第7話

【第六章】


 十日町市の病院でじっと菜子を見守る二人。救急隊が駆けつけるとすぐさま搬送された菜子であったが、あれから五時間経過したいまも目を覚ます様子はない。

命に別状はないそうだが、血液検査の結果によれば、どうやら何かの薬を服用したようだということが分かった。

 菜子の父親と母親が病院に駆けつけて、菜子の名前を連呼している。


「どうして、どうして」


 混乱する菜子の母親の声が病院内にこだまする。


「落ち着いて下さい。命に別状はありませんから。体温が落ちて低体温症になりかけていましたが、いまは体温も回復しています」


 看護師の言葉が耳に届いているのか届いていないのか、菜子の母親は涙を浮かべてずっと名前を呼び続けている。


「おそらく何かの睡眠薬を飲まれたのだと思いますが、菜子さんは日常から睡眠薬を服用されていましたか?」


 医者の質問に菜子の父親、聡一が答える。


「いえ、娘は特に日頃、薬は服用しておりません」

「では、いったいどこから睡眠薬を入手したのでしょうね。ご家族にどなたか睡眠薬を服用されている方はいらっしゃいますか?」


 聡一は妻と顔を見合わせる。


「いえ、うちは誰も……」

「あ、もしかして」


 何かを思い出したような聡一は話を続ける。


「隣に幸子(ゆきこ)さんという九十歳のおばあちゃんが一人暮らしをしていまして、菜子がよく幸子さんのお手伝いをしているのです。

そういえばこの間、寝つきが悪いから薬をもらったという話をしていました」

「それはどういった名称の薬かわかりますか?」

「さあ……そこまでは」

「まぁ、でも九十歳の方にそこまできつい眠剤は処方されないはずです。もし、菜子さんがその方の薬を飲んだのなら直に目を覚ますでしょう」


 それを聞いた聡一と菜子の母親はほっとした表情をする。

 朝妃と愛奈未、そして愛奈未の母親も同席していたが、ここからは家族に任せましょう。と愛奈未の母親が朝妃と愛奈未に耳打ちして、三人は病室を出た。

 


 廊下に出てベンチに座ると力が抜けて朝妃はひどい疲れを感じた。


「朝妃、愛奈未」


 声がした方に翠と柊慈、そして翠の父親の肇がいた。


「あ、来たんだ」

「もちろん。菜子はどうだ?」

「ご苦労様です」


 愛奈未の母親が肇に挨拶をすると肇も「ご苦労様です」と返す。


「大丈夫だって。もうすぐ目が覚めると思うってお医者さんが」


 愛奈未の言葉に翠と柊慈もほっとする。


「そうか、良かったよ。電話をもらった時は焦った」


 朝妃は一一九番に電話した後、翠に電話した。


「翠、菜子を発見したんだけど意識がないの!」

「朝妃、落ち着いて。いまどこにいる?」


 電話の向こうで冷静さを失っているクラスメイトを翠は一旦落ち着かせた。朝妃はキャンプ場にいる旨を伝え、さらに救急車を呼んだと話した。


「いったいどうして、河原で倒れていたんだ?」

「それが……恐らく睡眠薬を飲んだみたいで……」


 その言葉に翠と柊慈の顔が曇る。


「自殺する気だったんか……。こんな寒い中で寝てしまったら凍死するだろう」


 四人はそれ以上何も口にできない。


「とにかく無事でよかったよ」

「柊慈、疲れていない?」


 愛奈未の言葉で、朝妃は柊慈が今日、高校受験の日だったことを思い出す。


「そうだ、柊慈。受験お疲れ様」

「ああ、帰りの車の中ですごい混乱した電話がかかってきてビビった」


 愛奈未は駐車場に走りながら柊慈に電話をかけたのだが、菜子が、菜子が大変なの! どうしようどうしようと脈絡なく叫んでいる愛奈未の声が車の中に響いていた。


「お前、普段しっかりしてるのに、いざという時はほんと混乱するよな」

「ごめん、あの時はかなり動揺してた」

「菜子……そんなに思い悩んでたんだ」


 しばし沈黙する四人。


「いま菜子の両親が来ているからもう大丈夫だと思うけど、顔だけ見ていく?」

「ああ、そうだな」


 翠と柊慈が病室に入る。


「朝妃ちゃん、遅くなっちゃったわね」


 愛奈未の母親が腕時計を見て心配そうに言う。


「いえ、大丈夫です。おばさんこそ巻き込んでしまってすみません」

「とんでもない。菜子ちゃんも私の娘みたいなものよ」


 菜子と朝妃はいままで何回も愛奈未の家に泊まりに行ったことがある。愛奈未には小学五年生の弟と小学三年生の妹がいて、家の中はいつも賑やかだ。


「今日は凛久斗(りくと)くんと友加里ちゃんは?」

「ああ、今日はスキー教室だったけど、旦那がたまたま休みだったから大丈夫よ。心配しないで」


 そういえばここに来る前、小学生たちの乗ったマイクロバスと遭遇したことを朝妃は思い出す。


 病室から翠と柊慈が出てきた。


「まだ眠っているな。今晩どこかできっと目を覚ますだろうって」

「そうね。私たちもいたら人数が多すぎるし、帰りましょう」


 愛奈未の母親がそう言って、車のキーを鞄から取り出した。病院の入口方面に向かって歩き出すと翠が柊慈の上着の裾を引っ張る。


「何だよ」

「お前だけ残れないか?」

「え?」

「菜子が目を覚ました時、お前がいた方がいい」


 翠の言葉に柊慈は目線を逸らす。


「お前、何となく気付いていただろう」


 こそこそと話す翠と柊慈に気付いた愛奈未が振り返る。

「どうしたの?」

「ああ、柊慈だけここに残れないかなって思って」


 翠の言葉に愛奈未は納得した顔をする。


「そうね。もし親が許してくれるならその方がいいかも」


 三人の会話の意味がよくわからない朝妃は戸惑う。


「菜子はお前のことが好きだ」


 翠の言葉に思わず「ええっ」と驚く朝妃。


「やっぱり朝妃は気付いてなかったんだ。朝妃って観察力がずば抜けているなって思うけど、そっち方面は鈍感よね」


 愛奈未の言葉に思わずオロオロしてしまう朝妃。


「そうだな。多分、朝妃以外はみんな気付いているぜ」


 柊慈は難しそうな顔をしていたが


「わかった。親に連絡してみるよ」とスマホを取り出した。


 ぽかんとしている朝妃の耳元で愛奈未が


「ついでに、柊慈は花蓮が好きだったのよ」


 と話す。


「え、えええええ?」

「朝妃は恋愛の勉強もした方がいいわね。あーあ。翠がかわいそう」


 翠がかわいそう? どういうことなのか朝妃はただ戸惑うばかりだ。


「何だよ。オレのこと何か言った」

「別にー」


 そうして、柊慈だけ病院に残り、あとの三人は家路についた。

 朝妃が家に辿り着いたのは夜の十時半で、ひどい疲れでそのままベッドに倒れ込んだ。

 


 夜の十時を超えた頃、菜子はゆっくりと目を覚ました。


「菜子!」


 ベッドの隣に座っていた菜子の母親が娘の瞼が開いたことに気付く。


「菜子、菜子大丈夫か⁉」


 聡一も声をかける。


「お……父さん、お母さん」


 菜子はぼんやりしている。


「えっと……ここは」

「病院よ。あなた、キャンプ場の河原で倒れていたのよ」


 母親にそう言われて、ぼんやりと記憶がよみがえる。菜子は山口が殺されたあの日、ゆき婆から預かった薬をたまたまポケットに入れたままにしていた。

「薬をついつい飲み忘れるのよ。菜子ちゃん今度薬を入れる何かを買ってくれないかい?」

「わかった。昨日は間違って二つ飲んじゃったから、私が預かっておくね。明日また持っていくから」

 次の日、結局菜子は花蓮が亡くなった旨を知り、そこから家に引き籠っていたのでゆき婆は薬を飲めていない。薬を渡しに行かなきゃ。薬のケースも頼まれているから買わなきゃ。

と思う菜子だったが、どうしても布団から起き上がれずにいた。最悪だ。


 菜子はすべてを思い出して急に泣き出した。


「わ、わたし……」


 涙が次々に溢れて、病院の布団を濡らしていく。


「菜子、いまは何も考えなくていいからゆっくり休んで」


 母親が菜子を抱きしめた。菜子の泣きじゃくる声が聞こえて、廊下でうとうとしていた柊慈は立ち上がった。

入っていいものか。自分に何ができるのかと戸惑ったが、ゆっくり深呼吸をしてドアをノックした。


「はい」

「失礼します」

「柊慈くん、菜子が目を覚ましたよ」


 母親の腕の中でわんわん泣いている菜子の様子を見て


「しばらくしたらもう一度来ます」


 と言って、ドアを閉め、再び廊下に出た。

 十分ほど廊下の窓からぼんやり夜空を眺めていたら、ドアが開いて聡一が顔を出した。


「柊慈くん、菜子が君と話したいって」


 そう言い、聡一と母親が気を遣って廊下に出た。


「失礼します」


 再び、病室に入った柊慈。菜子はベッドの上で涙を溜めた目を柊慈に寄せる。


「柊慈……」

「よっ」


 柊慈が軽く左手をあげた。


「ごめんね、心配かけて……」

「全然、大丈夫」


 菜子の潤んだ瞳を直視できない柊慈は、病室の素朴な色のカーテンに視線をやる。


「朝妃と愛奈未が私を見つけてくれたんだって」

「おう、ついでに翠も探してたぞ。悪いオレは試験の日だったから」

「うん……ごめんね疲れているのに」

「もう謝るなって」


 柊慈はベッドの脇に置かれた丸椅子に腰かける。


「……死のうとしたのか?」

「え?」

「死にたかったのか?」

「……わかんない。何もかもわからなくなって、目の前が真っ暗になって……」

「うん、そっか……」


 しばし、病室内に沈黙の時間が流れる。どこからともなく救急車の音が近づいてくる。


「死ぬなよ」


 菜子の目に溜まった涙が流れ落ちる。


「柊慈、私のこと恨んでいる?」


 菜子の質問に柊慈は菜子の目をじっと見つめる。


「どうして」

「だって花蓮は私のせいで……」

「菜子のせいじゃないよ」

「でも、柊慈は花蓮が好きだったよね」

「……ああ」


 救急車の音がストップすると再び静寂に包まれる。


「でも菜子のせいじゃない」

「でも」

「菜子のせいじゃない。オレのせいだ」

「えっ……」

「いまは話せない。だけど菜子は何も悪くないよ。ほんのちょっとタイミングが悪かっただけ」


 柊慈の優しい眼差しの奥に何か別の人格を垣間見たような気がした菜子。


「私、花蓮が羨ましかった。綺麗でスタイルもよくて髪の毛もさらさらで……」


 柊慈はどうしていいかわからず、菜子の手を握った。


「ごめんな、気持ちにこたえられなくて」

「……柊慈、私まだ告白してないよ」


 思わずぷっと笑う柊慈。それを見て菜子も笑う。


「笑ってくれた。菜子はわかりやすいからなぁ」

「ずっとわかってたの?」

「……うん」


 菜子は思わず赤面する。


「悪いけどオレ、帰るわ。もう大丈夫か?」

「あ、そうだね。今日試験だったんだよね。ごめんね」

「だから謝るなって。もう絶対こんなことすんなよ」


 菜子は頬に流れる涙をぬぐう。柊慈は菜子の両親と交代し、タクシーを呼んだ。



 朝妃は夢を見ていた。小学三年の秋の遠足で隣町の大きな公園へ行った時のこと。なぜか遠足なのに先生や他の生徒はおらず、六人だけが遊んでいる。

柊慈と愛奈未がひょいひょいと木に登る。翠も二人を追いかけて登っていく。菜子も後に続こうとするが、まだ一メートルものぼれていない。

花蓮はそんなクラスメイトを心配そうに見つめている。

 あれ、朝妃は自分がいないことに気付く。でもここには六人いる。もう一人は誰? あれは……おさげ頭でセーラー服を着た女の人。あれは結花だと朝妃は気付く。

 その表情は晴れやかで、楽しそうな子どもたちをニコニコしながら見つめている。しかし何が起こったのか四人がのぼる木が突然メラメラと燃え始める。

 頂上にいる二人は慌てて飛び降りる。続いて翠も飛び降りる。でも菜子は飛び降りることができない

「助けて」と泣き叫ぶ菜子。菜子に気をとられているといつの間にか花蓮がいないことに気付く。

 花蓮がおらず、菜子が逃げ遅れているのに全く気付かない様子の柊慈、愛奈未、翠。

「菜子が助けを求めているよ!」「花蓮がいないよ!」と叫ぼうとする朝妃だが、声が出ない。私はどこにいるの? 

ねぇ誰か私に気が付いて! ねぇ……すると辺り一面銀世界の空間に突然飛ばされる。そこには誰もおらず朝妃は一人でポツンと立っていた。ここは……。


 ぼんやりと視界が開けていく。日差しがまぶしい。日差し……?

 朝妃は自分が泣いていることに気付いた。いつもの自分の部屋だ。ベッドの脇に置かれた目覚まし時計は七時半をさしている。夢だったんだ。

 あの遠足の日。確かみんなで木登りをしたのは覚えている。あれは確か……。

 その瞬間忘れていた記憶がよみがえり、朝妃の頭の中ですべての線が一本につながる。


「嘘……」


 自分でも信じられなかった。朝妃は呆然とただ自分の手のひらを見つめる。


「朝妃、起きているなら朝ご飯食べてちょうだい」


 朋子の声で我に返る。今日は日曜日だ。枕元のスマホには柊慈からのメッセージが届いていた。


「菜子が目を覚ました。無事だ」


 ベッドから起き上がり、顔を洗って歯を磨く。服を着替えていつも通り榎本家のダイニングで朝食をとる。白米、味噌汁、海苔、焼き魚。

黙々と食べる朝妃を不思議そうな顔で見ている悠妃。


「お姉ちゃん、今日全くしゃべらないね」

「え、ああ……ちょっと寝不足で」

「そっか。色々大変だったもんね」


 朝妃は茶碗に残った白米をお箸でつかむ。


「今日はもっと大変なことになるかもしれない」

「え?」


 朝妃の声が小さくて悠妃は聞き取れなかった。ご飯を食べ終わった朝妃は目を閉じて深呼吸をする。久しぶりに空には太陽が輝き、銀世界を照らしている。


「ちょっと出かけてくるね」

「え、うん。気をつけてね」


 朝妃はいつものダウンコートを着こみ、手袋をはめてマフラーを巻き、ブーツを履いて外に出た。



「今日はいい天気ですね」


 ハンドルを握る羽鳥はいつもより視界のいい山道を軽快に走っていた。


「晴れだからってあんまりスピード出すなよ。慎重に頼むよ」

「わかりました」


 羽鳥と笹本はある人物の家に向かっていた。


「今日こそ犯人を特定できますかね」


 羽鳥の質問に笹本は低い声で「うーむ」と答える。


「あくまで可能性があるというだけだ」


 その可能性が何パーセントなのか気になる羽鳥だが、余計なことは言わずにアクセルを踏む。

 日曜日の町はいつも通りがらんどうとしており、玄関の前の雪かきをしている人がたまにいる程度だ。こんな小さな町で起こった奇怪な事件は解決するのか。

羽鳥は隣でだまりこむ笹本の顔をチラリと覗き込み、再び目線を前にやる。

 町に二つだけある信号にさしかかると、赤だった。横断歩道をおじいさんとおばあさんがゆっくりと横断するのを待ち、再びアクセルを踏み込んだ羽鳥は右に曲がり坂を上っていく。

すると羽鳥のスマホが鳴り始めた。


「すみません笹本さんとって頂けますか?」

「ああ」


 運転中の羽鳥に代わり、笹本がスマホに出る。


「どなたですか?」


 羽鳥の質問に笹本は答えない。



 電話をポケットにしまった朝妃は再び深呼吸をする。冷たい空気が肺を満たし、気持ちが引き締まる。陽光が雪に反射してまぶしい。

高台から一帯を見下ろすと、そこには朝妃が育った大切な町がいつも通りあった。震える手でインターホンを押すと、聞きなれた声で応答があった。


「はい」

「あ、榎本です」

「ああ、朝妃ちゃん。ちょっと待ってね。柊慈さっき起きたところだから」

「朝早くにすみません」


 しばらくすると、上下スウェット姿の柊慈が玄関にやって来た。


「早いな」

「ごめん。昨日遅くまで菜子のそばにいてくれたんだよね」

「まぁいいよ。あがれよ」

「あ、できれば離れで話したい」

「わかった。準備するし離れで待っといて。暖房勝手につけていいから」


 朝妃は玄関から出て何度も訪れた離れの扉を開ける。ひんやりとした空気の中に古い木材の匂いだろうか独特の香りが漂い、

黄色くなった畳にいつものように漫画やゲームが置かれている。

 石油ストーブのスイッチを押して、朝妃は目を閉じて正座をしていた。


「お待たせ。何? 瞑想(めいそう)でもしてんの?」


 朝妃がゆっくり目を開けると、そこにはいつもの柊慈がいた。紫のパーカーに黒いズボン。綺麗な二重瞼と高い鼻。あまり意識したことがないが、柊慈は割と綺麗な顔をしている。


「柊慈ってイケメンだったんだ」

「は?」


 朝妃の突然の発言に虚を突かれた柊慈はストーブの前に座る。


「何をいまさら」

「そうだよね」


 朝妃がクスっと笑うと柊慈も笑った。


「あのね……」

「何? 深刻な顔してるな」

「うん、深刻な話をしようと思って」

「どうした?」


 朝妃は再び目を閉じて、一度新呼吸をした。


「あのね、私、犯人が誰か分かってしまったかもしれない」

「ほう……」


 柊慈が息を止めたのが朝妃にも分かった。


「あのね、山口先生の車が燃やされたよね」

「うん」

「あの車……タイヤ痕を見る限りスリップしているんだよね」

「うん」


 柊慈は無表情のまま頷く。


「スノータイヤを装着しているのにどうしてあんなスリップをしたんだろうって」

「うん……で、朝妃はどう考えた訳?」


 何も知らない子犬のように顔を覗き込む柊慈。朝妃はそんな彼から思わず目線を逸らした。


「スノータイヤをスノータイヤでなくしたんじゃないかって」

「ん?」


 予想外の答えに柊慈は呑み込めないといった表情をしている。


「どういう意味だ? スノータイヤから普通のタイヤに変えたってことか」

「そう、ジャッキとか工具とか何も使わずに」

「え、そんなの不可能だろう」

「割と身近なものを使用したんじゃないかな。例えばボンドとか」

「ボンド?」


 柊慈が眉間に皺を寄せる。


「うん、クリアボンドってホームセンターとかで売ってるじゃん。屋外用の水に強いやつ。あれをタイヤの溝に埋め込んでいけば、スノータイヤの要(かなめ)とも言える溝がなくなる」


 柊慈は上を向いてその様子を想像しているようだ。


「かなり大変だな」

「そうだね。細かい作業だね」

「それでスリップしたってか」

「うん、でもそれだけじゃなくてあの車には他のトラップも施してあった」

「トラップ?」


 柊慈は部屋の隅に置かれていた古いクマのぬいぐるみを抱きかかえた。


「うん。松脂って分かる?」

「えーと……。松の木を触った時に手がべとつくあれか」

「そう。ハンドボールをやっている人が、ボールが汗で滑らないように松脂を手のひらに塗るの。だから一般人でも簡単に入手できる」

「で、その松脂をどうしたと?」

「車に塗りつけた」


 朝妃の大胆な推理に柊慈は目を丸くした。


「えっ、塗りつけた⁉」

「うん、特に車体の下と助手席部分に」

「それはまたご丁寧な作業で」

「本当に。多分塗るだけじゃなくて、新聞紙に松脂をしみ込ませたものを車の下の部分に差し込んだりしていたんじゃないかな」

「まるで整備士みたいだな。車の下ってそんな簡単に入りこめるのか?」

「わからないけど、スバルのフォレスターは割と車高が高いから腕くらいは十分に入るはず」

「もしかして、それで車が燃えたと?」

「うん、その通り」


 朝妃は部屋を見渡す。この部屋で何度遊んだであろう。トランプをしたりゲーム大会をしたり、お菓子パーティーをしたり、楽しい思い出がたくさん詰まった部屋だ。


「うーん、確かに松脂は燃えるけど……。でも火元がないんじゃないか? 石垣に激突した衝撃で発火したのか?」

「それは……きっと火元を犯人が打ち込んだんだよ」

「打ち込んだ?」

「そう。弓と矢を使って。きっと矢はカーボン素材の矢を使ったんだろうね。車の素材にも利用されているから、燃えカスからカーボンが検出されても不審に思われない」


 朝妃は体の震えを抑えながら柊慈の目を見る。


「……つまり犯人はオレだと」


 柊慈もじっと朝妃の目を見つめ返す。


「車の周辺に足跡がなかったことから考えると、恐らく渡り廊下から矢を放ったんじゃないかな」

「面白い推理だと思うけど、火のついた矢なんて放ったことがない」

「それは本当?」

「ああ、そんなの考えたこともない」

「じゃあ雑木林で見たあれは何なんだろう」

「雑木林?」


 柊慈が手にもったぬいぐるみを強く抱く。

「うん、前にね、貫太ちゃんの飼い犬のもずくが散歩中に逃げて雑木林に入ってしまって、追いかけたの。

その時、ブナの木に奇妙な穴がいくつか空いていて、その穴の周りに白い粉のようなものが付着していたのを発見した」


 朝妃は目線を逸らさない。逸らしてはいけない。向き合おうって決めたから。


「白い粉って……」

「消火剤じゃないかな。つまり犯人は火のついた矢を放って狙いを定める練習をしていた。しかし、火が木に燃え移って山火事になったら大事(おおごと)になってしまう。

だから矢を射った後に消火剤をまいた」


 柊慈も目線を逸らさない。二人の視線が冷たい空気を切り裂いてぶつかり合う。


「すごいな。そんなことができたら」

「実際にあるみたいだよ。和歌山県の串本町で火のついた矢を放つお祭りがあるってネットに書いてあった」


 柊慈はポケットからスマホを取り出して、検索する。


「本当だ。春を呼ぶ本州最南端の火祭り。望楼の芝焼きって書いてある」


 朝妃は目を閉じて、静かにうなずく。


「おい、朝妃。オレが犯人だってどうして言い切れるんだ。練習したのなら他の誰でも可能だ。

それにオレがあの日、花蓮を追いかけて家を出てから山口の車の衝突音が聞こえるまで十五分ほどだったはずだ。その時間オレが例え学校に向かったとしてもまだ到達していない」

「それも運動神経のいい柊慈ならきっと可能だと思う」


 朝妃は震える手をもう片方の手で押さえる。その様子を見ていた柊慈が抱いていたぬいぐるみを置いた。


「オレの俊足でも走ったら滑って転ぶぞ」

「走っていない。家の裏の斜面を竹の橇(そり)で一気に滑り下りた。この家の裏側には新しい高速道路建設のために山が切り開かれて、木がない斜面があるよね。

冬の間は工事が中断されている。フェンスで囲まれているから人目にもつかない恰好の場所だと思う」


 再び朝妃の視線と柊慈の視線が空中でぶつかりあった。


「あの斜面を? あそこは傾斜角二十度くらいあるぞ」

「そう。だから一気に滑り下りることができた。私なら途中で転んでしまうかもしれないけど、柊慈は運動神経がいいから……」


 そこで突然柊慈が立ち上がった。


「いい加減にしてくれ。朝早くやって来たと思ったらいきなり犯人扱いかよ。それはすべて朝妃の頭の中で作り上げた物語だろう」


 いつもは優しい顔をしている柊慈の見たことがない剣幕に朝妃は背筋が凍る思いだったが、歯を食いしばってぐっとこらえる。


「確かに何の証拠もない」

「だろう。だったら勝手にオレを犯人に仕立て上げないでくれ」


 朝妃は、ポケットの中に隠したスマホの保留ボタンを押した。すると離れの扉がガラガラと開いた。


「お邪魔します」


 入ってきたのは羽鳥と笹本だった。


「いまの話、すべて聞かせてもらったよ。確かにまだ証拠は出てきていない。これから君の指紋を採取させてもらおうと思う」


 そう言って笹本が警察手帳を柊慈に向かってかざす。彼は突然現れた刑事二人に戸惑いの色を見せる。


「裕兄ちゃん……」

「久しぶりだな柊慈」


 羽鳥も懐から警察手帳を取り出した。


「朝妃……」


 柊慈が朝妃の方を見ると、朝妃はスマホを握っていた。


「ごめんね、ずっと通話状態にしていたの。いまの会話を聞いてもらっていた」

「君を疑うなんて本当はものすごく嫌だけど、犯人である可能性が捨てきれない」


 羽鳥はそう言って警察手帳を再びスーツの裏ポケットにしまった。


「どうして……」

「あの山口を名乗っていた男の本名は宇都宮春樹(うつのみやはるき)。そう、君のお姉さんを襲った犯人だからだ」


 羽鳥の言葉に、顔をしかめる柊慈。


「君はあの男が姉を襲った強姦魔だと気が付いてしまったんだ」


 朝妃は、結花を襲った犯人が自分の担任教師だったという話に驚きを隠せない。


「結花さんが襲われた日に押されたインターホン。録音されていた宅配便の配達員を装った男の声と、里峰中学の校長からもらった入学式のDVDの山口邦彦を名乗る男の声。

この二人の声が声紋鑑定で一致した」


 声紋。それは声を周波数分析装置で図に表したもの。いくら声を上ずらせても、わざと低い声を出しても本来の生まれ持った声の質は変わらない。


「どうしてあの男が犯人だと気付いたんだ?」


 羽鳥の質問に鋭い視線を返す柊慈。


「ちょっと待ってくれ。裕兄ちゃんまでオレが犯人だと言うのか。指紋を採取って……どこに指紋が残っているんだ」

「そうだな。まず、十六日の車が炎上した現場付近からはたくさんの指紋が検出された。

当然だが、小学校、中学校という場所だ。少人数とはいえ、不特定多数の人間が様々なものを触っている。

二つ目の火災が発生した裏門や小学校の職員用通用口のドアノブからも多人数の指紋が検出された」

「じゃあ、もしその中にオレの指紋が残っていても、おかしくないってことだろう。オレはあの学校の生徒だ」

「もちろんその通りだ。しかし、木下花蓮が持っていたセロハンテープのカッター。

普通なら木下花蓮自身の指紋が残っているだろうに、誰の指紋も検出されなかった。これはつまり、誰かが拭き取ったと考えるのが一般的だ」


 羽鳥の言葉が狭い離れの和室に響く。


「じゃあオレの指紋を採取しても無意味なんじゃ……」

「そんなことはない。唯一指紋が残っていたものがある」


 朝妃は息をのんだ。


「まず、先に言っておこう。二月十六日に宇都宮春樹を殺した人物。そして翌日の十七日に木下花蓮を殺した人物。この二つの事件は同一犯の犯行だと思われる。

しかし、犯人は恐らく木下花蓮については殺すつもりはなかったんじゃないだろうか」


 羽鳥の言葉に、柊慈は目元をぴくりと動かした。


「この犯人だが、十七日に木下宅を訪問した際になぜかインターホンの電源を切った。理由は不明だが、誰にも邪魔されずに話がしたかったとか。そんなところじゃないだろうか」


 そういえば花蓮が亡くなった当日、翠が木下宅を訪問したが、インターホンが鳴らなかったと言っていたのを朝妃は思い出す。


「実際、警察が捜査に入った午後三時ごろにインターホンの電源は落とされていた。木下花蓮の母親に確認したところ、朝の時点ではついていたはずだと。

もしかしたら犯人が消したのかもしれないと思って電源ボタンから指紋を採取したら、木下花蓮でも、千夏でもない誰かの指紋が出てきた」


 朝妃はごくりと唾を飲んだ。羽鳥は、柊慈の目を捉えたまま淡々と話し続ける。


「犯行の後、犯人は痕跡を残さないために、セロハンテープや使用した鉛筆、床についた指紋などを綺麗に拭き取っていたようだが、インターホンのことをすっかり忘れていたようだな」


 柊慈はひきつった顔をしているが、無言のまま羽鳥の言葉に耳を傾けていた。


「あと……木下花蓮の家を捜索した際に、あるものがなかった。もしかしたら犯人がまだ持っているかもしくは捨てたと考えられる」

「あるもの?」


 朝妃が問う。


「トレーシングペーパーだ。犯人は木下花蓮の遺書を偽造するため、トレーシングペーパーを利用した」


 トレーシングペーパーと聞いて、朝妃はすぐにそれが思いつかなかった。ペーパーというのだから紙なのだろうが、聞きなれない名前だ。


「中学三年の美術の授業で版画を彫ったはずだ」


 そう言われて朝妃は思い出した。確か東海道五十三次の絵を版画で彫るのに、トレーシングペーパーを利用して、絵を写した。

トレーシングペーパーとはとても薄い紙で、絵を模写する際に利用する。確かマスキングテープで貼り付けて、鉛筆で絵をなぞり、その紙を外して裏返し、

6Bの鉛筆などで線の辺りを塗る。そして別の白い紙にその用紙を貼り付けて上からボールペンなどでなぞると、裏に塗られた黒鉛が紙に写るという仕組みだった。


「遺書が平仮名で書かれていたのはそのためだ。犯人は木下花蓮の部屋からノートをいくつか物色し、その中から一文字ずつトレーシングをした。

この時、『仲間外れ』や『死にたい』といった漢字は見つからず、やむを得ずすべての文字を平仮名で表記することになった。紙の上部にテープを剥がした跡があったのはそのためだ」


 それで、あの遺書が出来上がったのか。部屋の中に石油ストーブを炊いているとはいえ、朝妃は急に冷や汗をかき始めた。


「筆跡というのは声と同様、その人の特徴が出る。いくら似せて書いても別人が書いた文字ではばれてしまう。そこで犯人は模写することを思いついた。

我々が木下花蓮の家を捜索した際、机の中からトレーシングペーパーが発見されなかった。きっと犯人が持ち帰ったのだろう」

 

 柊慈がため息をついた。


「インターホンの電源にオレの指紋がついているのは、花蓮の様子を見に行った際に玄関の扉が開いたままになっているのに、呼んでも返答がなかったから、

不審に思って、インターホンの記録画像を確認しようとしただけだ。その時、間違って電源を落としてしまった」

「苦しい言い訳だな。そもそも木下花蓮が亡くなったのは絞殺だが、自殺の場合、果たしてマフラーなんか使うだろうか」


 羽鳥も冷や汗をかいたのか、ハンカチを額にあてる。


「自分のそばにあるもので手っ取り早く首を絞められそうなものを選んだんじゃないか」


 柊慈が吐き捨てるように言う。


「……彼女が使用していたのはバーバリーのカシミヤ素材のマフラーで、かなり柔らかい。

首にくいこんで亡くなるまでを想像すると、もっと固いものや強度の高いものを使用した方が早く死に至れる。あのマフラーで首を絞めるとなると、

よほど力の強い人物が使用したのではないか。と推測できる」


 朝妃はその時の光景が目に浮かんで思わず吐き気がした。


「あの家にはガーデニングや畑仕事に使用するロープもあった。それに電気の延長コードなどもある。それを避けてマフラーで首を吊る選択をするのは、頭のいい彼女らしくない」


 後ろで聞いている笹本は腕を組み、じっと羽鳥の言葉を聞いていたが、ここで口を開いた。


「確かに、自殺にしては不可解な点が多いのに、自殺として処理してしまったのは我々警察のミスだ。

ここにいる榎本さんが自殺ではないと主張してくれない限り、この事件は永久にお蔵入りするところだった」


「朝妃が……」


 柊慈が朝妃の方を一瞥すると、思わず朝妃は目線を逸らした。


「でも、オレがやったっていう証拠はないだろう」

「榎本さん」


 突然、笹本が朝妃の名前を呼ぶ。


「は、はい」

「先ほどの電話で君が伝えてくれた内容を彼に話してくれないか。君が木下家に到着して、脱衣所に向かった時、浴室のマフラーはどうなっていた?」


 思い出したくない光景を朝妃はもう一度思い出す。胃の中のものが逆流しそうだったが、必死でこらえる。


「真っ二つに切られた状態で落ちていました。二つのうちの片方が固結びになっていて、柊慈はほどけなかったからキッチンバサミで切ったと言ってました」

「そう、彼の証言通り、木下家のキッチンバサミからはマフラーの繊維が検出されている。それで我々は団野くんの言う通り、

浴室の洗濯用ポールにマフラーを結び付けて首を吊っているところを発見し、慌てて切った。という供述を信じて自殺だと判断してしまった。

しかし、我々と違い団野くんと付き合いの長い榎本さんはそれが嘘だと気付いてしまった」


 笹本が朝妃の方を向いた。


「はい……。柊慈は弓道の矢を射る時は右利きなんですが、それ以外はすべて左利きなんです。お箸を持つのもボールを投げるのもすべて左手です。

固結びをする時、右利きの人と違って柊慈はいつも左側の紐を上から回して結ぶ癖があります。花蓮の家で……浴室で見つけたマフラーは左側が上になる結び方でした。

花蓮は右利きで、私と同じように右側の紐を上から結ぶのを知っています」


 朝妃は今朝見た夢の内容を思い出した。あの遠足の時、ブナの木に登っていた柊慈は、たまたま木の枝の間に挟まっていた誰のものかわからないボールを左手で投げ落とした。

そして、木から降りた後、確か朝妃の靴紐がほどけているのを発見して結んでくれた記憶がある。結び方はいま言ったように、左側の紐を上から回していたのを覚えている。

 幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた朝妃だから分かる、柊慈と花蓮の紐の結び方の違いを指摘された柊慈は唇を嚙んだ。


 朝妃はこの部屋に来た時から気になっていたことがあった。部屋の奥の壁にいつも立てかけている、あれがない。そうだ。十六日に四人が集まった時にもなかった。


「現在、榎本さんが発見したブナの木に開いた矢の跡と、君の持っている矢の先端が一致するか確認させてもらっている」

「……」


 笹本は暑くなったのか上着を脱いで話し続ける。


「つまりはこうだ。二月十六日。君はバレーボール部の練習が始まった後、学校の駐車場へ赴き、山口……いや宇都宮がいつも乗っているフォレスターのタイヤにボンドを塗り、

さらに松脂を車体の裏に塗りつけた。この際、きっとボンドを助手席のドアの隙間にも塗ったんじゃないか。もしかしたら後部座席のドアにも塗ったかもしれない。

そして一旦帰宅した。君は、バレーボール部の練習が九時半から五時までだと知っており、さらに土曜日は必ず練習が終わった後に彼が金魚に餌をあげるため、

職員室へ行くことも知っていた。君の友達の陸山翠や杉愛奈未は夏までバレーボール部にいたからいくらでもそういう情報は聞き出せる。

練習が終わった五時ごろに、木下花蓮を追いかけるふりをして、玄関を出た君は家の裏手に周り、倉庫に置いてあった竹の橇で一気に斜面を滑りおりた。

この際、弓矢を持っての移動だから大変だったろうが、運動神経の良い君ならできるだろう。

そうやって学校へ到着した君は、覆面か何かをかぶり正体がばれないようにして職員室から出てきた宇都宮を追いかけた。

弓矢は一旦どこかに隠しておいて手には刃物でも持っていたんじゃないか。慌てた宇都宮は逃げる。

君は雪の上に足跡が残らないように校内で彼を追いかけながらうまく駐車場の方へと誘導していった。

そして自身の車に乗りこんだ宇都宮は慌ててエンジンをかけて、アクセルを踏み込んだ。しかし、駐車場から正門に辿り着くには必ず左折をしなければならない。

ハンドルを回したが、スノータイヤの機能を失った車はスリップして正門近くの石垣に激突した。そこですかさず、君は車からある程度離れた場所で火のついた矢を射った。

車の車体下辺りを狙ったのだろうな。火が引火した車から逃げようとする宇都宮だが、運転席側は石垣にぶつかっていて開かない。恐らく、助手席の扉を開けようとしただろうが、

強力な接着剤で貼りついていてそう簡単には開かない。さらに、車の窓ガラスやフロントガラスにも細工をしたんじゃないか。ガラス破りの防止フィルムなどを貼っておけば、

ガラスをたたき割ることもできない。この辺りのものは、ホームセンターや、ネットなどで容易に入手できる。逃げ場を失った宇都宮はパニックのまま車の中で焼け死んだ」


 朝妃は息をもらす。そこまで用意周到に殺人の計画を立てていた自分の友人が信じられない。


「そして、ここから証拠隠滅と足跡の痕跡をわからなくさせるため、君は第二の火災を起こす。弓道の弓は二メートルほどあってとにかく目立つ。

そして斜面を滑り降りた竹の橇も見つかる前にすべて消去したい。君は、それらを燃やすことにした。きっと竹の橇は最小限のサイズの物を作ったのだろう。

もしくは、分解できるようにのこぎりや釘抜きを持っていた可能性もある。そののこぎりを手に持って山口を追いかけたのかもしれないな。少なくとも弓は切断したはず……」


 笹本が話している途中で朝妃が口を開いた。


「おじいちゃんからもらった、竹の弓……」


 朝妃は思い出した。柊慈が小学生の頃、祖父から竹弓をもらったと話していたことを。

弓道の弓は昔ながらの竹弓、そしてカーボン素材やグラスファイバー素材もあるという話を彼から聞いた。その時の彼の目はキラキラ輝いていたはずだ。


「そう、竹の弓と竹の橇だけ燃やすとそれが証拠だと自ら示しているようなものだ。そこで君は、余分なものを色々燃やした。

弓と橇以外の竹、シルク素材のシャツや綿素材の靴下、そして、ペットボトルやビニールなどの不燃品、さらには一番怪しいUSBメモリースティック。

燃え跡に鉄の釘がたくさんあったのも、きっと橇を解体した際の釘と混じって分からなくするためだろう。油は至って普通のサラダ油を利用したようだな。

それでも竹と油だとよく燃える。そして、第二の火災に気が付いた消防団や町の人が裏門の方へ駆けてきて、

さらには消防団の人が裏門から一番近い小学校の校舎の職員用通用口から中に入って消火器を摂りに行った。

なんせ、裏門の外の道はとても細い。消防団の消防車も化学消防車も入ることができない道だ。町の人たちがそういう行動をするであろうことまで君はすべて読んでいたのだろう。

校舎内のどこかに身を潜めておいて、みんなが消火活動に必死になっている隙に、何食わぬ顔で現れる。野次馬たちもたくさんいたようだから、

君がいても消防団の人たちは何も思わないだろう。そして、警察が到着するまでの時間もある程度読んでいた。

我々が到着した時点では既に裏門付近には多数の足跡があって、どれが真犯人の足跡かわからない状態になっていた。見事だよ」


 その時、笹本のズボンのポケットから着信音が鳴った。


「はい、はい。了解だ、ありがとう」


 笹本が通話終了のボタンを押す。


「ブナの木に残った矢の跡と団野くんが持っている矢の跡が一致したそうだ。また、その近辺の雪の中から使用済みの消火器が二本発見された」


 柊慈は、目を閉じた。


「……くそ……」

「柊慈……」


 朝妃はどんな顔をして自分の大切な友人を見ればいいのかわからない。


「宇都宮は、裕兄ちゃんの言うとおり。オレの姉ちゃんを襲った奴だ」

「どうしてそれが分かったんだ?」


 羽鳥は自分の知っている正義感に溢れた柊慈の姿と、いま自分の前にいる男が一致しなくて困り果てていた。


「プールの時間にさ……。あいつ、顔も整形していたし、太ももの三つ並んだホクロも除去してたんだけど、もう一つ、警察には話していない記憶があって」

「何だ?」


 羽鳥も暑くなったのかコートを脱いだ。


「足の裏にもホクロがあるんだよ。右の足。足の裏ってかなり珍しいだろう」

「確かに……」

「でもそれだけで?」


 羽鳥は再び額の汗をハンカチで拭う。


「いや……あとは裕兄ちゃんの言うとおり声だ。プールの授業で右足の裏にホクロがあるのを発見したオレは、まさかと疑った。

あいつがこの町に帰ってきたのかと思って背筋が凍ったよ。しかもオレの担任教師なんだぜ。でも人違いかもしれない。

そう思って、昔、宅配便を装った時のインターホンの音声といまの奴の声を録音して声紋判定をお願いしたんだ。お金は母親のたんす貯金から勝手に使った。

結果が返ってきて身震いがしたよ。オレの姉を襲ったやつが何喰わぬ顔で教師として働いてるんだぜ……」


 朝妃は山口、いや宇都宮の姿を思い出す。気さくで明るい、話しやすい先生だと信じ込んでいたのに、結花を襲った犯人が自分の担任教師だったなどとは微塵にも思わなかった。


「どうして警察に連絡しなかったんだ⁉」


 羽鳥の言葉に柊慈は鋭い目つきをする。


「警察に捕まったところで強姦では死刑にはならない。それならオレがあいつを葬ってやろうって」


 鋭い眼光の中に、まだ少年のような幼さを一瞬垣間見たような気がするのは気のせいだろうか。と、羽鳥は一瞬たじろいだ。


「それにしても、どうしてわざわざ車に閉じ込めて焼死させるような面倒なことをしたんだ?」


 柊慈の鋭い視線にも気後れしない笹本が淡々と質問する。


「……刑事さん。さっきの推理に一部追加するなら、車を燃やすのには松脂だけではなくて、フラッシュコットンも使用した」

「フ、フラッシュコットン?」


 羽鳥はそれが一体何なのか思い浮かばない様子だ。


「マジックなどに使う一瞬で燃える綿(わた)のことだな」


 笹本の言葉に、羽鳥は「ああ」と返答する。


「車全体に一瞬で火を回らせるために、あちこちに挟んでやったよ」

「なるほど。フラッシュコットンなら燃えカスも残らないからな。全く、今時はネットで何でも手に入る時代だから恐ろしい」


 朝妃もそういえばテレビか何かでフラッシュコットンが一瞬で燃え尽きるのを見たことを思い出した。


「それはわかったが、質問の返事にはなっていないぞ。どうしてそこまでして焼死にこだわったのだ?」


 笹本が柊慈の目をじっと見つめる。しかし、柊慈は口を開こうとしない。


「か……花蓮は?」


 朝妃は必死で声を絞りだした。柊慈が朝妃の方を向く。その目は朝妃の知っている頼りがいのある男の目ではなかった。暗く冷たい殺人鬼の目。


「オレと花蓮は付き合っていた」

「えっ……」

「花蓮に告白したんだ。中学二年の夏だったかな。絶対断られると思っていたらあいつが……いいよって。でもあいつは……」


 柊慈が頭を抱えた。


「浮気した。相手はあの宇都宮だ。宇都宮がこの学校にやって来たのは花蓮を狙ってだ」


 想像を絶する話の展開に朝妃と羽鳥は息をのんだ。笹本は相変わらず表情を変えない。


「花蓮が東京にいた頃の友達に会うために上京した時に奴と出会ったそうだ。まだ中学一年の時。美しい花蓮に惹かれた宇都宮の方から声をかけたらしい。

その後、宇都宮は何食わぬ顔で花蓮のいる町に引っ越してきやがった。そしてまんまと彼女の担任教師になり、彼女を狙っていた」

「信じられない……」

「信じられないけど本当の話だ。宇都宮は花蓮がモデルを目指していることを利用した。オレと付き合ってくれたら高校にあがった時に芸能事務所の社長にお前を推してやるとか言ったらしい。芸能事務所の社長と面識があるなんて嘘に決まっている。でも花蓮は宇都宮の言葉を素直に信じて応じた」

「……」

「花蓮は山口と肉体関係を持っていた。実は花蓮は妊娠したんだ」

「えっ……」


 声にならない声が喉の奥で詰まり、朝妃はひどく息苦しく感じた。


「結局流産したんだけどな。ほら、十二月に一週間ほど花蓮が体調不良で休んでいただろう」


 そういえば、たしかにそうだ。と朝妃は思い返す。


「あいつはオレの姉に手を出しただけではなくて、花蓮のことも騙して、しかも子どもまで作りやがった。許せなかった。

宇都宮も許せないけどオレのことを裏切った花蓮も許せなかった」


 柊慈が自分の拳を強く握る。その剣幕は朝妃がいままでみたことのない彼の姿だった。


「でも、何も花蓮ちゃんまで殺さなくても……」


 羽鳥がそう言うと、苦悶の表情のまま柊慈が羽鳥の方を向いた。


「裕兄ちゃんの言う通り、殺すつもりなんかなかった……。あの日、オレは花蓮が心配で家に行ったんだ」




 午前十時ごろ、木下家の前で柊慈は花蓮にメッセージを送った。


「家の前にいる」


 すると、花蓮がそっと玄関のドアを開ける。柊慈は黙って門を開け、玄関から家の中へと入った。千夏がパートに出ている時間だということは知っていた。


「花蓮、大丈夫か?」

「何が?」

「何がって……。お前、昨日オレの家を去ったじゃないか」

「ああ……」


 花蓮はあまり表情を変えない。柊慈をリビングに通して、キッチンの食器棚からポットを取り出し、お湯を沸かし始めた。


「大丈夫。みんな私に気を遣ったんでしょ」

「菜子はあんなこと言ってたけど、気にすることはない」

「気にしてないよ」

「嘘だ。本当は気にしているくせに」


 柊慈にそう断言されて花蓮は少しムッとする。


「どうせ私はこの町の人じゃないから」


 花蓮が鍋に沸かしたお湯をポットに注ぐと、ダージリンの香りがふわりと広がった。


「そんな言い方するなよ」

「だって本当のことじゃない」

「お前はこの町に来て六年だ。もうすっかりこの町の住人だよ」


 柊慈のフォローにも表情を変えない花蓮。


「……正直、こんな田舎町は嫌だ」

「それは本音か?」

「もうすぐ東京に行ける」

「東京は確かにオレら田舎者にとっては憧れの町だけど……」

「昨日……あの人死んだんでしょ?」


 花蓮が紅茶を注ぐ手を止めて柊慈の目を捉えた。


「あの人って……。知っているのか」

「うん、昨日大騒ぎになっていたから」

「そっか……」


 頭を垂れる柊慈。


「悲しくないのか?」


 柊慈の質問を聞いているのか聞いていないのか、花蓮は無言で紅茶に砂糖を入れてスプーンで混ぜる。


「……悲しいよ」

「それは担任教師としてか?」


 柊慈の視線と花蓮の視線がぶつかり合った。


「……わかんない」

「なんだそれ。あいつは花蓮を騙していたんだよ」

「それ何度も聞いた」

「あいつはお前の体を求めているだけだ」


 花蓮は視線を外し、黙ったまま紅茶のカップを柊慈の前に置いた。


「無視するなよ」

「してない」

「ちょっとは罪の意識を感じてくれよ。オレのことはどうでもいいのか?」

「そんなことを言うためにここに来たの?」


 花蓮のチクチク刺さる言葉に耐え切れなくなった柊慈は机をバンと叩いて激昂した。


「何で裏切った⁉ 花蓮はオレの彼女だ! あいつと関係を持つならオレと別れてからにしろよ‼」

「もう、死んじゃったんだから。もう……死んじゃったんだから……」


 花蓮の目から涙が一粒、二粒こぼれ落ちる。それを見た柊慈は動揺した。


「なっ……あいつのこと、そんなに好きだったのか……」

「わかんない」

「何だよわかんないって。はっきり言えよ!」

「最初はっ……最初はモデルになりたくて……夢を叶えるためにはこの人の力が必要だって思った」

「芸能事務所の社長と知り合いってか。だからそれが嘘なんだって」

「どうして嘘って決めつけるの⁉」

「だってあいつはっ……! あいつは……」


 柊慈は言葉に詰まる。


「でも……だんだん先生が必要になって、会えないのが悲しくて……」


 再び花蓮の目から涙がこぼれ落ちる。柊慈は思わずへたりこんだ。


「あいつは、花蓮を妊娠させて責任も何も考えちゃいない。花蓮のことをちっとも大切にしていなかったんだぞ」

「それでも……好きだった」


 この言葉で柊慈の心にどす黒い何かが渦巻き始める。ダイニングの椅子から無言のまま立ち上がる柊慈。隣の椅子にかけてあった花蓮お気に入りのバーバーリーのマフラーを手にとる。


「柊慈……?」

「だったら、どうしてオレにそれをもっと早く言ってくれなかった。どうしてオレと別れなかった」

「柊慈……ごめん」

「いまさら謝ったって遅い」


 目を見開いた柊慈に花蓮は思わず怯える。その目はいつも優しくて頼りになる彼とは全く別人であった。


「あいつと同じところへ連れていってやるよ」


 柊慈はマフラーを両手で持ち花蓮に近づく。


「な、なにをするの⁉」

「黙れ」


 柊慈は花蓮の首にマフラーを巻き、思い切り両手に力を入れた。


「ぐっ……くる……し……」

「お前がオレを裏切った。お前のことを守ろうと思ったのに。誰よりも大切に思っていたのに……‼」


 柊慈の目から大粒の涙が流れ落ちる。


「しゅ……う……」


 最初は抵抗していた花蓮の腕から次第に力が抜け、やがて力なく体の横にずり落ちた。


「花蓮……花蓮…………愛してた」


 涙が止まらない柊慈。やがて花蓮の体から完全に力が抜け、床にずるりと横たわる。

 何分が経過しただろうか。完全に我を失っていた柊慈は自分を取り戻す。


「花蓮? 花蓮っ‼」


 柊慈はぐったりした花蓮の体を揺さぶる。


「花蓮っ、おいっ‼」


 彼女からの反応は返ってこない。


「オレ……いま、何をした……?」


 柊慈は自分の両掌(てのひら)を見た。この手がやったのか? この手が彼女を殺したのか? 訳がわからなくなった柊慈は絶叫する。


「ああああああああああああああああっ!」


 大粒の涙が止まらない。それから何分泣き続けたか。彼は無の状態に陥った。無表情のまま花蓮の遺体を風呂場に運んだ。

 ここで捕まってはすべてが無駄になる。昨日、やっとあいつを死に追いやったんだ。あの憎き男を葬った。何とかしなければ。彼は必死で考えた。

そして遺書を偽造することを思いついた。



 六畳二間の決して広いとは言えない空間には悲壮な空気が漂っている。まだ僅か十五歳の彼は苦悶の表情のまま頭を抱えていた。


「オレは……悪魔だ……」


 石油ストーブの燃える音だけが静寂の中に響いている。朝妃はかける言葉が見つからなかった。

朝妃の記憶の中にはいつも優しくて、誰よりも人思いで明るく笑う柊慈がいた。その事実に嘘偽りはない。

 十五歳の少年の抱えていた重い重い荷物。それはまるで、土石流のように人を呑み込み、悪魔へと変えてしまうもの。


「ちょっと待って」


 突然の声に一同が驚いた。気が付くと、離れの入口のところにフードをかぶった女の人が立っていた。


「……もしかして…………結花さん⁉」


 フードで顔はあまり見えないが、体型や雰囲気からなんとなく朝妃には分かった。


「柊慈は悪くない。私が指示を出したの。私が宇都宮春樹を殺すように彼に指示を出したの」


 そう言いながら女がフードをゆっくりとると、朝妃のよく知る結花の顔があらわになった。目鼻立ちは相変わらず整っているが、頬に黒くて丸いアザのようなものが幾つかついている。


「姉ちゃん……」


 柊慈も突然現れた自分の姉に驚きを隠せない様子だ。


「君は……団野結花さん?」


 笹本はそう尋ねたが、羽鳥は結花の顔を知っている。学年は羽鳥より三つ下で、朝妃や柊慈と同じく結花とも一緒に遊んだ記憶がある。


「結花ちゃん……」

「裕兄ちゃん。悪いのは私」


 久しぶりに会った結花に戸惑う羽鳥。


「失礼だが、君が指示を出したという証拠は?」


 いかなる時も冷静な笹本が問う。


「証拠なんてない。でも私が殺してってお願いしたの。私と同じ苦しみを与えて欲しいって」


 そう言って、結花はパーカーの袖をまくった。すると、頬についているのと同じ、丸い形の黒ずんだアザが幾重にも折り重なっている。

「それは……」

「煙草の火だね」


 羽鳥の言葉を遮るように笹本が言う。


「そう、私は自分の苦しみから逃れるために、たまにこの家から抜け出して煙草を買いに行って、公園で吸っていたの。

でも、引き籠りで学校も行かないでこんなところで何やっているんだろうって。自分がみじめでどうしようもなくて気が付いたらこんなことに」


 朝妃は言葉を失った。黒ずんだアザはすべて火傷だというのか。


「熱かった。とても熱かったけど辞められなくて……。弱虫な自分が許せなくて、こんな自分なんて燃えてしまえばいいんだって……そんな気持ちでやっていた。

だからあいつも私と同じ苦しみを味わえばいい。炎に包まれて全身火傷で亡くなればいいって」


 結花の綺麗な黒い瞳から次々と涙があふれる。


「だから……柊慈は私に言われて……」

「もういいよ姉ちゃん」


 柊慈が立ち上がって歩き出す。


「もう苦しまないでよ。もう……十分苦しんだだろ。悪いのはオレだよ。姉ちゃんは何も悪くない。全部オレが勝手にやったことだ」


 そう言って、柊慈が結花を抱き寄せた。

 窓の外ではしんしんと細雪が降り続いていた。

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