第5話
【第四章】
「●●町立里峰中学校の教諭、山口邦彦を名乗る男は偽名で戸籍上存在しないとの事実が発覚しました」
アナウンサーの声に、榎本家の一同は大きな衝撃を受けた。
「山口先生が……」
「戸籍上存在しない⁉」
ダイニングの椅子に座っている朝妃の父、陽一(よういち)は思わず口に含んだコーヒーを吐き出しそうになった。
「どういうこと……」
悠妃が箸でつかんでいた朝ごはんのウインナーを落とすと、机の上をウインナーがコロコロ転がる。
キッチンで、洗い物をしていた朋子も思わず手を止める。
「何だか混乱してきたわ」
「そうだな。えっと、山口先生の行方がいまわからない状態で、車内から発見された遺体が山口先生ではないかと現在調べている途中なんだよな。
でもその男が山口先生ではなくて……うーん。確かに訳がわからん」
陽一はこの町の郵便局で働いている。一昨日の花蓮の通夜に陽一も参列しようと出向いたのだが、千夏にあっさりと断られ、罵倒の言葉の数々を浴びることとなった。
通夜会場を後にした陽一が駐車場に停めた車に乗り込もうとすると、木下家の前で土下座をしている娘とクラスメイトの姿を目撃した。
木下花蓮の自殺が自分の娘のせいだなんて信じがたい陽一だが、この二日間、いつものように郵便配達をしていても、町の人の態度が一変している。
「お宅の娘さん、一体どんな教育をなさったんですか」
「どうやって責任をとるつもりですか」
などの言葉をかけられるたび、陽一は頭を下げるしかなかった。
同じく朋子も、パート社員として介護施設で働いているが、しばらく休んでくださいと所長に言われて、仕事を休んでいる。
「お父さんもお母さんも悠妃もごめんね。私のせいで……」
朝妃の悲しそうな顔を見ていると不憫に感じた。
「大丈夫だよ。だって話を聞いている限り、お姉ちゃんは何も悪いことをしていないじゃん」
悠妃が転がったウインナーを拾って、口に放り込んだ。
「そうだよな。朝妃はただ巻き込まれただけだ」
陽一は朝妃を責めるようなことは一切言わないように気を付けていた。
「そうよ朝妃。町の人から何か悪いことを言われたらお母さんに言ってちょうだい。ぶん殴ってやるから」
朋子が果物ナイフを持ったまま、肩をぐるぐる回すものだから洒落にならない。
「いや、ぶん殴るのはちょっと……」
「そうだよ朋子。そんなことをしたら余計に朝妃の立場が悪くなる。いまはほとぼりが冷めるまでそっとしておこう」
町の人から嫌われようが、今日も自分は郵便物をいつものように配達しなければならない。朝食の味噌汁を流し込んで、陽一は席を立った。
巻き込まれただけと自分の父は言ってくれたが朝妃はそうは思えなかった。
例え花蓮が自殺でなくて他殺だったとしても、死ぬ瞬間まで彼女は「裏切られた」と思っていたはずだ。この数日間、倦怠感のひどい朝妃はいつもよりゆっくりとしたペースで歩く。
この日から学校が再開された。三年の教室の木下花蓮の机の上には菊の花が刺された花瓶が置かれていた。さらに教壇の上にも同じものが。
しめやかな教室内とは裏腹に、正門前にはカメラマンやアナウンサーといったマスコミが詰めかけて、ザワザワしていた。
戸籍のない人物が教師をしていたという今朝の報道を世間の人が注目するのは間違いない。
三年の教室の四人は皆、暗い顔をしていた。始業のチャイムが鳴っても菜子は現れない。
教室の扉が開いて、教務の井上が教壇に立つ。
「あー、ごほん。皆さんご存知かと思いますが、山口先生は現在行方がわからない状態です。今日から、このクラスの担任は代理で私が受け持ちます」
元々細身で存在感のない井上は、この数日の騒動であまり眠れていないのか、頬がこけて目の下がくぼみ、より貧相な顔立ちになっていた。
「あと……。これも皆さんご存知かと思いますが、このクラスの木下花蓮さんが三月十七日にお亡くなりになりました。
皆さん、大変なことが続いておりますが、どうか気を落とさずに、残り少ない学生生活を充実したものにして欲しいです」
言い終わると井上は静かにクラス中を見回した。朝妃も同じく、全員の顔をチラリと覗く。
頬杖をついて、じっとしている柊慈、俯いたままの愛奈未、窓の外をぼんやり見ている翠、そしていつも賑やかな菜子はいない。
残り少ない学生生活を充実したものに。などと言われても、この状況でどう充実したものにしたらよいのだろうか。
担任の先生を失い、さらに翌日クラスメイトを亡くした自分たちは一体どんな気持ちで卒業式を迎えればよいのか。いまの朝妃には全く見当がつかなかった。
「菜子に連絡ついた?」
愛奈未の質問に残りの三人全員が首を横に振った。
朝妃は、落ち込んでいるであろう菜子に何度か電話をかけたが、留守番電話サービスに繋がるばかりであった。
「ダメだ。全然出てくれない」
たったいま、菜子に電話をかけた柊慈が、留守番電話サービスの無機質な声を聞いて大きなため息をつく。
「オレも三回電話した。菜子の家にも電話して、母ちゃんに菜子いますか? って尋ねたけど、部屋に引き籠って出てこないのよって返事だったぞ」
翠はこの日、珍しく髪をおろしていた。いつもはワックスで髪を遊ばせているのだが、髪を整える気力がなかったのだろうか。
「今度は菜子が自殺しちゃったらどうしよう……」
愛奈未の目にみるみる涙が溜まっていく。
「縁起でもないこと言うなよ!」
柊慈が怒る。
朝妃は「違う、花蓮は自殺じゃない」と言いたかった。しかし、他殺だと言ってしまうと、じゃあ仲間外れにされていた旨の遺書を残していたことで、
犯人はこの中の誰かだという可能性が出てくる。
言えない。朝妃は喉元まで出かかっていた声を呑み込んだ。
「今日の帰り、菜子のところに寄るか?」
柊慈がそう提案する。
「行っても出てきてくれるかな」
「どうだろうな」
「ダメ元で行ってみようぜ」
翠の言葉に他の面々が頷く。
菜子の家は田園風景が広がる地域のど真ん中に二軒ある家の一つだ。もう一軒はゆき婆の家である。
菜子の父親は稲作農家だが、雪が積もる冬の間は町にある菜子の叔父が経営する工場の手伝いをしている。
雪景色の中にポツンと忘れられたかのように立地している二軒の家のうち、新しい方が相模原家である
。ゆき婆の家は、元々かやぶき屋根だったものを改築したため、天井が非常に高い。一方の相模原家はどこにでもあるような木造住宅である。
「足元気をつけろよ」
柊慈の言う通り、道と側溝の境目が雪でわからなくなっているため、うっかりしていると側溝へ落下する。
どこまでが田んぼでどこまでが道なのか。四人は出来る限り、車の轍(わだち)の上を歩くようにした。
「ピンポーン」
インターホンを押すと、「はい」と菜子の母親が応答した。
「あ、すみません。オレ柊慈です。あと翠と愛奈未と朝妃もいます」
「あら……。ありがとう、もしかして心配して来てくれたのかしら」
「ええ。菜子さんにお会いできないかと思いまして」
リーダーの柊慈がそう話すと、インターホンの向こうで躊躇(ためら)うような声がした。
「そうね……ちょっと声をかけてみるわね。菜子―」
朝妃は二階の部屋の窓を見る。菜子の部屋は東側の角だが、カーテンがかかっており中の様子は伺えない。
しばらくすると玄関の扉が開いて、菜子の母親が顔を出した。
「ごめんなさいね。出たくないって……。せっかくみんな来てくれたのに」
「そうですか。いえ、大人数で押しかけてすみません」
「いえ、ありがとうね」
柊慈は息を大きく吸って
「菜子―っ! 学校来いよ! 待っているからな!」と叫んだ。それに続いて愛奈未も「菜子、心配しているよ。早く学校へ来てね!」と叫ぶ。
朝妃は、何とかこの事件が早く解決しないだろうか。と頭の中で情報を整理していた。
いまは雪がやんでいる。女はカーテンを開けてそっと外の様子を伺った。人影はない。
押し入れに押し込んでいるブーツを履き、窓からひらりと外へ出た。北風が吹くなか、女は一目散にある場所へ向かう。
町の中心から少し離れた場所にある日本家屋の前に、小さな小屋が立っている。
その小屋には赤いビニール製の庇(ひさし)がついているが、一部が破れて、雪の重みで形が変形している。
女はポケットから小銭を取り出したところで思い留まった。体がガタガタ震える。寒いからではなく、禁断症状が出ているのだ。
女は目を閉じて、ある言葉を思い出し、自分の着ているパーカーの袖をまくった。幾つもの黒い跡が目に飛び込み、彼女はごくりと唾を飲んだ。
一分ほどそこで立ち尽くしていたが、諦めてその女は来た道を戻り始めた。
刑事課のデスクで書類をまとめていた羽鳥のスマホが鳴る。
「あ、朝妃ちゃん。うん、いまから? えーっと一時間後くらいでいいかな」
羽鳥が電話を切って立ち上がったところにちょうど笹本が通りかかる。
「どこか行くのか?」
「あ、あの里峰中学校の榎本朝妃が何か大事なことを思い出したそうなので、ちょっといまから行ってきます」
「大事なこと?」
「ええ。何でしょうね」
「すまんが私は一緒には行けないぞ」
「わかっています。一人で大丈夫です」
羽鳥は上着を着こんで、外へと出た。外は今日も雪がちらついている。吐く息が真っ白で思わず肩をすくめてしまう。
「うぅ、寒い寒い」
覆面パトカーの上に積もった雪を軽く手で払い、ドアを開けてエンジンを温める。
早く春が来ないかなと羽鳥は満開の桜を頭に思い浮かべる。ふるさとの春は、雪解けと共に山桜が鮮やかに咲き誇る。
エンジンが温まったのを確認して、アクセルを踏んで、署の駐車場から車を出す。
榎本家に辿り着いた羽鳥がインターホンを押そうとすると、車の音に気付いたのか、ボタンを押すより先に朝妃が玄関から出てきた。
「わざわざ、すみません。どうぞ」
朝妃に通されて玄関をあがると、ふわりと百合の香りがした。花瓶に生けられた花は朝妃の母親が用意したのだろうか。
榎本家は十年ほど前にリフォームを施したのでリビングは綺麗で、システムキッチンと、優しい色合いの木製ダイニングテーブルが並ぶ。
確か、朝妃が小学校一年生の頃には祖母がいたような気がするが、詳しくは覚えていない。
「コーヒーでいいですか?」
「ああ、悪いね」
部屋の中は静まりかえっており、彼女以外の人間の気配はしない。
「今日は、ご家族さんは?」
「父は仕事、母は買い出し、妹はまだ中学一年なので午後まで授業があります」
裕兄ちゃん、と元気いっぱい呼んでくれた幼い朝妃の記憶しかない羽鳥はよそよそしい言葉遣いに戸惑う。
「朝妃ちゃん、いつも通りでいいよ。改まって敬語を使われると緊張してしまう」
そう言ってわざと姿勢をくずした羽鳥の前に、花柄の綺麗なカップに入れられた熱々のコーヒーが置かれる。
「うん……わかった。じゃあいつも通り話すね」
「よろしく頼むよ」
時刻は午後二時三十分。窓の外は今日も雪模様だ。
「それで、思い出したことって何?」
羽鳥の質問に朝妃は一瞬目を逸らす。
「あの……実はそれは嘘」
「えっ⁉」
「ごめんなさい。そう言わないと裕兄ちゃん、来てくれないかと思ったから」
「嘘って……。でも何か言いたいことがあるから呼んだんだろ?」
羽鳥はコーヒーに角砂糖を一つ放り込みスプーンで混ぜる。
「うん」
「今回の事件のことだよね?」
「うん……あのね、裕兄ちゃん。山口先生が亡くなった次の日に私のクラスメイトの木下花蓮が亡くなったよね」
その時の様子を思い出す。羽鳥と笹本が現場に駆け付けた時、既に救急車が花蓮を乗せて出発した後だった。
救急車には、柊慈が代表として付き添ったので、朝妃と翠、それに巻き込まれた良介おじさんが、木下家で呆然と待っている状態であった。
「あの……警察の方では山口先生の死も花蓮の死もどのように解釈されているのかわからないけど、花蓮は自殺じゃないと思うの」
彼女が自分と目線を合わせてじっと見つめてくる。その目には悲しみ、不安、そして何かの決意など様々な感情が垣間見える。
少し目線を逸らすと、テーブルに置かれた朝妃の手が少し震えていることに気付いた。
「自殺じゃないとなると……他殺ってこと?」
「うん」
「どうしてそう思うの?」
「花蓮は……。花蓮はとても芯の強い子だった。夢を持っていた。もうすぐ東京の高校を受験して上京して……明るい未来が待っているはず。
それなのに、あと一ヶ月後に離れる私たちに仲間外れにされたくらいで死んだりしない」
朝妃の表情は苦痛に満ちていた。
羽鳥はあの日、木下家で遺書を見た。白いA4のレポート用紙に平仮名で「わたしだけなかまはずれ しにたい」と鉛筆で書かれていた。
確かに違和感はある。中学校三年生の子が全文平仮名で書く理由はなんだったのか。しかし、人が死ぬ間際に冷静な判断などできないのでは。
実際、先輩からは、書きなぐったような文字の遺書や、これから死ぬことに恐怖を感じているのか、震えてガタガタになった文字の遺書も見たことがあると聞いていた。
あと、もう一つ気になることはあった。それは白い紙の上部にテープを剥がしたような跡があったこと。
気になることはあったが、亡くなる二日前にクラスメイトに悪口を言われたこと、
その翌日、自分以外のクラスのメンバーが集まっているところを目撃したとの証言や、浴室付近から花蓮と千夏以外の指紋が検出されなかったこと。
そして争った形跡がなかったことより、警察では自殺と判断した。
自殺だと判断したもう一つの理由に、木下花蓮のスマートフォンに残っていた履歴で、
現在行方不明になっている教師の山口と木下花蓮が男女の関係にあったのではないかという説がある。
いくら人数の少ないクラスと言えど、個人的にLINEで繋がっていて、どこで何日に会うという連絡をとりあっているのは、生徒と先生以上の関係にあったからなのだろう。
その先生が亡くなったという衝撃、さらにはクラスメイトからも仲間外れにされている状態だと勘違いしていた。この二つの理由が重なって自殺に至ったと考えると、十分あり得ることであった。
「なるほど。じゃあ朝妃ちゃんはその……花蓮さんが誰かに殺された可能性があると考えているんだね」
羽鳥の言葉に彼女が頷く。
「だけど……」
朝妃の表情がさらに険しくなる。
「だけど他殺の場合、私を含めたクラスメイト五人のうちの誰かが犯人ってことになってしまう……」
朝妃は唇を噛んでいる。そんなに強く噛んだら血が出るのではないかと羽鳥は心配になった。
「というと?」
「だって、花蓮が仲間外れにされたことを知っているのは私たち五人だけ……」
朝妃はいまにも泣き出しそうだった。テーブルに置かれた手が先ほどよりさらに震えている。
「なるほど……。確かにそうだな」
羽鳥は出来る限り冷静に答えた。自分は刑事であって私情を持ち込んではいけない。
朝妃は羽鳥からすると、幼い頃、一緒に遊んだ記憶のあるいわば歳の離れた幼馴染のような妹のような存在だ。
「だとすると、犯人は遺書を書くことで、犯人である可能性を自ら示唆したことになるな」
「恐らく、これは私の推測だけど……。犯人は花蓮を殺すつもりはなくて、でも何らかの理由で咄嗟に殺してしまった。
その現実を隠蔽するため、急遽、自殺に見せかけることを思いついたんじゃないかと」
なるほど。と頷く。
「でも……」
羽鳥はふぅ、とため息をついて、姿勢を直す。
「でも、それをオレに伝えるってことは、オレはこれから朝妃ちゃんを疑いの目で見なければならないよ」
「わかっています」
「どうして、自分にとって不利になる情報を教えてくれるんだ?」
朝妃は、俯き加減の顔をぐっと持ち上げて、羽鳥の目をしっかりとらえる。
「犯人を捕まえたいから」
しばし、榎本家のダイニングに沈黙の時間が流れる。
「たとえそれが大事なクラスメイトでも?」
羽鳥の質問に彼女はゆっくりと頷いた。
「そっか……。じゃあ、山口先生が亡くなったことについてはどう考えている?」
「それは、私にはわからない。でも、花蓮を殺した犯人と山口先生を殺した犯人が同一人物である可能性は捨てきれない」
しっかりした中学三年生だな。と感心する。
「山口先生も事故で死んだのではなくて他殺だと考えているんだね」
「うん。警察はどう考えているのかわからないけど、少なくても報道番組を見る限りは、事件と事故の両面から捜査しているって言っていたから」
「ああ……」
いくら刑事が内密にしていても、マスコミというのは一体どこから情報を集めているのか。と驚くことが多い。
もしかしたらマスコミ関係の会社の上層部と警察の上層部はある形で繋がっているのかもしれない。そして、そのある形とは決して綺麗な関係ではないであろう。
「でも、そうなると矛盾が生じるの」
「矛盾?」
羽鳥は自分の前にいる中学生がまるで経験を積んだ刑事のように思えた。朝妃ちゃんはこんな子だったっけ?
羽鳥の記憶の中では無邪気に笑いながら、グラウンドを走りまわっていたり、妹の悠妃を無理やりおんぶしようとしたり、普通の元気な女の子だった。
いつの間にこんなに成長したのだろうか。
「山口先生が乗っていたと思われる車のブレーキ音を聞いたのは五時十五分ごろ。さらに炎上したのは二十分ごろ。
その時間、私たち五人は柊慈の家に集まっていた。五時ごろに花蓮が柊慈の家に現れて、去っていった彼女を柊慈が追いかけた。
そしてその後、外に出た私と翠。愛奈未と菜子はその時まだ柊慈の家の離れの部屋にいた。柊慈の家から学校まではずっと下り坂で、どれだけ急いでも徒歩二十五分ほどかかる。
雪がない季節は自転車で下れば僅か五分ほどで着くけれど、雪道でそれは不可能。当然だけど、私たちは自動車の免許は持っていない。
となると、悠妃が燃えている車を発見した五時二十分の時点では私たち五人は学校には辿り着けない」
羽鳥は黙って朝妃の話を聞いていた。確かに柊慈の家は山道をかなり上ったところにあり、学校からは決して近いとは言えない。
「しかも悠妃が見た限り、車の周りには足跡みたいなものはなかった。タイヤ痕は残っていたみたいだけど」
「つまり、車に火を放つことは朝妃ちゃんたち五人には不可能だと」
「うん……。正確には花蓮も含めて六人だけどね」
朝妃は冷めたコーヒーを一口飲んだ。相変わらず彼女の手が小刻みに震えているのが羽鳥にも分かる。
木下花蓮が山口を殺したという可能性についてはあまり考えていなかったが、朝妃に言われてはっとした。
「しかも、車の素材は鋼板、アルミ、カーボンが一般的。普通に燃やそうと思っても燃えない。
車が炎上する場合はオイル漏れやバッテリーのショートで自動的に炎上することもあるけれど……。それにしても私が目撃した車は車体全部が燃えていた」
「朝妃ちゃん……」
「はい」
「まるで君の方が刑事でオレの方が事情聴取をされているみたいなんだけど、どうして車の素材まで知っているの?」
「それはネットで調べた」
「ああ……」
「裕兄ちゃん」
「何?」
「私がいまの捜査の状況を尋ねても、答えてくれないよね?」
「うーん、そうだね。基本的に一般人に捜査内容は教えられない」
「じゃあ、山口先生の正体も教えてくれないよね」
朝妃がじっと羽鳥の目を見つめる。その気迫に思わず負けそうになる。
「でも、きっとマスコミが嗅ぎつけて、報道すると思うんだ。だけど現時点でまだ報道されていないから、いまはDNA鑑定の最中かな?」
「……」
羽鳥はコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせた。本当に尋問されているようだ。
「山口先生、いや、山口先生を名乗っている人の焼死体もさすがに内臓の内部までは焼けていないはず。だから司法解剖で、内臓の組織のDNAが採取できる。
そして先生は一人暮らしをしていた。きっとその部屋から毛髪か何かを採取して、そのDNAが一致するか確認中なんじゃないかな?」
羽鳥は冷や汗で脇の辺りが熱くなった。室内は石油ストーブが焚かれてとても暖かいが、そういう汗ではない。
「まぁそんなところだ。としか答えられないよ……」
また、しばし室内に沈黙の時間が流れる。
「そもそも、裕兄ちゃんがあの時、私のところに聞き取りに来なかったら花蓮は助かっていたかもしれないのに」
朝妃の冷酷な視線が突き刺さる。
「それは、二月十七日のことか?」
「うん、私と翠は昼の十二時半ごろ家を出て、花蓮の家に向かおうとしていた。でも裕兄ちゃんともう一人の刑事さんがやって来たから足止めを喰らったの」
羽鳥は思わず頭を掻いた。そうだ。十七日の午後一時から二時くらいが木下花蓮の死亡推定時刻だ。
「悪かったよ……。本当にそれはただの偶然だ。でも、もしその時間に木下家に行っていたら、残虐な犯人と鉢合わせていたかもしれない」
「私としては、花蓮が亡くなるくらいなら鉢合わせた方がよかった」
彼女の目は光を失っている。
「そんな……。下手したら三人全員殺されていたかもしれないんだぞ」
「殺す、ということは花蓮の死は他殺の可能性もあると分かってくれたって解釈してもいいかな?」
目の前の少女はまるでアンドロイドのように淡々と話す。唯一、彼女の手がずっと震え続けていることだけが、彼女が人間だと示している。
「私は、自分が容疑者の候補に入ったってかまわない。だから……花蓮を殺した犯人を捜してほしい」
朝妃の要求に、思わず息をのんだ。
「わかったよ。いま聞いた話はすべて上に伝えておく」
羽鳥が立ち上がってコートを着ようとすると、朝妃が「裕兄ちゃん……」と小さな声で呼ぶのが聞こえた。再び彼女の顔を見ると、頬を涙がつたっていた。
「悔しい……」
朝妃はそう言って、手で顔を覆い、泣き出した。
ある日突然、担任の先生を失い、クラスメイトを失った少女はやはりまだ十五歳の女の子なのだ。
「犯人逮捕に全力を尽くすよ」
「頼みます……」
羽鳥は何とも言えない気持ちで車に乗り込んだ。謎はとにかく山のようにある。
山口邦彦を名乗る男は何者なのか。木下花蓮は自殺なのか他殺なのか。犯人は木下花蓮のクラスメイトなのか。
もし他殺だとしたら、二人を殺害した人物は同一人物なのか。そして山口の車はどうして炎上したのか。
「はあ……」
羽鳥は大きなため息をついて、車のアクセルを踏んだ。
千夏は、窓の外をぼんやりと眺めていた。二月二十四日。本来なら花蓮が東京の高校を受験する日であった。
花蓮の部屋に残されていた参考書や、東京の高校のパンフレット、さらにはファッション雑誌もあの日のまま、机に置いてある。
さざんかの花が咲いている小さな庭と、その向こうに見える自作の畑もいまは雪に覆われている。
夏にはトマトやきゅうり、茄子が実り、初めて挑戦したスイカも見事にできて、収穫した。畑仕事を一緒にしないかと花蓮を誘ってみたが、虫が嫌だと言って断わられた。
確かにいまは雪景色だが、夏にはセミも鳴くし、蚊は山のようにいるし、畑を掘り返せばミミズが出てくる。
東京にいた頃はマンションの八階に住んでいたので、蚊に刺される心配もなかったし、窓を開けていても虫が入り込んでこなかった。
畑仕事は嫌がった花蓮だったが、収穫したスイカを切ってあげると、「美味しい」と言いながら食べてくれた。
この一週間、赤ん坊の頃の花蓮、幼い花蓮、そして美しい少女へと成長を遂げた花蓮の姿が頭から離れない。
父もいない。母もいない。旦那もいない。そして何より大切な娘も失ってしまった千夏はスーパーのパートの仕事も休んでいた。
きっと、花蓮が美しいから嫉妬をしたんだ。と千夏は思う。クラスの子たちが美しい花蓮に嫉妬をして、それで仲間外れにしたんだ。……しかし、本当にそれが原因だろうか。
千夏はふいに通夜の日のことを思い出す。
「あんたたちのせい」と言って、花蓮のクラスメイトを責めてしまったが、最初に首を吊っている花蓮を発見したのは、クラスメイトの男の子だった。
そして聞いた話では、息をひきとった花蓮に最後の最後まで諦めずに、人工呼吸と心臓マッサージを施してくれた。
ちょっと言い過ぎただろうか。その時、千夏はふと十二月のことを思い出した。
年末に、花蓮がお腹が痛いと言って一週間学校を休んだ。あまり体調を壊すことがなかった娘の不調は心配だったが、週四回のスーパーのパートを休む訳にはいかず、
娘のためにお粥を作って出勤した。
その間、不思議なことに花蓮は洗濯物を出さなかった。いつもならお風呂に入る時に脱いだものを洗濯かごに入れているのに、
どうして出さなかったのかは疑問だが、大したことではないと見過ごしていた。
あの時、一瞬嫌な予感がしたが、気のせいだと思った。というのも千夏も昔同じような理由で一週間学校を休んだことがあったからだ。
美しい千夏は群馬の田舎町では評判で、数々の男の人から交際の申し出があった。しかし、どの人も千夏の好みではなく、交際は断り続けた。
そんな千夏は高校二年生の時に運命の人に出会った。浩輔ではない、年上の男性。彼は町にある図書館で働く地味な人であったが、素朴で優しい雰囲気に千夏は好意を持った。
夏休みに毎日図書館へ通い、少しずつ仲良くなった二人はやがて結ばれた。その人は車を持っており、千夏を乗せてドライブに連れていってくれた。
ある日、夕暮れの町が見下ろせる高台に車を停めて、いい雰囲気になった二人は車の中でお互いの体を重ね合った。
その一ヶ月後、千夏は自分の体の異変に気が付くが、夏バテのせいだろうと気にしていなかった。
しかし、秋が深まっても一向に生理が来ず、ついに勇気を出して遠く離れた町まで赴き妊娠検査薬を購入して使用したところ、陽性反応が出た。
「父に怒られる」
嬉しさよりも、千夏の頭にはまず父の怒り顔が思い浮かんだ。まだ高校を卒業していないのに妊娠だなんて……。迷った千夏は図書館の彼に思い切って打ち明けた。
しかし、返ってきた答えは思いもよらないものだった。
「高校生に手を出したってバレたら、オレがクビになるから堕ろしてくれ」
目の前が真っ暗になった千夏はその日からしばらく高校を休んだ。何も考えられずベッドに転がり、ぼーっとしていると、急にお腹が痛くなり、トイレに行くと大量の出血をしていた。……流産だった。
結果としては中絶することなく堕胎することができたのだが、母性本能からなのか、ショックで千夏はしばらく泣き続けた。
大量の出血で下着が汚れたので、黒い袋に詰めてゴミの日に捨てたことを思い出したのだ。
まさか……。千夏はもしかして娘の死には何か別の理由が存在するのではないかという不安に駆られた。もし、そうだとしたら、一体誰と。
混乱を抑えようと、ポットに紅茶を入れて息を吐いた。
どちらにしても花蓮はもう死んでしまった。真実は永遠に知ることはできない。
この町を離れようか。千夏はもう何度流したかわからない涙を必死にこらえて、自分の未来を切り開く方法を考えていた。
愛奈未はその日例の場所にいた。時刻は午後四時。そろそろ辺りが暗くなってくるころだ。
人気のない山の斜面にある公園の錆びた遊具は雪に埋もれており、ジャングルジムの上半分だけが顔を出している。
太陽を探してみるが、やはり今日も分厚い雲に隠れていて、どこにあるのか全くわからない。お気に入りのブラウンのダッフルコートと、白い毛糸のマフラーを巻いて、彼女は待つ。
すると数分後、例の人が現れた。その人はフードを深くかぶっており、身長は愛奈未とほぼ同じくらいだ。
「ごめん、待った?」
その質問に愛奈未は首を横に振った。
「待ってないよ。だいじょうぶ」
フードの下で女は小さく笑った。
榎本家のダイニングの机の上に大量のみかんが置かれている。
「お母さん、これどうしたの?」
悠妃が不思議そうにみかんを一つ手にとる。
「ああ、この間田中さんにスーツを貸したじゃない。そのお礼だって。田中さんだけは、私のことを無視しないで普通に話してくれるわ」
朋子は一週間、介護施設の仕事を休まされていたが、やはり人手不足なので来てほしいと言われ、久々の勤務を終えたところだった。
帰りに、田中さんが大きな段ボール箱を持ってきて、「これ、お礼によかったら食べて」と朋子がいつも乗っている水色の軽自動車の荷台に乗せた。
「田中さんだけはってことは、他の人からは無視されているの?」
悠妃の質問に、朋子は「まぁ業務上の連絡とかは伝えてくれるけど、それ以外はねぇ……」と言葉を濁す。
「ま、でも時間の問題でしょう。きっとそのうち普通に話してくれるわよ」
と前向きな発言をする母に申し訳なさを感じる朝妃。
「あれ、朝妃、そこにいたの⁉」
朝妃はダイニングに入る扉のところに立っていた。悠妃と朋子は自分がいないと思って会話していたようだが気づかれてしまった。
朝妃はダイニングの椅子に腰かける妹の元へ歩み寄る。
「悠妃も大丈夫? 学校で嫌味とか言われていない?」
朝妃がおそるおそる聞くと、悠妃はみかんの皮をむきながら
「平気だよ。まぁ正直ちょっと言われているけどそんなの気にしないから」
と淡々と答えた。
妹の力強い答えに背中を押されながらも、やはり悪いことをしたと未だに後悔は消えない。
「あ、そういえば」
悠妃が指でつまんだみかんを口に放り込む寸前で止めた。
「なんかいま思い出した。あの……ほら、山口先生の車が燃えている時に、なんか変な臭いがしたんだよね」
「変な臭い?」
朝妃は、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
「うん、ちょっとすっぱいっていうのかな。みかんのようなレモンのような、でも全然違うような……。ツンとする臭い」
「ガソリンの臭いじゃなくて?」
「うん。ガソリンじゃないね」
朝妃も机の上のみかんを一つ手にとり剝き始める。
「これって警察に言った方がいいのかな?」
悠妃が首をかしげる。
「その時のことを思い出すの……辛いんじゃない? 大丈夫?」
思わず尋ねる。あの時、悠妃はショックでかなり泣いていた。
「うん……辛いけど」
すっぱい臭いとは何か。やはり朝妃はあの車の炎上は単にガソリンやバッテリーによるものではないと感じていた。
例えば、可燃性の何かが車に塗られていた。または着火剤のようなものがエンジンルームに大量に挟まれていた。その「何か」がすっぱい臭いを放っているのだろうか。
朝妃と翠が現場に辿り着いた時には既に車は炎に包まれ、タイヤのゴムの焼き焦げるひどい臭いやガソリンの臭いがした。
犯人はどうして車を燃やした。山口を名乗る男を殺すためには、単純に衝突事故だけでは物足りないと考えたから?
いや、そうだとしたら、そもそもどうして衝突することが分かっていたのか。
「このみかん美味しいね」
悠妃の言葉ではっと我に返る。いけない。推理し始めると我を忘れてしまう。
目の前の悠妃の笑顔を見ているとほっとした。あの事故のことがトラウマになって何日間も苦しみ続けるんじゃないかと思っていたからだ。
朝妃もみかんを一房口に入れた。甘酸っぱい香りが広がる。
「ただいま~」
玄関のドアが開く音がして、陽一が帰ってきた。
「はあ、今日はスリップしてしまったよ」
「あら、珍しいじゃない。雪道バイクはお手の物なんじゃないの?」
朋子が食器棚からお皿を出している。
「いくらベテランでもやっぱり雪道は滑る滑る」
陽一は今年で郵便配達員十八年目だが、雪道でも配達のためにはバイクを使用する。
車だけでは狭い路地などに入りにくく、郵便局員にとってやはり小回りの利くバイクは欠かせない。
スタッドレスタイヤを装着しているが、二輪はやはり四輪に比べてバランスをとるのが難しくスリップもしやすい。
「いっそのこと、スキーで配達したらどう?」
朋子が夕飯のカレーをかき混ぜながら冗談を言う。
「クロスカントリー配達ってか。坂を下る時はいいけどのぼりとか最悪だな」
「じゃあサンタクロースみたいに、橇(そり)に乗って、トナカイに引いてもらうとか」
「それなら、オレは毎日赤い服を……。ってこの辺りにトナカイはいませんねぇ」
陽一は冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出す。
「寒いのにビールだけは飲むんだね」
「そりゃお前、あったかいビールは美味しくないだろう」
陽一はグラスを片手にダイニングテーブルに向かう。
家族は皆自分に気を遣ってくれている。と朝妃は思う。きっと職場では父も冷たい対応をされているのであろうが、そんな様子は微塵にも見せない。
「お父さん、ビールつごうか?」
朝妃の申し出に目を丸くする陽一。
「お、珍しいなぁ。さては何か企んでるな。受験に合格したからってブランド物は買わないぞ」
「誰もブランド物を欲しいって言ってない」
朝妃は陽一の隣に座り、缶ビールのプルタブを開けた。
「じゃあ、なんだ? お父さんの魅力に今更気が付いたってか」
陽一はダイニングテーブルに置いてあったリモコンを手にとり、テレビの方に向けたが、はっとして、ボタンを押さずに元あった位置に置いた。
やはり気を遣っていると朝妃は思った。テレビをつけると、今回の事件の報道が流れるかもしれないという陽一の配慮なのか、ここ数日榎本家ではテレビがついていない。
娘二人が学校教師の死を目の当たりにしてきっと傷ついているはずだと陽一も朋子もそう思っている。
しかし、実際のところ報道では事故のことよりも、戸籍のない人間が公務員として公立中学校で働いていたことに世間は注目していることを朝妃はネットニュースで確認していた。
朝妃は陽一の目の前のグラスにビールを注いだ。
「お父さん、気を遣わなくていいよ。私も悠妃もさっき事件の話をしていたところだから。普通にテレビ見てね」
陽一はぐいっとビールを飲み干し
「ああ、そうか。お前たちは本当に強いな。お父さんだったら毎日うなされていそうだ」
と小さくハハハと笑った。
陽一が再びリモコンを手にし、テレビをつけるとちょうどバラエティー番組が放映されていた。なんとなくほっとする榎本家の四人。
「あ、そうそう、どうでもいい話かもしれないが」
陽一が切り出すと、朋子が炊飯器を開けてご飯を盛りながら「なあに」と問う。
「土屋さんとこのお嬢さんいただろ。ほら、東大卒の」
「ああ、麻衣子ちゃんね」
「あの子の家に今日配達に行ったんだけど、髪をばっさり切っていて、さらに茶髪になっていたから驚いたよ」
朋子は具だくさんのカレーをご飯の上にかける。
「そりゃ、女性なんだから髪も切るでしょうし、染めるでしょう」
「でも、いつも前髪も長くてなんか暗いイメージだったのに、急にあか抜けたなぁって。彼氏でもできたのかな」
「そういうことは詮索しない方がいいわよ。さあ、夕飯を食べましょう」
朋子が美味しそうなカレーを食卓に並べた。
十日町署では、笹本が廊下に貼られた一枚の手配書を眺めていた。
「笹本さん」
羽鳥の呼びかけにふと笹本が振り返る。
「何だ」
「いえ、何をご覧になっているのかと思いまして」
笹本が再び壁に貼られた手配書に目線を戻すと羽鳥もそちらを見た。
「ああ、これは」
それは、朝妃が住んでいる町で六年前に起きた少女強姦事件の犯人の似顔絵の描かれた手配書だった。
一重瞼に小さな鼻、えらの張った輪郭で髪の毛は短い。年齢は十六歳~三十歳くらいと手配書に書かれている。
「まだ捕まっていないんですよね」
「ああ。こいつは一体どこへ行ったのだろうな」
「海外にでも逃亡しましたかね」
「ひとつ、仮説を立ててみたんだが……。もしかしてこの男が、山口邦彦を名乗っていたんじゃないか」
笹本は丸々とした顎を突き出し、手配書をじっと見つめる。
「えっ」
思いがけない話に羽鳥は言葉に詰まった。
「でも、履歴書に載っていた顔写真と全然違いますよ」
「ふむ……まぁそもそもこの手配書の顔が似ているのかどうかもさっぱりわからんからな」
手配書の似顔絵は、目撃者の団野柊慈の証言と、インターホンの画像から作り出した。
団野家のインターホンは録画式になっており、宅配を装ってやって来た犯人の顔が映っていたが、帽子をかぶり、マスクをつけている上に画像が粗い。
さらにインターホンに顔が映るのをできるだけ避けようとしたのか、映っていたのは殆どがその男の腕や胸のあたりで、
数秒だけ映っていた顔も俯(うつむ)いており帽子のつばで目が隠れていた。
「でも、もしそうだとしたら犯人の特定ができるし、動機もある」
笹本の言葉に羽鳥はこの間、榎本家で朝妃から聞いた話を思い出す。
「それって……。犯人はもしかして団野家の人間だと……」
「姉を強姦した犯人が山口だと気付いた彼が殺した」
名前は伏せているが「彼」と断定している。当てはまるのは団野柊慈であろう。
僅か十五歳の少年が担任の先生を殺した? 羽鳥がうーんと唸っていると
「彼と言ったが彼女、の可能性もあるな」
「えっ、それは……」
「現場に落ちていた黒髪。団野結花がいまどのくらいの髪の長さなのか何色の髪をしているのかまで把握していないが、六年間も引き籠っているんだ。
髪を伸ばし続けていてもおかしくない」
強姦の被害を受けた本人が、犯人を殺した。となると動機としては完璧だが、羽鳥は考えてもいなかった笹本の仮説に頭が追いつかない。
「ま、仮説はあくまで仮説だ」
と笹本が羽鳥の肩をポンポンと二回叩いた。その時
「笹本警部」
廊下を新米刑事の丹川(にかわ)が走ってくる。
「山口邦彦が暮らしていた部屋から採取した毛髪のDNAと、遺体のDNAが一致しました」
「そうか、報告ありがとう」
やはり車の中の遺体は山口邦彦を名乗る男で間違いなかったか。しかし、羽鳥は先ほどの笹本の仮説が気になって仕方なかった。
柊慈のことも結花のことも昔から知っており、朝妃と同様、一緒に鬼ごっこをしたりサッカーをして遊んだ記憶がある。
柊慈はやんちゃで無邪気だけど誰よりも周りのことを気にかけている優しい少年だった。あの柊慈が殺人なんてとても考えられない。
それは姉の結花も同様で、いつもニコニコと優しい笑顔を振りまく華やかな女の子だった。羽鳥は混乱する頭のまま自分のデスクに戻る。
いや、でも待てよ。朝妃の話では山口の車が炎上した時、木下花蓮を除く五人は全員、団野家にいたとのことだ。
柊慈が花蓮を追いかけて家を出ていったとはいえ、学校までは徒歩二十五分かかる。柊慈が山口を殺すのは不可能だ。と自分に言い聞かせていた。
そうであって欲しいという願望もこめている。
ならば姉の結花が? いや、そうなると、団野家の人間全員が容疑者になる。柊慈の父も母も顔見知りだ。さらに離れて暮らしてはいるが、弓道の達人の祖父もいる。
団野家の人間は全員優しいイメージしかない。
頭の混乱具合がひどくなってきたので、羽鳥は首を振って一旦いまの考えをすべて白紙に戻そうとした。
「オレって刑事に向いていないのかな……」
ポツリと独り言を呟いた羽鳥は、デスクの資料をまとめはじめた。
凛と張り詰めた空気が漂う。柊慈は目をつむってその空気を大きく吸い込んだ。気温は一度とかなり低温で肺の中に冷たい空気が一気に入り込む。
目を開き、ゆっくりと弓を構え、矢を放った。……矢は的の一番外の黒い部分に刺さる。
こんなことをしている場合ではないと思いながらも、柊慈はもう一本の矢を取り出す。今日は二月二十四日。明日は受験の日で早朝から父に車で新潟市内まで送ってもらう。
本来なら最後の詰め込みで勉強に励まなければならない時間だ。しかし、家で机に向かっているとあの日の光景が浮かんできて、集中できなかった。
そこで無理を言って、いつも利用している魚沼の弓道場を借りた。精神を統一するため、柊慈は二本目の矢を放つ。今度は的の中心に当たる。
すべてを無にできたらいいのに。そう思いながら彼は三本目の矢を取り出した。
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