第18話
「なあ……馬の方が速くないか?」
正面に座るコウにクローが文句を言った。
この話題が繰り返されるのは朝から数えて三度目だ。
「……しょうがねえだろ。俺は上手く馬に乗れないし……」
答えるコウは天井からぶら下がった紐を掴んでいる。
二人は馬車で王都周辺を回るために馬車で移動しているところだ。
王都周辺には村程度の規模で集落が点在している。区分的には王都の一部としてあるのかもしれないし、きちんと村として区別されているのかもしれない。どちらにせよ、これらの集落は王都に住む人々の生活を支える重要な役目を担っている。
旅と言うほど大げさではないが、近い集落へ行くにも徒歩では一日仕事になる。
そこで用意したのが馬車だ。しかし、まだ極めて簡素な馬車で……サスペンションにあたる衝撃緩和の機能は一切搭載していない。原始的なサスペンションが開発されるのは中世の中頃よりあとの話だ。そうなると路面の状況を馬車はダイレクトに伝えることになり――石やでこぼこがあるたびに内部は激しく振動することになる。
これは大げさでなく拷問まがいの苦行で、馬車で急いだという理由での死亡が実際に記録されている。死因は『長く続いた激しい振動に耐えれなかった』だ。
騎乗が楽とは言えないが、この時代の道路事情と馬車の性能を考えたら騎乗の方が遥かに楽だ。もし乗り手が死亡するような衝撃が伝わるようなら……馬の背骨はへし折れ、足は全て砕け散っている。
「いい機会だから、お前も乗馬の練s――」
クローの言葉が途切れたのは馬車が大きく弾んだからだ。何か大きな石でも轢いたのだろう。
「しゃ、しゃべるな! し、舌を噛むぞ!」
そう言ったきり、コウも黙り込んでしまう。
クローも忠告に従って口を閉じるが……その顔は何かの決意を感じさせた。
……コウに付き合っての馬車を止めるつもりなのだろう。
「藁なんか持って何をしてるのだ?」
サロンに顔をだしてリーンは言った。
コウとクローが出発してから数日たっていたし、すでに麹室も完成していた。リーンは暇をもてあましていたのだ。
「また作ろうかと思いまして……」
そう答えるイサムは熱心に藁を透かし見ている。
「ああ、あれか……」
リーンは机の上に並べられた小さな銀製のビンを見て理解したようだった。
小さな銀製のビンの他には粘土の塊と何かの透明な薄い皮、水差し――赤く着色した液体で満たされていた――が並べられている。
「今回はたくさん作るのだなぁ! 前から不思議なのだが……この皮はなんなのだ?」
リーンが机の上の皮を指し示す。
「それは動物の腸の皮ですよ。ソーセージなんかに使う奴です。今回は予備も含めて十個ほど作ろうかと」
相変わらずイサムは藁を透かし見ながら答えた。
ようやく満足するものを選び終えたのか、イサムは作業に取り掛かる。選り分けられた藁は全て真っ直ぐなもので、光が透けるほど薄いものばかりだ。
イサムは藁の端の方から数センチといったところに粘土を優しく巻きつけていく。乱暴にやったら藁が壊れてしまうからだ。
その後、銀のビンにすりきり一杯に赤い液体を注いだ。
「その液体は何なのだ?」
「これはアルコールです。……実は何が良いのか判断がつかなくて。腐りにくいと良いかと思ってアルコールにしてあります」
リーンの質問に答えながら、イサムは先ほど作った藁つきの粘土でビンに蓋をした。藁はビンから垂直に立っている。蓋をする時に赤い液体は溢れてしまっているが、イサムが気にした様子は無い。
その後、藁の頭の方から赤い液体を慎重に継ぎ足し、藁の中ほどよりやや下に水位を調節した。
「なんでその風船をつけるのだ?」
「これは単に栓ですね。中の液体が蒸発してしまったら役に立たないと思いまして。影響が出るほど蒸発するかは解らないんですけど……念のために」
そう答えながらイサムは短めに切った腸の皮を藁の頭に取り付けていく。腸の皮は取り付けないほうの端は縛り付けてあった。それに、なぜか中途半端に膨らました状態にしてある。
「意外と温度計って簡単にできるのだなぁ」
「うーん……これは温度計というには少し……お願いします」
イサムは仕上がりをチェックしたあと、完成品をリーンに手渡した。
「壊れないように強化するだけで良いのだよな?」
「ええ、あと温度設定もお願いします」
リーンにそう答えながら砂時計も手渡すイサム。
溜め息をつきながらリーンは脇の下に直接銀のビンを挟み、砂時計をひっくり返した。
「なんか他に方法は思いつかないか?」
「そのうち考えようと思っているうちに……それに今回は運が良かったんです。調べたい温度がちょうど三十六度だったんですよ」
次を作るのに手元を見たままイサムは答えた。
彼らが作っているのは原始的な温度計だ。熱による体積変化を原理に温度を計測する。温かくなって液体が膨張すれば藁の中の水位が上昇し、冷たくなれば液体が収縮して水位が下降する。
このままでは温度変化しか解らないのだが、体温を利用して三十六度での変化に印をつければ少しはマシになる。三十六度なのか、三十六度より熱いのか、冷たいのかと調べられるようになるのだ。
厳密には温度計と言うより、三十六度計と呼ぶべきだろう。
三十六度にしたのは単純に人の体温が三十六度と判明しているからだ。
栓が風船なのは液体に押された空気の圧力がどうなるのか解らなかったからで、逃げる場所があるなら影響は薄いとイサムは考えたのだろう。リーンは気がつかなかったが、藁に薄くニスのようなものを塗って耐水性も高めてある。
「できたぞ」
それまで自分の体温を移していた三十六度計に印を入れて、イサムの方へ押しやるリーン。
「ありがとうございます。次はコレを……」
にこやかに次を押し付けるイサム。リーンは溜め息をつきながら――
「あいつら上手くいっているかなぁ?」
と言って大人しく次を測り始めた。
「あそこに見える建物が目的のビール工房で――」
レタリーが一同を案内する言葉は怒声によって遮られた。
「馬鹿こくでねぇ! 女がビール職人になれると思ってんのか!」
「そったらこと言ったって……おらにだって立派にビールは造れるだ!」
目的の建物の前では中年の男と村娘が喧嘩をしていた。
「なんだよ……穏やかじゃねえな……ちょっと行ってくるぜ。おーい! そこのおやっさーん!」
全く含むところが無い素振りでコウは二人の仲裁に近寄っていく。
「あー……何ていうか……このパターンか」
何かを察した顔でクローは肯いた。
「もしかしたら今日中に次の目的へ出発d――」
そう言いながら振り向いたクローは……般若の顔をした護衛の『ハーレムさん』たちを目にすることになった。
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