歪つ火 -イビツビ-

三浦晴海

第1話


 見晴台みはらしだいから望む山の影に、初夏の日差ひざしが広がっていく。


 旺盛おうせいに生い茂る草木は山肌を緑色に染めて、翡翠ひすいのように鮮やかな濃淡を浮かべていた。


 空は薄水色にまぶしく晴れて、かすれた雲が薄くしゃをかけている。


 時折強く吹く風が景色をゆったりと波打たせていた。


 水瀬みなせ友美ともみはサービスエリアの一隅いちぐうに設けられたその場所で、軽く胸を反らせて深呼吸をする。少し湿った空気の中に、都会ではぐことのない山の匂いが強く感じられた。それはちりとなって舞う土の匂いか、風が通り抜けた草の青臭あおくささか。買ったばかりのオレンジジュースを一口含むと柑橘かんきつ系のフレーバーが鼻の奥に馴染なじんでいく。普段はお茶くらいしか飲まないが、バイクでツーリングに出るとなぜか果汁が飲みたくなった。


 遠くの山々は眺めているうちにも様相ようそうを変えて、もう斜面の影もわずかしか残っていない。あれは足尾あしお山地か那須なす連山か、北関東の地理には詳しくないのでよく分からない。温められた夜露よつゆが霧となって裾野すそのの一帯を白くけぶらせている。こちらからはよく見えるが、あの場所に立てば高い木々と濃い霧にはばまれてほとんど何も見えないだろう。そんな当たり前のことを思って、少し不思議な気持ちになった。


 平日水曜日の朝は晴天でもレジャーに向かう人は少なく、サービスエリア内も閑散かんさんとしている。仕事中に立ち寄ったとおぼしき男性の姿ばかりが目立って、友美のように景色を前に休憩している者は他に誰もいなかった。賑やかなところは苦手なので、これくらい疎外感そがいかんのあるほうがリラックスできる。背後の広い駐車場からは大型トラックのけたたましいエンジン音が絶え間なく耳に届いていた。


 パーカーのポケットからスマートフォンを取り出して目的地までのルートを確認する。二つ先のインターチェンジで高速道路を下りてからは山道をひたすら走ることになるようだ。キャンプグッズ一式を積んだ250ccのバイクでは満足にスピードが出ないかもしれない。とはいえ急ぐ旅でもない。正午あたりの到着を目標にのんびり向かうつもりだった。


 画面のお知らせ欄に一件の留守番電話が残っている。登録時刻を見ると運転中に電話が掛かってきたようだ。友美は発信者の名前を見てしばしためらったが、結局は再生ボタンをタップして端末を耳に添える。聞き慣れた中年女性の声が前ぶりもなく聞こえてきた。


《総務の辻中つじなかです。水瀬さん、今日お休みって? あのね、前にも言ったと思うんだけど、有給休暇を取るならせめて前日までに申請してくれない? こっちにも都合があるのに、朝8時に今日は休みますってメッセージだけ送ってくるのは非常識よ。どうせまた急に体調が悪くなったって言うんでしょ? それならちゃんと病院へ行って診断書をもらってきて。体でも頭でもいいけどさ。うちは厳しくないからって甘えられちゃ困るよ。分かってる? 部長にも報告しておくから、今後のこと、よく考えておいたほうがいいよ》


 早口でまくしたてられたあと、プツっと電話の切れる音が聞こえて再生が終了する。友美は端末を耳に押し当てたまま、しばらく目を閉じて深呼吸を繰り返した。わざわざ電話を掛ける必要もないのに、どうしても黙っていられなかったのだろう。見慣れた職場の光景が思い浮かんだが、すぐに頭の隅に追いやり忘れ去った。


 あらためて目を開くとオレンジジュースを飲みきってペットボトルをゴミ箱に捨てる。そのまま見晴台を背にするとステップを踏むような足取りで駐車場へ戻った。ネイビーのガソリンタンクが光るクラシカルなバイクが、お利口りこうな子馬のように待っている。友美はいたわるようにシートをでると、ハンドル脇のホルダーにスマートフォンを設置してナビゲーション画面を表示させた。


 ヘルメットで頭と耳をふさがれると、安心感と集中力が高まる気がする。他の乗り物では体験できない、心地よさのともなう孤独。この感覚が得られるから友美はバイクにまたがりたくなった。目的地まで一時間半。ここから先はノンストップで向かうつもりだった。

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