第三節(0603)

 祖母の家に着くと、サヤコさんは手土産を用意して待っていた。持ち上げてみるとずっしり重く、中身は食用油の詰め合わせらしかった。私が父と一緒に出ていったあと、近くのお店で見繕ってきたものだった。


「お中元の時期と重なってしまって、こんなものしか用意できませんでしたけど」ってサヤコさんはなぜか詫びるように言った。「一昨日の夏野菜のお返しに」

「私の方からもお礼しておきます」って私は言った。「上手くできるか、わからないけれど」

 サヤコさんはくすりと笑った。


 包みを受け取ったときに一度、玄関先でも一度、サヤコさんに頭を下げて、祖母の家を出た。

 手土産の袋はどうにか自転車の前カゴに収まった。漕ぎ出すと、初めは左右に揺れていた重心が、アンダーパスに差し掛かる頃には所定の位置に落ち着いた。


 呼び鈴を鳴らすとシィちゃんはすぐに玄関先までやってきた。庭先には宴会の準備ができていた。

「いらっしゃい、リッちゃん、待ってたよ」って彼女は言った。


「遅くなっちゃってごめん」って私は言った。なんだかんだで三十分くらい予定を押していた。「今は、手伝いの方は?」

「もうすっかり片付いた」ってシィちゃんはいつもの彼女らしい明るさで言った。「先に、自転車しまっちゃおっか」


 夏野菜の返礼品はそのあとでシィちゃんの家族に手渡した。居間には彼女の母親と祖父がいて、私は挨拶のあいだ、粗相がないようにと終始緊張しっぱなしだった。だけど初めて会ったときに比べてシィちゃんの祖父はいくぶん柔らかだった。頑固さの角が一辺だけ(実に一辺だけ)削り取られてるようだった。


 挨拶の最中に、居間にはシィちゃんのお兄さんもやってきた。私はそこで改めて自転車の礼をした。「どうせ使ってなかったものだから」って彼は好意的に返事した。彼は、そうだな、シィちゃんと比べるとずいぶんおっとりした人だった。まるで一度膨らませた風船をしぼませたような人。性格の豊かな家族のなかで、彼はゆらゆらと揺れていた。

 最後にもう一度簡単に挨拶をして、私とシィちゃんは席を立った。


 居間を辞してから、「それで、浴衣の方は」って私は訊いた。

「もう準備できてるよ。いつでも始められる」

「それなら、先にやってもらっててよかったのに」

「やだ、そんなの」ってシィちゃんは言った。

「いやなんだ?」って私は笑った。

「一緒の方がいいよ」

 そうだね、って私もうなずいた。


「なんかね、ナツもじっと待ってるの。いま私の部屋にいるんだけれど」

「ナッちゃんも?」

「さっきからそわそわしてる」

「そんなに待たせちゃったかな」

「まだ時間はあるよ」ってシィちゃんは言った。


 彼女の家の廊下はとても長い。裸電球の電灯は角を曲がるたびにオン・オフを切り替えられた。

 浴衣がしまわれている物置は廊下の途中にあって、シィちゃんの祖母はその隣の六畳一間の部屋で休んでた。何かの古い書物(書物と呼ぶほうが適切なほど年季の入った本)に目を通していたところに、私たちは簡単に挨拶をして、その更に二つ奥のシィちゃんの部屋まで足を進ませた。


「瑚和さん、遅いよ、待ってたんだから!」ってナッちゃんは出会い頭に言った。待っているあいだ暇だったのか、自室から持ち込んだらしいトランペットが床に置かれてあった。


「ああ、ごめんね、ちょっと用事が入っちゃって」

「来てくれないのかと思っちゃった」

「そんなわけないよ」

「あんまりリッちゃんを困らせないの」ってシィちゃんは叱りつけるように言った。「浴衣、着せてあげないよ」

「着付けてくれるのはおばあちゃんだもん」


 そのやり取りが愉快で私は思わず笑った。彼女たちも家の中では普通の女の子だった。ナッちゃんのわがままには嫌味がなく、年下の女の子というよりは、年下然とした女の子だ。


「ところで、着付けってどうするの?」

「順番にお願いする」ってシィちゃんは言った。「一人三十分くらいかかるみたいだし、それに、物置の中もそんなに広くないから」

「結構かかるんだね」

「おばあちゃん一人だからね」

「困らせちゃってないかな」

「久しぶりの着付けだって、おばあちゃんも張り切ってたよ」

「そっか」って私は安心してうなずいた。「じゃあ、えっと」

「私は最後でいいよ」ってナッちゃんが言った。「お姉ちゃん、先に行ってきなよ」

「私?」ってシィちゃんは言った。「お客さんだから、リッちゃんが先の方が……」

「ああ、いや、気にしないでいいよ」って私は言った。


 むしろ私もナッちゃんの意見に賛成だった。先にシィちゃんが緩衝材になってくれれば、私の方からも着付けをお願いするのに気が楽だった。それに、ちらっと目があった瞬間のナッちゃんは、なにか共犯者を得ようとする悪巧みの笑顔をこちらに向けていた。


「シィちゃん、先にお願い」って私は続けた。

 それでシィちゃんも、ちょっと悩んだ末にうんってうなずいた。


 シィちゃんが物置へ向かったのを見届けて、ナッちゃんに振り返った。彼女の顔には友好的だけどいたずらっぽい笑みが浮かんでる。いみじくも計画が成功したときの表情だ。


 昨日のポニーテールはほどかれて、長い髪は肩の下まで一つの線のように伸びていた。でも艶のある黒髪は彼女の小さい顔を更に小さく見せるだけで、中学校の廊下で会ったときよりも、一回りくらい彼女を幼くさせていた。


「とりあえず、かけて待ってましょう」ってナッちゃんは言った。「といっても私の部屋じゃないけれど」


 さっきまでシィちゃんが腰をおろしていたらしいクッションが、テーブルの手前側に置かれてあった。トランペットはその斜に寝かせられている。二人の仲の良さはそれらの距離からもよく伝わった。


「家でも練習してるんだね」って私は座りしな、トランペットを見て言った。

「単なるお遊びですよ。本気で吹いたら近所から苦情がきちゃう」

「結構響くんだ?」

「ううん、近所っていうのはお姉ちゃんのこと。私の部屋、この裏だから」ってナッちゃんは襖とは反対側の壁を指して言った。


「なるほど、シィちゃんか」って私は笑った。

 するとナッちゃんは、

「お姉ちゃんには犠牲になってもらいました」って平然とうそぶいた。


「なんだってシィちゃんを先に行かせたの?」

「瑚和さんとお話したかったから」

「私と?」

 彼女は愛嬌のある笑顔を作ってみせた。思ったことを隠そうともしない、まったく可愛い子なんだよ。


「本当ですよ。嘘じゃないんだから。ずっと待ってたんだもん」って彼女は言った。

 私はうんうんとうなずいた。幼い子どもを相手にしているとき、私は素直な一人の人間になれたような気がする。十四歳という多感な時期にも彼女は子どもらしさを充分に保管し続けていた。


「さっきまで吹いてたの?」って私はトランペットに視線を戻して言った。

「ちょっとだけ。でもすぐに瑚和さんが来てくれた」

「練習熱心なんだね」

「大会が近いからですよ」って彼女は言った。「トランペットは、腕さえ落ちなければそれでいいんです」

「聞いたよ。本当はジャズバンドがやりたいんだって?」

「知ってます、お姉ちゃんが瑚和さんに話したってこと」

「本当に仲が良いんだね」

 ナッちゃんは嬉しそうに首を傾けた。首だけじゃなくって肩まで揺れていた。


「それはそうと、昨日は慌ただしくてごめんなさい。本当にちょっとしか休憩がなかったの。お昼前の小休憩だったから」

「あのあとすぐに演奏が始まったもんね」って私は言った。「私たちこそ、急に押しかけて、ごめんね」

「ううん。お昼になったら戻ってきてくれるかなって、ちょっと期待してたんですよ」

「そうだったの? 返って迷惑になるかと思ったよ」

「全然。昨日だって、もっと瑚和さんとお話したかった」

「それは、今がそうだよ」って私は言った。するとナッちゃんは、

「でも、昨日の瑚和さんと、なんだか違う」ってなぜか嬉しそうに言った。「昨日はもう少し、硬かった」


「緊張してたんだよ。妹さんを紹介されるなんて、なかなか無いことだから」

「今日は大丈夫そうですか?」

「それなりにね」って私は言った。


 彼女は想像通りの女の子だった。生家で彷彿した彼女と、現実の彼女とに、大きな隔たりはなかったの。そうしてみると誰かとの再会は、私にとって三度目でもあり四度目でもある。


「だけど、ジャズバンドか」

「うん?」

「スウィング・ジャズとか、そういう感じ?」って私は敢えて話を続けた。

「ああ!」ってナッちゃんは急に輝いた。「ううん、できればもうちょっと丸い雰囲気でやりたいの」

「丸い雰囲気」って私は言った。「ちょっと想像つかないな」

 催促するように言うと、ナッちゃんは嬉々としてトランペットを持ち上げた。無邪気な表情で唇を湿らす仕草まで可愛らしかった。


 私のお気に入りの曲、そう言って彼女はおもむろに演奏を始めた。金属の管を伝って、音が静かに空間を震わせる。彼女は音の強弱に神経を集中させながら、三十秒かそれくらいのごく短いあいだ、穏やかだけど抑揚のあるメロディを聞かせてくれた。私はその曲のことをよく知っていた。Easy Living、トランペットだけで表現するには難しい曲だけど、イントロの印象的なフレーズをナッちゃんはたどたどしくもトレースしてみせた。


「ビリー・ホリデイ」って私は嬉しくなって言った。

「わかりますか?」

「ラジオのジャズ専門チャンネルをよく聞いてるの」って私は言った。「気が向いたときに、って意味だけど」

「そう、私もそれでジャズが好きになったんです」ってナッちゃんは言った。「瑚和さんも、ジャズ聞くんですね」


 ナッちゃんは私より何倍も嬉しそうだった。「たまにだよ」って強調してみても、彼女の耳は正確にはその言葉を受け入れてないようだった。

「じゃあ、これは?」って彼女は言って、垂れていたトランペットの頭をあげ直した。


 次もまた聞き覚えのある曲だった。ナッちゃんはバックグラウンドの旋律ではなくてエラ・フィッツジェラルドの唄うメロディラインをなぞってた。そのときは曲名を思い出せなかったけど、たしかAll by myselfだ。


「こういうのを、バンドっぽくやってみたいんですよ」

「面白そうな試みだね」

「よかった。わかってくれる人がいた!」

「でもなかなか難しそうだよ。例えば私もジャズが好きっていうと、いつも背伸びしてるって思われちゃう」

「そうなんですよね」ってナッちゃんは言った。「でも、ピアノの子はもう捕まえてあるの。同じ吹奏楽部の子で、いまは二人とも別パートを担当してるんだけど」

「そうなんだ?」って私は言った。「シィちゃんからは、高校に入ってからだって聞いてたけれど」

「早いうちに勧誘しておかないと。だって、興味のない子を引っ張っても仕方がないから」

「なるほど。ジャズ好きの子だけ探してるんだ」

「なかなか見つからないですけどね」って彼女は言った。


「でも、ピアノができる子がいるなら、最低限、形にはなると思う」って私は言った。「二人で部活を立ち上げることもできそう」

「絶対同じ高校に行くんだって約束してる」って彼女は言った。「そうしたら、ジャズ部がなくても瑚和さんの言ったとおりにできる。私たちが創部メンバー」

「本当は今からでもやりたそうな顔してる」

「でも、私がサックスを持ってないから」ってナッちゃんは残念そうな、だけど待ち遠しそうな表情で言った。

「そのままトランペットを続けるって選択は?」

 訊くと、ナッちゃんは大きく首を振った。

「ジャズといったらサックスだもん」

「やっぱりサックスだよね」って私も同意した。あの低く震える淫靡な音に、私はいつも心を落ち着かされる。


「だけどそうすると、トランペットの子も改めて探さないと」

「若いっていいな」って私は急に老け込んだ気がして言った。事実ナッちゃんは情熱に溢れてた。

「ねえ、例えば瑚和さんって、何かの楽器を引けたりします?」

「ああ、私はそういうの、まるで駄目」

「そっか」ってナッちゃんは残念そうに言う。

「もし楽器を引けたとしても、距離的に無理だよ。それに、部活動がしたいなら、私は部外者だ」

「ううん、部活動って形にはこだわってないんです」

「そうなの?」

「バンドとして活動できれば、形式はなんでもいいの」ってナッちゃんは夢見がちな目をして言った。「できればそういうことを、一生の趣味として続けてゆきたい」

「一生の」

「おばあさんになっても」


 三歳も年下の女の子なのに、ナッちゃんは当時から明確な夢を抱いてた。そしてそれは、幸いにも夢見がちな少女の願望にとどまらず、現実に彼女は高校に入学したあと部活動を立ち上げた。『ジャズバンド部』では学校側からの認可が下りなかったから『ジャズ史研究部』という怪しい名称になったと、誇らしげに彼女は教えてくれた。


 高校を卒業した後も彼女は、たまに小規模なライブハウスで演奏したりどこかのイベントの余興として呼ばれたりと、プロとアマチュアの中間でふわふわ、自由に活動を続けてる。決して多くの人が知るバンド名ではないけれど、彼女たちを知る人のあいだではなかなか受けが良い。ビリー・ホリデイのあだ名をもじった『レディ・ウィーク』という名前の、女の子だけで結成されたバンドなの。私ももちろん、彼女たちのファンの一人だ。


「ねえ、瑚和さん、よかったら連絡先教えてくれますか?」って彼女はこの会話の最中に持ちかけて、以来私たちは定期的に連絡を取り合っている。今でも時おりナッちゃんの携帯端末からメッセージが飛んでくるし、ライブの日程が決まるとそのたびにチケットの同封された案内状が送られてくる。丁寧に、手書きの可愛いやつなんだ。


 その交流は私が重油の澱で体育座りしていた最中に一旦途切れたけれど、そこから這い出してみると、彼女は過去を洗い流すように何事もなく受け入れた。何年経っても可愛い妹のままでいてくれるナッちゃんは、私には余るくらいの貴重な存在だ。


「瑚和さん」、連絡先の交換を終えたあと、ナッちゃんは急にかしこまって言った。「お姉ちゃんのこと、よろしくおねがいしますね」

「どうしたの、突然?」

「私、お姉ちゃんの友だちに会ったの、瑚和さんが初めてなんです」

「本当に?」

「少なくとも家にまで来てくれるようなことって、今までなかった」ってナッちゃんは言った。「最近に限って言えば、ですけれど」

「ああ」って私は言った。


 カラーボックスの上に目をやると、造り物の彼岸花は今日もしっかりそこに飾られていた。丁寧に手入れされていて、ほこりの粉も吹いていない。


「私がこの町とは無関係だからだよ」って私はナッちゃんに視線を返して言った。彼女がお姉さんの心模様をどこまで察しているかわからなかったけど、あまり気に留めなかった。それに大体のところナッちゃんも感づいてるらしかった。つまり彼女もまた同じ身の上として。


 彼女は小さく、だけど確かに首を振った。「瑚和さんのこと、すごく信頼してる」

「シィちゃんが?」って私は驚いた。ナッちゃんはまた無言で、今度は強くうなずいた。


「そこまで思ってくれてると、どうしていいかわかんないな」

「重いですか?」

「ううん、純粋に嬉しいよ。だけど私も、そこまで器用じゃないからさ。ナッちゃんの期待に応えられるかな」

「友だちでいてくれれば、それだけで」ってナッちゃんは言った。


 私たちの……つまりなにかに追われ続けているような、ほんのわずかにだけど逼迫した私やシィちゃんの境遇は、私たちが生きている時代とは、たったそれだけの違いでまるで反りをあわせていなかった。同じ年頃の男の子や女の子が全体的には不自由なく日々を過ごしてゆくようには、この平和な時代を享受できずにいたし、指で小突けば破れそうなほどの半透明な薄膜が、私たちの世界の色をちょっぴりと変えていた。彼らと私たちを隔てるのには、それだけの差があれば充分だった。


 それについてはナッちゃんもおんなじだった。生まれた順番によって彼女はお姉さんより器用にこの世の中を生き抜いたけど、私とシィちゃんと、あるいはイッタもそこに含まれるとして、私たち三人が見えている世界の色を、彼女も同じように認識してた。


「もちろん、私もシィちゃんと親友になれれば嬉しいよ」って私は言った。「でもそこまで心配する必要もないよ、シィちゃんには初めからイッタがいるし」

「由利先輩は」ってナッちゃんは言った。「由利先輩は友だちじゃなくて恋人だから」

「イッタのこと、苦手?」

「ううん。好きですよ。お姉ちゃんのこともちゃんと理解してくれてる」

「それなら、何も問題はないよ」

「だけど、えっと」って彼女は言った。「ううん、やっぱりなんでもないです」

「差し支えなければ聞くよ?」

 でもナッちゃんは「大丈夫です」って譲らなかった。


 彼女はなんとなく気付いていたんだよね。シィちゃんとイッタはあまりにも相性がよく、そしてあまりにも成熟しすぎていたから、そのせいで未来を潰してしまうということを、長く二人を見てきたナッちゃんは、言葉ではなく皮膚感覚としてわかってたんだ。だからこそ私をイッタの代わりと見立ててたんだと思う。


「とにかく、お姉ちゃんのこと、よろしくおねがいします」ってナッちゃんは嫌な空気を払うように彼女らしさを取り戻して言った。

「私が愛想を尽かされない限りはね」って私も冗談っぽくそれに応えた。


 まだシィちゃんが戻ってくるまで時間があった。物置部屋の戸は建て付けが悪く、開閉時には必ず古い音がした。部屋を二つまたいだここからでも音はクリアに届いてたから、音が聞こえないうちはシィちゃんの着付けが終わる様子もなかったの。


 その短い時間に私たちはすっかり打ち解けあっていた。共通の趣味があることも大きく関係してたけど、それ以上に彼女の(シィちゃんいわく)誰に対しても妹な性格に、私はすっかりやられてた。私たちは長いあいだ取り留めのない会話を交わした。


「瑚和さんもなにか楽器やればいいのに。面白いですよ」

「飽き性だからなあ。家だってアパートだし」

「近所迷惑だ」

 そうだね、って私は言った。「じゃあ、もし歌付きの曲を作るなら、詩を書いてあげるよ」

「本当に?」ってナッちゃんは言った。「約束ですよ!」


 ていのいいおべんちゃらだとわかって、それでも彼女は目を輝かせてた。彼女は純粋に今を楽しんでるようだった。その姿が愛らしくて、私は思わず彼女の髪かもしくはほっぺたを弄びたくなった。肩まで下がる黒い長さがまるで人形のようだった。

 ちょうどその瞬間に、誰かが物置の戸を軋ませた。


「おばあちゃん、少し休んで」、「じゃあ、すぐに呼んでくるね」シィちゃんの声が聞こえた。それからすぐ木板を跳ねる音がして、廊下は音をこちらに近づけた。


「おまたせ、ちょっと時間かかっちゃった」って浴衣姿のシィちゃんが言った。

 少し滲んだ白地に、若草色の花が可愛らしかった。山吹色の帯はこれも少し色が褪せていて、ちょうどよく全体と調和した。和装に合うように彼女の短い髪は後ろ手に結われてる。


 私たちは一瞬息を呑んだ。

「どうかな」ってシィちゃんが恥ずかしそうに言う。

「いいじゃん、すごく良い」ってナッちゃんが言った。

 一つ間を置いてから、「似合ってる」って私も同意した。「浴衣の柄も、思ってたほど古くないんだね」


「袖を通してみると、そんなに気にならないかも」

「それに、髪までやってもらえるんだ?」って私は言った。

「だから今日は結んでないんですよ」

「なるほど、それでか」って私は思わずナッちゃんの長い髪に手を差し出しかけた。

「次はリッちゃんの番だよ」ってシィちゃんが言った。「おばあちゃん、すぐにかかってくれるって」

「ああ、私か」って私は言った。「それとも、ナッちゃんが先にする?」

「私は最後」ってナッちゃんは無邪気に微笑んだ。


 廊下に出ると物置の戸は開け放されたままになっていた。土蔵の回りに住居を拡張したのか、それとも離れを作る際にそこだけ土間にしたのか、廊下の角にある物置はそこだけ他の部屋と雰囲気を違わせていた。


 物置からは裸電球の黄色い光が漏れ出していた。顔だけ覗かせるとシィちゃんのおばあさんの背中が見えた。彼女はとてものんびりした手際でたんすを開けるか閉めるかしてた。


「ごめんください」って私は言った。すると彼女は振り向いて、ゆっくり私におじぎした。


「さあ、さ、やってしまいましょう」って彼女は儀礼的な挨拶を省いて言った。そうした様子がなんだか心地がよくて、ほっと肩の力が抜けた。

「お願いします」って私は言った。


 土間にはすのこが敷かれてあって、入り口以外の壁はどれも桐だんすに覆われていた。そこに一枚、古い姿見がついていて、着付けの最中、私はその前に立たされた。


「浴衣はこちらでよかったかしら」って初めにおばあさんは折りたたまれた浴衣を私の前に差し出して言った。「静香がこれをってお願いするものだから」


 少し色の落ちた白地に、牡丹の模様が点々と散りばめられてある。控えめな空色の柄が裸電球の影響ですこし緑がかって見えた。シィちゃんが着ていた浴衣とは色違いなだけの同じ柄だった。


「お揃いの浴衣って、約束したんです」って私はちょっと緊張を解せないままはにかんだ。


 私の予想とは裏腹に、おばあさんはまず髪から結わえてくれた。肩までもない私の髪をヘアゴムもピンも使わずに綺麗に束ねてくれたんだ。着付けにはそれから移った。


「下だけ脱いじゃってね」って彼女は言った。

「上は、このままでいいんですか?」

「構いませんよ、夜の山は寒いでしょうし」


 ジーンズを脱いでステテコに履き替えると、彼女はまた私を姿見の前に立たせ、洋服の上から浴衣を羽織らせた。それとも浴衣下にしましょうかと聞かれたけれど、肌触りを見て、きっと洋服の方が暖かそうだって私は答えた。


 彼女が着付けの段取りをしている最中、私は「でも、本当にいいんですか?」って訊いた。


「あら。なにかしら」

「夜の、その、ゴマ山のこと」

「構いませんよ。若いうちはなんでも経験しておく方がいいものです」

「浴衣、汚しちゃうかもしれません」

「そんなもの洗えば済む話です」って彼女はくすりと笑った。

「ありがとうございます」って私は急に気を弱くして言った。


 腰帯を背中に通すとき、彼女の髪が顔のあたりまで近づいて、ふわっと何かの匂いが飛んできた。今まで嗅いだことのない種類なのにどこか懐かしかった。


「瑚和さん、でしたか」

「はい?」

「静香が喜んでいましたよ」

「ああ」

「あんなに楽しそうな顔を見るのは、いつ以来かしらね」って彼女は言った。語りかけているあいだも彼女の手は的確に浴衣の生地を折り、曲げ、整えていた。

「私、迷惑になっていませんか?」

「とんでもない。静香は聞き分けが良すぎるくらいだから、これくらいのわがままはいってもらわないと」って彼女は言った。「でないと、大人は返って心配するものよ」

「そういうものですか」

「あなたのおかげ」

 私はそれには答えなかった。着付けの指示に従ってるうちに、思考はどこかに散らばっていた。


「これからも静香と仲良くしてやってね」

「もちろんです」って私はそのときだけは逃すまいと力強くうなずいた。


 伊達締めが巻かれて生地の端を調整すると、それで着付けは完成だった。おばあさんは最後に髪飾りを差してくれた。耳元に、ちょうどいい大きさの花が一輪咲いた。

「一段と可愛くなりましたね」って彼女はとても上手なことを言ってくれた。


 だけど姿見に写る私は本当に可愛らしかった。ううん、つまり、髪型や、髪飾りや、浴衣が、本当に可愛らしかった。浴衣は初めてだった。身にまとうのも着付けてもらうのも生まれて初めてだった。


「最後は茉夏ね」って彼女は言った。「少し休んでからにしますから、そう伝えてきてくださる?」


 私はうなずいて、それからまたお礼を言って、シィちゃんの部屋に向かった。そのすぐあとで部屋から私たちのはしゃぎ声が響く。

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