第3話
【第二章】
「こちらに置いておきますね」
千夏は常連客のおばあさんのカゴをサッカー台に運ぶ。
「あーかんべね(あーすまないね)。いやぁ歳をとるとなんぎー(困ったもんだ)、いつもあんがとね」
そう言いながらゆっくりとした動作でサッカー台へ向かうおばあさんを見送り、次の客の商品をバーコードに通していく。
「二千三百八十円になります」
また常連客のおじいさんが、財布をゆっくりと開けて小銭を探している。
「いやー。えらい目が悪くなったぜね小銭もよう見えんわい」
昼時のスーパーは人もまばらで、次に待っている人もいないため、千夏は小銭を探すおじいさんの動きにも特にイライラすることはなかった。
こういうところが田舎のいいところだ。と千夏は思う。
東京に住んでいる時は常に忙(せわ)しなくて、街を行き交う人々は何をそんなに急いでいるのか謎だった。
群馬県の山奥で産まれた千夏は、鉄道も走っていないような田舎で生活していたが、二十六の誕生日を迎えた頃、偶然知り合った浩(こう)輔(すけ)と結婚することになった。
それまで前橋の小さな工場で働いていた浩輔だったが、念願の司法試験に合格し、結婚を機に弁護士として活動するため千夏と共に上京した。
東京での慣れない生活に最初は戸惑っていたが、数年後には子宝にも恵まれ、千夏は幸せな日々を送っていた。
浩輔は上京した当時、弁護士事務所の助手として働いていたが、やがて独立して自分の事務所を開設した。
経済的にも何ひとつ問題のない生活を送っていた千夏であったが、ふとした時に故郷の風景を思い出し、ホームシックになることがあった。
久々に故郷の景色が見たいと思っていた千夏は、花蓮の幼稚園が夏休みの間に実家に帰省しようと大きな鞄に荷物を詰め込んでいた。
しかし、そんな時にタイミング悪くスマホが鳴った。兄からの電話は珍しく、何の要件かと電話に出ると、父が倒れたとの知らせだった。
大急ぎで花蓮と共に実家に帰った千夏が目にしたのは既に息を引き取った父の姿であった。
千夏は中学生の頃に母も亡くしており、こんなに早く親に先立たれると思っておらず、しばらく呆然としてしまった。
父の葬儀を終えて、住む人を失った家をどうするか考えなくてはならなかったが、千夏の兄と弟が父亡き後の手続きについて揉め始めた。
多額の遺産があるとかそういう類ではなく、どちらかというと、築五十年近い木造住宅と購入してから十二年を経過している車の後処理、そして、家の中に残された家具や家電をどうするかという話であった。
瓦屋根は一部剥がれており、水場付近の柱や床は腐っている。畳は陽に焼けて黄色く変色しているし、とても売りに出せるような家ではなかった。
解体費用や、車の引き取り、そして大型家具などの処理費用を誰が負担するのかという話で揉める兄と弟の声が千夏の耳にぼんやりと聞こえてくる。
「おい、千夏! 聞いているのか⁉」
兄の声にはっとする千夏。
「ああ、ごめん。ちょっとまだ頭が混乱していて」
「もう三十路だろう。しっかりしてくれよ」
五歳の花蓮は隣の家のおばあちゃんが面倒をみてくれている。
「姉さんの旦那は弁護士だろう。金銭的には余裕があるんじゃないか?」
弟がそう言いだしたので、千夏は少し戸惑いながら「そうね……」と答えた。
「じゃあ、千夏がこの家の解体費用など全部負担してくれるか?」
兄も弟も遠慮という言葉を知らないのか。胸のあたりがムカムカしたが、余計な言い争いはしたくなかった。
「ええ。わかったわ」
千夏の返事にほっとした様子の兄と弟は仕事が忙しいからと、そそくさと自分の住む地域へと帰っていった。
懐かしい家財道具や父の衣類、食器などを眺めていると涙が出そうになった。
しかし、千夏にも東京の家がある。いっそのこと、この家に家族全員で引っ越そうという考えが頭をよぎったが、浩輔がせっかく自身の弁護士事務所を開所したところでそれは無理だ、仕方ないと諦めて、遺品整理の業者へと電話をかけた。
すべてを片付けて、久しぶりに東京に帰ると、八月も後半だというのにうだるような暑さで千夏は思わず眩暈を覚えた。
群馬も大概気温が高いところではあるが、千夏の実家は標高五百メートルほどの山の中にあるので、涼しく感じたものだ。
この頃、浩輔は忙しくて、家に帰らずに事務所で寝泊まりをすることが増えていた。
「なぁ、花蓮に弟か妹を作ってやらないか」
そう提案したのは、久々に日が暮れる前に帰宅した浩輔だった。
「えっ……」
「花蓮も一人っ子じゃ寂しいんじゃないか」
そうして、数か月後に千夏は妊娠した。しかし花蓮の時よりひどい悪阻に襲われて、まともに家事も育児もできない状態だった。
「ごめん、今日も動けないから早く帰ってきて花蓮にご飯を食べさせてあげてくれないかしら……」
浩輔に電話でそう話すが、「うーん、仕事が片付かないと帰れないな」「ごめん、早く帰れないや」などの返事で次第に千夏はストレスを感じるようになる。
妊娠五ヶ月を過ぎても悪阻の症状はおさまらず、常に吐き気に襲われながら必死で花蓮の面倒をみていた。
それでもお腹の中の我が子と会える日をいまかいまかと楽しみにしていた千夏を悲劇が襲う。
「心臓が止まっています」
いつも通っている産婦人科でそう医師に告げられた千夏は最初、何を言っているのか理解できなかった。
「えっ……?」
「残念ですが、お子さんの心臓が止まっています」
頭が真っ白になった千夏はぼんやりとしながら、医師の説明を聞いていた。
気が付くと手元には手術の同意書。一粒、二粒とこぼれ落ちる涙をおさえることができず、千夏は赤子の摘出手術を行うことになった。
しばらく魂が抜けたような千夏だったが、そんな彼女を心配そうに見つめる一人の少女がいた。花蓮だった。
「お母さん、悲しいの?」
お腹の子のことばかり考えていて、花蓮に構ってあげられていなかったことに気付いた千夏はぎゅっと花蓮を抱きしめた。
「ごめんね。お母さんしっかりするからね」
千夏は花蓮を連れて旅に出ることにした。旦那ももちろん誘ったのだが、仕事が忙しいとのことで母子二人の旅となった。
行き先は北海道。季節は六月で爽やかな風が吹く広大な大地に千夏の心は和んだ。
しばらくは平和な生活が続いていた。しかし、花蓮が小学三年生になったばかりの春。事態は急展開する。
今日も浩輔は仕事が立て込んでいて、事務所で泊まるとの連絡がスマホに入っていた。
こんな日に限って、千夏は張り切って手作りのローストチキンとサラダ、グラタンを準備していたので、メッセージを読んで落胆してしまう。
「あーあ、勿体ないな」
「お母さん、それお弁当にしたら?」
隣にいた花蓮の提案に千夏は頷いた。そうか、その手がある。
千夏は丹精込めて作った料理を丁寧にお弁当箱に詰めていく。たまにはドッキリでお弁当を持って行ってみようと思い、花蓮と一緒に浩輔の経営する弁護士事務所へ向かった。
電車で八駅のところにある浩輔の事務所はテナントビルの二階にある。足音を立てないように花蓮と二人でそうっと事務所の扉へ近づき、花蓮が思い切りドアを開けた。
「お父さーん! お弁当持ってき……」
千夏の前に立っていた花蓮が言葉を詰まらせる。部屋の左側に置かれた応接用ソファーの上に下半身裸の浩輔と見知らぬ女が淫らな姿で体を重ね合わせていた。
「お父さん、何してるの?」
九歳の誕生日を間近に控えた花蓮はその光景の意味が分からず、素直に質問した。
しかし、千夏は体を巡る血が一瞬すべて停止してしまったかのように、その場から動くことができなかった。
「花蓮⁉ 千夏……」
しまったと言わんばかりに慌てて女から離れる浩輔。
「お父さん、お尻丸見えだよ」
花蓮の言葉にあたふたしながら下着を履く浩輔。その様子をまるで陳腐なサーカス団の演技を見るかのようにただ見つめる千夏。女の方も慌ててシャツを羽織った。
「な、なんだ、突然来るから驚いたじゃないか」
明らかにいつもより早口の浩輔は動揺している。千夏は何か言わなきゃと思いながらも声が出ず、ドアのところで立ち尽くしていた。
「お父さんにお弁当を持ってきたんだよ」
大人たちの不穏な空気を読むことができない花蓮が無邪気にお弁当の包みを浩輔に手渡す。
「ああ、ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだね」
浩輔はワイシャツを羽織って、ズボンを履いてベルトを締める。女は慌てて、鞄をつかみ、「じゃあ私はこれで」と千夏の横をすり抜けようとした。
「どこへ行くんですか……?」
やっと振り絞って出した言葉はそれだった。しかし、女は千夏の質問に答えることはなく、ドアから出て階段を下りていってしまった。
花蓮は無表情のまま夫を見つめる母と、視点をあちこち変えながら頭を掻いている父の様子を不思議そうに眺めていた。
「お母さん、どうしたの?」
花蓮の言葉に我に返った千夏は
「ああ、ごめんね。知らない人がいたから驚いちゃった。さあ、お弁当も渡したから帰りましょう」
と強引に花蓮の手を引いて事務所を後にした。
離婚が成立したのは八月のことだった。
弁護士の浩輔は離婚関連の仕事をよく請け負っていたため、皮肉にも慰謝料や親権、財産分与などの手続きは実にスムーズだった。
東京都内に約五千万円のマンションを購入しており、当然の如くそのマンションも、浩輔は千夏と花蓮に引き渡して自分が出ていくつもりだった。しかし、千夏は拒否した。
まだ小学生の花蓮と二人、養育費は十分に貰えるとしても、物価の高い東京で満足に暮らしていくことができるだろうか。
いっそのこと群馬の故郷へ帰ろうかとも思った。
しかし、実家は既に解体されて更地になっているし、下手に実家近くの家に引っ越そうものなら、昔からの知り合いにヒソヒソと「出戻り」や「浮気が原因らしいわよ」みたいなことを言われるのが嫌だった。そこで、千夏は思い切って新潟に引っ越すことにした。
地方の過疎化を防ぐために若い人の移住を勧めている仲介会社がある。その会社に手配してもらった家は、田舎には珍しい鉄筋コンクリート造りのこぢんまりした家だった。
中古物件だが、格安の二百万円という値段で我が家を手に入れた千夏は花蓮と共に新潟に移り住んだ。
春の雪解けと共に顔を出すふきのとうやオオバギボウシ、五月から六月にかけては広大な田んぼに一斉に田植えが行われ、それまで黒茶色だった絨毯に、
まるで緑の模様が刺繍されたかのように景色が変わる。夏には伸びた稲が青々と輝き、季節を彩る。川辺にはコウノトリやサギが優雅に羽を広げ、山にはカッコウの声が響く。
ツクツクボウシの声が聞こえなくなる頃には成長した稲穂が風にゆるやかに揺れ、やがて稲刈りが終わると山の方から次第に赤にオレンジ、黄色と木々が色づく。
そして十一月の末ごろから次第に降り始めた雪が大地を覆い、白銀の世界へと変化していく。四季折々の姿を見せる新潟の里山は、田舎生まれの千夏の心を和ませた。
引っ越しについても離婚についても花蓮は何も言わなかった。だが、娘なりに何か感じているのだろうか、あの日以来、花蓮は口数が減ってしまい何を考えているのかわからなくなってしまった。
娘には悪いことをした。といまでも千夏は思う。そんな千夏の心境をよそに花蓮はぐんぐんと身長が伸び、町の人が思わず吐息を漏らすほど美しく成長した。
その美しい娘が中学一年の時、突然
「お母さん。モデルになるにはどうしたらいいの?」
と尋ねてきた。どうやら本屋で購入したファッション雑誌を読んで、モデルに憧れを抱いたらしい。
「モデルかぁ。花蓮にはピッタリの職業ね。でもこの田舎じゃちょっと……。もう少し都会に行かないとなれないかな」
千夏はモデルになるための経緯など全く分からなかった。
ただ、可愛い子は道を歩いているとスカウトされたりするみたいだが、いま住んでいる町を歩いていたとしても誰もスカウトする人はいないであろうことだけは分かる。
「じゃあ、東京に行ったらいいのかな?」
東京。というワードに思わず浩輔の顔を思い出して吐き気がしてしまう。千夏は東京が決して嫌いな訳ではない。
しかし、幼い頃から田舎暮らしだった千夏にとって、コンクリートとアスファルトで固められた世界は息が詰まるものだった。
「東京……。もしかして花蓮はお父さんの子になりたかった?」
親の都合で父と離れ離れになり、シングルマザー家庭で生活するようになったこと。勝手に田舎に引っ越したことに千夏は責任を感じていた。
「違う、お父さんは関係ないよ。だって浮気してたんでしょ。お母さんのこと苦しめた男なんて興味ないよ」
身長はいつの間にか百六十を過ぎ、胸は膨らみ、子どもだと思っていた花蓮はいつの間にか大人になっていた。浮気なんて言葉を娘の口から聞くと思っていなかった千夏は衝撃を受けた。
「ね、高校は東京の高校に行ってもいい?」
NOとは言えなかった。親の都合で彼女の人生の目標を潰す訳にはいかない。
千夏はしばらくお客が途切れている間、昔のことを思い出していたが、陽が傾きかけてまた人が増えてきた。
「いらっしゃいませ」
手早くバーコードをスキャンしていく。千夏がこのスーパーでレジ打ちのパートを始めたのは一年前のことだ。
娘が東京に進学するとなると、家賃や食費、光熱費など仕送りをしてあげないといけない。それにしても東京と地方のこの物価の差は一体何なのだろうか。東京では月十万以上支払っても小さなアパートしか借りられないことも多いが、地方では十万も支払えば豪邸に住むことができる。
時計の針が四時半をさした。あと三十分で勤務時間が終わる。今日の晩御飯は何にしようか。そう考えながら、千夏は目の前のレジカゴに積まれた商品のバーコードをスキャンしていった。
金曜日の四時間目が終了し、クラス全員教科書やノートを鞄につめて帰宅の準備をしていた。
「今日は私、家庭教師の日だから早く帰るね」
花蓮がそう言って、教室からさらりと立ち去る。
「すごいよね、シングルマザー家庭なのに家庭教師って」
「カテキョってあれなんだろ? 土屋(つちや)さん家の姉ちゃんなんだろ?」
朝妃は土屋麻衣子の姿を思い出す。メガネをかけていて前髪が長い地味なお姉さんだが、東京大学出身らしい。
しかし卒業後にそのまま東京で就職せず地元に帰ってきたので皆、不思議がっていた。
「花蓮が受けるのってそんな難しい学校なの?」
菜子が大きな黒目をパチパチさせている。
「偏差値七十だってさ」
愛奈未の答えにええっと声をあげる菜子。
「でも、モデルになりたいのにそんなエリート校に行ってどうする気なんだろ?」
「確かにな」
翠は今日もワックスで固めた髪の毛を気にしているのか指で触っている。
「なんか、花蓮ってなんでもできてすごいけど、あんな冷血だったらモデルなんてできるのかな?」
「冷血って」
「だって、ほら。無表情だし何考えているのかわかんないじゃん。モデルっていったらもっとニコニコしていないといけないんじゃないのかな。
本当はただ東京に行きたいだけの口実だったりして」
「あー、もしかしたらね」
菜子の言葉に意外にも愛奈未が賛同する。
「こないだだってさ。ほら、モクレンを植樹するって先生が言った時も、一人だけ受験だからって。なんかノリも悪いし、私、正直言ってクラスの人数が多かったら花蓮とは仲良くしていなかったな」
朝妃は花蓮の悪口を言う菜子に向かって何か言いかけようとしたところで固まってしまった。教室の入口のところに花蓮が立っていたのを発見したからだ。
「花蓮……!」
そこにいた全員が花蓮の姿に慌てる。
「忘れ物……したから」
そう言って花蓮は無表情のまま教室に入り、自分の机から一冊の教科書を取り出して鞄にしまい、立ち去ろうとした。
「あの、花蓮っ……」
朝妃が呼びかけたが花蓮は振り向くことなく教室から去ってしまった。
「あーあ。お前が余計なこと言うから」
翠が大きなため息をついた。
「だって本当のことだもん」
子どものように口を尖らせる菜子。
「まぁ、菜子の言っていることもわからなくないけど。花蓮はマイペースだからね」
愛奈未も翠に続いて大きなため息をついた。追いかけた方がいいだろうか。朝妃は迷ったが、こういう時は真っ先に柊慈が動くはずだ。しかし今日の柊慈は珍しく動かなかった。
「月曜日に謝ろうぜ」
そう言って花蓮を除く五人は家路についた。
朝妃と菜子は家の方向が同じなので、途中まで二人で一緒に帰る。いつもなら他愛もない話をするのだが、この日は何を話せばいいのかわからず、朝妃はただ黙って歩いていた。
「朝妃、怒っている?」
無言で歩く朝妃の後ろから菜子がそっと声をかける。
「え、怒ってなんていないよ」
「でも、何もしゃべらないから」
「ああ、ごめん」
その後、朝妃は先ほどの菜子の発言について少し反発しようかと口を開きかけたのだが先に菜子が言葉を発した。
「ね、朝妃。花蓮のことだけど」
菜子が急に小声になった。
「何?」
「花蓮って恋人がいるみたい。知っている?」
恋人。と言われてもピンとこない。
「ごめん全然わかんない」
「もー、朝妃は色恋関係の話に興味なさすぎー」
菜子の言う通り、朝妃は恋愛には全く興味がなかった。が、なんだかバカにされているような気もする。菜子はたまにこういうところがある。
「で、誰なの?」
「え?」
キョトンとする菜子。
「花蓮の恋人って」
「誰だと思う?」
誰だろう。と考えるが全く思い浮かばない。
「全然わからないや」
「じゃあヒント。年上の人!」
里峰小、中学校では自分たちが最高学年なので、学校外の人が何人か頭に浮かんだが、おじさんばかりだった。
「えーと……。コンビニでバイトしている佐藤さんとか」
佐藤さんはコンビニでもう何年もバイトしているお兄さんだ。
年齢は二十代後半くらいに見えるが、定職につかずにずっとバイトばかりしているので、父親がカンカンに怒っているらしい。と朝妃は母から聞いた。
「ぶぶー。花蓮に佐藤さんって。似合わないよね」
確かに佐藤さんは身長が低くて、明らかに花蓮より小さい。失礼だが容姿もイマイチである。
すると、菜子が朝妃の耳元で
「山口先生」と囁いた。
朝妃は驚いて立ち止まる。
「えっ……嘘」
菜子も立ち止まって小悪魔的な笑顔を見せる。
「それがね。一週間前に見ちゃったんだ。二人が一緒にいるところ」
「生徒と先生としてではなくて?」
「うん、夜の八時くらいかな。回覧板を届けるために歩いていたら、田んぼの真ん中の道に車が一台止まっていて。見覚えのある車だったから、もしかして山口先生かなってそっと中を覗いたら……」
「覗いたら?」
菜子がさらに声のトーンを落として
「山口先生と花蓮がキスしてた」
と囁く。
朝妃は驚いた。二人がそんな関係だったとは。
「ビックリ……」
「でしょ」
「菜子、でもそれ他の人にあんまり言わない方がいいよ」
「どうして?」
まるで五歳児のように素直に質問を投げかける彼女は天真爛漫だな、と朝妃は思う。
「もし、先生が中学生に手を出したのがバレたら山口先生は解雇されると思うよ」
朝妃がそう言うと、菜子は両手をポンと叩いて、「そっか!」と納得したようだった。
「そうだね。それはよくないね。じゃあ私と朝妃だけの秘密でお願いね」
「うん、わかった」
ちょうど菜子と別れる交差点に差し掛かったので、朝妃は結局話そうとしていた言葉を呑み込んでしまった。
二月十六日。この日は土曜日で学校の授業はない。
朝妃は昨日のことが気になって仕方がなかった。電話をしてみようか。でも電話をして何を話せばいいのだろう。
誤解だ。と言ったところで、菜子が花蓮の悪口を言っていたことは事実だ。菜子に悪気はなかったんだよ。って言ってみてもいまいち説得力がない。
スマホを手に持って、花蓮の番号を表示してみるが、通話ボタンを押す勇気がなかった。それにまだ朝の八時である。電話をかけるには早いかな。
そう思い、朝妃はいつものようにミステリー小説を読み始めた。あっという間に時間が過ぎてお腹がすいてきた頃、探偵もどきの主人公が密室殺人の謎を解いたところでスマホが鳴り始めた。ディスプレイには団野柊慈の文字。
「はい」
「あ、ごめん。多分読書中だったよね」
「うん、なんで分かるの」
「朝妃の休日は、朝食、読書、昼食、読書、夕食、読書、就寝だろ」
「あ、惜しい、夕食の後にお風呂が抜けている」
朝妃がそう返事すると電話の向こうで柊慈が笑っている。
「ところで、何の用事?」
「ああ、悪いんだけど勉強わからないところがあって教えて欲しいんだ。成績学年トップの朝妃ちゃん」
「学年トップって、六人だけど。あれ、柊慈この間自分は天才だから大丈夫って言ってたよね?」
いまのところ、成績の順位は朝妃、花蓮、愛菜未、翠、菜子、柊慈の順となっている。
「いや、それがオレの勘違いだったみたいで、天才ではなかったみたい」
朝妃も思わず笑う。
「いいよ、いまから柊慈の家に行ったらいいの?」
「ああ。あと三時くらいから他のメンバーも呼んで卒業旅行の打ち合わせをしようと思っているんだけど」
「受験が終わってからでいいんじゃない?」
「それがそういう訳にもいかないんだ。だってオレと花蓮の受験が終わったらもう三月間近じゃん。三月の中旬から下旬に旅行に行くとしたら、ちょうど春休みの時期だから宿の予約がいっぱいで取れない可能性がある」
なるほど。と朝妃は返す。
「確かに、宿とか予約が必要なところは最低限決めておかないとダメかもね」
「だろ」
「じゃあ、昼ご飯食べ終わったら向かうね」
そう言って朝妃は電話を切った。窓の外を見ると雪がちらついている。朝妃はセーターの上からダウンコートを着て、マフラーを巻き、手袋もつけた。
柊慈の家はこの間行った田中さんの家からさらに坂を上ったところにある。
最近、新しい高速道路を作るための工事が行われていて柊慈の家の裏手あたりには工事中のフェンスが立ち並び、十二月ごろまでは重機やトラックが忙しく出入りしていた。
しかし、最近は豪雪のため建設会社も工事を中断せざるを得ないのかとても静かだ。
朝妃は自宅を出て、除雪車が通った後の道を歩いていく。朝から降っていた雪が丁度やんだので、玄関前の雪かきに追われる人々の姿を目にする。
「こんにちは」
「お、朝妃ちゃん、お出かけかい?」
「はい、友達の家までちょっと」
「気いつけてな」
「ありがとうございます」
同じようなやり取りを何回か繰り返す。人口が七百人のこの町では殆どの人が顔見知りだ。高齢者しかいない家庭の雪かきは近所の人が手伝ったり、助け合いながら生きているのだ。
坂道をのぼっていくと貫太の家の前で、例のもずくが吠えていた。
「もずく、私だよ」
もずくは私の顔を覚えているのか否か、尻尾を振りながらワンワン吠えまくる。
「こら、もずく! うるさいよ!」
窓を開けて貫太が顔を出す。
「あ、貫太ちゃん」
「朝妃姉ちゃん! どうしたの?」
「いまから柊慈の家に行くの」
「そうなんだ。しゅうじ兄ちゃんさいきん遊んでくれないんだ」
そう言って貫太が頬をふくらませた。
「柊慈兄ちゃんはもうすぐ受験だからね。勉強が忙しいの」
「ふーん、中学生ってたいへんなんだね」
「そうだよー。貫太ちゃん、宿題やった?」
「あ、忘れてた。いまからやる」
そう言って貫太は手を振って窓を閉めた。朝妃は再び坂道を歩き出す。
貫太の家から三百メートルほど坂を上ったところに団野家はある。朝妃はいつものように、門を入って離れの扉をノックする。
「よう、手土産は?」
「手土産は雪かな」
そう言って朝妃は差し出された手のひらに雪を乗せる。
「冷てえ。雪はいらん。お菓子がいい」
「あんたが呼んだんでしょ」
「はいはい。ではどうぞ」
朝妃が団野家を訪れるのはこれで何度目だろうか。何かあるとだいたい皆が団野家の離れに集まる。六畳の和室が二つ並んでいる離れは、柊慈の秘密基地のように扱われている。
部屋の片隅には漫画本が積まれており、小さめのテレビとゲーム機が何台か並んでいる。そして、部屋の奥には弓道の弓が立てかけてある。
柊慈の祖父は弓道の全国大会に出場するほどの腕前で、彼は幼い頃から祖父の指導の元、弓道を嗜(たしな)んでいる。
この町には弓道場がないため、車で二時間かけて魚沼の市内にある高校の弓道場の一部を借りて練習を行っているが、いまは受験のために練習はしばらく休んでいる。
「それで、どの問題がわからないの?」
「ああ、これこれ。この図形問題がさっぱりわからなくて」
柊慈は数学のテキストと問題集を机に広げているが、机の上は乱雑としており、勉強と関係がないであろう雑誌や、お菓子の袋が置かれている。
「まずは勉強する環境を整えないと集中できないでしょ」
朝妃は、雑誌を片付け、お菓子の袋を棚の上へと上げた。
「つまり、点Bから点Cまでこうやって線を伸ばすと……ここに三角形ができるでしょ」
朝妃の解説にうんうんと頷く柊慈。
「やっぱ朝妃は賢いなぁ。説明がわかりやすい」
「私より花蓮の方が賢いんじゃないかな。柊慈もある意味賢いと思うし」
「ある意味?」
「うん、なんていうかふざけている時はふざけているけど、みんなをまとめるリーダーっていうか。柊慈がいないと多分私たち六人はこんなに仲良くなれなかったよ」
褒められた柊慈はまんざらでもなさそうに、鼻をかいた。
「花蓮……。やっぱり電話とかした方がいいかな?」
朝妃は昨日のことを思い出す。
「あー、それなんだけど。実は今日、花蓮は呼んでないんだ」
「えっ……」
「だってほら、あれはどちらかというと、花蓮と菜子の問題だろう。菜子が謝る気がなければオレたちがどうのこうのできる問題じゃない」
柊慈の言う通りだ。確かに自分や柊慈がフォローをしても、菜子と花蓮が仲直りをしない限り、関係はギスギスしたままになるであろう。
「というか、菜子を説得するために今日ここに呼んだってのもある」
なるほど。さすがは柊慈だ。クラスの中で何か問題が発生した時は柊慈が中心になって解決してきた。
小学六年の頃、愛奈未が大切に使っていた消しゴムを借りた翠がうっかり無くしてしまったことがある。
その消しゴムは愛奈未が当時大好きだった近所のお兄さんからもらったものらしく、愛奈未が激怒した。
「とにかく探してっ! 見つかるまで翠は家に帰らないで!」
憤慨する愛奈未をなだめながら、六人全員で必死に消しゴムを探すと、なんとゴミ箱の中から消しゴムが見つかって、再び愛奈未は怒りだした。
「ねぇどういうこと⁉ なんで私の消しゴムがゴミ箱から見つかるの⁉」
愛奈未は翠に詰め寄るが、翠は心当たりがないらしくあまりの険相にオロオロする始末。
そこで助け船を出したのが柊慈だった。
「なぁ愛奈未。この消しゴムあげるから許してやって?」
柊慈が取り出したのは、紫色のねり消しだった。
「ブドウの香りがするんだけど、ほら嗅いでみて」
そう言って柊慈は愛奈未の鼻元にねり消しを差し出す。
「あ、いい香り」
「だろう。これ愛奈未にあげるよ」
「えっ、いいの⁉」
たかがねり消しだが、この田舎にはまともな文房具店がない。
町にたった一軒あるコンビニにシンプルな文房具が売っているだけで、可愛らしいシールや鉛筆、消しゴムなどは市街地まで出ないと買うことができないのだ。
「ありがとう!」
さっきまでの怒りはどこへ行ったのやら。愛奈未は上機嫌でねり消しの匂いを嗅いでいる。
こうやって、柊慈がいつも何らかの形で助けてくれるから、六人はうまくやってこれたのだ。そしてきっと今回も丸く収まる。朝妃はそう信じきっていた。
「朝妃ちゃん、よかったらおやつにこれ食べて」
離れの扉から顔を出したのは柊慈の母だった。手にした皿には山のようなドーナツが乗っている。
「わあ、おばさんのドーナツ美味しいんですよね。ありがとうございます」
「そんなに食べたら太るぞ」
「何言っているの。こちらこそバカ息子に勉強を教えてくれてありがとう」
「バカ息子で悪うございました」
「もう、ちょっとは朝妃ちゃんを見習って勉強しなさい。朝妃ちゃんたくさん食べてね」
柊慈の母がにこりと笑うのを見て朝妃はふと、柊慈の母親に雰囲気が似ている結花(ゆいか)のことを思い出す。今日も彼女は家の中で過ごしているのだろうか。
団野結花は柊慈の姉である。ダイニングのちょうど上の二階の部屋に閉じこもっている結花の顔を何年も見ていない朝妃だが、柔らかい目元と高い鼻、
ふっくらした唇のとても可憐な顔立ちを、いまでも鮮明に覚えている。幼い頃は柊慈と朝妃の面倒をよく見てくれた五つ年上の優しいお姉さんだ。
温厚で容姿にも恵まれた結花はある事件をきっかけに部屋に引き籠ることになった。
町の人々は、皆知らぬふりをしているが、恐らく知らない人はいないであろう少女強姦事件が発生したのは六年前のことだ。
当時、十四歳だった結花と九歳の柊慈は両親が仕事のため二人で留守番をしていた。
この町では特に大きな事件が起こったこともなく、玄関の鍵は一応閉めてはいたが、夏場だったので窓は全開とかなり無防備な状態であった。
白昼堂々の犯行ではあったが、犯人が宅配業者を装っていたため、近所の人も誰も不審に思わなかったようだ。
「宅急便です」
との声に「はーい」と快く返事をして玄関のドアを開ける結花。その瞬間宅配業者の服を纏(まと)ったその人は結花の手を握り、無理やり家の奥へと引きずり込む。
「助けて! 助け……」
助けを呼ぼうとする結花の口をおさえ、両手を縛り、口にガムテープを貼った犯人はリビングに結花を寝かせて服をめくる。
その時、ゲームをしていた柊慈は二階の部屋にいて、一階から姉の声が聞こえた気がして立ち上がった。
「お姉ちゃん、何か呼んだ?」
階段の下に向けて声をかけた柊慈だったが、返事はない。そういや昼ご飯の時間だなと思って柊慈はゆっくりと階段をおり、ダイニングへと向かった。
「お姉ちゃ……」
ダイニングの扉を開けると、奥のリビングに人影を発見したが、そこには姉ともう一人、見知らぬ男がいた。姉は着衣が乱れており、男は下半身が裸の状態だった。
その男が何やら姉の上に乗っかり、腰を前後に動かしている。
呆然とする柊慈の姿に気付いた男が突然、刃物をどこからか取り出した。
「お前……っ! そこを動くなよ」
刃物を持った男に対し、柊慈は九歳とはいえ、これはただならぬ状況だということだけは理解できた。
「いいか、警察になんて通報したら殺すからな」
そう言いながら、男は自分の下着とズボンを手にとり、玄関から慌てて出て行った。ブロロロ……。エンジン音がだんだん遠ざかっていく。
柊慈は涙を流している姉の口に貼られたガムテープをとった。
「しゅ……柊慈……」
姉はそのままひっくひっくと泣き出した。何だろう。何が起きたのだろう。あの男は一体誰だったのだろうか。
柊慈はどうしてよいかわからず、姉の手首に巻かれたロープを必死にほどこうとした。
あの事件以来、結花は部屋に引き籠るようになり、学校にも行かなくなってしまった。
事件を知った結花の母は警察に届け出たが、犯人は未だに捕まっていない。警察は犯人特定のため、結花の膣内に残った粘液を採取したいと申し出たが、結花は頑なに拒否した。
レイプという事件は、こうやって警察に被害届を出すこと自体が珍しい。
だいたいは被害に合った女性が、周囲の人に知られたくない。という理由や本人の精神的なショックから被害届が提出されないケースが多い。
目撃者の柊慈は警察から、犯人の特徴を聞かれた。
「男の人はどんな顔をしていたかな? あとどんな服を着ていたか覚えている?」
柊慈は震える体をおさえながら必死で説明した。髪が短くて、鼻が低い。歳は若かった。高校生くらいかなと思った。
服はよくわからないけど宅急便の人みたいだった。太ももに三つのホクロがあった。
その証言を元に警察が描いた似顔絵がマスコミによって公開された。しかし有力な手掛かりが得られないまま、もうあれから六年の時が流れている。
朝妃は柊慈の母にそっと尋ねた。
「あの……。結花さんはどうしていますか?」
朝妃の質問に、いままで笑っていた柊慈の母の顔が若干ひきつる。
「心配してくれてありがとう。相変わらず、トイレとお風呂以外はずっと部屋に籠っているんだよ。困ったね」
朝妃は、そうですか。と返事をしてそれ以上は何も聞かなかった。黙って皿に盛られたドーナツを一つ手にとる。
「朝妃……。オレが新潟市内に行った後、母ちゃんや姉ちゃんのこと、よろしく頼むな」
柊慈は、表情一つ変えない。そのことが逆に朝妃の心を痛めた。
「うん、分かった」
三時前になって、翠がやって来た。
「ういーっす。コンビニでお菓子買ってきたぞ」
翠は大きなビニール袋からお菓子を次々と取り出す。
「さすが。翠ちゃんは気が利くねえ」
柊慈はそう言いながら翠が取り出したお菓子の封を早速開けている。
そこへ愛奈未もやって来た。
「ハロー」
「お、愛奈未」
「ね、卒業旅行はやっぱり南国だよね」
「まだ全員集まってないぞ。気が早いな」
その時、柊慈のスマホが鳴った。
「ん、何何? 菜子だ。一時間ほど遅れるってさ。ゆき婆のお薬をもらいに薬局に行くんだと」
ゆき婆とは菜子の家のとなりに住んでいる九十歳のおばあちゃんだが、一人暮らしのため、買い物やその他、病院の付き添いなどはいつも相模原家の人間が行っていた。
「それは仕方ないね。……で、花蓮は?」
少し気まずそうに尋ねる愛奈未。
「ごめん、実は今日は呼んでないんだ。花蓮に謝るように菜子を説得しようと思ってたから」
それを聞いた愛奈未は畳の上にゆっくりと腰かけた。
「私も、悪いことしちゃったな」
「でもさ、花蓮なしで卒業旅行の話を進めていいのか?」
翠がポテトチップスの袋を開けながら尋ねる。
「もちろん花蓮の意見も聞きたいところだけど、まずは仲直りが優先だろ」
「え、じゃあ今日は卒業旅行の打ち合わせじゃないの?」
「もちろん、ある程度の候補は決めておきたいところだけど、とにかく菜子が来るのを待とう」
柊慈の言葉に皆が頷く。それから、お菓子を食べながらテレビゲームをしていたが、四時になっても菜子は現れない。
「おっそいなー」
「電話してみる?」
「って言ってたら電話かかってきた」
柊慈が電話に出る。
「え、うん、うん。わかった。じゃあ待っているから」
「どうだった?」
「あ、なんかゆき婆がさらに買い物を頼んだらしくて、さらに三十分ほど遅れるって」
「えー。相模原家は菜子以外、今日は不在なのかな」
愛奈未がチョコレートの包みを開ける。
「ああ、なんか両親は街の方に買い出しに出かけているって」
「そっか、じゃあ仕方ないね」
そうやって、うだうだしながら四人が待っているとようやく四時半を過ぎた頃に菜子がやって来た。
「お待たせしました~」
「おつかれさん」
菜子も加わり、畳六畳二間の人口密度が増す。
「菜子、早速で悪いんだけど、花蓮に謝ってほしい」
柊慈がそう言うと、菜子は下を向いた。
「うん、それは分かっている。月曜日にはちゃんと謝ろうって思っている」
「それならいいんだけど」
それから五人は、卒業旅行の行き先候補を次々と挙げていく。中学生なのであまり遠いところには行けない。
沖縄に行きたいとかグアムに行きたいという、南国案は結局のところ実現しなさそうだ。
「じゃあ、いまのところ第一候補は東京シズニーランド、第二候補が横浜、第三候補は軽井沢でいいか?」
外はすっかり暗くなり、古い木造づくりの離れではいくら石油ストーブを炊いていても、隙間風が入ってくる。
「じゃあそろそろお開きにしましょうか」
愛奈未が立ち上がった瞬間だった。
ガラガラと離れの引き戸を誰かが開けた。……その瞬間五人は息をのむ。
「か、花蓮⁉」
呼んだはずのない花蓮がしばらく五人の前で立ち尽くした後、無言のまま扉を閉めて走り去っていく。
「花蓮、待って!」
朝妃がそう叫んだのと同時に柊慈が外へと飛び出す。
「えっ、なんで花蓮が?」
「まずいね。誤解されたかな」
オロオロしている菜子のとなりで真剣な顔つきで愛奈未が扉の方を見つめている。
「翠」
「ああ、オレたちも行こう。きっと花蓮はオレたちが彼女を仲間外れにして集まっていると誤解した」
朝妃と翠は大急ぎでダウンコートを着用し、外へと飛び出ると、既にそこに人影はなかった。
「くそ、どっちへ行ったんだ?」
朝妃はキョロキョロと地面を見渡すが、手がかりとなる足跡が残っていない。というのも柊慈の家の前は綺麗に除雪されていて、茶色くなった雑草がむき出しの状態であった。
「塩化ナトリウム」
「え?」
朝妃の言葉に振り向く翠。
「除雪剤がまいてあるんだ。そういえばここへ来たときもあまり意識していなかったけど、雪がなかった」
「ああ、そういえば」
塩化ナトリウムは雪国では頻繁に使用する除雪剤である。塩化カルシウムより持続性があり、一度まくとしばらくの間、雪が積もらない。
「二人の足跡がわからないね」
「ああ、とはいっても坂をのぼりはしないんじゃないか。だってこの上はもう山しかないし。普通に考えたら坂を下っていったんだろ」
「そうだね。私たちも下りよう」
いくら雪国育ちとはいえ、坂道を一気に駆け下りると転倒しかねない。朝妃と翠は足元に注意しながら坂道を下りていく。街灯の本数が少ないため、薄暗くて、視界が悪い。
その時だった。
「キキーッ、ドガガガ」
車のブレーキ音と何かが激突したような、擦れたような音がした。
「なんだ、事故か⁉」
翠が目を凝らしてみるが、やはり視界が悪い。
「ね、いまの音、学校の方から聞こえなかった⁉」
柊慈の家から坂を下り切って、交差点を左にまがってまっすぐ行ったところに学校がある。
「確かに方角的にはそっちだな。行ってみよう!」
朝妃と翠は学校に向かって走る。しかし、朝妃が途中で滑って転倒してしまう。
「あいたたた」
「大丈夫か?」
「大丈夫。全く、こういう時、雪道ってのは困るね」
「ところで朝妃、なんか焦げ臭くないか?」
「え……」
確かに何かが燃えているような臭いがする。それは決して焚火のように自然物を燃やしている臭いではなく、ゴムやプラスチック製品、そして……。
「ガソリンの匂いがする……」
後ろから幾つかの足音が近づいてきたので、誰だろうと振り向くと、学校の方へ向かって走る町の人々だった。
「何か、えらい(すごい)音がした」
六丁目のおじいちゃんと、五丁目の橋本さんだ。
「ええ、事故か何かだと思います」
「学校の方ろっか?」
「そうですね」
朝妃は、学校の方角をじっと見つめる。すると、僅かな灯りの中、黒煙らしきものを確認した。
「翠、煙だ! 多分何かが燃えているよ」
「とにかく消防に電話するか」
翠がズボンのポケットからスマホを取り出し、一一九番をダイヤルする。
学校に近づくにつれて、鼻をつくような強烈な臭いが増していく。ようやく学校に到着し、正門をくぐった朝妃は絶句した。
車が燃えている。
「朝妃、消防には電話しておいたから」
後ろからやって来た翠も足を止める。
「あの車は……」
見たことがある。激しく燃える車の前で立ち尽くした朝妃は背筋が凍った。
その場から動けずにいると「お姉ちゃん!」と言う声が聞こえた。
燃える車の遠く向こう側に朝妃は自分の妹、悠妃(ゆうひ)が立っているのを確認した。
「お姉ちゃん、どうしよう! 山口先生が中に……」
やっぱり。車体の形からするにこれは山口先生がいつも乗っているスバルのフォレスターだ。
山口先生が中にいる⁉ それを聞いたところで激しく燃え盛る車に近づくことなどできない。
「消火栓を探そう!」
朝妃が職員用の通用口のドアノブを回すと幸い、鍵はかかっていなかった。学校内に入り、廊下の消火栓を開けてホースを伸ばしてみるが、
正門近くの燃える車まで全く届きそうにない。
その時、「ウー、カンカン」という音が聞こえた。
学校までやってきたのは地元消防団の車だった。消防団の一向は燃える車に一瞬たじろいだが、何とか消すことはできないかと消火活動を行う。
しかし、ガソリンに引火している車の炎は簡単には消えない。
この町には消防署がない。そのため、火事の時は地元消防団が第一線で初期消火活動を行うのだが、この時ばかりは燃え上がる黒い鉄の塊に、
消防団の人たちも唇を噛むことしかできなかった。それから約十分後にやって来た化学消防車によって炎は鎮火されたが、
車は見るも無残に焼け焦げ、鉄の黒い枠だけが残り、タイヤは溶けて変形している状態であった。
消防隊員によって、運転席から一人の人間が救助されたが、灰になりそうなほど焼け焦げた遺体は最早性別も年齢も何も識別できない状態であった。
そのうち学校の前に集まっていた町人の一人が、指をさして叫んだ。
「もう一つ煙が上がっているぞ!」
その人の指さす方を確認すると、学校の北側方面から煙があがっている。
「何だ、何だ! 今度は何が燃えているんだ⁉」
消防団の人たちが煙のあがった方向へ駆けつけると、学校の裏門を出た辺りにある農機具の倉庫の前で火の手が上がっていた。
「とにかく消すぞ!」
消防団によって、火は消し止められた。その頃になってやっとパトカーと救急車のサイレンの音が近づいてきたのだった。
小さな町は大混乱であった。パトカーのサイレンが鳴り響き、学校は封鎖されてしまい、第一発見者の朝妃の妹、悠妃は震えながら事情聴取されていた。
この時、現場に駆け付けた刑事の一人は皮肉にも、里峰小、中学校の卒業生、羽鳥祐介(はとりゆうすけ)だった。
羽鳥は第一発見者が榎本悠妃だと聞いて、まだ身長が百センチを過ぎたばかりの小さな女の子の姿を思い出した。
さらに、現場には顔なじみの悠妃の姉、朝妃と陸山翠がいたので驚いた。
「あなたが火災現場に一番に駆けつけたのですね」
羽鳥の質問に震える唇を必死で動かして答える悠妃。
「はい。バレー部の練習が終わって……私はみんなが帰った後に少しだけ残って自主練をしていたんです……。そしたら大きな音がして、何だろうって思って体育館を出て音のした方へ向かったら、車が燃えていて……」
「その時に、誰か他の人物を見かけませんでしたか?」
「い、いえ。特に誰もいなかったです」
「車の中に人がいるのにはどうして気付いたのですか?」
「私が車を発見した時、中にいる人が暴れているのが見えたんです。慌てて、助けなきゃって思ったんですけど……。とても、そんなことができる状態ではなかったので……」
悠妃は寒さと恐怖で歯がカチカチ鳴っている。
「でも、三分ほどしたらその人は動かなくなりました」
「消防には通報されましたか?」
「通報しようと思ったのですが、何せスマホは更衣室に置きっぱなしだったので……」
なるほど。と頷いた羽鳥の後ろから、別の刑事らしき人間が駆けてきて、悠妃にあったかいお茶のペットボトルを差し出した。
「ここではさすがに寒いですね。どこか室内に入りましょうか」
学校の職員室に場所を移し、そこで、第一発見者の悠妃、後から駆けつけた朝妃と翠、そして休日に急に呼び出された教頭先生と校長が集まった。
校長先生は顔を真っ青にして
「や、山口は死んだのですか?」
と尋ねる。
「いや、まだその方がどうかわかりません。何せ遺体の損傷が激しいもので」
それを聞いた教頭もオロオロしている。
「事故なんですかね……」
「それもまだわかりません」
そこへまた新米らしい刑事が職員室のドアを開けてやってきて、ベテランらしい刑事に耳打ちで何かを伝える。
「ええと……。すみません、悠妃さんと朝妃さんは正門横の車が炎上してから以降、いまの時間までに裏門付近へは行きましたか?」
ガタガタ震えている悠妃に代わって朝妃が答える。
「いえ、私も妹も裏門方面へは行っていません。なぜそのような質問をされるのですか? 現場から何か発見されたのでしょうか?」
朝妃ももちろん動揺はしていたが、妹の悠妃が自分以上に過酷な現場を目撃している。
人が焼け死ぬ姿なんて見たらショックを受けるに違いない、しっかりしなければと気持ちを奮い立たせていた。
「残念ながらその質問にはお答えできません」
やっぱり。と朝妃は思う。刑事というのは必要なことだけ質問して、大概、一般人には事件、事故の詳細を教えてくれないものだ。
自分と悠妃ということは、何か女性特有のものでも見つかったのだろうか。
「あと、先ほど誰も見かけなかったとのことですが、本当に誰もいなかったですか?」
現場を目撃した僅か十三歳の少女の心情など露知らず、刑事は淡々と質問してくる。
「はい、誰もいなかったと思いますが……」
「そうですか」
「あの、妹はとてもショックを受けているので……」
朝妃の隣で悠妃は震えが止まらない様子だ。
「わかりました」
夜の九時、さすがに未成年の三人は家に帰さなくてはならない時間なので事情聴取は終了し、羽鳥が車で家まで送ってくれることになった。
「ヒック、ヒック」
車の中で泣いている悠妃の肩を抱く朝妃。
「悠妃。とにかく今日はゆっくり休もう、ね?」
朝妃はふとその時になって花蓮と、花蓮を追っていった柊慈のことを思い出す。
花蓮のことも心配だが、いまは悠妃の心の傷が心配だ。
「悠妃ちゃん、朝妃ちゃん。大変だったね。まさかこんな形で再会するとは思ってなかったよ」
羽鳥は、まだ中学生の二人を不憫に思いながらアクセルを踏む。
「裕兄ちゃん、立派な刑事になったんだね」
朝妃が小学一年生の時、祐介は中学校を卒業した。
「まだ新米だよ」
「でも卒業する時、刑事になりたいって言ってたよね。夢を叶えていてすごいな」
あの頃、羽鳥は刑事ドラマにハマっていて、それで何となく目指した。
しかし、ドラマの中で難事件を華麗に解決する刑事は、やはりドラマ仕立てなのであって、実際に刑事になってみると、地味な仕事や人に嫌がられる仕事が多いことが分かった。
初めて担当した新潟市内の強盗事件では、近隣の店に何度も赴き、煙たがられたのを思い出す。
「朝妃ちゃん。気を落とさないように。何かあったらまた連絡して。まぁ恐らくこちらからまた伺うことになるような気がするけど」
それを聞いた朝妃は、もしかして自分と悠妃があの事件に関与していると疑われているのではないかと思い、少し嫌な気分になった。
夜十時のコンビニは誰もおらず、羽鳥は二人分のホットコーヒーを購入して店を出た。雪は止んでいるが、手元のスマホには氷点下二度と表示されている。
車に戻った羽鳥は、運転席の笹本にコーヒーを渡す。
「すまんな」
「いえ、お疲れ様です」
羽鳥がシートベルトを締めると、笹本がアクセルをゆっくりと踏み込む。
「どう思う?」
コンビニの駐車場から出ると、誰もいない交差点の信号は赤だった。
「それは、車の炎上についてですか? それとも、もう一つの焼き跡についてですか?」
「両方だな」
信号が青になったので、笹本が再びアクセルを踏み込み車が発進する。助手席で羽鳥はコーヒーを口に含んだ後、「うーん」と唸る。
笹本はハンドルを器用に操作しながら山道に入っていく。
「そうですね。ただの事故としては車が炎上するほどのひどい衝突にも思えないので、誰かが火をつけたのではないかと思います」
「そうだな」
「あの車はガソリンタンクが左側にあるので、摩擦熱でガソリンに引火したとは考えにくいですね」
「それもゼロではないが、放火だろうな」
「しかし榎本悠妃の証言では、車が炎上している現場に来た際、車の周りには足跡はついていなかったと」
「ああ。そうなると問題はどうやって火を放ったのか。そしてどこから逃げたのか。だ」
里峰小、中学校の裏門を出たところは田んぼが一面に広がっているため、隠れる場所などないが、唯一、農機具を収容する倉庫がある。
その倉庫の前でもう一つの火災が起こっていた。
「やっぱり裏門から逃げたんでしょうか」
「その可能性が高いだろうな」
裏門外の田んぼ道は非常に狭くて化学消防車が入ることができなかったので、いち早く火災に気付いた地元消防団によって鎮火された。
幸い大きな火の手は上がっておらず、学校にあった消火器二本ほどで火は消えたとのことだ。
警察が駆けつけた時には、既に消防団の人や野次馬たちが裏門付近をウロウロしたことで、大量の足跡がついていた。
もしかしたらこの中に犯人の足跡もあるのかもしれないと羽鳥は考えたが、その数があまりに多すぎてわからない。
そして、裏門から小学校の職員用通用口まで足跡が残っていたが、これは消防団のうち三名が、学校内に保管されている消火器を取りに行った時の足跡で、
もしかしたらそこに犯人のものも混ざっている可能性がある。と警察は捜索したのだが、
何せ、行きと帰りの往復で三人分、つまり例え犯人の足跡が残っていたとしても六回踏み荒らされた状態で、その中から犯人を特定するのは非常に困難だった。
それに、消防団の人が履いている長靴の跡しか確認できていない。
一番始めに学内に入った消防団の人に、足跡がなかったかと尋ねたが、慌てていたので、覚えていないとの返答であった。
それも仕方がないのかもしれない。なんせ、正門側は消防車の赤色灯の光や街灯もあるので、そこそこ明るいが、裏門側は照明たるものが一つもない暗闇だったからだ。
農機具倉庫は裏門を出て少し左に進んだところにあるので、裏門の奥までは炎の明るさも届かないであろう。
「しかし、例えば学内を通って小学校側の職員出口から出たとする。そこから裏門に向かい、外に出て倉庫前にて火をつけた。その先は一体どこに……」
そして、中学校校舎と小学校校舎は別々の建物ではあるが、渡り廊下で繋がっている。渡り廊下の出入り口の鍵も、内側からなら誰でも開閉できるようなものである。
「うーむ……。もしかしたら学内に戻ったのかもしれん」
「えっ、学内に⁉」
農機具倉庫の前で起きたもう一つの火災。火災というよりは焚火程度の火ではあったが、燃えカスからは、
竹、衣類らしきもの、ペットボトル、コンビニの袋、お菓子の箱らしきもの、鉄の釘が二十本ほど、そしてUSBのメモリースティックが検出された。
焚火といっても油を撒いたらしく、かなりの火力で燃えており、どれもこれも原型をとどめないほどよく燃えていた。
唯一の手掛かりが、犯人のものなのか全く不明だが、裏門付近に髪の毛が一本落ちていた。長さが二十五センチほどだったので、おそらく女性。
それかパンクバンドのメンバーなどによくいそうなロン毛の男だろうか。でもこの町にそんな男がいたらかなり目立つであろう。少なくても羽鳥が知っている限り思いつく人物はいない。もしかしたら、小学校や中学校の生徒、そして女性教諭のものかもしれないが、十六日は朝から雪が降っていた。もし、前日の金曜日に誰かが落とした髪だとしたら、上から雪が積もっているはずだ。
当日、バレーボール部が練習を行っていたそうだが、全員、正門から出入りをして、体育館と更衣室以外の場所には行っていないとのことだ。
あとは、第二の火災現場に駆け付けた野次馬の誰かが落としたのかもしれないが、消防団の人の話では、パーマをかけたおばちゃんが数名いたらしいとのことだ。
まぁ、かなり混乱していたらしいから、消防団の人が見落としているだけで、他の女性もいたのかもしれない。落ちていた髪はストレートの黒髪。
それに、何となくだが、年配の人の髪質ではなく、羽鳥には若い人の髪のように見えた。
「犯人は焚火をおこしてから再び校舎に戻り人が集まって来るのを待つ。学校内だったら、隠れるところはたくさんあるだろうからな。
騒ぎが大きくなってみんなが火の方に集中している隙に、野次馬に混ざったのかもしれん」
「あっ……! だからさっき野次馬について質問していたんですね」
先ほど、笹本は消防団の人に野次馬について詳しく質問していたようだ。
「だが、誰も野次馬の顔までいちいち覚えていない。ああ、そういえば一丁目の高橋さんがいた気がする。とかそんな感じだ。
なんせ消防団以外にも二十人くらい集まっていたそうだからな」
「うーん二十人……」
羽鳥は頭を抱えた。
「第二の火災が発生したことから、正門横の車の炎上は事故ではなく事件の可能性が九十パーセントくらいだろうな。別々だとしたらあまりにタイミングが合いすぎている」
困り顔の羽鳥に対して常に冷静な笹本は淡々と話す。
「同一犯ということですか」
「ある者が車に近づくことなく火をつけた。もしくは、タイマーがセットしてあり、ある一定の時間になると発火する装置か何かをとりつけた」
「時限爆弾みたいな、ですか」
その時、笹本のポケットの携帯電話が鳴った。
「はい、はいそうか」笹本が電話を切る。
「どうしましたか?」
「農機具倉庫の中には、コンバインや田植え機、あとはスコップや鎌(かま)など、農作業に使用するようなものしかなかったそうだ。それに誰かが侵入したような痕跡もない」
「じゃあ農機具庫の中に隠れていたという可能性はないということですね」
「いや、痕跡を残していないだけ。ということもあるだろう。学内の方も鑑識があちこち調べている」
「こんな夜遅くに……ご苦労様です」
「我々は一旦署に戻ろう」
夜の山道は街灯もほどんどなく、カーライトのみが頼りになる。
十日町署まで帰るには山道を三十分ほど走り、その後は広大な田んぼを左右に分断するように伸びた道をひたすら進む。署につく頃には日付が変わりそうだなと羽鳥は腕時計を確認した。
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