第31話
「いまお茶を煎れますね、クロー様」
戻ってきたクローを見るなりケマはそう言って、かいがいしくお茶を煎れはじめた。
「え? ああ、うん……ありがとう」
それに驚きを隠しながら答えるクロー。
お付きの侍女もケマを手伝いはじめるが、手伝っているだけでケマの動きに淀みはない。お茶を煎れるといっても野外でのことだ。簡易の釜戸は作ってあるものの、お湯を沸かすだけでも大変だ。クローなどは異世界にきてから焚き火をおこすのですら大変に苦労した。
クローはなんとはなく自分の恋人が一切の生活能力……いわば下々のやる雑事の一切はできないものと思っていたようだが、それはひどい勘違いだ。彼女は教育として炊事、洗濯、裁縫など家庭運営に関る全てを仕込まれている。
第二王女であるから何一つ生活に関らないなどという、完全な無生産者が許されるのは絶対王政まで社会システムが進歩してから、あるいは古代における完全な中央集権の大帝国でのみ可能だ。
そもそも上流階級の女性であるから、よほどの歪な文化でもなければ主婦として一通りの知識が求められる。彼女達には王であろうと、大貴族であろうと、嫁いだ先の家庭を切り盛りする役目があるからだ。
流石に自らの手で家事はしないだろうが、基本的な家事の知識がなければ下女を使役することすらままならない。自分がサービスされていることが最上のものなのか、使用人の怠慢に拠るものなのか……その判断には基本的な知識を身につけておくしかない。
それに本やテレビ、雑誌、新聞などの時間が潰れる娯楽は無い。そもそも字が読めるかどうか微妙であるし、学校なども無い。ある意味、この時代に完全な無生産者でいるのは拷問にも近いといえる。
簡易のテーブルにお茶が並べられた。
もちろん、お茶と言っても紅茶やコーヒーではない。現代で言うところのハーブティーだ。カフェインの入った飲み物がありふれている世界からきたクローには物足りないだろうが、この地に茶の樹からの生産物――紅茶、緑茶、ウーロン茶など――やコーヒー豆が伝来するのは遥か先の時代だ。
お茶菓子も用意されていた。
ビスケットかクッキーの祖先とでも言うべきものだが……これまた菓子の類が発展するのは遥か先の時代である。まだ携帯用の保存食からおやつ――朝食から夕食までの空腹を紛らわせるための食事――へと分化しはじめたばかりだ。
干し果物などが混ぜてあり工夫が凝らされているが、基本的には蜂蜜だけで甘みがつけられている。砂糖に慣れているクローには物足りないとは言えないまでも、かなりマイルドに感じるものだろう。砂糖製造もかなり時代が下ってからであるし、輸入品の砂糖は胡椒以上の貴重品で贅沢品だ。
「たまには甘いものも良いな」
多少は気づかったのかクローは控えめに言った。
彼は男にしては甘党と言えた。
別に禁じる法律があるわけではないのだから、酒を嗜んでも良いのだが……なんとなく彼にあわなかったのだ。砂糖菓子に比べればマイルドとはいえ、久しぶりの甘いお菓子に満足のようだった。彼の立場なら砂糖菓子はともかく、ちょっとした菓子程度なら毎日食べようが誰も文句は言わないのだが……彼らしく周りの負担になる贅沢を控えていたのだろう。
そんな恋人の様子にケマは微笑んだ。
彼女はこの時代の平均から考えてもかなり行動的……お転婆な娘と言える。
貴族の娘が遠乗りに出かけるのは珍しくは無い。珍しくは無いが……全ての段取りを自分で手配して、当日になって恋人を誘うというのは行動的過ぎた。なぜか酷く落ち込んでいる恋人――意外と繊細なクローは口噛み麹造りでかなりの精神的ショックを引きずっていた――を励ますつもりなのだろうが。
「ほら、クロー様! あの二羽を! 仲つつまじく寄り添って……あれは番いに違いありませんわ!」
ケマが指し示す池には二羽の水鳥――白鳥が寄り添って水面に泳いでいた。
この遠乗りはクローを励ます意図ではあろうが、名目としては白鳥が帰ってきたから眺めにいくというものだ。
白鳥はヨーロッパの人々に愛されている鳥で『王の鳥』などと称されてすらいる。白鳥は見目も麗しいし、春を告げる渡り鳥の帰還は大歓迎されたことだろう。
そんな恋人の様子に、クローも微笑みでかえした。
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