第二節(0602)

 いわゆる出稼ぎ稼業だった父は、私が幼い頃にはほとんど家を空けていた。配送先から戻ってきても、家に居着くのは一日か二日で、すぐにまた長距離トラックの運転席に乗り込んで遠くの地を目指してた。地元の職場に落ち着いたのはそれよりずっと後のことで、幼少期の私にしてみると、彼は父というよりも、居候か間借りの人に近かった。それでも彼の方では私を娘と思っていたけれど、私の方で彼を父と思うには、十年の空白以前からも、直接の触れ合いが決定的に足りていなかった。


 更に十年の空白が発生すると、いよいよ父の方でも、私を娘と思うには不足しているものが多いんだと感じているようだった。私たちの関係は一般的な親子に比べてどうしてもぎこちなくなることが多かった。


 キャッチボールはいい提案だった。私はそれをできるだけ長く続けていたかったんだ。父も同じように感じてたと思う。でも彼の年齢は当時で既に五十を過ぎていた。


「どこかで昼食でもとっていこう」

 エンジンにキーを差し込みながら彼は言った。私はぼんやりうなずいた。二つ一組の野球グローブは、革靴や段ボール箱の中身とおんなじに、結局元の位置に返された。


 車が運転し、生家が移動を始めると、事ここに至って私は急に悲しくなった。

「ねえ、お父さん」って私は言った。その先は言わないほうがいいとわかっていたけれど、どうしてもはっきりさせておきたくなった。「どうして家を手放すことになったの?」


「どうもこうも、借金だ」

「連帯保証人って聞いたけれど」

「同じことだ」って彼は言った。それ以上は何も言わなかった。


 生家はその後、どこかの製材業者か建築会社に渡されて、今はその会社の資材置き場として使われている。綿入に帰郷するたびに儀礼的に確認しているけれど、相変わらず青い屋根瓦はそこにある。上物はそっくりそのまま残された。窓の向こうにぎっしりと製材の詰め込まれてるのが外から見えるんだ。


 それはもう私の生家であって私の生家ではない。いつかお金を貯めて買い戻そうという夢はあるけれど、それも夢のまま終わる。そんなことをしたって誰の得にもならないからね。


 やがて道を曲がると、青い屋根は見えなくなった。さようならって言葉は心のなかで叫ぶにしても少しあざとかった。私は無言で目をそらした。


「ファミレスでいいか」って父は言った。

「え?」

「それとも、腹減ってないか」

「ああ、ちょっと」って私は言った。

「よし」


 父は車を走らせて、五叉路の交差点、それから初日に越えてきた橋を渡った。橋の先の町は昨日電車を使って訪れた隣町ほどは栄えていなかったけど、主要道路には大型の薬局や飲食店が並んでいて、綿入に比べれば充分に活気づいていた。


 橋を下りて主要道をちょっと進んだ先にあるファミリーレストランに父は車を停めた。計器類の横についていた時計は十一時五十分あたりを示してた。


「少し早いけどいいな」って父はサイドブレーキを引きながら言った。でも彼は返事を待たずに車を降りた。

 私がもたもたしていると、父は駐車場からやや距離のある店の入り口まで、後ろも振り返らずにずんずんと進んでた。


「お父さん、ちょっと」

「なあにちんたらしてるんだ」って彼は手招きして言った。

「急ぎすぎだよ」って私は小走りに駆けた。

「そんなことしてたら、なんにでも遅れちまう」って彼は言った。

「だとしても」って私は言ったけど、父はまともに取り合わず、そそくさと店内に入っていった。


 いや、私にのろまなところがあるのもそうだけど、父にちょっと強引なところがあったのも、また真実だ。彼は望んで自分の行動に他人を巻き込むきらいがあった。本当は繊細なのに、自尊心が高いせいで結果的に不遜な態度を取ってしまうんだ。親子のあいだだとそれが最も顕著だった。父とトモ兄の折り合いが悪かったのも大体のところは父のこうした傲慢さが……まあ、それはここではやめておこう。


 平日でもお昼時とあって、お店の中は若干混み合っていた。夏休みの学生や昼休みを前倒しにしたスーツ姿のサラリーマンが席の半分くらいを占めていて、彼らは店内に自由に喧騒を生んでいた。


「明日は早いのか」って父は注文を終えてから言った。

「八時か九時っていえば、出ると思う」

「見送りは無理そうだな」

「どうせなら、明日をお休みにすればよかったのに」

「ええ、それじゃ遅いんだ」

「遅い?」って私は言った。「遅いってどういう意味?」


 だけど父は急に口をつぐんだ。都合が悪くなると彼はすぐにだんまりを決めてしまう。ううん、都合の良し悪しだけじゃなく、心のうちを見透かされそうになると素直に思いを発露できなくなってしまう人だった。


 要するに父は業者に引き渡される前に生家の最後を見納めておきたかったわけだけど、偶然にも私の滞在が期日の前日と重なってみると、同時にこれを親子の交流に用いようと試みたんだ。


 でもそれは父が考える中では子どもの企みだった。そんな風に考えなければいいだけの話なのに、父はどうしても自分の気持ちを幼子のわがままに見立てることが多かった。そして私の方では彼の気持ちを汲み取る聡さに欠けていた。


 父のだんまりに私はあまり注意を払わなかった。私は首を傾げて、すぐにドリンクバーに発った。席に戻ると父はいくらか落ち着きを取り戻してた。


「九時頃に出るっていうのは」って父はちょっと経ってからぶり返すように言った。「姉さんが決めたことなのか」

「姉さん?」って私は言った。「ああ、うん、サヤコさんが」

「そうか」

「朝ごはんの片付けが終わったら、すぐに出るって」

「すぐにか」って父は力なく言った。

「来るときも始発の電車だったから」

「ほんなら、帰りも始発じゃなきゃまずいんじゃないか」

「乗り継ぎに間に合わなかったの」って私は言った。「でも、乗り方はわかったから、九時っていえば大丈夫だよ」

 父は有り体にうなずいた。


 もしもこの場で父が駅まで送ってやると意見を返してくれたなら、私はそれでもよかったし、少しはそういうことも期待していた。でも父は切り出さなかった。それで私は、

「色々迷惑かけっぱなしで申し訳ないんだけどな」って誘うように言った。


 ところが父は、

「ええ、子どもがそんなこと、気にするもんじゃない」ってなぜか私を叱りつけるように言った。予想してなかった反応に私はちょっとむっとした。

「でもさ」って私は眉をひそめて言った。

「なんでもない」ってだけどすぐに矛を収めた。


 元はといえばすべて父の責任なのにね。生家の差し押さえについてはそれなりに理由があってのことだから棚上げするとしても、私が祖母の家に厄介になったのは彼が私を膝下に留めておきたかったからだし、それだって父が前もって祖母の家に転がり込んでいたせいだ。そもそもこの帰郷旅行じたい父の立案だった。それならせめて送迎くらいしっかり本人にやってほしかったし、そうでなくてもサヤコさんたちに気後れしていることには同意を示してほしかった。


 だけど私は急に父を不憫に感じて、何も言わないことにした。なんといっても家族のうちで父の味方になれるのは私一人だけだった。


「ねえ、だけど、お父さんからも、ちゃんとお礼を言っておいてよ?」って私は言った。「特にサヤコさんには」

「ああ、言われんでもわかってる」

「本当に?」

「お前もしつこいな。誰に似たんだ」

「じゃあ、約束だよ?」って私は言った。


 父は身を固くして「ああ」ってうなずいた。約束って響きには父も気を良くしたらしかった。


 車に戻ってから父は、

「時間は間に合いそうか」って言った。


 車中の時計はエンジンがかかっていないと点灯されないらしかった。携帯端末を開くとまだ一時にもなっていなかった。

「だいぶ余裕あるよ」って私は言った。


「そうか。それなら、どこか寄りたいところでもあるか?」

「いや、特には」って私は何も考えずに一旦首を振った。「ああ、だけど、もしどこでもいいなら」

「なんだ?」

「えっと、本屋さん。持ってきた本が、もう終わりそうなんだ」

「本屋か。それなら近くにあるぞ」

「そんなところでもいいの?」って私は訊いた。

「瑚和が行きたいところなら、どこだっていいや」

 ああ、って私は笑った。やっと父の思惑に気付いたんだ。わがままを言ってほしかったのなら、最初からそう言ってくれればよかったのにな。


「普段、どんな本を読んでるんだ」

「色々だよ。最近の本は、あんまり読まないけれど」

「古い本ばかりか」

「その方が当たりを引きやすいから」

「本にも当たり外れがあるか」って父は笑った。

「多いよ。すごく多い。当たり外れっていうより、合う合わないっていったほうが正しいんだろうけど」

「古い本っていうと、俺には難しそうにしか聞こえないけどな」

「そうでもないよ。読んでみると面白い表現がいっぱいあるんだから」

「そうか」って父はもう一度笑った。

「みんなタイトルを聞いて萎縮してるだけなんだと思う」

 その会話は実際弾みかけていたのだけれども、跳ね上がったところで天井にどんって頭をついた。書店はすぐ先の十字路の角だった。


 本が欲しいというのは本当にその場で思いついたことだった。お店に入ってすぐには適当に二冊三冊抜き取って会計を済ませるつもりでいたんだ。だけど思ったよりも文庫コーナーが充実してて、陳列された商品を眺めているうちに私はすっかり当初の予定を忘れさせていた。


 結局ずいぶん時間をかけて五冊の文庫を手に取った。地元にいても本屋巡りにはなかなか苦労が伴うから、それはちょっと価値ある戦利品だった。

「ごめん、おまたせ」って私は会計の前に父に声をかけた。父はずいぶん前から雑誌コーナーで立ち読みに耽ってた。


「えらく悩んでたな」

「これでも急いだんだけどね」

「どれ、それじゃ、その本、預かろう」

「え?」って私は言った。「ああ、いいよ、お財布持ってきてあるから」

「そのくらいのもの、俺が払ってやる」

「余裕あるから、大丈夫」って私ははにかんでレジに向かった。


 助手席に戻ってからも、私は紙袋を抱えて一人満足にいた。これで帰りの電車内でも困ることはない。むしろどれから目を通すか迷うくらいだ。


「約束は二時からだったか」

「うん。浴衣の着付けがあるから、早いほうがいいんだって」

「そうか」って父は言った。エンジンモーターが回転して時計の表示が点くと、セグメントディスプレイは十三時四十三分を示してた。


 町を迂回して、帰りは別の橋が使われた。それは昨日、土手から撮った写真にも写り込んでいたローゼ橋で、渡っている最中には河川敷やグライダーの滑空場が見下ろせた。滑空場には小さな人影が十個くらいあった。


「平日でも、飛ばすことあるんだね」

「飛ばす?」って父は言い、私の視線を追いかけた。「ええ、祭りだ。祭りの準備だよ」

「花蕊祭の?」

「名前まで覚えたか」って父は嬉しそうに言った。「花火の仕掛けだ」

「あそこから打ち上げるんだ」

「祭り日和で何よりだ」って父は言った。


 土手から花火が上がるということは、たぶん数日前にも誰かから聞いていた。誰かといっても、それはきっとイッタかシィちゃんしかいない。花蘂祭が現実に近まって、私は紙袋の端をぎゅっと握りしめた。


「お父さんたちは、お祭りには行かないの?」、いよいよ橋の終点に差し掛かって、私は訊いた。

「行ってどうするってんだ」って父は鼻で笑うように答えた。

「聞いてみただけだよ。サヤコさんたちも家にいるの?」

「まったく、姉さんになついちまって」って父は笑った。「もう祭りを楽しむような歳でもない」

「お祭りにも年齢制限があるんだ?」

「そこまではせわねえけんどもな」って父は急に地元訛りで言った。「まあ、おらっちはうちん中で花火を楽しんでるくらいが一番だ」

「おばあちゃんちからでも見えるんだ?」

「音も祭りのうちだ」って父は答えた。


 なんだか噛み合わない返しだな、とその時の私は思った。虫食いになった行間を埋める、国語のテストのようでもあった。


 橋を下りてからは大きな道を避けるように裏路地が使われた。橋から続く幹線道路を一歩でも外にはずれれば、周囲は急に綿入らしい風景になる。たった数日の滞在でしかなかったのに、そうした風景にすこしほっとした。


 ところがそう感じた矢先に父は急に車を路肩に停めて、

「友だちの家はどのあたりだ」って言った。

「え?」

「もう行き過ぎちまったってこともないだろう」

「ああ」って私はぼんやり言った。周囲を見回して、なんとなくの雰囲気から「多分、もうちょっと先のほうだと思うけど」


「そんなら、案内してくれや」、そう言って父はサイドブレーキを下ろした。車が再発進すると、私は途端に嫌な予感を覚えた。

「えっと。つまり、どういうこと?」

「ええ、ついでだから送っていってやる」

 予感が確実なものになって私は青ざめた。「ああ」


「いや、悪いからいいよ」って私は続けた。

「遠慮するようなことでもない」

「だけど」


 思春期の女の子にとって、これはちょっと抜き差しならない問題だ。そういうのが許されるのは小学校の、せめて低学年のあいだまでだよ。どうあっても友だちの家まで父に送られるという状況は避けなきゃならなかった。


「ああ、ほら、自転車」って私はとっさに口にした。

「なんだ自転車って」

「だから、その友だちに自転車を借りたままなの。おばあちゃんちに置かせてもらってあるから、返しに行かないと」

「自転車なんて借りてたのか」って父は言った。

「本当は昨日のうちに返すつもりだったけど、今日でもいいって言ってくれたから」

 父は声にならない声で唸った。けれども最後には「そんなら、仕方ねえや」ってうなずいた。


 しばらくするとシィちゃんちが見えた。風景の奥の方で、彼女の家がするすると後ろに下がってく。私は恐る恐る父の顔を見た。彼は真剣にフロントガラスの先を見やってた。私はようやくほっとした。


 ああ、だけど、本当にこれが正解だったんだろうか。あとになって私はこのときのことを後悔した。さっきの書店で会計を受け持とうとしたことと、いまシィちゃんちまで送ってゆこうとしたことは、ささやかながらでも親であろうとする父の試みだった。それを私は無下に扱ってしまったわけだ。


 いずれ些細なことには違いがないよ。でもちょっと前には彼が私のわがままを容れたいんだとわかっていたはずなのに、十年ぶりに再会した父との最後の交流の場で、私は彼が父であろうとすることを拒絶した。


 過去を振り返らない生き方は私にはできない。けれども私はたびたび失敗を犯す。そしてある種の人たちには見えもしない重荷を負い続けてく。重荷の数は、その分だけ相手を傷つけたことの証だ。日常の一挙手一投足が抜き差しならない状況だということを私はたまに忘れてしまうんだ。そうしてまた重荷を増やしてく。


 重荷を増やさないために、私はときに言葉を用いる。必要以上に言葉を用いてしまう。だけど仔猫くん、君ももうわかっているでしょう、そんな方法では相手に重荷を与えるだけだということを。それなら、一体どうすればいいんだろう。

 私はただ他人を愛したいだけなんだけどね。

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