第六節(0606)

 午後七時二十五分、祭りの熱気を避けるように私たちは駅前を発った。空はすっかり夜の静けさにあって、最後の色は、とっくに山の奥に消えていた。


 祭提灯の明かりが届かなくなると辺りも暗闇だった。田畑を通す道には街灯がなく、見上げると金星が輝いていた。


 花蕊祭の明かりはそれより遠くにあった。祭り囃子は私たちの背中で鳴り、祭り客の喧騒ももしかすると聞こえてくるようだった。夜道の上で、彼らの声を離してゆくことが私たちの唯一の道しるべだ。


 ゴマ山に着くまで、敢えてペンライトは使わなかったんだ。穴場を知られたくないというイッタのわがままだよ。でも暗闇と一つになったアスファルトの大地は幻想的でもあった。


 登山道の入口から見上げると、山は私たちを警戒しているようだった。小さな風が小さく木々を揺らしてる。かつてここには御真影が祀られて、そのために地元の人は親しみを込めて山に名前を与えた。それ以前、ここは名もなき山だった。暗がりの中で対峙してみると、そのはるか昔の正体不明だった時代を思い返された。


「リッちゃん、はい、これ」ってシィちゃんは言った。彼女の胸元あたりから、からからと乾いた音がした。


 ペンライトで照らしてみるとヘアピンのケースだった。二本、三本、八本と取り出して、浴衣の裾に通した。昨日の予行で案じたとおり、裾は二重に折り曲げるのでちょうどよかった。


「下がスースーする」

「あずま屋に着いたら外せるよ」

「準備はいいかい?」ってイッタはひどく手持ち無沙汰に言った。ペンライトの紐を指に通してくるくる回して遊んでた。

「自転車、本当に良かったの?」って私は言った。

「あとで取りに戻ればいいさ」


 登山者用の駐車場を照らすと、そこだけの判断では、どうやら先客はいないようだった。ほっとした反面、少し身体が縮まった。

「それとも、怖がってんの?」ってイッタは調子づいて言った。

「え?」って私は言った。「だって、真っ暗だもん」

「大丈夫だよ」

 シィちゃんは私の手を取った。夜風の中で彼女の手は温かかった。


 登山道は正真正銘、どうしようもないくらい暗闇だった。花蘂祭や民家の明かりは今や黒い緑のトンネルに蓋されている。音というのもここでは山が起こすものしか存在しなかった。時おり不自然に木々が揺れると私は敏感に反応した。だけどそれより気を張っておかなければならなかったのは、ペンライトだけが照らしてくれる心もとない足元だった。


 めいめい長さの違う階段は日中とは比べ物にならないほど骨だった。段差のところで何度も蹴躓き、そのたびにシィちゃんを巻き添えにしかけてた。


「危なかったね」とか「気をつけてね」ってシィちゃんは何度も言った。彼女は決して手を離そうとはしなかった。


 ああ、それに比べるとイッタは薄情なやつだ。ただでさえ浴衣で登りづらい私たちのことなんて気に留めず、ひたすら上を目指してた。たまに私たちの前方を照らして誘導してくれたけど、それは優しさというよりも気まぐれだった。飽きると彼は地面に光の絵を描いた。


「イッタ、ふざけるな!」って私が叫ぶと、

「大声禁止」って彼は笑った。「先に行って、様子見しておくよ」

 暗がりの中で駆け出す音がした。弛みのない一本の糸のように、彼の足音はするすると登山道を上っていった。まるで夜目の効くお猿さんなんだ。


 でもしばらくすると反対に足音が下りてきた。登山道がくの字に曲がったところで彼は私たちを照らし、照らし返してやると、指でOKサインを作った。

「誰もいない。特等席」って彼は言った。

「もう一息」ってシィちゃんが微笑んだ。


 鳥居をくぐると闇はもう一つ深まった。つまりここから先が神域だって思い込みがそう感じさせてたの。かつて御真影を祀っていた祠は日清日露の英霊を鎮める功霊殿に取って代わり、それより坂の下には彼らのための慰霊碑も建っている。夜の山にそれらは怪しく佇んでいた。


 あずま屋の印象も日中とはずいぶん違った。輪郭が夜に融和すると、彼もまた朽ちかけた建物に変化した。実際に長い年月風雨にさらされた彼は、足元の壁の木板を剥がしたり腐らせたりしてたんだ。


 縁の奥から見下ろせる綿入は、どこかぼんやりと輝いていた。彼らはまるでスノードームの中にいるようで、私の指が彼らに触れられることはなさそうだった。人々の生活の実感もここでは安心には変わらなかった。それはただ幻想的というだけだった。


「綺麗だね」ってシィちゃんが薄らいだ。

 私は「うん」って小さくうなずいた。

 遠くには花蘂祭があった。祭提灯が係留ロープのように伸びている。

「花火、そろそろかな」って私は言った。

「まだ十分くらいあるよ」ってイッタは液晶の光を見ながら言った。

「結構あるね」って私は腕を擦りながら言った。


 山の上からは冷気が吹き下ろしてた。地上では昼間の熱気がもわっと漂っていたのに、ここは肌にまといつく空気まで異質だった。功霊殿や慰霊碑には徐々に見慣れた感を覚え始めたけれど、慣れてゆくごとに背筋は返って冷えてった。


「寒い?」

「少しね」って私はうなずいた。「イッタは平気なの?」

 彼はたくし上げていた袖を元に戻して、ほらこの通り、って両腕を広げた。長袖のメッシュ素材のパーカーを羽織ってた。黒いのが周りの風景に溶け込んでいる。

「ジャケット、出そうか」って彼は言った。

「もう出しちゃう?」ってシィちゃんが言った。「ねえ、それなら、その前に、一枚いいかな」

「ああ、うん。でもできるだけ早めに」


 シィちゃんはくすっと笑った。花蘂祭の会場でも使い捨てカメラのシャッターは何回か切られてた。残り枚数がどれだけあるかはこの暗闇の中ではよくわからなかったし、祭提灯の明かりの下でも私たちは特にそれを気にしなかった。でも感覚からいってまだまだ余裕があることもわかってた。


「だけど、こんなところで撮って、大丈夫なのかな」

「なにが?」

「心霊的な意味」

「コオリってオカルトとか信じるタイプ?」

「だって怖いじゃん」

「今日くらい幽霊も許してくれるさ」って彼は言った。「第一、ここだって神社だぜ。神社で幽霊が悪さしたら、世話ないよ」


 それもそうかと私は変に納得した。ともかく名もなき山の境内で私たちは記念の写真を撮ることにした。フラッシュの眩しさに思わず目を閉じたけど、現像した写真がイッタから届くと、そこに写る私はしっかり目を開けていた。眼球が赤く光っていて、むしろ私の方が妖怪かもののけの類のようだった。


 ようやく私も写真を撮られるということに、少しだけ、慣れていた。物事は継続することで緩やかに円熟味を増してゆき、でもひとたび状態が途切れると、また苦手に戻ってる。そういうことの繰り返しだ。


 ホームロッカーに隠した紙袋は、昨夕から誰にも触れられていないようだった。撮影を終えたあと私とシィちゃんは浴衣の上からジャケットを羽織った。ついでにアメリカンヘアピンも裾から抜き取っておいた。


 それで、もう花火の打ち上げ時間にはゆうに届いているはずだった。でも一向に空が煌めく気配はなかったの。いま煌めいてるのは星座の形をくっきり表した星々だけだ。見下ろすと、なんとなく駅前の明かりがざわついてるようにも見えた。


「どうしたんだろ」

「トラブルでもあったのかな?」

「かもね」ってイッタは肩をすくめた。

「さっきの友だちに訊いてみなよ」

「そんなことしたら、俺たちがここにいるの、バレちまう」

「別に知られたっていいじゃん」

「知ったら、あいつらのことだから冷やかしにくるぜ」


 ああ、それは困るねと私は言った。そのとき突然、着信音が鳴った。静かな山の中に電子音が響き渡った。音源は私のポシェットからだった。

 携帯端末を開くと液晶には『滝沢茉夏』って表示されていた。

 一旦シィちゃんに液晶画面を見せてから通話ボタンを押した。「もしもし?」


「ああ、瑚和さん。もうゴマ山ですか?」

「うん、そうだけど」

「なんか、配線のトラブルがあったとかで、花火の開始が三十分くらい遅れるそうです」

「そうなの?」

「さっきアナウンスがありましたよ」

「こっちまでは聞こえないや」って私は言った。

「そう思って電話しました」

「ありがとう。シィちゃんに代わろうか?」

 ナッちゃんは「お願いします」って受け合った。


 通話を終えるとシィちゃんは困ったように笑ってみせた。

「ナッちゃん、なんだって?」って私は携帯端末を受け取りながら訊いた。

「ううん、なんでもないよ。『私は知らないことになってます』だって。変な子」

「それで、なにかわかった?」ってイッタは私の肩を叩いて言った。気づくと彼はあずま屋の縁に腰かけていた。


「花火ね、三十分くらい遅れるって」

「三十分?」って彼は言った。「おいおい、三十分もこの場で待つのかよ」

「配線のトラブルだって」

「手動に切り替えるとか、出来ないのかね」って彼は呆れて言った。

「お昼に仕掛けの準備してるところ、見たんだけどな」って私は言った。でも話の種にはならなかった。


「三十分か。長いね」ってシィちゃんは言った。

「こうなるってわかってたら、もう少し駅前に居座ってたのに」ってイッタは疲れた人がよくやるように、首の裏を揉みながら言った。私の目も夜に慣れていた。

「ねえ、それなら、先に寄せ書きしちゃおっか?」ってそのときシィちゃんが言った。

「ああ、寄せ書きか。油性ペンは?」

「ちゃんと持ってきたよ」ってシィちゃんはハンドバッグから太い油性のペンを取り出した。そしてそれをイッタに差し出した。

「俺?」


「あれ。てっきりヒデくんが書くんだと思ってた」

「コオリが書けよ、せっかくだし」

「私?」って私は言った。ペンライトを揺らしながら、私は大きく手を振った。「いやいや、突然言われても困るよ」


 図書館への寄贈という重大な儀式を、私たちは数珠つなぎになすりつけ合っていた。誰も油性ペンを受け取ろうとしなかったんだ。それで結局、シィちゃんが引き受けることになった。


「私だって書いたことないのに」ってシィちゃんは弱々しく言った。「なんて書けばいいのかな」

「適当でいいよ。シズカの思いついたことを、適当に」

「それならヒデくんが書いてくれればいいのに」ってシィちゃんは珍しく不平を鳴らした。「本当に、思いついたまま書くからね。あとで笑ったりしないでよ?」

「シズカが困ってる」ってイッタは笑った。私も思わず笑ってしまった。


 だけど肝心の書き場所を探しているあいだに、シィちゃんもいよいよその気になったらしかった。「せっかく書き残すんだから、ちゃんと考える」って彼女は決心と可愛らしさを同居させて言った。


「じゃあ、こっちは俺とコオリにまかせて、シズカは考えに集中してくれ」ってイッタはあずま屋の壁にペンライトの光をくるくる回し当てながら言った。


 シィちゃんは、うんってうなずいた。そして身を翻したとき、甘く爽やかな、だけどさっきよりちょっと匂いの変化した香水の香りが、かすかに漂った。私は自分の首筋に指を当てて微笑した。


 こんな暗闇でも書きやすそうな白漆喰の壁は、既に他のメッセージによって埋め尽くされている。柱は表面のしわが気になって選考から外された。余白だらけの天井は、経験者のイッタいわく肩車をしながらだと書くのに苦労とのことだった。あれこれと探して、足元の木板の壁に目をつけた。


 いくらかは朽ちたり腐ったりしているけれど、丈夫に保たれているものも多かった。そういう保存状態のいい木板の中から、まだ先客に占領されてないやつを探し当てたんだ。位置さえ考慮しなければゴマ山の図書館にはまだまだ余白が残されていた。


「あとはシズカ次第」ってイッタは立ち上がりざま言った。

「うん、いいよ」って彼女は言った。

「もう考えついたの?」

「あんまり期待はしないでね」

「試し書きするか?」ってイッタは袖をまくって言った。「俺の腕で」

「大丈夫」ってシィちゃんは笑った。


 私たちの探し当てた木板の前に、シィちゃんが蹲踞する。私とイッタは位置を調整して、明かりが木板にだけ当たるように工夫した。だけどシィちゃんはちょっとまごついていた。あずま屋の縁が木板の上に出っ張っていて、彼女の高い背では身をかがめても書きづらいらしかった。イッタは明かりを差すのを諦めて、恋人の体を支えてやった。シィちゃんは膝をついたほうが楽だと言った。それでイッタはジャケットを脱いで床に敷くと、相変わらず彼自身はシィちゃんの体を支えるためその場に留まった。私はペンライトの先がぶれないように集中してた。


「どう?」ってイッタは、後ろ手にシィちゃんの肩へ手を回しながら言った。

「ありがとう。いけそう」ってシィちゃんが言った。


 きゅっきゅっとペン先の音が鳴る。木板に私たちの思い出が刻まれる。

 シィちゃんらしい、丁寧で美しい字だ。



 お祭り当日!

 十年の再会と、みんなで迎えられた『今夜』に感謝!

 また三人で会おうね。

 もうすぐ花火の打ち上げだよ!



 彼女は最後に日付と、それから自分の名前を署名した。次は私が油性ペンを受け取った。署名のサインをそれぞれ直筆でということは、シィちゃんがその場で思いついたことだった。


 私のときにもイッタは自分の服と労力を犠牲にしてくれた。彼が適切な力具合で支えてくれているあいだに、私はささっと『滝沢静香』の横に『下間瑚和』を書き添えた。

 最後、イッタはその場にあぐらをかいて『由利一汰』を書き添えた。


 仕上がった作品に光を当てたとき、イッタは「なかなかいいじゃん」って珍しく素直に言った。私も同意した。ううん、なかなかなんてもんじゃない。掛け値なく最高の作品だった。シィちゃんの純粋な気持ちと、そして今この瞬間の躍動が、ゴマ山の図書館の一部として既に結晶化され始めてた。


 寄せ書きの記念に、また使い捨てカメラのシャッターが切られた。イッタが撮ってくれたその一枚には、寄せ書きを中心に私とシィちゃんが蹲踞してピースサインを作る姿が写されている。左右で色違いの、でもお揃いの浴衣が写ってる。


 ――結局この帰郷旅行のあいだに39枚撮りの使い捨てカメラを消化し尽くすことはできなかった。何枚かフィルムがあまった状態で現像役のイッタに手渡されたんだ。それが数週間経って私の手元に届いたとき、その残り枚数には綿入の風景が写されていた。蓮華寺の境内や、坂の上の中学校や、それから名もない家並みや田畑の風景だ。特別にイッタが撮ってきてくれたらしかった。なかなか凝ったアングルで、絵葉書にしてもいいくらいだった。生家の写真もその中にあった。


 記念撮影を終えてジャケットを着直しているとき、再びナッちゃんからメールが届いた。

『そろそろ打ち上がるらしいですよ』って、花火の絵文字付きだった。


 私たちは急いであずま屋の縁に陣取った。縁を飛び越えるときにもやっぱり浴衣が障害で、裾をたくし上げてみると、足からステテコが覗いた。イッタはそれを見て腹の皮をよじった。でも結局イッタが持ち上げてくれた。


「二人とも世話が焼ける」

「ありがとね」って私は童心に帰って言った。シィちゃんも「ね」って言った。

 私を真ん中に、シィちゃんを左に置いて、イッタは右側に腰かけた。

「まだかな」って私は空中に足を揺らして言った。「楽しみ」


「所詮田舎の祭りだから、あんまり期待するなよ?」

「そういうこと言わないの」ってシィちゃんが言った。「規模なんて、関係ないよ」

「まあ、ね」ってイッタはすんなり引き下がった。


 私はシィちゃんの腕を取った。私の味方をしてくれたからとか、別にそういうんじゃないんだ。これが十年の再会の最後だとも考えていなかった。ただ自然と、そうしたかった。私たちは親子のように肩を寄せあった。

 ぱっと夜空がきらめいた。


 黄色いひまわりだった。打ち上げの開始を告げる、初めの一発だ。途方も無い空の上に満開に咲いて、夜を黄色く染め上げた。散る寸前の萎れた一瞬にだけ正しい菊の形に戻り、次の瞬間には種を地上に落としていった。太鼓を打ち鳴らすような大きな音が花の開きからわずかに遅れてやってきた。


 二つ目は虹色、三発目は三色だ。それから先は覚えてない。夜空に行われていることをありのまま受け止めていた。


 一瞬に開いて消えるのは、まるでこの帰郷旅行のようだった。次々に花火が打ち上がっていった。

 私たちは言葉を持たなかった。声は邪悪だった。


 ふいにイッタの手が触れた。視線を落とすと、男の子らしい骨張った手が私の手に覆いかぶさっていた。あっと驚いて、微笑した。敢えて視線を合わそうとはしなかった。私はまた遥か遠くの夜空に顔を戻した。


 思い返せばシィちゃんばかり気にかけていたけれど、十年の再会はイッタにしてもおんなじだったんだ。何にも興味のなさそうなイッタにも感傷的な一面があるということを、ううん、あるいはそういう一面を普段は隠しているということを、私はこのとき知った。瞳に鮮やかな花を映しながら、私は薄らいでいた。


 手を引き抜いて、柔らかく彼の手をぽんぽんと叩いてやった。それから彼の手を包み込んだ。

 空にふわっと飛んで、咲き、散った。

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