エピローグ
祖母の葬儀の終わりに出会った花蘂祭のポスターは、帰郷旅行の年に使われていたものと狂いなく同じものだった。一輪の菊型花火を映し出した写真が何年も何年も使い回されていた。
私は二十九歳になっていた。あの十七歳の美しいばかりの夏の日々は、もう十二年も前の出来事だった。それを私はありありと思い出し、打ちひしがれていた。
もうこの町には、祖母も、イッタも、シィちゃんも、住んでいなかった。たった十二年で私を取り巻く環境は大きく変化した。その変化を私は受け止めきれていなかった。
ゴマ山に向かったのは、それからすぐのことだった。図書館の蔵書に触れたくなったんだ。あのあずま屋まで帰れば、何かを取り戻せそうな気がした。
長いことここには立ち寄っていなかった。登山道は相変わらず緑のトンネルを作っていたし、めいめい長さの違う階段もそのままだった。すこし日が陰ってきていて、私は急いであずま屋を目指した。途中で息が切れて見上げると、その先にイッタとシィちゃんの姿があるような気がした。「早くしろよ」ってイッタの声が届いた。
背の低い草花が茂り、周囲を木々に覆われた境内は、まるで深い森の中に置き去りにされた遺跡のようだった。木漏れ日を浴びて神さびる拝殿も昔のままだった。この拝殿を私たちはあずま屋と呼んでいた。
床板の上に立って、深呼吸した。思い出の位置は探さずともわかってた。あの夜ペンライトで照らしていた場所に、私はそっと目を向けた。
お祭り当日!
十年の再会と、みんなで迎えられた『今夜』に感謝!
また三人で会おうね。
もうすぐ花火の打ち上げだよ!
何一つ変わっていなかった。寄せ書きにはあの日々の熱情がそのままの形で封印されていた。そして触れてみるとすぐに取り出せた。
また三人で会おうね。その一文がどれだけ酷だったか、仔猫くん、君にもわかるかな。ちょうど一年前にシィちゃんは教職を辞し、そしてイッタではない別の人と結ばれていた。でもあずま屋の寄せ書きには私たち三人の署名があった。
膝から崩れ落ちて涙した。溢れてくる涙をどうしても止められなかった。それは十二年前の思い出に触れたからばかりじゃなく、私はこの瞬間まで、それから先の日々を捨て去って生きてきた。十年分の後悔がその涙には含まれていた。
もっと二人と分かち合うことだって出来たはずだ。流れるままに身を委ねすぎていた。結局ここにある私は私の責任だった。そう思うと涙は止まらなかった。
長い時間泣きじゃくってた。お化粧が滲んで手が黒く汚れても、そんなことにさえ気を払わず泣いていた。けれど、不意に物音がして、私は我に返った。
音はただ山が鳴らしているだけだった。でも登山客の目に触れられるかもしれないこんな場所で、私の姿は恥ずかしくもあった。
やっと少し落ち着いた。膝の汚れを手で払って、深く息をした。視線を床板に落とすと、なぜか、シィちゃんの部屋の光景が蘇った。
彼女の部屋には一輪の彼岸花が咲いていた。いま思い返しても美しい、イミテーションの真っ赤な花だ。彼女はそれをあだ花と呼び、決して実を結ばない性質を自分の境遇になぞらえていた。
だけどそれは私のことだった。あだ花というのはシィちゃんではなく私のことだったんだ。私こそがあの彼岸花を象徴とするべきだった。
だって、私の手には、なにもない。シィちゃんもイッタも、あるいはこれまで出会ってきたすべての人も、私から遠く離れていった。
これでも自分なりに努力を重ねてきたつもりなんだ。私の内側にあるよろしくない性質を抑え込むために、不器用でも非効率でも、一歩一歩着実に努力した。それは灰色の目のあいだにも自制という言葉に置き換えて行われてきた。だけどどれだけ頑張っても、私の性質は無意識に誰かを傷つけたり突き放したりして、決して私の奥に他人を近づけさせたりしなかった。
それでも私は誰かに近づきたかった。だけど人は逃げてゆくばかりだった。だから、私こそがあだ花であることを、私は自覚しておくべきだった。そうすれば悲しみも後悔も生まれないはずだった。
ううん、そうじゃない。もしその考えが正しいのだとすれば、灰色の日々を悔しがることなんてなかったはずだ。諦めて日々を過ごしたとしても、いずれ間違いに気付くときがやってくる。
でも、それなら、どうすればよかったんだろう。答えは出なかった。
どっと疲労感が押し寄せた。結局は運命なのかと感じた。つまり、何をやるにしても、またはどの地点からやり直したにしても、私という人生に実が結ばれないことは、初めから決定づけられていたことなんだと。
だとすると私の人生は一体なんだろう。私が生まれてきたことには悪意しかなかったんだろうか。もちろんそんな風には考えたくなかった。だからあずま屋の中の私は、きっと大昔のどこかの地点を境にして私の人生が手遅れになったんだと信じることにした。
時折そのことを思い出して涙することがある。仔猫くん、君は大変な日に迷い込んできてしまったね。もっと私が丈夫な日には、こんな長い話を聞かせてしまうこともなかった。普段の私は案外と割り切った人生を送ってる。
だけどさ仔猫くん、この世界にまだ私と同じ境遇の子がいるとして、私はその事実を考ると、無性にやるせなくなってしまうんだ。いっときは彼らを救ってやることを夢見たのに、いまは真逆のことを生業としてしまってる。
だからもし君が口をきけるなら、そういう子どもたちに私の過ちを語り聞かせてやってくれないか。自己の性質を理解することと、そして時間というものが、いかに彼らにとって重要かということを、知らせてやってほしいんだ。あるいはまだ間に合うのだと、優しく背中を叩いてやってほしい。
――あずま屋から立ち去る前に、私は四方の図書館を眺め見た。そうして気付かされたことには、この図書館はずいぶん前から寄贈の受け入れを止めていた。最も近隣に書かれたものは、私たちの寄せ書きよりたった二年あとのものだった。それから先、この図書館に新たな青春の結晶が生まれることはなかった。
これは何十年か前の子どもたちが思いつきで始めた文化だ。思い出を残すということに技術が追いついていなかった時代の産物さ。だから今という時代にゴマ山の図書館を必要とする子はもういない。文化というのはそうやって、必要に応じて興ったり廃れたりするものだ。
時間は確実に流れてく。当たり前だけど、本当に当たり前のことなんだ。
あずま屋の石段に足をかけながら、私はどうにか今を始めようと思った。
*
虹色の花火をフィルムに納めたあと、私たちは下山した。花蘂祭の会場に戻ってみたけれど、熱はもう下火だった。踊りの連も終えていて、屋台もほとんど明かりを消していた。わずかに残っていた祭り客も帰り支度の最中らしかった。
私たちは諦めて、幼稚園の駐車場まで引き返した。イッタの自転車は堂々と目につく所に停められていた。
彼とはその場で別れた。出発は明日の朝早くだから見送りはいらないと私は言った。少し考える仕草をして、彼は小さくうなずいた。
そこで、私は彼を抱きしめた。
そういうこともあったかもしれない。
シィちゃんに抱きつくと、彼女の方でも私を抱き返してくれた。香水の薄れた首筋が、唇に触れそうなほど近かった。そっとその首筋に触れた。
私は、二人の隣に咲いている。
あだ花、ふわり、どこに咲く? 内谷 真天 @uh-yah-mah
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