7 子鹿
ユラは今日もホカゲの部屋へと向かった。
本来やるべき仕事は山の小川から棚田への水路の点検。だがその前に館の一角に留め置かれている
「ユラは何故あいつを気にする?」
おもしろくなさそうにウスラバは尋ねた。隣のナギリは思っても訊けないだろうから。
十三の歳から五つのユラのそばに付き、十四年。いまだに妻を娶ろうとしないナギリの気持ちは、結局ユラに届かないと思う。そもそもユラは誰にも嫁ごうとしない。
『出来そこないの能無し姫を引き受けさせられる男に悪い』
そんな風に言うが、佐津の中で身の振り方が定まらないのはユラのせいだけではなかった。次の巫女と目されるユラの異母妹もあまり強い能がないのだ。ユラ姉弟の処遇も含めて王アケダは迷い、臣らもひそやかに対立している。
「うーん、ホカゲは異国の王子様だもの、娘ならあこがれるものではない?」
「あほか。嘘くさい」
鼻で笑われて、ユラは自分も大笑いした。我ながら柄でもない言いぐさだった。
「別に、ホカゲだからではないと思うの」
「そうか?」
「……そう。あれは子どもみたいでしょ」
どうやら同い年と判明した男に「子ども」はひどい。なんのことをそう言うのかわからないがウスラバは引き下がった。行く先にカヤカリがいたからだ。
「ユラ様」
部屋の前で控えており、来客にス、と礼を取る。従者として正しいのはこういう行動かもしれない。ヘラヘラするウスラバとブスッとしたナギリを従えてユラは我が身を振り返ってしまった。
「おはよう。ホカゲは?」
「――いるぞ」
開いていた戸の中から声がして、ホカゲが姿を見せた。話すようにはなったが、表情はいつも変わらない。
「あいかわらず不機嫌ね。今日は棚田に行くんだけど、来る?」
「棚田」
反応したのはミヌマの方だった。山に田を作るやり方は、平地のある久良岐では見たことがない。だがホカゲは根本的なところが気になったようだ。
「――なぜ毎日誘いにくる。俺たちは
「ホカゲなら、地形を知れば知ったなりの攻め方をしたくなるかと」
「うっ……」
確かにそうかもしれない。なぜわかった。そしてその策に応じることなど簡単だと言わんばかりに微笑まれてホカゲは黙った。
「ほら、ミヌマは見てみたいって。部屋にこもっていては体がなまる。久良岐に帰れなくなるよ」
「帰そうとするのはおかしくないか」
「帰りたくないなら佐津にいてもいいけど」
しゃあしゃあとあしらいながら、ユラはホカゲの腕を引いた。振り払うのも大人げなくてそのまま連れていかれるホカゲは「子ども」と言われていたことなど知らない。むしろ反対に天衣無縫に見えるユラのことをそう感じていた。
「わかった、行くから放せ」
「そう?」
笑ったユラは一人でさっさと廊下に出た。仕方なさそうについていくホカゲの後ろから従者たち四人も続いた。
無理やり出たのだが、外の空気は確かに清々しいものだった。
春。
草も木の葉も萌え、山がやわらかな黄緑に包まれていた。寒さから解き放たれた土の香りが立ち、風に花の甘さが匂う。山道を行けば谷に響く水音すら軽やかに思えた。
「この、石を積んで段にした場所が田なのか?」
谷にゆるやかに落ちる斜面が開かれていて、そこは一面の棚田になっていた。平地の少ない佐津ではこういう場所がいくつもある。
「そう。一枚いちまいが、大切な田なの」
「狭いな……」
「久良岐は平らな土地なんだ?」
ニヤ、とユラは笑った。
「じゃあ、こちらから攻める時は考えよう」
「戦を起こす気か?」
「別に」
まだ田植え前の景色をながめながらユラはずんずん進む。
「周りをたいらげようとしているのは久良岐の方。ホカゲもずいぶん戦ったのでしょうに、いまさら」
「――俺は」
ホカゲは言葉に詰まる。
戦は、してきた。だがホカゲ自身が成したのは父に命じられたことのみ。それがどういう意味を持つかなど、あまり考えてこなかった。
「――ユラ」
いきなりナギリがつぶやいた。その鋭い声色に全員が耳を澄まし、そしてその言わんとすることを理解した。何者かが木立ぎりぎりの所からこちらをうかがっている。ホカゲは小さく尋ねた。
「俺の剣は?」
「私の部屋。武器は返せないな、ごめん」
「じゃあこういう場合どうするんだ」
ホカゲの苛立ちにユラは笑みを返した。やや声を張る。
「心配ない。あれは珍しいものが好きな子鹿よ。母鹿がいなければ何もできない」
笑ってチラとしたユラの視線の先で、子鹿の気配は木々にまぎれた。
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