第2話

【第一章】

 

「なぁ、卒業旅行行きたくねぇ?」


 そう言いだしたのは、クラスリーダーの柊慈だった。


「卒業旅行? 中学生だけで行けるの?」


 真っ先に喰いついたのはお調子者の菜子だった。卒業旅行という言葉に目をキラキラ輝かせている。


「まぁ、近場なら大丈夫じゃないか」

 

 柊慈がニカッと笑う。

「どうせ行くなら南国がいいよね、ねぇ朝妃?」


 菜子の質問に、手に持っていたミステリー小説から目線を彼女の方に移す。


「え?」

「え、じゃなくて。聞いていなかったの? 柊慈が卒業旅行に行きたいって」

「卒業旅行?」

「そう。どうせ行くなら暖かいところがいいよねー」


 菜子は南国の海でも想像しているのだろうか。うっとりした顔をしている。


「お前、受験が終わった次の日からまたミステリー読んでんのか。ほんと好きだなぁ」


 柊慈がそう言いながら朝妃が開いている本を覗き込む。

 窓の外に雪がちらつく二月の上旬。昔ながらの石油ストーブを炊いた三年の教室には、クラスメイト六人がホームルーム開始までの時間を過ごしていた。


「っていうか南国は近場じゃないだろう。ここは新潟だぞ」

 

 翠は鏡を見ながらワックスで固めたツンツン頭を丁寧に整えている。


「うーん、静岡とか神奈川まで行ったら?」

「静岡と神奈川は南国なのか?」


 菜子の天然ぶりに呆れ顔の翠。


「ほら、湘南の海とかあるよね」

 

 そう言われれば確かに南国な気もしてくる。


「それより温泉はどう? もちろん混浴の!」

「柊慈のバカッ。あんたはサルと混浴しときな」


 鋭いツッコミを入れる愛奈未。ふっくらした丸い顔とチャーミングな二重瞼とは裏腹に、肝が据わっている愛奈未はクラスの母親的存在である。


「花蓮はどこへ行きたい?」


 菜子の質問に花蓮が英単語帳のページをめくる手を止めた。


「私、まだ受験が終わっていないから」

「ああ、そうだよね。ゴメンゴメン」


 豪雪地帯にある里峰中学校は、全校生徒が僅か十九人の中学校である。隣には小学校の校舎も併設されているが、小学校の全校生徒も三十人と、小中合わせても五十人に満たない。

そのため隣町の学校と合併することが決まり、この学校は今年の三月の卒業式と修了式を終えた後、閉校となる。


「柊慈もまだ受験終わってないだろ」


 窓際に座る翠が呆れた顔をしている。


「オレは大丈夫。天才だから」

「はいはい、天才ね。数学で二十点をとった天才ね」


 愛奈未の言葉にえへへとひょうきんな笑い方をする柊慈。


「そういえば、柊慈はいつが受験だっけ?」

「柊慈は二十六日。花蓮は二十五日」

 菜子の質問に本人ではなくしっかり者の愛奈未が答える。


「あーあ、全員で章学館(しょうがくかん)高校に行けたらいいのになぁ」


 菜子の言う通り、六人全員が同じ高校に進学する訳ではない。

柊慈は、新潟市内の弓道の強豪校を目指しているし、花蓮に至っては、モデルになるために東京の高校を受験する予定である。

 それ以外の四人は隣町にある私立章学館高校の受験を昨日終えたばかりだ。

この集落には高校がないため、集落に残る場合はバスで一時間かかる章学館高校へ進学する他に選択肢はない。

二番目に近い高校は公立高校だが、その高校に通うにはバスに乗って一時間、さらにそこから違うバスに乗り換えて十分。そこから徒歩三十分と、トータル二時間弱かかる。

春から秋の徒歩三十分はともかく冬の雪道を三十分歩くのはかなり根気がいる。そのため少々学費が高くてもこの集落の子どもが受験をする際は大抵、章学館高校を選択する。


「結果発表までドキドキで眠れないよぉ」


 菜子がそう言うとすかさず翠が


「絶対お前、夜九時には寝てそうだけど」


 とツッコむ。


「ええー。九時って小学生じゃないんだから。九時半までは起きているよ」

「九時半でも小学生並みだよな」


 菜子と翠のやりとりを遠回しに聞きながら、朝妃は楽しみにしていたミステリー小説を読み進める。受験の二か月前に小説を読んでいた朝妃はさすがに母に怒られた。


「あんた、答案用紙に犯人の名前書く気じゃないだろうね」


 日頃から成績のいい朝妃とはいえ、一校しか受験しないのでさすがに落ちたらまずい。それで泣く泣く、まだ読み始めの小説を本棚に収めたのだった。


「朝妃、もうすぐチャイムなるよ」


 愛奈未の声にふと顔をあげる。

「ああ、もうこんな時間だ」


 教室の時計は八時二十四分を指している。二十五分から朝のホームルームが始まる。

 キーンコーンカーンコーン

 全国共通と思しき、何の変哲もないチャイムの音と共に担任の山口邦彦(やまぐちくにひこ)がドアを開けた。


「ちゃくせーき。ってみんな着席しているな」


 山口は黒い大きなビニール袋を抱えている。


「先生、それ何ですか?」


 真っ先に質問を投げかけたのは愛奈未だった。


「さて、何だと思う?」


 山口はにやりと笑って、その大きなビニール袋を床に置いた。どうやら縦長のものが入っているらしい。


「あ、もしかして、先生の好きな桃ちんの等身大パネル?」


 桃ちんとは、いま売れっ子のアイドル飯田桃花のことである。


「そんなもの学校に持ってくる訳ないだろう」


 山口の呆れ顔にえへへと舌を出す菜子。


「ヒント、陸山の家からもらったんだ」

「えっ、オレん家?」


 翠の家は造園業を営んでいる。この辺りは古い日本家屋が多く、立派な日本庭園がある家も多い。そんな庭の剪定を主に行っているのが、陸山造園だ。

剪定以外にも野菜や花の種、苗木などを販売している。


「苗木じゃないですか?」


 朝妃がそう答えると、山口の眉がぴくりと動く。


「ほほう、さすが榎本だ」

「今日、登校した際に、正門近くの花壇の土が掘り返されているのを見ました」

「観察力に優れているな。正解だ」


 そう言いながら、山口は黒いビニール袋の中身を取り出した。出てきたのは、白い植木鉢と高さ一メートルほどの苗木だった。


「あ、それもしかして」

 

 植物に詳しい翠は苗木を一目見てピンときたらしい。


「モクレンじゃないですか?」

「その通り、さすがは造園屋の息子だな」


 朝妃はモクレンという名称を聞いて、確かおじいちゃんの家にモクレンの木があって、三月くらいに紫色の花を咲かせていたな。と思い出した。


「その木を植えるんですか?」


 朝妃の質問に山口が首を縦にふる。


「ああ、卒業記念に植樹をしたいなと思って」

「でも先生。校内に植えてもここって閉鎖されてしまうんですよね?」


 柊慈の質問に対して山口はいいやと否定する。


「まだ決定した訳ではないけど、完全に閉鎖される訳ではなくて、グラウンドで町民のゲートボール大会を行ったり、体育館を解放して何かイベントに利用したりするらしいぞ」


 それを聞いた朝妃は、グラウンドはともかく、あの古い体育館がいつまで使用できるのか少々心配になった。

恐らく築四十年は過ぎているであろう里峰中学校の体育館は、屋根のペンキが剥がれ落ち、壁は黒ずんでいる。

校舎も同じく、コンクリートの壁にあちこちにヒビが入り、空き教室にはひどく埃がたまっている。


「陸山さんが話していたけれど、モクレンは初心者向けでそんなに手がかからないそうだ」

「確かに、モクレンはそんなに手がかからないはずです」


 翠の発言に山口が頷く。


「そうそう、ネットでも初心者向きって書いてあった。最初、苗木の間は水やりが必要になるけれど、根がはったら水やりの必要もないらしい」


 朝妃は今朝見た正門近くの花壇を思い出す。春から秋にかけては鮮やかな花々が植えられている花壇だが、冬の間は一メートル近い雪に覆われ、花壇があることなど忘れてしまう。

その雪を土まで掘り返すだけでもかなりの大仕事だ。


「昨日土を掘ったのですか?」

「そうだ、昨日は難儀したよ。いやー正門前の雪かきに加えて花壇の雪を撤去していたら腰が痛くなった」


 山口は二年前にこの学校に赴任して来たが、それまでは東京にいたらしい。

そのため、雪かきという作業はまだ慣れないといつも言っている。


「こんな冬に植樹して大丈夫なんですか」


 愛奈未の疑問に、さらに山口が答える。


「これもネット情報だが、モクレンの植樹は一月から三月が最適らしい。陸山、どうだこの情報はあっているか?」


 山口が翠に視線をやると、彼は「多分」と答えた。


「残念ながら、そこまで細かいことは知らないっス」

「そうか」

「でもオレのおかんが渡したということはそういうことなんでしょうね」

「あの……」


 さらりと長いストレートの髪をなびかせ、いつもと変わらず無表情のまま右手を少しだけ上げる花蓮。


「なんだ、木下」

「私はまだ受験が終わっていないのですが……放課後に行うのですか?」

「そうだよな。木下はまだ受験勉強で忙しいよな。でも安心してくれ。今日の三限目、現代文の時間を植樹の時間にあてるから」


 山口は現代文と古典、体育と美術を担当している。普通は中学校になると一教科につき一人の先生が担当するが、小さな里峰中学校には先生が四人しかいない。

一年の担任、倉橋と二年の担任の辻。三年の担任、山口。そして教務の井上の四人である。たまに教頭先生が教壇に立つなんてこともある。


「やった、三限は勉強しなくていいんだ!」


 お調子者の菜子が喜ぶと山口が苦笑いする。


「今回だけだからな!」


 今日もまるで彫刻のように美しい花蓮の顔を朝妃は一瞥する。

 花蓮の家はシングルマザーで父親はおらず、母と娘の二人暮らしだ。小学三年の頃に東京から引っ越してきた花蓮の美貌に、町の人々は一驚(いっきょう)した。

小学生の頃から高身長だったが、十五歳に成長した彼女の身長は百七十と高く、八頭身のスタイルと、すらりと伸びた手足はまるで少女漫画のヒロインのようだ。

艶のある黒髪はさらさらとしており、引き込まれるような黒目が人々を魅了する。花蓮の母も、とても四十代とは思えない美しさで、中年という言葉が全く当てはまらない美貌の持ち主だ。


「あっきゃー、えらいのが引っ越してきたな」


 町の人たちは一体なぜこんな辺境の地に美しい母子二人が引っ越してきたのかああだこうだと噂を立てたが、単純に花蓮の母が田舎好きだという理由だった。

お金には特に困っていないのか、築十年ほどの中古物件とその横に広がる休耕田を買い取り、田んぼではなく畑として耕して、様々な作物を育てている。

 これもまた噂話ではあるが、花蓮の父は弁護士で、離婚した後も養育費を月に二十万ほど振り込んでいるらしい。


「では、今日の三限はモクレンの植樹ということでよろしく」


 ホームルームが終了し、一限目の日本史の授業が始まった。



 雪は止んでおり、チャイムと共に六人は下駄箱で靴を履き替え、外へと出た。凛と空気は澄んでいるが、太陽は見当たらず、分厚い雲に覆われた空に何羽かのトラフズクが飛んでいる。


「うーん、今日も寒いね」


 菜子は顔の中央まで毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにしており、目しか出ていない。朝妃と柊慈はスコップを持ち、山口が苗木を抱えている。


「ついでにタイムカプセルとか埋めてもいいかもね」


 愛奈未の提案に、ああ、と返事をしたのは翠だ。


「それ、今朝の時点で言うべきじゃね?」

「だって、いま思いついたんだもん」


 話を聞いていた山口が振り返る。


「タイムカプセルもいいな。それは植樹が終わってからまた考えようか」


 そして、正門横の花壇に辿り着き、山口が苦労して掘った穴に苗木をそっと置く。掘り返した土を朝妃と柊慈がスコップで根っこの上に優しくかけていく。


「よし、陸山、例のやつ出してくれるか」


 翠が手にしていた麻袋から取り出したのは、プラカード状の白い板に『里峰中学校 令和五年 卒業生』と書かれたものだった。

 山口が鋭く尖った棒を土にぐいぐい差し込んでいく。


「閉校した後ってどうなるんだろうな……」


 柊慈がポツリと放った言葉に、朝妃は閉校後の学校の様子を思い浮かべる。


「さっき先生が言ってたじゃない。グラウンドや体育館は利用するって」

「そうだとしても、いつもいつも人が出入りする訳ではないんだろう」

「うーん、まぁそうだと思うけど」

「校舎は解体すんのかな?」


 コンクリート造りの校舎はひどく黒ずみ、正門はペンキがはげて錆びた鉄がむき出しになっていた。


「どうだろう。もし解体するとなってもこの木だけは残して欲しいよね」


 朝妃の言葉に柊慈が頷いた。



 新潟の冬は長い。北海道に比べればましなのだろうが、日照時間が極めて少ない。曇り空の日が何日も続き、雪が降ったりやんだりを繰り返す。

灰白(はいじろ)の空から雪が舞いおちる中、朝妃はいつも通りフードを被って登校した。

小学生の頃は雪が降ると傘をさしていたが、だんだん面倒になり、セーラー服の上からフード付きのパーカーを着るようになった。

花蓮と柊慈以外の四人が受験した章学館高校の合格発表日が明日に迫っていた。


「ああ、いよいよ明日だよぉ」


 菜子は今更、赤本を開いて自分の書いた答案が合っているのかどうか調べている。


「もう何度も答え合わせをしたんだから大丈夫だって」


 愛奈未が呆れ顔をしている。章学館高校は私立だが、偏差値は五十八と決して高くない。田舎に住む四人は通学の距離を考えると、この章学館高校以外受験できるところがないので、四人とも一本勝負である。つまり落ちたら中卒浪人生になる。


「早く、大学生になって一人暮らししたいな。いいなー柊慈は一人暮らし」


 菜子の羨望の眼差しに対して柊慈は、いやいやと否定する。


「オレは一人暮らしじゃなくて寮だから狭い部屋に四人詰め込まれるだけだぞ」


 弓道の強豪校、新潟市立奏和(そうわ)高等学校はスポーツが盛んな学校で、サッカー部、アイスホッケー部、弓道部が毎年全国大会に出場するレベルだ。

そのため、新潟県内だけではなく、近辺の長野県、福島県、群馬県、富山県、山形県からも生徒が集結する。


「四人かー。ちょっとそれは勘弁」

「なんか柊慈が男臭くなりそう」


 愛奈未の言葉に「なんだと」と返す柊慈。


「私は高校で何部に入ろうかなぁ」


 この里峰中学校には男子バレーボール部と女子バレーボール部しか存在せず、男女合わせても部員は十二人しかいない。

夏の大会までは、愛奈未と翠がバレー部に所属していた。高校に入れば部活の選択肢が一気に増えるとワクワクした様子の愛奈未は既に合格を確信しているらしい。


「朝妃は何部に入りたいの?」

「ミステリー研究会」


 愛奈未の質問に朝妃は即答する。

「ええっ、ミステリー研究会なんてあるの?」

「いや、多分ないから私が立ち上げるかも」


 十二月のオープンキャンパスに朝妃、愛奈未、菜子、翠の四人で参加した。朝妃がその時、ミステリー研究会はありますか? と質問すると、先生たちは首をかしげた。


「朝妃が部長?」

「でも一人だったら部として認可されないかな」


 朝妃が苦笑いする。


「じゃあ、部員を集めないとね」

「菜子と愛奈未は入ってくれるよね?」


 菜子と愛奈未は顔を見合わせて、後退(あとずさ)る。


「み、ミステリーはちょっと」

「私は体育会系がいいから!」

「冗談だよ」

「朝妃が冗談言うなんて珍しいね」


 窓の外はいつの間にか吹雪になっていた。その様子を見ていた翠が


「お前ら、部活以前にまず合格だろ」


 とツッコミを入れる。

 お調子者の菜子にしっかり者の愛奈未。みんなにツッコミを入れる係の翠。クラスリーダーだけど適当な柊慈。頭脳明晰ミステリーオタクの朝妃。

そして……美しいけれど無表情の花蓮。

 クラス六人それぞれちゃんと役割分担が決まっている。


「あ、それで卒業旅行の話なんだけど……」

「だから、まだ全員高校への進学が決まってないのになんでそんな能天気なんだ!」


 柊慈の言葉を遮るように再びツッコミを入れる翠。皆の会話が聞こえているのか否か、一人参考書をじっと見つめる花蓮。


「花蓮はどう? 受かる自信ある?」


 やはり能天気な質問を投げかける菜子。その質問に少しだけ眉をひそめた花蓮は「問題ないよ」とだけ答えた。


「花蓮は成績優秀だからいいの! あんたはあんたの心配をしなさい!」


 愛奈未の言葉にはーいと拗ねたように返事する菜子。

 あと一ヶ月と少しで卒業式を迎える。その事実に少し胸の奥が痛む朝妃は、いままでの小学校生活と中学校生活を思い返してみた。

 小学校の入学式には花蓮を抜いた五人が参加した。小さな町なので、入学時点で既に全員顔見知りで、幼い頃から鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいた仲だったのですぐに打ち解けた。

 小学三年生の時に花蓮が東京から引っ越してきて、クラスは六人に増えた。その時から花蓮の美貌は健在で、おもわず見惚れてしまった朝妃は、最初どこかの国のお姫様がやって来たのかと思ったほどであった。

 言葉数が少なくあまり社交的な性格ではなかった花蓮だが、次第に六人は打ち解けていく。誕生日パーティーを行ったり、トランプ大会やゲーム大会を行ったりと楽しい時間を過ごしてきた。

 柊慈と花蓮がこの町を去る。あと残り僅かな中学生活を大切にしようと朝妃は心に決めた。


 

 章学館高校に合格した四人はほっと胸をなでおろした。

 この頃、中学校の授業は午前中のみで、午後は各々受験勉強や中学の復習、また高校の予習など自由に時間が使えるようになっていた。

 朝妃は、午前の授業を終えて家に帰り、章学館高校のパンフレットに目を通していた。可愛らしいエンジ色のリボンとチェックのスカート。グレイのブレザーを着用した生徒たちが写っている。里峰中学校は昔からのセーラー服で、男子は詰襟の学生服なので、おしゃれな制服に袖を通すのが楽しみな朝妃は鼻歌を歌いながらパンフレットを眺めていた。


「朝妃、ちょっといい?」


 一階から母の呼ぶ声が聞こえた。


「はあい」


 パンフレットを机に置き、階段を下りていくとそこには大きな紙袋を抱えた母が立っていた。


「何それ?」

「悪いんだけど、これを三丁目の田中さんに届けて欲しいのよ」

「ええっ、なんで」

「ほら、今日は芳(よし)おじちゃんに車を貸しているから」


 朝妃の家には車が二台あるが、一台は父が仕事の通勤に使用中、もう一台は朝妃の叔父にあたる芳浩(よしひろ)が使っていた。


「それ、一体中に何が入っているの?」

「スーツよ。田中さんが明日、親戚の結婚式に出席する予定なんだけどうっかり着ていくはずのスーツを汚してしまったそうで、急遽私が貸すことになったのよ」


 朝妃の母、朋子(ともこ)は町にある介護施設で働いており、田中さんはその施設の同僚である。


「なんで私が。お母さんが行ったらいいじゃん」

「受験も終わったんだし、学校も昼までなんだからちょっとは手伝ってよ」


 三丁目は山の中腹である。この町は平地から山の中腹にかけて家が点在している人口が七百人ほどの静かな町だ。

過疎が進んで、その七百人のうち約半数が六十代以上といういまの日本を象徴するかのような超高齢化地帯である。


「運動不足解消に行ってらっしゃい」


 そう言って、朋子は朝妃に紙袋を押し付けた。仕方がないとため息をついた朝妃は自室に戻ってダウンコートを着こみ、マフラーを巻く。

雪道用のブーツを履いて外に出ると、外は相変わらずの曇り空だった。


「確かに卒業旅行は南国がいいかも……」


 思わず独り言を呟いてしまうほど、新潟の冬は太陽とは縁遠い。

 甲信越地方の天気予報では、山梨や長野県南部の方は晴れているのに、北の地域に上がれば上がるほど、雪マークや曇りのマークが並ぶ。

 自宅を出発して十分ほど歩いたところから山の中腹に向かって坂道が続いている。アスファルトの道の両側には、除雪された雪が壁のように立ち塞がり、圧迫感を感じずにはいられない。

 こういった田舎の地域では基本的に車が必須アイテムとなる。都会に住んでいる人は一生運転免許を取らずに、電車やバスなどの交通機関を利用しながら生活する人もいるという話を聞いて、幼い頃の朝妃はまるでおとぎ話を聞いているかのような気持ちだった。

 坂道を十分ほど登ったところに、目的地の田中家がある。インターホンを押すと、すぐに応答があった。


「はい」

「あ、すみません榎本です。母に頼まれて、スーツを持ってきたのですが」

「あっ、朝妃ちゃん⁉ 悪いわねぇ。すぐ行くわ」


 インターホンが切れると、玄関ドアから田中さんが出てきた。

「ありがとう! ごめんねー。私の方から伺おうと思ってたん……きゃっ!」


 田中さんが玄関から門に通じる道の途中で滑って転ぶ。どしんと尻もちをついた田中さんに思わず駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫。やっぱりサンダルじゃダメね」


 田中さんは雪に全く対応していない普通のつっかけを履いていた。

雪国あるあるで、家から出てポストに新聞を取りに行く際や、ほんのちょっと外に出る時にわざわざ靴を履くのが面倒くさくて、草履やつっかけを履いて出ると、滑って転んでしまう。大概の家は玄関の前の雪かきをしているが、それでも路面は凍結している。相変わらずだなと思いながら朝妃は田中さんの体を起こす。


「ありがとう、私ったらドジね」


 田中さんとは町で毎年開催される夏祭りや、地元の餅つきイベントなどで顔を合わせる。

おっちょこちょいで、よく忘れ物をしたり何かにつまずいたりするが、そんな姿が可愛らしいとも感じてしまう。


「寒かったでしょう、良かったら中に入って暖かいものでも飲んでいって」

「あ、いえ。これを届けに来ただけなので」

「そんな遠慮せずにさあさあ」


 田中さんは半ば強引に朝妃の背中を押し、家の中に招き入れた。


「では、少しだけ……。お邪魔します」


 五十代の夫婦二人で生活する田中家は決して広くはないが、暖房がよく効いていて暖かい。朝妃が居間の炬燵に腰を下ろすと、猫が寄ってきた。


「えーと……ミケちゃんでしたっけ?」


 夏祭りで飼い猫の話をしていた田中さんの言葉を記憶の中から手繰り寄せる。


「そうそうよく覚えているわね。ミケ猫のミケよ。そのまんまでしょ」


 ミケ猫のミケは人見知りをしない性格のようで、朝妃の膝の上に乗ってきた。


「あらまぁ、ミケ。お客さんの膝に突然乗ったら失礼でしょ」


 田中さんの言葉に全く動じる様子のないミケは朝妃の膝の上が気に入ったのか離れようとはしない。


「大丈夫です。猫は好きなので」


 朝妃がミケの首のあたりを撫でると気持ちよさそうな顔をする。


「はい、これ。ホットレモン」


 田中さんが湯気の立ったマグカップを炬燵の上に置いた。


「ありがとうございます」


 ホットレモンを口に含むと冷え切った体に染み渡り、ぽかぽかとしてくる。


「あと、頂きもので悪いんだけど、これも食べる?」


 田中さんは最中(もなか)と書かれた袋を朝妃の前に差し出す。


「頂きます」

「あっ、しまった。最中だったらホットレモンより緑茶の方がいいわよね。もうなんで私ってこんなボケているのかしら」


 田中さんは慌てて、食器棚から急須を取り出した。


「お気遣いなく」


 ホットレモンと最中の小豆は確かにベストマッチとは言い難いが、それでも酸味と甘みが口の中で混ざり合って満たされた気分になった。


「あ、そうそう、朝妃ちゃん高校合格したんだってね。おめでとう」

「ありがとうございます」


 全く、昨日が合格発表だったのにもう知っているのかと朝妃は少し呆れた。田舎というのは噂が浸透するのが早い。

何でそんなことを知っているのかと思うようなことを、農協のおじいちゃんが知っていたり、町中に一軒しかないスーパーの従業員の方が知っていたりする。

これでもし、受験に落ちたりしたら、あっという間に「〇〇が受験に落ちたらしいわよ」なんて噂話が町中を駆け抜けていく。合格して良かった。朝妃は、マグカップに残ったホットレモンを流し込みながらそう思った。


「おーい、おーい、もずく!」


 窓の外から子どもの声がして、朝妃はそちらを向いた。


「あら、隣の貫太(かんた)ちゃんかしら」

「おーい、もずく‼」

「貫太ちゃんですね」

「もずくって確か犬よね?」


 朝妃と田中さんは靴を履いて玄関から外に出る。すると小学一年の貫太が坂道をウロウロしながら大きな声で愛犬の名前を連呼していた。

小、中合わせても五十人を下回る里峰小、中学校では体育祭や文化祭が合同で行われるため、全員が顔見知りだ。


「貫太ちゃん」


 朝妃の声に真っ赤なほっぺの貫太が振り返る。


「あ、朝妃姉ちゃん」

「どうしたの、もずく、どっか行っちゃったの?」


 もずくとは、貫太が飼っている柴犬の名前だ。貫太はもずくが大好物で、自分の飼い犬に、体に良い海藻の名前をつけたと学校で話していた。

「うん、散歩してたんだけど、ひもが切れちゃって……。どっか行っちゃった」


 貫太の右手には青色のちぎれたリードが握られている。


「どっちの方角に行ったかわかる?」

「えっと、山の方に行っちゃった」


 貫太の答えに朝妃は嫌な予感がした。里の方に下りたのならともかく山の中腹より先は家などの建造物がない雑木林だ。山の中で遭難してしまうと探す手立てを失ってしまう。

「あらら、それは大変。もずくちゃーん」


 田中さんも大きな声で呼び始めた。朝妃は地面をよく観察する。きっと足跡が残っているはずだ。田中さんの家の周りや貫太の家の周りを歩いていると、家の裏手から雑木林の方に向かって小さな足跡が続いているのを発見した。


「貫太ちゃん。多分もずくはこっちに行ったよ」


 朝妃の指さす方向が雑木林だったので、貫太は困った顔をしている。


「どうしよう、お母さんが山の方は行っちゃダメだっていつも言ってる」


 確かに山に入ると迷うかもしれないし、熊は冬眠中とはいえ、どんな野生動物に出くわすかもわからない。


「待ってて。お姉ちゃんが足跡を追ってみるから、貫太ちゃんはお家に戻っておいて。もしかしたら、もずくちゃんが帰ってくるかもしれないでしょ」


 朝妃は、雪深い雑木林の中へと入っていく。「朝妃ちゃん、無理しちゃダメよ」という田中さんの声が背中の方から聞こえてきたが、うかうかしていると陽が落ちて真っ暗になってしまう。

 朝妃は生まれた時からこの町で暮らしている。幼い頃から山や田んぼなど自然の中を駆け回っていたので、ある程度、地形は理解している。

 雑木林にはブナやナラの木がある程度の距離を保って生えている。この辺りは人間の手によって管理されているので、木々が密集して生えている場所ではない。

しかしもっと奥の方まで行くと管理が行き届いていないので、木がびっしりと生えているはずだ。

もずくの足跡はくっきりと残っているが途中で別の動物の足跡も朝妃の目に入りこんできた。これは……シカだ。

冬眠しないシカは草食動物とはいえ力は強く、特に雄は立派な角を持っている。遭遇すると大概は逃げてしまうが、何年か前に山に山菜採りに入ったおばあさんを攻撃したことがあった。

これ以上の捜索は不可能かと、諦めて引き返そうとした朝妃は奇妙なものを発見する。


「何これ……」


 一本のブナの木に無数の穴が開いており、その周りに白い粉のようなものがびっしりとへばりついている。近づいてみると、穴の辺りはどうやら焦げているようだ。

 誰かのイタズラであろうか。しかし、こんな山奥で誰が何のために。

 その時だった。


「ワンッ」


 微(かす)かに犬の鳴き声が聞こえたのでその方角に顔を向ける。


「もずくー!」


 力いっぱい叫んでみる。


「ワンワンッ」


 先ほどより鳴き声が近くなった。目を凝らして辺りを見渡すと、遠くに一匹の柴犬がいた。


「もずくちゃん! 貫太ちゃんが待っているよ。お家へお帰り」


 朝妃が貫太に借りたおもちゃを取り出し、もずくにアピールする。すると、もずくが近づいてきた。

 犬は非常に嗅覚が優れているので飼い主の貫太の匂いのするものがあれば近づいてきてくれるんじゃないか。

そう目論(もくろ)んだ朝妃は自分の方へ走ってくるもずくを捕まえようとスタンバイするが、もずくは途中で方向を急に変えて走り去っていく。


「えっ、私のおもちゃに反応したんじゃないの⁉」


 慌ててもずくの去っていく方向を確認すると、どうやら民家のある方へと向かっているようで、ほっとした朝妃は来た道を引き返していく。

とにかくこれ以上山奥へ入っていかれると、一般人にはもう入り込めない領域だ。

 

 結局、朝妃が田中さんの家の前に帰って来ると、そこには貫太ともずくの姿があった。


「朝妃姉ちゃん、ありがとう! もずく帰ってきたよ!」


 嬉しそうな貫太と尻尾がちぎれそうなほど振るもずくの姿を見ると、急に力が抜けてしまった。


「まぁ、朝妃ちゃん、疲れたでしょうに」


 田中さんがヨロヨロしている朝妃を支えた。それにしても先ほど見たブナの木は一体何だったのだろうか。

朝妃の脳裏をかすめたその疑問も、雪道を必死に歩いた疲れに吹き飛ばされて、やがて忘れてしまった。

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