消化堂

川辺さらり

短編小説【消化堂】第1話 レーサーになりたかった男

 「たしか、この辺の路地を入ったところだったな」

 一人の男が、ある店を探して商店街を歩いていた。店の名前は「消化堂」。なんでも、癒しきれない感情をまるごと消してくれる店なのだという。


 男は幼少期から、父と母の言いつけを守って生きてきた。一生懸命勉強して公務員になること。それが、男の最終目標だった。

 男は順調に公務員になった。税務署の職員だ。仕事は毎日、山ほどある。仕事はそれなりにやりがいがあり、特に仕事が嫌いということではない。同僚ともうまくやっている。

 でも、男は時折考えてしまうことがあった。


「これが本当に自分にとっての幸せなんだろうか?」

「自分のやりたいことは、本当にこれだったのだろうか?」


 男は幼少期から車が大好きで、将来はレーサーになりたいと、中学生になっても思っていた。しかし、父母は、「そんな夢みたいなこと言ってないで、もっと現実を見なさい。安定した職業につきなさい」と反対した。そう言われ続けると、レーサーになるなんてよほどの才能がない限り無理だと自分でも思うようになり、いつしかレーサーの夢を諦めてしまった。それでも時々、沸々と後悔が頭をもたげた。


 なりたいものになれなかった、挑戦さえもさせてもらえなかったことを恨んだこともある。今は、父母は父母なりに自分の将来のことを真剣に考えて、導いてくれたのだと理解している。

 ただ、時々『自分の居場所はここではない』という思いが、フワフワと自分の周りを漂っているような感覚に襲われるのだ。


 ある日、仕事終わりに飲みに行った飲み屋で同僚からこんな話を聞いた。

「消化堂って知ってるか? 今、女子の間でけっこう話題になってるよ。後悔とか負の感情を消してくれるんだって。本当にサクッと消してもらえたらいつも前向きでいられて、そりゃあいいよなぁ。」


 そして今まさに、男はその消化堂を探して歩いている。

 消化堂なんて、なんだか漢方薬局かなんかみたいな名前だ、そう思いながら、電話で予約した時に教えられた道順が書かれたメモを見ながら、歩くこと20分。にぎやかな商店街の路地を1本入ると、急にひっそりとした雰囲気になった。そして、1軒の建物の前で止まった。地図によると、たしかにここだ、間違いない。

 目の前には看板も表札もない、のっぺりとした安っぽいアルミのドアが1つ。うっかりすれば通り過ぎてしまうような、勝手口のような地味なドアだ。ドアの横にはインターフォン。


 「本当にここだろうか?」

 男がインターフォンを押すと、一呼吸置いて「どうぞ、ドアを開けてお入りください。鍵は開いてます」と返答があった。

 ドアを開けて中に入ると、普通の民家の玄関のようだった。上り框には「靴のままお上がりください。入って右側の部屋でお待ち下さい。消化堂」と書いた板切れが立てかけてある。


 言われた通り靴のまま上がると、すぐ右側の部屋には、手前に3人がけのソファ、ローテーブルを挟んで向かいに1人がけのソファ2つが置いてある。普通の、いわゆる応接セットだ。男は3人がけソファの端に、やや緊張して座った。他の客は誰もいなかった。


 ほどなくして、奥から柔和そうな50代くらいの女性が現れた。


 「はじめまして。ご来店ありがとうございます。早速ですが、ご案内します。こちらへどうぞ」


 物腰の柔らかい店主に少しホッとして、あとに続いた。奥の部屋に通されると、応接セットとは違う、もっとゆったりとした1人がけの大きなソファがあった。デザイナーものの高級ソファだろうか。言われるままに腰掛けるとそのまま身がうずまり、体がとろけるようにリラックスしていくような、極上の座り心地。

 店主は男がリラックスした表情になるのを見届けると、ニコニコしながら説明を始めた。


 「改めまして、消化堂へようこそ。ここでは、大人になっても消化できない幼少期の感情や、トラウマなどに対する施術をしております。

 施術はお客様に合わせて調合したハーブティーをお飲みいただいたり、マッサージをしたり、カウンセリングをしたりと、そのときのお客様の状態によって色々です。

 でも、施術が終われば、たいていの方は未消化だった感情を消化することができて、スッキリと帰られますよ」


 へえ、そういう店だったのか。ホームページにも内容が詳しく書かれてないから、治療院みたいなものを想像していた。


 「ただし、施術を受けるには条件があります。それは、あなたの未消化な感情の原因を作った人を恨んでいないこと。例えば、自分がこうなったのはお母さんのせいだ、と今でも思っているような場合は、施術することができません」


 男は「その点は大丈夫です。父母を恨んではいません」と答えた。

 「承知しました」と、店主はまたにっこりと微笑んで、施術の用意をし始めた。


 店主は2〜3杯分くらいは入りそうなガラスのティーポットに、ハーブティーを調合し始めた。カモミール、ラベンダー、男の知らないハーブも何種類か入れている。


 「非合法とか変なハーブは入っていないので、安心してくださいね」

 男の心の声を聞いたかのように、店主は軽く笑って言った。ハーブをティーポットに詰め終えると、上から熱湯を注ぎ込んだ。ティーポットの中のハーブの色が湯に溶けて、独特な良い香りが部屋中に広がっていった。


 「ゆっくりと飲んでくださいね」

 店主はハーブティーをカップに注いで、テーブルに置いた。


 ハーブティーを飲みながら、質問に答えるように少しずつ話しをした。今の仕事のこと、子どもの頃のこと、父母が私に言い続けた信念のこと。窓の外には、中庭に植えられた樹木の葉がさやさやと風に揺れている。


 「父母の言うことが正しいと思って、公務員になりました。安定した生活は確かに手に入れたけど、なんだか時々、自分自身の人生を生きていないような気がして」


 店主は穏やかな表情で、時折うなずきながら、静かに話を聞いてくれている。


 「仕事は嫌いじゃありません。自分に合っていると思うし。やりがいもある。でも、私はずっと、レーサーになりたかったんです。諦めたと思ってたけど、どうしても頭から消えなくて」


 男は恥ずかしげもなく「レーサー」と口にした自分に驚いた。なにを言っても受け止めてもらえそうな、そんな子どものような気持ちになっている自分がいた。


 店主は少し考えて、

 「今からなろうとしても、職業としては難しいかもしれませんね。レーサーって、アマチュアとかはないんですか?」


 私は一瞬、店主の顔をまじまじと見つめた。そして、心臓がドキドキし始めるのを感じた。


 「そうか、その手があった! アマチュアのレーサーなら、今からでも目指すことができる!」


 店主はニッコリと微笑んだ。


 何度かおかわりしたカップの中のハーブティーは、いつの間にか空っぽになっていた。時計を見ると、話し始めてからちょうど1時間を過ぎていた。自分のことだけを1時間も話し続けるなんて、今まで経験したことがなかった。初対面なのに、普段なら人に話さないようなことまで話してしまった。だが、なんだか不思議と思ったことをスラスラと言えた。いつもの自分じゃないみたいだ。頭の中の整理ができた気がする。そういえば、ずっと心にかかっていた靄のようなものがなくなって、気持ちが晴れ晴れとしている。


 男はスッキリとした顔で、店を後にした。

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