第四節(0604)
四時半を回っていた。ナッちゃんが呼ばれて物置に去ると、部屋には浴衣姿の私たち二人が残された。ふすまを開け放した彼女の部屋からは、縁側と掃き出し窓を通して内庭が自由に眺められる。竹柵で囲われた庭は緑の世界だ。遠くからかすかに祭り囃子がやってきて、地面の芝生をおとなしく揺らしてた。
「やっと静かになった」ってシィちゃんは言った。彼女の表現に任せると、ナッちゃんはいつだって幼児に退行してしまう。
「ナッちゃんのこと、気に入っちゃった」って私は言った。
「元気すぎるのが玉に瑕」って、それでもシィちゃんは満更でもない様子だった。
だけど事実ナッちゃんがいなくなると嵐が去ったようだった。中学生という年頃は外部のどんなものにでも刺激を受けるんだ。それは十七歳とはちょっと違ってた。
「お祭りの音、近いんだね」って私はその静けさの中で言った。
「近くの神社で音合わせしてるんだよ」
「音合わせ」って私は感心して言った。
「昔は町中の神社から山車が出てたけど、今は演奏だけ」
「その頃の様子も知っておきたかったな」
するとシィちゃんはたんすから一冊のアルバムを取り出して、幼い彼女が写る花蕊祭の写真を見せてくれた。
「これ一枚しかないけれど」ってシィちゃんは言った。綿入の大通りが封鎖され、車道には白法被を羽織った大勢の踊り連が連なっていた。山車はそのあいだに等間隔に配置されていた。奥の方で消失点と融合したものも数えれば、全部で五つか六つは写されている。写真は、どこかはわからないけれど、少し小高い位置から撮られてた。
「こんなに賑やかだったんだ」
「今は踊り連も一組だけになっちゃったけどね」
「それでもお祭りって雰囲気は感じられるよ」
「そういえば、山車も一つだけ出るはずだよ。さっきは勢いで言っちゃったけど」って彼女は言った。
「もう、今から待ち遠しい」って私は言った。
私は妙にそわそわしてた。時間なんて止まっちゃえばいいって普段から感じているくせに、本当に止まってしまうと困ることも多いんだ。
「ねえ、そういえば、イッタから連絡は?」
「ううん。リッちゃんの方には?」
私は和柄のポシェットから携帯端末を取り出した。着付けの終わりにシィちゃんの祖母が貸してくれたものだ。長い紐を肩からかける、大きめの巾着袋のようでもあった。携帯端末と長財布がすっぽり入る大きさだ。
ところで取り出した携帯端末を開いてみると、通知は一件も入っていなかった。
私は顔をあげて首を振った。
「寝てんのかな」って私は言った。
「ヒデくんはいつでも寝てるね」ってシィちゃんは笑った。
「それで、用があるときだけ起き出すの」
「冬眠中のリスみたい」ってシィちゃんは言った。
「ちょっと電話してみる?」
「うん。そろそろ予定も聞いておかないとね」
コール音が十秒鳴って、通話口から「もしもし」って聞こえた。試しに「おはよう」って言ってやると、イッタは即座に「寝てない」って否定した。
「もうシズカんちにいるの?」って彼は言った。
「うん。シィちゃんに代わろうか?」
「いや、それはいい。例の浴衣は?」
「もう二人とも着付けてもらった。準備としては、いつでも出られる状態になってるよ」
「ああ、そっか」って彼は言った。それからわざわざ付け足すように、「お早いことで」
それから私たちはくだらないことを言い合って、なかなか本題に進まなかった。いよいよ通話の終わりに聞き出したところでは、イッタは六時ごろに家を出る予定らしかった。本来ならもっと早くにゴマ山まで向かう予定だったけど、昨日のうちに仕込みを済ませたおかげで色んな手間が省かれていた。
「それならイッタが家を出るタイミングで私たちも出るよ。そのときになったらまたメールして?」
「いや、俺より早くに出たほうがいいと思うよ」
「どうして?」って私は言った。「ああ、距離が遠いからか」
「それもあるけど、面倒だから俺はチャリで向かう」
「なるほど。普段着だと楽でいいね」って私は自分の浴衣を見ながら言った。
通話を終えてシィちゃんに会話の中身を伝えると、彼女は時間を確認したあと、うんってうなずいた。シィちゃんはアルバムをしまいがてら勉強机の前に立ち、そこに置いてあったハンドバッグを持ち出した。
「忘れないうちに」
そう言ってハンドバッグの中からペンライトを一本取り出した。ペンライトはシィちゃんのハンドバッグから私のポシェットに移された。
「油性ペンと、虫除けスプレーと、ヘアピン」ってシィちゃんは残された中身を指差しで確認した。
「それと」って彼女はちょっといたずらっぽい笑顔を作って、使い捨てカメラを取り出した。その表情はナッちゃんとよく似てた。
「記念に撮っておこっか」って私は身を起こした。
「一緒に映れるかな」
シィちゃんは限界まで腕を伸ばして、どうにか二つの浴衣をまるっとレンズの中に納めた。シャッターを切る直前に、彼女は私の体をぐっと引き寄せた。
近づいてみると、彼女の首筋から甘い爽やかな香りが漂った。
匂いに引き寄せられると、
「ああ、香水」ってシィちゃんは言った。「リッちゃんにもつけてあげるよ」
「私にも?」
カラーボックスの一番上の段には無数の香水が保管されている。高さも形も違う、マンハッタンのビル群みたいな瓶たちだ。シィちゃんはそれらを眺め回して、「どれにする?」って言った。
私は少し迷って「シィちゃんとおなじの」って遠慮がちに言った。
シィちゃんは香水の噴霧口に指を当て、プッシュ式のノズルを半分だけ押し込んだ。その指を更に手の甲でこすって、間引きされた香りを私の首筋に撫で付けた。首筋がぞくっとして思わず肩がこわばる。シィちゃんは恐る恐る血管をなぞるように、逆側の首筋にも香水の付着した指を撫で付けた。
「こんなに少量でいいの?」
「すれ違うときにちょっと香るくらいがいいんだよ」って彼女はアルコールのウェットティッシュで手の甲を拭きながら言った。
シィちゃんが撫でてくれたところを指でなぞってみると、指先から彼女と同じ香りが開いた。柑橘系の、甘く爽やかな香り。
そのときふとイミテーションの彼岸花に目が行った。遠くからは祭り囃子が聞こえ、空にはそろそろ薄明かりの兆しがかかってる。唐突に頭の中に言葉が閃いた。「私たちは、あだ花なんだろうか」。そうではないだろうなと私は思った。同時にどうしてそんな言葉が浮かんだのかを不思議にも感じた。甘い香りがかすかに漂った。
クリーム色の夕日を思い出していた。あるいは赤錆にまみれた大通りの町並みを思い出していた。でもそれは、結局この場でもシィちゃんに打ち明けることが出来なかった。打ち明けられないまま私はその記憶をいっときどこかで失くしてしまった。彼女に打ち明けることが重要なことだったのか、そうでなかったのか、実際のところはよくわからない。
ナッちゃんはそれから程なくして部屋に戻ってきた。私たちの短い髪に比べてナッちゃんの髪は手の加え甲斐があったらしい、彼女は少し私たちの年齢に近づいていた。浴衣は今様の鮮やかな柄だった。この年の花蕊祭の日に姉から妹へ受け継がれたやつだ。
まだテーブルに置かれたままの使い捨てカメラを発見すると、ナッちゃんは妹らしいわがままを言った。彼女を真ん中に配置して、シャッターがもう一度切られたの。
すぐに彼女の友人がやってきた。友だちが迎えにきたことはシィちゃんの母親によってナッちゃんのもとに伝えられた。彼女はトランペットを自室に帰して慌ただしく出かけていった。
「瑚和さん、また後でね!」って廊下の奥で声だけのナッちゃんが言った。つまり私服の担保があるために私はお祭りのあともう一度シィちゃんちに寄る必要があったわけだ。
五時をすっかり回ってた。気付けば祭り囃子の音頭も止んでいた。彼らも花蕊祭の会場に向かったらしい。
「私たちもそろそろ行こっか」ってシィちゃんが言った。
私はポシェットの紐を肩に通した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます