第五節(0605)

 重いバックパックを背負って私はステンレスのドアを叩いた。呼び鈴を鳴らすと母がやってきた。「あんた、鍵は」って母は言った。バックパックの底の方に沈んでた。シャワーを浴び、いつもの惣菜もので夕食を済ませ、自室に戻るとベッドに飛び込んだ。どっと疲れが押し寄せて、荷物の整理をする気にはなれなかった。文字を追う気力もなく、ぼんやり、見慣れた天井を眺めてた。そのうちに眠気がやってきて布団に潜り込むと、すぐに夢を見た。長い夢だった。目が覚めると朝になっていた。在り来たりな日常が再開されていた。


 日めくりのカレンダーを一枚破くだけで、物事は大きく変化した。日常が馴染んでくるまでに時間はかからなかった。でも、それは、まだ明日のことだ。


 私たちは灰色のブロック塀に囲まれていた。花蘂祭の会場である駅前へ向かうため、最も近道の路地を抜けていた。一歩足を進ませるたびに空は茜色に近づき、祭りの気色も強まっていった。角を曲がるとそのたびごとに路地は人の影を増やしていった。


 途中、ナッちゃんの背中を見かけたような気がした。よく見るとそれは別の子どもたちの集団だった。第一に彼女たちはみんな洋服姿だった。


 和装の祭り客もちらほらいた。女性は浴衣で男の人は甚平か作務衣が多かった。若い人ほどその傾向が強かったけど、おじさんの中にも法被姿の人がいた。彼らはどうやら祭りの関係者らしかった。法被の衿字には、人によって『綿入商工会』か『花蕊祭本部』のどちらかが刻まれていた。


 駅の近くになると路端に祭提灯が並び、電飾は一斉に灯されていた。青や赤や黄色や色鮮やかだったけど、明かりの種類は白一色だけらしかった。提灯の火袋が明かりと溶け合っていた。


 途中の電柱に貼ってあった花蕊祭の告知用ポスターには、開催時刻は六時からとなっていた。私たちはそれより十分くらい早く会場に着いたはずだけど、駅前の大通りを見渡してみると、お祭りは既に始まっていた。道の両端にぎっしり詰められた屋台からは湯気が立ち上り、あるところではちょっとした行列ができてたりもした。


 駅前の広場にはビールサーバーや家庭用のビニールプールがあって、水の張られたプールにはサイダーやコーラの瓶が沈められていた。その隣のかつて駐車場だったスペースには実行本部のテントや演奏用の台が設置されていた。駅舎をイートイン代わりにする祭り客の姿もそこから見えた。


「イッタはまだかな」って私は辺りを窺った。人混みに紛れるとイッタも一人の無個性な男の子に成り下がってた。

「時間にはまだ早いよ」ってシィちゃんは言った。彼が決して予定を前倒しにする人ではないと、信頼している口ぶりだった。


 さしあたり彼を待つことにした。炭酸飲料の瓶を片手に、会場の周辺まで見渡せる駅舎の近くに屯した。夕方になってもまだ暑く、舌で弾けるサイダーが爽やかだった。


 花蕊祭は駅前の広場と、そこから大通りへ抜ける幅広の道路とですべてだった。そこから一歩でも脇道にそれるとせいぜい祭提灯が浮かんでるだけだった。演奏台の上から鳴る祭り囃子と、祭り客の喧騒が、辛うじてこの町に花蕊祭という文化を繋留してるようでもあった。


 祭り囃子は各区の代表が順番で持ち回りしていたらしく、ちょうど私たちがイッタを発見したとき、交代のためにいっとき演奏が止んでいた。イッタは向こうの方角、えっと、つまり、ゴマ山の方角から歩いてやってきた。彼は宣言通り平服でやってきた。


「歩きだよ」って私はシィちゃんに言った。

「たぶん、近くに停めてきたんだよ」

 私たちは炭酸の瓶を売り場のおじさんに返却して、イッタの元まで駆け寄った。

 ずいぶん接近しても彼は私たちに気づかなかった。私たちが屋台の方にいると踏んでいたのか、彼はずっとそっちに目を向けてたの。

「イッタ!」って私は叫んだ。

 イッタはあっと驚いた。


「なんだよ、二人とも見違えちゃって」って彼は開口一番言った。

「可愛いでしょ」

「馬子にも衣装」って彼は言った。それから私とシィちゃんを値踏みするように見回して、「っていうか、柄、揃えてるんだ」

「せっかくだからね」ってシィちゃんは言った。

「ああ、イッタは知らなかったんだっけ」

 彼は肩をすくめた。


「姉妹みたいでしょ」って私は祭りの雰囲気に浮かれて言った。

「そうだな。出来のいい姉と、そうじゃない妹に見える」

 あやかるように、私はそうじゃない妹の振りをしてシィちゃんに抱きついた。私たちは意味もなく笑いあった。


「それで、二人はいつ来たの」

「さっきだよ。十分くらい前かな」

「イッタ、自転車は?」

「幼稚園の駐車場に停めてきた」

「いけないんだ」って私は言った。

「みんなそうしてるよ」ってイッタは肩をすくめて言った。

 彼は辺りを見回した。「それにしても、もう始まってるんだな」

「お祭りの匂いって、いいよね」って私は返事の代わりに言った。

「食い意地の張った妹だこと」

「でも、私も口寂しくなっちゃった」

「飯にはまだ早くないか?」

「チョコバナナの屋台、あっちだよ」って私は奥の方を指差した。

「行こ!」ってそれはシィちゃんが返事した。


 甘い匂いもソースの香りも全部一つのテーブルに載せられている。綿あめのザラメの匂いもかき氷のシロップも、鉄板の上で湯気を立たせる焼きそばも、どれもお祭りっていう名前のテーブルの上で絡み合っている。ううん、匂いが混ぜ合わさって一つの夏祭りっていう料理になっていた。


 みんなその匂いに引き寄せられていた。屋台はさっきより列を長くしてた。とりわけ甘い匂いを立たせる屋台は、まだ六時を回ったばかりの半端な時間にはどこも盛況だった。


 代金を払ったあと、私たちは人目につかないところまで逃げ込んだ。駅舎を抜けてホームまで出ると、そこのベンチに腰かけた。さすがにホームまでは祭り客も忍び込んでいなかった。


「ごめんね、こんなところまで」ってシィちゃんは言った。

「人気者は辛いね」って私は言った。


 小学校や中学校の同級生と会うたびに、イッタとシィちゃんは目まぐるしく声をかけられていた。中には彼らの先輩や後輩もいて、屋台の列に並んでるあいだずっと、二人は知り合いの対応に追われてた。高校生という自由の身になると、二人は敢えてお互いの関係を隠そうともしなかった。それはいいんだけれど、とにかく彼らは目立つ存在で、私はそのたびに気を小さくしてた。


 場合によってシィちゃんはかつての同級生に私を紹介することもあった。私のことを覚えている子もいたし、覚えていない子も多かった。でも私はどっちにしても覚えていなかった。人間模様でいうと、ここは私の故郷ではなく、幼い頃にふらっと立ち寄った町だった。


 やがて割り箸の先のチョコバナナを食べ尽くした頃に、イッタはようやく駅のホームに姿を現した。私は反射的に「遅いよ!」って言った。


「二人とも、もっとメールを見る癖をつけろよ」ってイッタはちょっと怒りっぽく言った。携帯端末を開いてみると私のにもシィちゃんのにも、現在地を訊くイッタからのメールが入ってた。


 彼は中学時代の友だちに捕まってたの。ほら、例の、ゴマ山の寄せ書きに署名した友だちだ。イッタより頭一つ背の高い子と、痩せっぽっちの子と、小太りの子の三人組だった。彼らの話が長引きそうなのを感じて、私たちは一足先にホームに逃げ込んでいた。


「ポシェットに入れてあるから、気付きにくいんだよ」

「私も」ってシィちゃんは笑った。

「ああ、俺の分、残ってないし」って彼はまっすぐに伸びた割り箸を見て言った。

「だからヒデくんも買えばよかったのに」

「食べ切るには多すぎる」

「だからって女の子のおこぼれに与ろうとするなんて、ケチくさいぞ」って私は言った。するとイッタは、

「ああ、いや、コオリのを貰おうとしたんだよ」ってこともなげに言ってのけた。シィちゃんは笑いを堪えるのに必死だった。私が冗談っぽく批難すると、

「だって、二人とも、本当の兄弟みたいなんだもん」って彼女は言った。「いいな、幼馴染みって」


「二人だって似たようなものだよ」

「まあ、そこにきての数年なんて、大して変わらないよな」ってイッタは珍しく受けあった。「じゃあ、俺はどっちからももらう権利があったわけだ」

「しつこいと嫌われるよ」って私は言った。

 そのとき会場にアナウンスが流れた。踊り連の開始を告げる、実行本部からの放送だった。ホームの裏がにわかに活気づき、祭り囃子の音頭も変わった。

「見に行こっか」ってシィちゃんが言って、大胆に私の手を取った。


 彼女の手に引かれ、駅舎を抜けて外に出た。そこの景色が広がると、ああ、って私は驚いた。


 いや、踊り連や山車のためではなく、駅舎の先は西の方角だった。私の目は山のくぼみに落ち込む太陽の形を捉えてた。

 平べったい灼熱の球体が、遠くの山に火事を起こしてた。この町はどこを見渡しても山だらけだ、その山々がどれも黒く焦げ、空との境界線に白い曲線を走らせていた。そして更にその上で、山々や空が赤く燃えていた。


 赤い陽にはまだ早いはずだった。シィちゃんの家を出るときも、イッタと合流したときも、屋台の列に並んだときも、空はまだ赤みを帯びていなかった。急にこれはやってきた。そしていま終わりかけていた。終わりゆく寸前に太陽は自分が赤いことをこの世界に知らしめていた。そして彼自身は黄色く滲んで、夜に支配されかけていた。どうしてだろうと私は思った。どうしても夕暮れの速度には順応できない。青から赤に赤から闇に、その移り変わりはあまりに早い。


「ほら、あそこ!」ってシィちゃんは言った。

 屋台通りとは直角の、つまりイッタと合流した道の上に、白法被の踊り連が出揃っていた。今までどこに隠れていたのか、五十人近くの集団が数珠のように繋がっている。山車はまだ、集団の先頭に寝かせられていた。


 会場に取り付けられた拡声器とスピーカーから直接流れてくるものが重なり合って、実行本部のスピーチは上手に聞き取れなかった。大体のところそれは踊り連のあいだを通り抜けないことと、飛び入りの客は列の最後尾に加わることを強調してた。ついでに花火の打ち上げは八時からだとも宣伝してた。


 拡声器のスイッチが切られると、踊り連にも動きが見えた。手首や足首をほぐしたり踊りの手順を確認したり、めいめい準備に入ってた。


「やっぱいつもどおりだな」って後ろから追ってきたイッタがつぶやいた。

「なにが?」

「花火の時間」って彼はぼんやり答えた。視線は空に向いていた。

「ここから二十分って言えば、着くよね?」ってシィちゃんが言った。

「余裕見て三十分」

「リッちゃん、もうちょっと前に行こ」


 進みながら私はイッタに振り返った。目が合った彼は感情の読みにくい顔をして、渡された二本の割り箸を手遊びに使ってた。すぐにそれをゴミ箱に放り込んで、私たちの後ろをとぼとぼとついてきた。


 踊り連は駅から向かって左側の間道から、屋台通りの前を横切って右側の間道に入ると、先頭を切り替えしてまた左側の間道に戻るを繰り返した。交差点を横切っているあいだ屋台通りと駅前広場の連絡は分断された。彼らは祭り囃子の組が交代するまで不断で踊り続けてた。交代中は五分前後の休憩が与えられて、またすぐに踊りが再開された。白法被が揺れて、かちゃかちゃとしゃもじのかち合う音が鳴る。


 踊り連の最後尾では飛び入りの祭り客が出たり入ったり自由にしてた。彼らはしゃもじの代わりに手を叩いたり、あるいは空振りさせたり、勝手気ままに振り付けを真似ていた。


 イッタの友だちの三人組も、どこかのタイミングで踊り連のお尻に加わっていた。彼らは目ざとくイッタを発見し、こっちにこいとしきりに手招きしていたけれど、イッタは一貫して誘いに乗らなかった。だけど彼らもイッタがそういう遊びには興じないことをわかってるらしかった。


「茶化して楽しんでるだけなんだよ、あいつらは」

「よくそれで愛想つかされなかったね」

「俺は初めからそういう態度だしな」

「ますますわかんない」って私は言った。人と人とが繋がるってどういう原理なんだろう。


 少なくともここにいる私たちは同じ原理だ。私たちは踊りを見ているだけで満足できる側だった。だから、シィちゃんもやっぱり知り合いの誘いを断っていた。恥ずかしいもんね、って彼女は付け足した。


 しばらくすると踊り連は二度目の休憩に入った。最後尾が左側の間道にすっぽり納まるのを合図にして、祭り囃子もそこまでは維持された。


「ちょっと早いけど、食い物の調達始めちゃうか」

「そうだね、込み合う前に」

「各自分担したらどうかな」って私は言った。

「じゃあ、コオリはたこ焼きな」


 言うより前に、もうイッタは交差路を渡りかけていた。「俺は焼きそばの列に並んどく」って彼は言った。


 だけど考えることはみんなおんなじだ。踊り連が休憩に入ると駅前の広場にいた祭り客はするすると交差路に押し寄せた。私とシィちゃんも後れを取るまいと飛び込んだ。


 ところで屋台の列に並んでる最中、偶然にもナッちゃんと出くわした。彼女は私の一つ前に一人で並んでいて、見覚えのある後ろ姿と浴衣に、私はぽんぽんって肩を叩いたんだ。振り返るとナッちゃんは嬉しそうに驚いた。

「瑚和さん!」

「やっほ」って私は呼びかけた。


「やっと会えた。さっき別の屋台に並んでるところ、見かけたんですよ」

「そうなんだ。声かけてくれればよかったのに」

「ううん、遠くから見かけただけなの」

「そっか。全然会えなかったもんね」って私は言った。「ナッちゃんたちはどの辺りにいたの?」

「あっち」ってナッちゃんは駅とは反対側を指差した。反対側のどんつきには小さな神社があって、彼女たちのグループはそこを根城にしてるらしかった。肝心の友だちの姿がないことを訊ねると、理由は私たちとおんなじだった。


「手分けしたほうが早いですもん」ってナッちゃんは言った。「それで、瑚和さんたちはどの辺りに?」

「私たちはあっち」って私は駅の方を指差した。

「それじゃ会えないですよ」ってナッちゃんは笑った。「花蕊祭、楽しんでますか?」

「おかげさまでね。ナッちゃんも友だちと楽しくやってる?」

「うん」って彼女はくしゃっと顔を丸めた。「でも私のことはいいの。瑚和さんは今日のために綿入に残ったんだから」

「シィちゃんは何でも聞かせちゃうんだね」って私は感心して言った。

「ゴマ山のことは聞いてないことになってますよ」ってナッちゃんは言った。私はちょっとぎくりとして反応した。


「おばあちゃんに相談してるの聞こえちゃった」

「なるほど。じゃあそのまま心にしまっておいて?」

「もちろん」って彼女は得意そうにうなずいた。「とにかく、瑚和さんは目一杯楽しんでいってくださいね」

「そうするつもりだよ。ありがとう」って私は言った。

 ナッちゃんに注文の番が回ってくると、彼女はこちらに振り向いて、

「瑚和さんたち、いくつ?」

「ああ、えっと、人数分かな」

「五個、お願いします」ってナッちゃんは店員に振り返って言った。「袋は二個と三個に分けてください」


 列から離れるとナッちゃんは三個入りの袋を差し出した。

「ちょっとまってね、いまお財布出すから」って、だけど私が言い切る前にナッちゃんは神社の方に戻りかけていた。

「私からのおごり!」って彼女は言った。

 一先ず袋を受け取ったのが仇だった。ナッちゃんは決して振り返らない決意で人混みに飛び込んで消えた。

「もう」って私はぼやいた。


 ということがあったんだよと合流した先で打ち明けると、シィちゃんはなぜだか嬉しそうに微笑んだ。

「それでね、悪いから後で返しておいてもらえる?」って私はたこ焼きの代金をシィちゃんに差し出した。「私の方で忘れると困るから」


「丁重に預かっておきますね」

「おごりだっていうなら、おごってもらっておきゃいいのに」

「イッタのようにはいかないよ」

「いや、俺だってナッちゃんからそうされたら耳揃えて返すよ」

「じゃあ、なんで私にはそう言うかな」

「コオリに気に入られたいからだよ」

「え?」


「ナツは本当にリッちゃんのこと気に入っちゃったみたいだね」

「そういうの、唐変木っていうんだぜ」ってイッタは笑った。

「お金、どうする?」ってシィちゃんは改めて言った。


「ううん、やっぱり悪いから、預かっておいて」って私は譲らなかった。

 だけど私がどっちに答えたとしてもシィちゃんは必ず微笑んだ。現実に私が答えた方を聞くと、彼女の笑みはちょっと薄らいでいた。

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