第16話 未来
「ありがと、アルファ。たぶん次は大丈夫そ」
「よかった~~」
アルファはホッと胸をなでおろし、席を立った。
模試の結果が返ってきた。アルファは数少ない友人に解き方の指導を乞われ、少しだけ要点を教えていたところだった。教室内は既に夕日に染まり、残っている生徒もまばらだ。理人は恐らく、合唱部という名のゲーム部にでも顔を出しているところだろう。受験を間近に控えた三年の終わりにもなって部活動も何もないが、理人の成績なら遊んでいても大した問題でもない。
毎度三人揃って下校するのが当たり前になった中、理人を待とうと自席へ戻ろうとしたアルファの視界へ、机に突っ伏しているニコラの姿が入った。
時期的に前回のテストから間を置かずに実施された模試だ。恐らくまたろくでもない結果に凹んでいるのだろうとは思われた。アルファはニコラの傍まで寄ると、顎を上げて見下ろしてみたり、机の下から見上げてみたりしつつ声をかけた。
「にーこーらちゃ~~ん?」
おどけた様子で言ってみたものの、ニコラは無反応だった。
「……める」
僅かにかすれた声が呪詛のような低さで漏れた。眉根を寄せつつアルファが耳を寄せた途端、ニコラががばっと顔を上げた。
「もーやだ!エージェントやめる!」
誰に言うでもなく叫ぶニコラの手元から、模試の結果が見えてしまう。中々微妙な成績ではあるが、そこまで叫ぶほどの事でもなかった。数学もギリギリ赤点を免れている。一体何が不満なのかと、アルファはニコラの前の席へ後ろ向きに座った。
「おー、荒れてんね」
不意におどけた声が聞こえた。見ればニヤニヤした理人が丁度教室のドアから入ってくるところだった。
「うっさい」
ニコラは忌々しそうに理人を睨むと顔を背けた。
「ていうかさ、ニコラどこ志望なん?」
何気なく問うたアルファだったが、ニコラはその言葉にがっくりと肩を落とし、再び顔を机に突っ伏した。もはやかける言葉も無く、理人もこちらに歩み寄りながらアルファとニコラを交互に見比べるほかなかった。
この様子からするとそんじょそこらの大学ではないのだろう。東大か。国立大医学部か。などと思っているとまたも呪詛めいた低いニコラの声が響いた。
「ケンブリッジ……」
ニコラの隣の席に座った理人共々、アルファも揃って目を丸くする。ニコラは元々エリア2の出身だ。父親がソゴルの外交官なため、幼少期にこのエリア3へ移住してきた。国籍はエリア2のままな事もあり、いずれ戻る予定があるのだろう、くらいには思っていたのだが。
「エリア2の大学入試って難しーの?」
アルファのすっとぼけた一言にニコラは再び顔を上げる。
「あんたのママもケンブリッジでしょ!」
「え、うん。そうらしいけど」
ニコラの母親は元科学者で、同じく科学者であったアルファの母とは大学以来の友人だった。が、アルファは母について何も知らない。重吉から断片的な思い出を聞かされた程度で、受験がどうだったかなどの詳しい話は知りようがないのだ。それに気づいてか、ニコラはハッとした表情を浮かべるとすぐに気まずそうに俯いた。
「――ごめん」
「いーよいーよ。でもなんか、難しいんだろね」
アルファは苦笑いしつつ、首を傾げる。
「……三年になったらエリア2に一人で戻るつもりだったの。じゃないと進学できないし。でもこれじゃAレベルテスト受けたって受かんない」
ニコラが言うには、そのテストで最高得点を出さねば無理なのだそうだ。さすが、世界大学ランキング上位校なだけはある。ニコラは長いため息を吐き出しながら片手で頭を抱える。
「うち両親ともケンブリッジなわけ。お姉ちゃんもね。だから行けなきゃいけない。家族に認めて貰えなさそうで怖い。なのにあたしだけこんな平々凡々、どころか悲惨な頭してるなんて」
「仕方ないよ、エージェントのやる事多すぎるんだもん。勉強どころじゃないって」
「って言ってもさ。パパもママも揃ってあんたの事引き合いに出してくんの。同じエージェントのアルファは勉強できてるのにって」
「え~~……」
アルファはげんなりしながら思わず理人を見る。
「アルファは英才教育受けてるから別枠で考えな、って親御さんに教えてやんなよ」
代弁するかのように理人は続ける。
「義務教育受けられない代わりについた家庭教師はソゴルの選りすぐりの科学者ばっか。英生さんもそのうちの一人。だよな?」
うんうん、とアルファは頷く。
「で、ソゴルの特別枠ってところもあって飛び級で進学。九歳で入学してたった三年、十二歳でMIT(マサチューセッツ工科大学)卒業してるんだぜこいつ」
「ハァ?!?!?!」
ニコラの特大の叫び声に、アルファは思わず目を閉じて身を仰け反らせる。
「ギフテッドじゃん?!」
「違うよぉ~~。でも特殊環境で育ってるから、前提条件から当たり前じゃないんだよ。病気の検査、検査&手術、で勉強くらいしかやる事無かったし」
ニコラから両肩を掴まれてがくがく揺さぶられつつ、アルファは情けない声で反論する。
「だからアルファと比べるのは無理。普通じゃねーんだもん。今成績いいのだって、その時の貯金なだけ」
「そゆこと~~」
「ピケット、隣が補習してるから静かに。欧野も出羽もな」
「はい……」
と、教室のドアから怖い顔を覗かせた学年主任に三人とも注意されてしまった。そういえば、隣の二組は古典の補習中だと聞いていた。暫し、しんと静まり返った中で、微かに筆記具が紙を走る音が聞こえてきた。
「ニコラも科学者になりたいん?」
声を落としつつ、アルファはニコラに問う。もし科学者になりたいというだけなら、何も一つの大学に拘らなくてもいいと思ったからだった。ニコラは無言で頷くが、何か考え込むような様子で明後日の方向へ視線を向ける。
「ママがそうだったから憧れてるだけなのかもね」
「というと」
「わかんないの。何になりたいかとか。しいて言えば医療系を勉強してみたいけど、成績いいの文学だけだし」
「そっか」
アルファは複雑な表情で肩を竦めた。アルファがMITへ進んだのも他でもない、父、ロベルト・メシエがMITを出ており、更にそこで教鞭をとっていたというだけに過ぎず、何を学びたいかなどは漠然としていた。だから当初物理学部へ入ったのだが、途中で合わなくなり、英文学へと転向した。そんな経緯を、ぽつぽつと二人へ語った。
「やりたい事が変わるなんて、よくある事だと思うんよ。ヒデちゃんもキアン姉ちゃんも、二人とも途中で専攻変えたって言ってたし。で、どうしてもケンブリッジ大学に行きたいんなら、エージェント辞められないか交渉するしかないよね。だけど別にそこに固執しなくてもいいとも思うんよ。行った学校の名前や文理の区別よりも勉強の質だし。まずは合いそうな大学に入って、それから編入って手もあるんでしょ?」
ニコラは再び無言で頷く。
「学費も心配ねーんだよな?」
理人からの問いにも、ニコラは同じく無言で頷いた。理人は一瞬逡巡するように間を置いてから、少し声を落とした。
「俺の学年トップ、就職すんだよ」
声が上がるのを察知したアルファは先んじてニコラの口を手で塞ぎ、しかし自らもまた、ニコラ同様呆気に取られて目を丸くした。
「家庭の事情なんだってさ。俺より成績いいんだから、どこでも選び放題なのに。金銭的な問題もある上に、親の介護が必要だからって。……俺らは勉強できるだけ、今、先の事考えられるだけまだいいんだよ」
理人は両肘を膝について俯き、どこか言い難そうに続けた。
「アルファの事、羨ましかったんだよな。俺もソゴルの施設に居られたら、もっと楽に進学して将来の事考える余裕ももっと出来たんじゃないかって。アルファは病気だから仕方なかっただけなのに、手術がきつい上にそれでじいちゃんとも引き離されて寂しい思いもしてたのに、羨ましいだなんてさ」
言葉を区切り、理人は顔を上げて苦笑する。
「ニコラにしてもそうかな。エージェントになれる能力なんて、喉から手が出るほど欲しかったから。その能力と俺の成績、とっかえられるもんならとっかえてえ。でもそんなの無理だろ。だから、今やれることやるしかねーんだよな。お互い」
「やれることかあ」
アルファは誰に言うでもなく呟いて、天を仰ぐ。
「あんたはどーすんの」
「んー。たぶん出戻りする」
アルファは苦笑した。
「今度は工学部に入るよ。そんで、じいちゃんやヒデちゃん達と一緒に働きたい。大学入った時はまだ小さかったから『好きな事勉強しなさい』って、言われたとおり自由にしてただけだったからね。でも今は目的が出来た」
「俺も同じく。学校はどこになるかわからんけど、エリア1に行く」
そんな二人の明朗な目標を受けて、ニコラは眉根を寄せたまま窓の外を見やりながら呟いた。
「あたしもエリア1の学校考えよっかな……」
思わぬ転向に、理人もアルファも一斉にニコラに顔を向ける。
「エージェントの件は交渉するし、来年エリア2に戻る予定は変えない。けど選択肢は増やしてもいいかなって、思えてきた。エリア2が故郷ってだけで殆どここで育ってるし。でもここに居たって、あんた達が居なかったら面白くないから」
そこまで言って、ニコラは怪訝な表情で顔だけ二人へ向けた。
「これって不純な動機?」
「不純も何も。自由に出来るならニコラの好きにしたらいーんだよ。それに、エリア2に戻ればまた新しい友達も出来て、考え方も変わるかもしれないし」
「元々の動機の方が妙だろ。『家族に認めて貰えなさそうで怖い』って」
「うっさい」
ニコラが吐き捨てると、アルファも理人も思わず笑った。次いで、ニコラもつられて笑い始めた。
「そのためにも、引き続きエージェントとして頑張らんとね」
アルファの笑いは自嘲気味なそれへ変わる。地球全体の環境については、重吉を始め大人達にどうにか頑張って貰わなければどうにもならない。が、マキナントの襲来に関しては自分達の働き次第なのだ。まず命が無ければ、未来など無いのだから。
漠たる不安を抱えながらも、今出来る事と、なるようにしかならない未来を思うしかなかった。
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