独唱/洋琴伴奏
東部防衛本部から総領事館へ場所を移し、
アルベルトを筆頭に国防省の連中をぞろぞろと引き連れて戻ったことで、領事館職員たちも何事かと顔を覗かせた。椅子も置かれていない狭い礼拝室に集まった観衆は、ざっと五十人ほど。
人の間を縫って走って来たサヨが、中心にいたオトへ駆け寄る。
「オト姉様、
「……ええ」
「あんなにたくさんの夢喰を……? 無理です、できっこないです! オト姉様まで死んじゃう!」
幼鳥の叫びは、その場にいた大人たちの頬を打つようだった。不可能なことを強いて、また雛鳥の命を摘んでしまったら……。
だがオトは、腰へ抱きついて震える小さな背中をさすって柔らかく微笑んだ。
「サヨ、私ね……こんな気持ち、初めてなの」
「……?」
「できないことばかりで、皆に必要ない、いらないって言われてばかりだったでしょう? だけどね、これはきっと私にしかできないことだから」
「オト姉様……」
「私をここに連れて来てくれたノア様や、一緒に来てくれたサヨの気持ちに応えたい。そのためならどれほど汚くて醜い声でも歌うって、決めたの」
そう思わせてくれたのは、間違いなく隣にいるノアだ。この人の力になりたい。この人が大切に思う人を助けたい。生まれて初めて抱いた強烈な欲求に身を任せ、とうとうオトは乙女像の前へ横たえられたキースへ一歩踏み出した。
聴衆の視線が背中に突き刺さる。古傷が残る鳴官が奏でる汚らしい歌声を聴かれてしまうのは恥ずかしいし、恐ろしい。昔の記憶が地を這い押し寄せてくるような恐怖もあった。
でも何より怖いのは、自分が諦めたせいで命の灯火が消えてしまうこと。大陸人を守るノアへ彼の灯火を還そう。それができる雛鳥は、オトだけなのだから。
(リラ、すぐに直しておけばよかった)
ずっと一緒に過ごしてきた弦の音が傍らにないことだけが、唯一の心残りだ。無伴奏の独唱なんてしたことがない。そんな一抹の心細さに蓋をして瞳を閉じ、息を吸い込んだ。
「――
何度も口ずさんだ歌い出し。高音域は掠れ、咳が喉をせり上がる。それをどうにか抑え込んで歌うが、苦しくて堪らない。声を張ることもできない雛鳥の様子に、聴衆がひそひそと騒めいた。
(知ってる。どれだけ醜くて、無様な歌声か)
カージュで散々指を差されてきた。雑音は必要ないと嘲笑され、かと言って歌わなければ鉄扇が飛んでくる。だがもう、あの鳥籠で惨めに泣いているだけの自分ではない。
恐怖に立ち向かい震える手を胸に当て、息を吸い込もうと口を開いたその時。
オトの羽耳に澄んだ音色が届いた。
「……!」
驚きで見開いた視線の先に、奥行きの短い
白と黒の鍵盤から内部の弦を叩き音を奏でる打弦楽器は、島ではまだ馴染みがない。初めて耳にした音が奏でるのは、もちろん二人を巡り逢わせた想ひ歌。
魂に刻み込まれた伴奏がオトを包み込む。まるで「独りじゃない」と言われているようで、胸が熱くなった。美しい所作の指先が鍵盤を叩いて奏でる音に身を委ね、大きく息を吸い込む。
「
物憂げな春に恋をした。
「
あなたの影を夜明けに透かして漏れた光。
「
寒さが深まる夜に虚しい夢を見て。
「
春とは生え変わった羽で、はるか遠くのあなたを想う。
――春夏秋冬、ただ一人をひたすらに待つ。それこそ身を焦がし泥へ沈むほどに。
歌うことに苦しんでいたオトをそばで見てきたサヨは、彼女の歌声に口元を押さえて涙ぐんだ。
息苦しさが滲む震えた声は、歌詞と相まって聴く人の心をぐいぐいと惹き込んでいく。さらにはノアの憂いを帯びた伴奏が声色に深みを与え、聴衆が息を呑む声が聞こえた。
「
そこにいる誰しもが耳を傾ける。それは
「
さららと消えゆ
伴奏と同時に、最後の一小節が終わる。
息の上がった肩を上下させたオトは、眼前に両手を重ね合わせて祈った。どうか
しばらくして、鼻先に留まっていた一頭がふわりと飛び立った。
「やったのか!?」
アルベルトが食い入るように見つめ、グレイも前のめりになる。
他の
キースの頭上を周回していた一頭がサヨの両手の平に留まる。これが現実だ。だからこそ
だが、黒蝶へ落胆の視線を向けたサヨがあることに気がついた。
「オト姉様、これ……!」
差し出された
そして伸ばした指先が触れた瞬間、硝子が割れるように粉々に砕け散った。
「――ッ!?」
「
驚く雛鳥たちの背後で、キースに群がっていた蝶にも同じように異変が起きた。砕かれた欠片は粒子となり、跡形もなく消えて行く。やがて全ての
「何が、起きたんだ……?」
立ち上がったノアが呆然と呟く。本来の
「――……息がある、生きてるぞ!」
露わになったキースの口元へ手の甲を近づけたアルベルトが叫ぶ。室内は一気に歓声と拍手に包まれた。グレイは穏やかに眠る弟を胸に抱いて泣き笑い、職員や軍人たちは所属も忘れて肩を組み笑い合う。
そんな晴れやかな光景を目の当たりにして、ようやくオトにも実感が芽生えた。
「助け、られた……」
歌えたことよりも、その事実に胸を撫で下ろす。すると背後から
「よくやったな、オト」
「ノア様、私……」
ちゃんと歌えた、あなたのおかげで。
そう伝えたかったのに、カラカラになった喉から飛び出したのは大きな咳だった。
「ゴホッ! ゲホッ、ひゅっ……!」
「オト!?」
足首が溶けたように力が入らなくなり、床へ倒れ込みそうになったところをノアに抱きかかえられる。安堵を覚えたはずの腕の中でさえ激しい咳は止まらない。地上で溺れそうになり、涙が零れた。
「ッ……! か、はッ……!?」
口を押さえていた手の平へ生温かい何かがぴしゃっと飛ぶ。途端に口の中へ広がる不快な味。恐る恐る見やった手に滲むのは、赤黒い血――。
「っ、ぁ……!」
瞠目して、指先が震える。古傷が開いた鳴官から出血したのだ。異変に気づいたノアが息を呑み、ざわつく周囲へ何かを叫ぶ。オトの名を泣き叫ぶサヨの声も遠くに聞こえた。身体が重い。すごく、寒い――。
身体の末端から五感が徐々に薄れ、やがてオトの意識は途絶えた。
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