第2話


 その日、会社を休もうと思ったのは、カーテンの隙間から差し込んだ朝日がまぶしかったからだった。季節によって角度を変える陽光が一直線に枕元まで届いて、友美は白い光に包まれて目を覚ました。その瞬間、今日は野外で過ごさなければならない。あの狭い総務部のオフィスで働いている場合ではないと確信した。


 その他の理由もなかったわけではない。以前から職場の環境に馴染なじめず出勤するのが億劫おっくうだったこともあるだろう。必要のない会議に駆り出されたり、間違いだらけの仕様書を修正させられたり、ずさんな営業の要求に振り回されたり、上司の都合でルールをねじ曲げられたり、忙しい最中にお茶みや苦情対応を強いられたり、陰口かげぐちを叩いて笑い合ったり、残業時間が30分単位で切り捨てられたり。中小企業にありがちな馴れ合いとしがらみが混在する閉鎖的な風土に鬱憤うっぷんを溜め込んでいた。


 しかしそんな細々こまごまとした不満だけでは説明できない気持ちもあった。私はこの仕事、産業機械メーカーの事務職に向いていない。いや、他のどんな仕事にも、この社会そのものにも向いていない。子供の頃から26歳の今まで、いつも自分の居場所が分からないという思いを抱き続けていた。ここは私が生きるべき世界じゃない。それでもこの世界で生きていくしかない。そんな相容あいいれない思いがきわまると、きまってバイクに乗って遠くへ行きたい気持ちに駆られた。


 布団の中でスマートフォンを手にしてインターネットで行き先を検索する。こういう時は行き慣れた場所を避けて直感で選ぶのがいい。その見知らぬ土地が私の本当の居場所かもしれないと、勝手にストーリーを想像して現実逃避できるからだ。アウトドアばやりのおかげで候補地はいくらでも選択できる。でもレビュー評価は先への楽しみが薄れるので見ないようにした。


 いつでも出かけられるようにとキャンプグッズは部屋の隅にまとめてある。食材は冷蔵庫にある物に加えて、移動中にどこかで買い足せばいいだろう。目的地を決めてルートを確認すると、やおらベッドを降りて支度したくを始める。会社を休もう、キャンプへ行こうと決めると途端とたんに胸がたかぶり頭がえてきた。


 先日買ったばかりの新しいパーカーを着て、動きやすいストレッチデニムを穿く。靴はバイクの運転と野外活動を考えて足首まで隠れるブーツでいいだろう。パーカーはモスグリーン色で、火の粉が飛んでも穴が空きにくい難燃なんねん加工がほどこされていた。洗面所で長い髪を後ろに流して首元近くで団子だんごにする。これはヘルメットをかぶった時に収まりやすい髪型として長年の研究の末に辿り着いたものだった。あとはファンデーションと日焼け止めだけを塗って準備を終えた。


 一式を詰め込んだボストンバッグとテントを背負ってマンションの駐車場へ向かう。購入から3年目になる中型バイクは、つい先日ローンを完済かんさいして真の相棒となっていた。平日の早朝そうちょうにカバーを外されて困惑したようだが、チェーンを解かれて遠出ができると分かるとすぐに喜び車体を震わせた。バイク乗りはまるで機械やエンジンを命ある動物のように扱うが、実際に乗り続けていればそれが愛着あいちゃくではなく真実であると気づく。少なくともこのバイクには柴犬かポニーくらいの知性と感情を持ち合わせていた。


 同じマンションに入居するスーツ姿の女性がちらりと目を向けて隣を通り過ぎていく。友美はその様子を見て我に返ると、スマートフォンから勤怠きんたい管理をしている会社の担当者にメッセージを送った。何もげずに出勤しないままでいると、事故にったか急病で倒れたかと電話を掛けてくるかもしれない。しかし朝日が眩しいので休みますと説明してもきっと理解されないだろう。それで本日は有給休暇を頂戴ちょうだいしますと入力するだけにとどめておいた。


 送信ボタンをタップしてから、もっと別の文面のほうが良かったのではと思い直す。今までお世話になりましたとか、旅に出ますので探さないでくださいとか。意味深長しんちょうに伝えて驚かせたほうが面白かったかもしれない。いや、騒ぎが大きくなって捜索願そうさくねがいでも出されたら大変だ。友美は浮かれた気分を心の中で抑えてから、少し自己嫌悪けんおを抱く。冗談とは思われないような気がした。



 高速道路を下りてからは想像以上の山道となり、友美は晴れ晴れとした気分も忘れて難路なんろの運転に集中させられた。スマートフォンのナビゲーションはルートこそ正確だが高低差までは表示されず、急峻きゅうしゅんな坂道には焦りを覚えるほどだった。おまけに画面上で行き先を拡大すると、道が途中で終わってキャンプ場まで繋がっていない。もしやバイクを降りて山登りをするのかと思ったが、行ってみると問題なく道があって安心した。どうやら公道ではなく私有地しゆうちとなっているようだ。


 辿り着いたキャンプ場は意外にも綺麗に整備されて、第一印象では信頼できる施設のように感じられた。周辺の木々は邪魔にならないよう切り揃えられて枝葉も掃除されている。駐車場もきちんとアスファルトが敷かれて区切りの白線も引かれていた。世間には水溜みずたまりだらけの草むらや砂地を囲っただけの駐車場も少なくはない。それに比べるとここは管理が行き届いていると言えるだろう。


 駐車場には5台の車と2台のバイクが停まっている。従業員のものがあったとしても、他にいくらか客もいるようだ。友美はこのキャンプ場に利用の予約もしていない。とにかくどこかへ行きたいという衝動に突き動かされてここまでやってきた。思いがけない場所に期待していたところもある。野外活動にはそれくらいの余裕を求めていた。


 平日なので満員ということはないだろうが、定休日やすでに潰れて閉鎖されている可能性はあった。どうやらそれはまぬがれたようだが、まだ当日の受付や予約なしの来場を断られる恐れが残っていた。もしそうなれば諦めるしかない。せっかくだが引き返して、日帰りのできる温泉にでも浸かってから帰宅するつもりだ。まさかどこかの森で勝手に野宿をするわけにもいかない。そこまでの冒険は望んでいなかった。

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