーを務めている。可憐で気の利く朋子に好意を寄せている男子は多い。いや、全員といっても過言ではない。
「さあ、休憩は終わりだ」
聡一が軽快にコートに戻ると他のメンバーも重い腰を上げる。
「五分って短いな」
「ブツブツ言ってないで、行くぞ」
ハンドボールの試合は七人編成である。陽一、肇、仁志、聡一、孝典を含める十五人のうち七人はレギュラー、残りの八人は補欠である。
二年生まで補欠だった陽一も三年からレギュラーになったが、体の大きな肇や仁志のようには活躍できていない。朋子にいいところを見せたい陽一は精一杯練習に励んでいた。
中学三年最後の夏の大会、第一回戦は強豪の和田中学が対戦相手だ。抽選で当たったので仕方がない。
試合が始まると、予想はしていたものの和田中学の猛攻にあっという間に陣形は乱れ、次々とゴールネットにボールを押し込まれる。
それでも何とか相手のボールを奪い、パスを繋ぐ。小柄な陽一がちょろちょろと動き回り相手を錯乱し、肇と聡一がパスを繋いでシュートを投げ込むが、
和田中学のゴールキーパーは大柄な仁志よりもさらに一回り大きくて、とても中学生とは思えないような体型をしていた。まさに鉄の壁である。
結局、鉄の壁を破ることができず、試合終了のホイッスルが鳴る。負けた。悔しくて陽一の目から涙があふれる。
「ナイスプレイ」
そんな陽一の背中を叩いたのは聡一だった。陽一だけではなく、孝典も肇も仁志も皆泣いている。中学三年間のハンドボール人生はこれで幕を閉じる。
そんな懐かしい過去を思い出していた陽一は、思わずくすっと笑ってしまった。押し入れの中を整理していたら、昔の写真が出てきたのだ。
ハンドボール部全員で撮影した写真と、ボロボロになったボール、そして最後の試合の後、朋子が渡してくれたタオルと松脂(まつやに)。色が褪せたユニフォームも捨てずにとってある。
「お父さん、ご飯だって」
朝妃が陽一の部屋のドアを開ける。
「ああ、いま行くよ。朝妃、お父さんとお母さんの昔の写真見るか?」
「昔の写真?」
「ああ、中学の時の写真が出てきたんだ」
朝妃は言われた通り、陽一が持っている写真を覗き込んだ。するとそこには翠にそっくりな人と、顔は柊慈に似ているが、体型がかなりがっちりした男の人。
そしてあまり顔の変わっていない陽一と美人な女の人が写っていた。
「どうだ。お母さん、美人だろ」
「えっ、これお母さんなの⁉」
すらっとした体型にぱっちりした二重瞼。シャープな顎と高い鼻。言われてみれば、鼻と目は母にそっくりである。
「いまは随分とふくよかになったなぁ」
確かに、いまは丸々とした輪郭とたっぷりお肉のついた頬で、せっかくの綺麗な目と高い鼻は目立たなくなっている。
伸ばせばゴムのように伸びそうな二の腕と、柔らかいボールのようなお腹の上に、体型がばれないようなエプロンをつけている。
「お母さんって痩せていると美人なんだね」
「失礼ね。太ってても美人よ」
ドアのところを見ると洗濯物を抱えた朋子が立っていた。この時期、外に衣類は干せないので、寝室にある室内物干しで洗濯物を乾かしている。
「洗濯物をしまいにきたら、何やらミス里峰中学校の話をしているのが聞こえてね」
「ミスって……そういやそんなこともあったなぁ」
陽一が苦笑いする。
「ミスって? もしかしてミスユニバース的な?」
朝妃の質問に朋子がぷっと吹き出す。
「そうよ。文化祭の時に選ばれたの」
「出場者たった四名だった気がするぞ」
「余計なこと言わなくていいの」
「そっか。昔はもっと人数が多かったんだよね」
陽一が朋子に向けて写真を差し出す。
「懐かしい写真が出てきたから、見るか?」
「ああ、それは最後の大会の時の」
朋子が陽一の差し出した写真を手にとる。
「いまと全く変わらないわね」
「いや、だから体重が……」
「今日の晩御飯、ナシでいいかしら」
「……すみません」
朋子と陽一のくだらないやり取りを聞き流しながら、朝妃はボロボロになったボールを手にとる。
「ハンドボールってちっちゃいんだね」
「そうだな。片手で持てるくらいだもんな」
「何の話をしているの?」
ドアのところに今度は悠妃が立っていた。
「あ、悠妃。お母さん昔は美人だったんだよ」
「だからいまも」
「え、写真か何か?」
悠妃が陽一の部屋に入り、朋子が持った写真に目をやる。
「別人じゃん」
「もー! みんな今日の晩御飯抜きにするわよっ!」
朝妃は、箱の中に入った古びた缶に目をやった。
「これは何?」
その缶は手のひらにのるサイズの円柱状の缶だったが、かなり錆びている。
「あ、それは松脂(まつやに)だ」
「松脂?」
「そう、ハンドボールではこれを使うんだ。汗でボールが滑らないように手の平に塗るんだよ」
朝妃は錆びた缶にぐっと力を入れて開けてみる。すると、中には黄色い樹脂のようなものが入っていた。
「……ん?」
悠妃が顔を出して缶の中を覗き込み、鼻をくんくんさせている。
「どうしたの悠妃?」
悠妃の顔色がだんだん青くなる。
「この臭いだ……」
「えっ?」
「山口先生の車が燃えた時に嗅いだ臭い。これだよ」
悠妃の突然の発言に、家族は顔を見合わせた。
朝妃はスマホに「松脂」と打ち込んで検索をかける。するとハンドボール用の松脂のネット通販サイトが幾つが表示された。
画面をスクロールすると、松脂についての専門知識が表示される。ハンドボールだけではなく、ありとあらゆる球技で滑り止めに利用されるようだ。
またバイオリンやチェロなどの弦楽器の弓に塗るためのものも販売されている。
これか……。こんなものを一体誰が……。その時だった。スマホが鳴り始め、ディスプレイに「陸山翠」と表示される。
「はい」
「ああ、ごめん起きてた?」
「うん、大丈夫」
「ちょっと気になってさ」
「え、うん何が?」
「今日、朝妃が何か言いたそうな顔をしていた気がして」
朝妃は一瞬無言になってしまう。柊慈といい翠といい自分のクラスの男子はどうしてこう周りをよく見ているのだろう。
柊慈は普段はおちゃらけているが、いざという時にはリーダーシップを発揮するタイプだ。それに比べて翠はそっと支えてくれているような。縁の下の力持ちというタイプである。
その時朝妃はふと、翠の妹、葵のことを思い出した。
いつも可愛い洋服を身にまとったふわふわとした花のように可憐な女の子で、朝妃はいつも葵と会うたびにその可愛さにキュンとしていた。
葵が亡くなった後の翠の落ち込み方は本当に酷くて、かける言葉が見つからなかった。柊慈も翠も苦しい思いをしたからこそ、人の心の痛みがわかるのかもしれない。
「翠はすごいね。何でも分かってしまうんだね」
「うん……朝妃のことはよく見てるよ」
何だか告白されたような気分で恥ずかしくなってしまった朝妃だが、翠に例のことを話すかどうかは迷うところであった。
「ごめん、気持ちは嬉しいけど話せない」
「それはオレが頼りないから?」
「ううん、そんなんじゃないんだけど……」
「オレの勘で間違っていたら悪いんだけど、朝妃、あの事件を解決しようとしていない?」
当たっている。と心の中で呟く。
「朝妃はさ……なんていうか、一人で抱え込んでしまうタイプだから、もっと愛奈未や菜子みたいに何でも話してくれたらいいんだけど」
思わず涙が出そうになった。自分のことを見てくれている人がいる。こんな素敵なクラスメイトと出会えたことは幸せだと朝妃は思う。
「え……もしかして泣いている?」
「うん……感動してるの」
朝妃の頬を一粒の涙がつたう。
「オレもさ、言ってなかったことがあるんだ」
「何……?」
「まぁ大したことじゃないんだけどさ、菜子が……山口先生が亡くなる数日前に一人で焚火をしていたんだ」
「えっ、焚火?」
「うん、近道をしようと思ってあぜ道を歩いていたら、煙の臭いがして……。
菜子ん家の方角だったから、まさか火事じゃないだろうなと家の方に行ってみたら、田んぼにぽつんと一人で立っていてさ。
何やっているんだろうと思ったら、一斗缶に何か入れて燃やしていたんだ」
「燃やし……」
「話しかけようかと思ったんだが、なんかすごく悲しそうな顔してたから、立ち去った」
「そうだったんだ……」
「別に全然大したことじゃないのかもしれないけどな。ただゴミを燃やしていたとかそんなんかもしれない」
翠は気付いている。私たちの中にもしかしたら犯人がいるかもしれないということに。
「菜子、いつになったら学校に来てくれるんだろな」
「うん……私も心配。何回か電話したんだけど」
「オレも五回はかけたけど、出ないなあいつ」
「もう一度家に行ってみる?」
「うーん、それも考えたんだが、いまはそっとしておいてほしいのかなって」
菜子が感じている責任は時間が経てば軽くなるなんてことはない。だけど、心の整理をしているのかもしれない。と翠が話す。
「朝妃」
「ん?」
「オレたち……何があっても仲間だから」
翠は気付いている。翠はもしかしたら私たちの中に犯人がいるのではないかということに気付いている。
「うん……」
夜の間に降り始めた雪はだんだん強くなり、やがて大雪となる。駐車場に停めてある車が僅か一時間ほどの間に雪に埋もれてしまった。
「今日は大変ですね」
羽鳥はフードをかぶり、必死で車の上の雪をおろしていく。
「うむ……これ以上強くならないといいが」
笹本もフードを深く被っているが、頭の上にみるみる雪が積もっていく。
なんとか雪を払いのけ、運転席に羽鳥、助手席に笹本が乗りこみ車を発進させた。もう二月も後半だが、この調子ではまだ雪解けは先になりそうだなと羽鳥は残念に感じた。
信濃川の脇を通りぬけ、山道に入る。
「気をつけろよ」
「ええ。警察が事故を起こすのはバカらしいですよね」
山道を抜けると田んぼが一面に広がるが、いまは一面雪景色である。これだけ雪が強いと皆、引き籠っているのか人っ子一人見かけない。
田舎道を通り抜け、町で唯一のコンビニの角を曲がり、百メートルほど進んだところを右折すると木下家がある。
予め電話をしたので、木下千夏が待ち構えているはずだ。凍える指でインターホンを押すと、玄関の扉が少しだけ開いた。
「どうぞ」
「すみません、お邪魔します」
羽鳥と笹本は玄関ドアの前で肩や頭の雪を払いのけ、分厚いダウンコートを脱いだ。靴箱の上に、母と娘のツーショット写真が置いてあるのを発見した羽鳥は少し涙腺が緩んでしまう。
千夏に通されたリビングはとても暖かく、おしゃれなダイニングテーブルとふわふわのソファが置かれている。
「コーヒーでいいですか」
「ああ、お気遣いなく」
羽鳥と笹本がダイニングの椅子に腰かけると、コーヒーメーカーの音が聞こえてくる。
「この度は改めてご愁傷様です。お電話でお話した通り、娘さんが何者かに殺された可能性がありますので、お話を伺いたいのです」
笹本がそう切り出すと、千夏は暗い顔をした。
「殺されたなんて……。娘は遺書を残しているので自殺だと思うのですが」
「ええ、我々も一度はそう判断しました。しかし、娘さんの自殺には不可解な点があります」
「不可解な点とは」
千夏が眉をひそめる。
「まず、娘さんはなぜ自分のお気に入りのマフラーで首を吊ったのか。そして、遺書はなぜ全部平仮名で書かれていたのか」
コーヒーメーカーから出来上がりの音楽が流れ、千夏は席を立った。花柄のティーカップに熱々のコーヒーを注ぎ入れる。
「そのあたりは……。よくわからないですが、いまから死のうと覚悟した人間が冷静な判断などできないと思います」
「ええ、それは奥様のおっしゃる通りです。しかし、娘さんの様子はどうでしたか? 亡くなる前に何か異変を感じたりはしませんでしたか?」
「異変ですか……」
千夏は何か言おうと思ったのか、一瞬思い出すしぐさをした。
「いえ、特に。いつも通りでした。亡くなったあの日……。十七日の朝もいつも通り、朝ごはんを食べて受験勉強をするからと自分の部屋へ向かいました。
「失礼ですが、娘さんの部屋を見せてもらってもよいですか?」
笹本の言葉に、一瞬眉を寄せた千夏だったが
「ええどうぞ」と言い、二人を二階の花蓮の部屋に案内した。
階段を上ってすぐの六畳間が彼女の部屋らしい。明るい黄色のカーテンに、学習机、パステルカラーの布団が敷かれたベッドと本棚。
いかにも女子中学生の部屋といった感じだと羽鳥は思う。
「失礼ですが、少々中を確認させてください」
「……どうぞ」
笹本と羽鳥が部屋を見渡す。学習机の上には参考書とノート、筆記用具が綺麗に並べられ、本棚にはファッション雑誌が何冊か置かれていた。
「娘さんの死後、この部屋には誰か入りましたか?」
「いえ、私だけです」
千夏は娘の部屋を物色されるのが明らかに嫌そうだったが、そうも言っていられない。
「この部屋にセロハンテープはありますか?」
「えっ、セロハンテープですか?」
千夏は戸惑った様子で答える。
「さあ……娘の部屋には最低限しか出入りしないのでわからないです」
「では、机の引き出しを開けさせて頂きます」
笹本は千夏の返事を待たず、学習机の上から順に引き出しを開ける。そこには、ノートや教科書、そして中学の入学式の写真、小学校の卒業証書の入った筒などが入っていた。
そして三段目の引き出しに、絵具と彫刻刀、恐らく学校で作ったのであろう版画作品が入っていた。そこに、小さな手のひらサイズのセロハンテープも入っているのを笹本が発見した。
「あの……セロハンテープが一体どうしたのですか?」
不安そうな千夏の疑問に笹本が答える。
「娘さんの遺書をご覧になりましたよね?」
「ええ……」
「あの遺書の紙の上の方にテープを剥がしたような跡があったのを覚えていますか?」
「これですか?」
千夏は着ていた服のポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
「それは……」
「娘が死んでから、肌身離さず持っているんです」
笹本が白い手袋をはめた手でその遺書を受け取った。
「奥様。申し訳ないですがこちらの遺書とセロハンテープを預からせて頂けないでしょうか?」
千夏は困った顔をしたが、刑事の言うことには逆らえないと思ったのか、静かに頷いた。
「あの……娘は本当に殺されたんでしょうか?」
笹本と羽鳥は顔を見合わせた。
「まだわかりません。しかしもし犯人がこの遺書を偽造したのなら指紋が残されている可能性もあります」
昼過ぎから雪はだんだん小降りになった。朝妃はもう一度だけ菜子に電話してみようかなとスマホを手にとった。しかし、その瞬間スマホではなく家の固定電話が鳴り響いた。
階段を下りてリビングにある電話の受話器をとる。
「はい榎本です」
「あ、朝妃ちゃん⁉ あの、菜子そちらに行ってないかしら?」
声の主は菜子の母親だった。
「いえ、来ていないですけど……」
「そう……」
「どうかされましたか?」
「買い物に行って家に帰ったら菜子の姿がなくて……。このところずっと家に引き籠っていたのにどこへ行ったのか少し心配になって」
朝妃はリビングの時計を確認する。午後三時で外はまだ明るい。
「気晴らしにコンビニにでも行ったのかしら。ごめんなさいね」
「いえ、ちょっと探してみます」
電話を切った朝妃は何だか嫌な予感がした。慌てて自室に帰り、スマホで翠に電話をかける。
こういう時はいつも決まって柊慈に一番に電話をかけるが、彼は今日、高校受験の日である。
「あ、翠。あのね」
「菜子だろ」
「翠のところにも連絡があったんだ」
「ああ。いまちょうど外へ出ようと思ってたところだ」
「心配だよね」
「愛奈未のところにも電話したら、やっぱり探すって」
朝妃はそれを聞いて少しだけショックを受けた。自分より先に愛奈未に電話をしたことに。
「私も探す、と言ってもどこへ行ったらいいのかわからないけど」
「そうだな。ただこの町のどこかにはいるんじゃないか。町を出るためには車で山道を走るか、バスに乗るしか方法がないだろう」
翠の言う通り、ここは陸の孤島なので車かバス以外の方法で町の外へ出るのは厳しい。雪がない季節なら自転車に乗ることもできるが、いまの季節はどう考えても無理だ。
「愛奈未は学校付近を探すって言ってた。オレはとにかく町の人に聞いて回ろうかと思う」
「わかった。私は……キャンプ場の方とか行ってみるよ」
「よろしく頼む」
朝妃は使い捨てカイロと温かいお茶を持ち、外に出た。先ほどの雪が降り積もり、玄関から門まで辿り着くまででも一苦労だ。
「菜子、無事でいてね」
朝妃は新雪に足をとられながらキャンプ場の方へ向かって歩き出した。
雪、雪、雪。見渡す限り雪ばかり。早く春にならないかなと思いながら、雪を手にとり川に投げ込む。どうして川は凍結しないのだろうか。
中学一年の夏、この場所で六人で花火をした。手持ちの花火やねずみ花火、噴水花火と様々な種類の花火を持ち寄った。
彼はいつものようにふざけていて花火を振り回していた。そんな彼を叱っている愛奈未。呆れ顔でそれを眺める翠。花蓮と朝妃は座り込んでじっと線香花火をしていた。
あの日、菜子は彼のことを常に目で追っている自分に気が付いた。小学生の頃はさほど身長が高くなかったのに、中学に入ってから一気に背が伸びて、
声変わりをした彼が急に男らしく見えたのだ。しかし、彼の視線が別の人を追っていることに気付いてしまった。
敵わない。と菜子は思う。そばかすの多い肌に、ずんぐりむっくりの体型。鼻は低くて、眉毛が濃い。
菜子は自分の顔を変えたくて、眉毛を剃り、ダイエットに励んだが遺伝なのか全く体重は減らなかった。身長百五十四センチで体重が五十二キロ。
せめてそばかすが消えてくれないかとネットで値段の高い美容液を購入したが全く効果は表れなかった。いつしか菜子はその美しい人を目で追っては恨むようになってしまった。
「寒いな……」
河原にやってきて約二時間。すっかり冷たくなってしまった体をそろそろ温めてあげないといけない。そう思いながらも菜子は帰る気がしなかった。
「何もかも忘れたいな」
もう一度戻れるなら、六人で笑い合っていた頃に戻りたい。いくらそう願っても花蓮は帰ってこない。
「こんなところで眠ったら死ぬのかな……」
菜子はそう言いながらポケットから小さな薬を取り出した。
「あ、愛奈未。そっちはどう?」
朝妃はスマホを耳にあてながら歩いていた。
「ダメだ全然見つからない」
「どこ行ったかなぁ」
「翠から連絡は?」
「いまのところない」
雪がやんで、やれやれといった具合に人々は除雪作業を始めていた。玄関前の雪かきや屋根の雪下ろしを始める人々を横目に朝妃はひたすら歩く。
「朝妃はキャンプ場へ向かっているんだよね? 大丈夫、そっちの方はかなり雪深いでしょ⁉」
「うん、すごく歩きにくい。でもきっと人気がないところにいそうな気がするの。ほら、私たちいま町の人から嫌われてしまっているじゃない」
キャンプ場は町の外れにある。夏の間は県外からも人が訪れて賑わうが、雪深い冬の間は全く人気がない。
「確かにそうかも。私もいま、あんまり町の人に会いたくない気分だから」
「でしょ」
「でも徒歩じゃきついんじゃない?」
「うん、辿り着くのは夕方になるかも……」
「私もそっちに向かうよ。お母さんに話して車出してもらう」
「えっ、ほんと?」
「うん、いまどのあたり?」
「久子さんの家の近く」
「オッケー。寒い中悪いけどちょっと待ってて」
そう言って電話が切れた。お腹と背中。さらに足の裏にカイロを貼っているが、それでも寒さで手の先や耳がジンジン痛む。
スマホを取り出して時間を確認すると三時四十五分だった。何としても日の入りまでに菜子を見つけだしたい。
朝妃がじっと立っていると、一台のマイクロバスが朝妃の近くで停車し、久子さんの孫にあたる小学一年の優菜(ゆうな)がバスから降りてきた。
「朝妃お姉ちゃん?」
スキーウェアに身を包んだ優菜が不思議そうな顔をする。するとバスの窓が開いて貫太が顔を出した。
「貫太ちゃん」
「朝妃姉ちゃん、こんなところでどうしたの?」
貫太をはじめ、小学生たちがマイクロバスに乗っていた。
「あら榎本さん。こんにちは」
バスの出入り口から小学校の教頭の時任(ときとう)が挨拶をした。
「こんにちは。今日はもしかしてスキー実習ですか?」
「ええ。今日みたいな大雪の日に当たってしまって、午前中は諦めて午後から出発したのよ」
朝妃の通っていた里峰小学校では、年に二回のスキー実習がある。
この町で広大な土地を所有している地主の一人が子どもたちのために山を切り開いて小さなスキー場を作った。毎年実習はそこで行われ、朝妃は小学生の時に計十二回、実習を行った。
「あ、朝妃姉ちゃん!」
貫太の隣の窓が開いて、今度は愛奈未の妹の友加里(ゆかり)が顔を出す。
「ああ、友加里ちゃん」
「ねえ聞いて、私すっごくスキーうまくなったんだよ!」
友加里は愛奈未そっくりの顔をした小学三年生だ。
「僕はスキーあんまりうまくできないや」
隣の貫太がそう呟くと、後ろから更に二年の男の子が顔を出した。
「貫太は途中からソリだったもんな」
スキー実習では、低学年の一年、二年の子はソリに乗ることもできる。が、ソリばかり乗っていると、スキーが上手な子にからかわれたりする。
「こら、あなたたち、窓から顔を出さないって約束でしょ!」
時任が子供たちを叱る。
「ごめんなさい。じゃあまたね」
バスのドアが閉まり、去って行く。朝妃はいっそのことスキーで移動した方が早く移動できたのに、と考えた。この雪で一歩一歩進むのにかなりの時間を要してしまった。
とはいっても家にあるスキー板は小学生用のものでもう小さいだろうし、スキー靴もサイズが二十一センチである。朝妃は小学生の頃のスキー実習を思い出す。
運動神経の良い柊慈と愛奈未がスイスイ滑るのに対し、菜子が何度も転倒して、鼻が真っ赤になって泣いていた。朝妃はゆっくりと慎重に滑り、花蓮は慣れないスキーに戸惑っていた。翠はどうしていたっけな? 思い出すと思わず顔がほころんでしまう。
「菜子……どこかで泣いてないかな」
考え事をしていると、一台の乗用車がやって来た。
「ごめん、朝妃お待たせ!」
後部座席の窓から愛奈未が顔を出した。
「すみません失礼します」
そう言って朝妃は車に乗りこんだ。
「菜子ちゃん心配ね」
愛奈未の母は愛奈未と顔も体型もそっくりだ。
「おばさん、今回の件で色々巻き込んでしまって申し訳ないです」
朝妃が謝ると愛奈未の母は
「そんなの気にしなくていいわよ。とにかくいまは菜子ちゃんを探しましょう」
と車を走らせた。
キャンプ場の駐車場にはロープが張られて閉鎖されていたため、その前に車を停める。
愛奈未と朝妃は車から降りて、ロープをくぐり抜け、先に進む。
「そうだ、確か中一の時に川辺で花火したよね?」
「ああ、そうだね。もしかしたら川辺の方かな?」
誰も除雪をしていないので、雪がとにかく深くて足をとられる。
「ああ、もう歩きにくいったらありゃしない」
朝妃も愛奈未も履いているブーツの中にまで雪が入り、足は冷たくて感覚を失っていた。なんとか雪をかき分け歩くこと十分。遠くに川が見えてきた。
「ああ、ここだね花火をした場所。おーい菜子‼」
愛奈未が大声で叫ぶ。朝妃が辺りを見渡すと、人影が横になっているのを見つけた。
「愛奈未っ、あれ!」
朝妃は雪を蹴って必死で走ろうとするが走れない。
「菜子っ」
雪の上に倒れている菜子の姿を見つけて慌てる二人。
「菜子っ、菜子っ‼」
二人の呼びかけにも反応しない。朝妃は血の気が引いた。雪と格闘しながら、やっと菜子のところに辿り着いた二人だが、彼女の唇は紫色になり、
頬を触るとまるで氷のように冷たかった。慌てて口のところに耳をあてる。
「生きている! 早く温めなくちゃ!」
「お母さんを呼んでくる!」
愛奈未は来た道を必死に引き返していく。朝妃はスマホを取り出して一一九番を押した。
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