短編小説【消化堂】第2話 平穏を保つ女

 「どうして、また、ここ…?」


 私は困惑していた。

いつものように会社から帰る道。10年以上も毎日の行き帰りに通り、目をつぶってでも歩ける商店街。それが、今日はどうしてもこの見知らぬ路地にいつのまにか入り込んでしまっていた。もう、何度目か。うっかり路地に入ってしまった後、回れ右をして駅の方向に歩いていくと、またいつのまにか、この路地を歩いているのだった。


 まるで巨大迷路の中を歩かされているようだ、と私は辟易しながら思った。同じ場所をぐるぐる彷徨って、またスタート地点に戻る実験のネズミのようだ。

 そもそもこんな路地通ったことないし、存在すら知らなかった。なのに、どう歩いても今日に限ってこの路地にたどり着いてしまうって、どういうこと? 焦れば焦るほど、何がなんだか分からなくなる。


 ついに、自分はおかしくなり始めてしまったのではないか。若年性認知症…そんな言葉が頭をよぎる。昔はこういうのを、神隠しとか言うんじゃなかったっけ? と、自分以外のせいにしようとする。


 私は知らない道を歩くのが嫌いだ。スケジュールでもなんでも、変更は不安しかない。朝起きてパンを焼き、コーヒーと昨夜のうちに作って冷蔵庫に入れておいた簡単なサラダ、という決まった朝食を食べる。会社に行って1日中働き、夕方には帰ってきて夕食を作って食べる。それが何十年も変わらず私を支えているルーティーンだ。毎日同じ時間に同じことをする、それが心の平穏を保つコツと心得ている。

 けれど、今日はすでに帰宅時間をとうに過ぎてしまっている。私は仕方なく思考を変えて、一旦いつもの道に戻るのを諦めた。

 スケジュールが大幅に変更され、なかば開き直っていた私は、数年はしていない外食をしてみる気になった。


 「今日は帰ってからご飯を作るのは面倒だし、たまには食べて帰ってもいいかな」


そう思うと、少し気持ちが楽になった。といっても、一人で定食屋やレストランなんて入る勇気がない。チェーン店のカフェなら、ハードルが低いかもしれない。うん、カフェごはん、いいかも。心がまた少し明るくなる。


 路地には、食べ物屋が所狭しと並んでいた。鼻孔から色々な匂いが入ってくる。カレーの匂い、焼き魚の匂い、なにかの油とニンニクの匂い…最初は「夕食をどこかで食べなければ」と、業務のように思っていたのだが、自分が空腹だったことを改めて思い出して、食欲が湧いてきた。


 そう思っていると、「cafe・消化堂」と書かれた銀色の扉が目に入った。カフェの入り口にしては、あまりにも味気ない。それに消化堂って…。まったくもってオシャレじゃないネーミング。「もしかして、なんか怪しいお店?」。ただ、いつもとあまりにも違う状況に加えて、私はすぐにでも空腹も満たしたくなっていた。周りを見渡しても他のカフェや喫茶店がなく、ここを逃すといつカフェに出会えるか分からないという気持ちにも背中を押されて、とりあえず入ってみることにした。


 恐る恐る扉を開けると、普通の民家のような玄関。上り框には「靴のままお上がりください。入って右側の部屋でお待ち下さい。消化堂」という板が立てかけてある。玄関には素敵な花々が、これまた素敵な花瓶にセンスよく飾ってある。

 一軒家を改造したカフェかな? そう思って中に入ると、右手の部屋には応接セットのソファが置かれていた。その下には、落ち着いた赤を基調とした配色のペルシャ絨毯。白い壁と濃い焦げ茶色の柱。鴨居があるところを見ると、和室を洋室にリフォームしたのかな。壁には、ヨーロッパの風景らしき絵。なんか、普通のお宅の小洒落たリビングに通されたみたいな感じだ。メニューもない。

 もしかして、間違えたお店に入ってしまったのだろうか? 座ってからもなお、そう不安に思っていると、奥から中年の女性が現れた。


 「いらっしゃいませ、消化堂へようこそ」

 そういって出されたメニューには、”本日のパスタ”やサンドイッチなどの軽食とケーキ、コーヒーや紅茶の下にハーブティーが十何種類も書かれていた。ようやく、私はホッとした。


 「ハーブティーがたくさんあるんですね。もしかして、ハーブティーの専門店ですか?」

 「当店では、お客様の体調などに合わせたハーブティーをおすすめしています。よろしければ調合もいたしますよ。お食事のあとにいかがですか?」

私は”本日のパスタ”と、食後にハーブティーの調合をお願いした。


 女性は私が食べた皿を下げた後に戻ってきて、「では、調合しますので、少し質問させていただきますね」と言った。

 私は、トマトベースの美味しい魚介パスタでお腹と心が満たされ、すっかり心地よくなっていた。そして何より、丁寧で物静かなこの女性スタッフを好ましく思っていた。


「お食事は気に入っていただけましたか?」

「はい、美味しかったです。ごちそうさまでした」

「では、早速ですけど、今はどんなご気分ですか?」

「はい、いい気分です」

「では、最近はどんな気分になることが多かったですか?」


 この質問には、すぐに返答できなかった。というのも、このところの私は、自分で自分のことをよく分からなくなっていたからだ。


 「ええと…。最近は、ちょっとよく分からないです」


私は正直に言った。


「何をしても楽しくないというか。昔は服が好きでよく買いに行ってたんですけど、今は別にほしい服もないし。服だけじゃなく、何もほしい感じがしない、物欲がないんです。食べたいと思うものもないし」


 「そうなんですね。少し、気分が落ち気味なのかもしれませんね。お仕事がお忙しいとか?」


「いいえ、普通です」


「少し立ち入ったことをお聞きしますけど、お一人暮らしですか?」


「はい。20歳になったときからずっと一人暮らしです。自炊しています。人付き合いが苦手だし、家が一番落ち着くので、ほとんど会社とアパートとの往復です」


「都会で暮らしていても、人付き合いが苦手な方って、意外と多いですよね」


「そうなんですか? 他の人はみんな、毎晩飲んだり、休みの日も遊んだりして社交的なのかと思ってました。

 …私、長年同じところに住んでるのに、近所の人を見かけても、つい隠れちゃうんです」


「それは、顔を合わせたくなくて…?」


女性は、控えめに言葉を紡いでいる。ゆっくりと、言葉を選んで話してくれているのが分かる。大抵の人はこの話をすると、驚いたり理解できないとばかりに眉をひそめたり、同情するような顔をしたりするけれど、この人はフラットに聞いてくれている。私はなんだか、自分が繭の中で大切に包まれてているイメージを頭に描いていた。


「私、どうしても他人のことにあまり興味が持てなくて…。人の顔とかもあんまり覚えられないんです。だから、会っても名前を思い出せなくて、つい避けてしまうんですよね」


「名前がすぐに出てこないと、なんとなく気まずいですよね」

 女性はちょっと苦笑して、分かるというふうに頷きながら言った。そして、「では、まずはリラックスできるラベンダーを入れますね」女性は小さなメモに「ラベンダー」と書き込んだ。


 他にも、会社ではほとんど業務的なことしか話さないこと、友達らしい友達がいないこと、趣味と呼べるようなものがないことなどをポツリポツリと話した。


 私は、女性と話していくうちに、体中にもう何年も巻き付いていた、こんがらがった毛糸が徐々に緩んで解けていくような感覚を覚えていた。毎日同じことをするのが安心につながること、今日はなぜか、何度歩きなおしてもこの店に通じる路地に来てしまうことも言った。


「当店は、当店を必要とする方にのみ、ご縁がつながるようになっています。ホームページも上げていますが、興味本位の方が検索してもヒットしないんです」


 そうなんだ。ということは、私も必要だからここに来させられたのかな、などと思いながら話を続けた。気がつけば話は子どもの頃のことにまで及んでいた。まるで、古くからの旧友にしばらくぶりに会って、色々と話し込んでいる、そんな感覚だった。


「私の母って、私を自分の道具のように使ってたところがあるんじゃないかって思う時があるんです。例えば、私は2人姉妹なんですけど、私だけが母の愚痴の聞き役でした。私が長女だったからかもしれませんけど。妹はそんな経験をしたことがないので、むしろ『それ、冷たいんじゃない? 愚痴の相手くらいしてあげれば』と呆れられる始末でした。

 毎日毎日、父の愚痴、義母(私にとってはおばあちゃんですけど)の愚痴、親戚の愚痴、私の担任の先生や友達のお母さんの愚痴まで。とにかく、母は私をゴミ箱かなんかみたいに、自分のはけ口にしていたんだと思います」


 私は堰を切ったように話した。


「母と一緒に買い物に行ったりして、その人に会うと、母はいい顔をするんです、すごく素敵な笑顔ができるんです。家ではその人の悪口を散々言うのに。それで、私は『人間って、こんなに裏表があるものなんだ』って、子どもながらに悟りました。大好きな母がこうなんだから、みんなもそうなんだって思ったら、人間がとても嫌になって。私も大きくなったらこういうふうになるんだろうかって」

「母は世間体を神経質なほど気にする人でもありました。断わるとご近所づきあいが難しくなるからといって、嫌なことがあっても参加したりしていました」


「もちろん、その愚痴もあなたは聞かされてたんですね」と、女性はやや苦笑しながら相槌を打ってくれる。


「そうです。それから、母は私をコントロールしようともしていました。服の好みとか、習い事とか、行動もすべて。ピンクやフリルの服をねだっても、『あんたには似合わない』と、Tシャツにジーンズのような服装ばかりさせられていました。色も緑や茶色、青ばかり。習い事も「どうせやめちゃうでしょ」と行かせてもらえませんでした。妹はピアノやスイミングにも行かせてもらったのに。

 車の免許を取る年齢になっても、『あんたは必ず事故を起こすから、免許なんて取っちゃいけない』と免許を取ることを許してもらえませんでした。母は免許を持っていなかったので、きっと、自分より私が目立つ存在や上に立つことが我慢できなかったんだと思います」


「免許がないと、行動範囲もなかなか広げられませんね」

女性は、時には頷きながら、真剣に話を聞き続けてくれている。


「でも、今はもう離れて暮らしているし干渉もしてこないので、どうも思っていません。私は働いていてなんでも自分の自由にできるし」


「では、今はもう会ってはいないのですか?」


「いえ、年末年始だけは顔を見せに行っています。あまり乗り気ではないけど、愚痴とかコントロール以外は優しい母だったので」


「そうだったんですね」


「はい。でも、未だに生きづらさは感じています。そういう生育歴とか、あとは自分が持って生まれた資質なのかもしれませんけど。人間関係苦手とか」


「そうなんですね。そこまでご自分で分かっていらっしゃる方って、そうそういないと思いますよ。

 実は、当店は、今日はカフェという形体を取っていますけど、生きづらさやトラウマなどの未消化な感情を消化することを目的とした店なんです」


「え! だから”消化堂”なんですか? 『今日は』ってことは、カフェじゃないときもあるんですか!?」


「はい。今日のお客様には、多分カフェ形体が良いのではないかと思って、こういった形でお待ちしておりました。

 その方のお悩みによって、最初からハーブティーを調合したり、時にはマッサージ店になることもあるんですよ」

 女性はニッコリ笑うと、「お話をお聞きしてハーブティーに調合する植物もだいたい決まりました。今すぐご用意しますね」と奥に引っ込んだ。


 ということは、私が今日来るのが分かってたってこと? はぁ。やっぱり別次元に迷い込んじゃったのかな。こんな童話に出てきそうなお店が本当にあるなんて。”注文の多い料理店”じゃなくてよかったけど。今度はマッサージをしてもらいに来ようかな。


 そんなことを思う余裕が、自分にあることを感じて一人で口元をほころばせていると、女性がカップとハーブティーの入ったティーポットを、木製のトレイに乗せて戻ってきた。


 「さっきのお話の続きですけど、あなたの中に『ご自分がこうなったのはお母さんのせいだ』、というお気持ちが少しでも残っていますか?」


 「いいえ、それはありません」

私は自信を持って首を振った。


「さっき話を聞いていただいてだいぶスッキリしましたし、母は私にだけ本音を話せたんだなって分かった気がします」


「それなら良かったです。当店の施術を最後まで行うには少々条件がありまして。

 トラウマや今でも消化できない感情の原因となる人に、少しでも恨みが残っていると、施術できないんです。どうしてかというと、感情を消化するときに、感情に紐づいたその人の存在そのものも消滅してしまうからです。

 負の感情が残っている場合は、今日は通常メニューのお飲み物を飲んでいただいて。後日またご来店されたときにでも調合し直せますので」


 「多分、もう大丈夫です。もう大人なので、人間関係が苦手なのは自分の問題だって思ってますし」


 微笑みさえ浮かべながら、私は言った。もう気持ちが割り切れたし、大丈夫。私は大人だし、今だって母とうまくやってるし。

 この店は少し変わってるけど、万が一、まだ母を少し恨む気持ちが残っていたとしても、まさか母を、人間を消せるわけはない。きっと、後から「消化できてない」っていうクレームの予防線かなんかだろう。


 女性は「分かりました」とニッコリして、テーブルにトレイを置き、ハーブティーをカップに注いだ。「熱いので、ゆっくりとお召し上がりくださいね」そういうと、女性は部屋を出ていった。

 私はゆっくりと、爽やかで美味しいハーブティーを楽しむことにした。飲み干してこの店を出たら、今度は迷わず家に帰れるんだろうな。童話とか小説だとそういう結末だよね、などと思いながら。


 ハーブティーは本当に美味しかった。ほんのり甘くて、少し酸味もある。なんだかホッとする味だ。自分でもハーブを買って、家で淹れてみようかな。紅茶とブレンドしてもいいかも。あとでレシピを教えてもらおう。今日は思わず、いろんなことを話しちゃったな、それも初対面の人に。だけど、母も弱い人間で、必死に生きてきたんだろうなってことが分かったなぁ。

 そんなことを考えるうち、ふと、中学生のときに父方の祖父が亡くなった葬儀の日のことを思い出した。たしか、冷たい雨の日だった。祖父の家の畳の部屋から、庭の盆栽が雨に打たれるのを見ていた記憶がある。


 「あんたがそんなに泣いてくれると思わなかった」と、葬儀後に母が私と二人きりになったときに言ったその言葉が、脳裏に浮かんできた。母はたしかに「泣いてと」と言った。

 そうだ、あのときも母は、おばあちゃんとか親戚への体裁を保つことが最優先だったんだ。私は優しかったおじいちゃんが亡くなって、本当に悲しかったのに…。突然、そのときの怒りが沸々と蘇ってきた。


 あんたの世間体のために泣いたんじゃない!!


 そう思った途端、カップを持つ手が霧のようにフワッと蒸発したような気がした。「え? なに?!」と思うまもなく、カップを持つ手の側から順に、指、腕、肩、首と、体も顔も、私の何もかもが霧のように蒸発していった。

 そして、5秒後にはペルシャ絨毯の上にカップだけが転がっていた。

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消化堂 川辺さらり @kawabesarari

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