8月11日(水)
第一節(0601)
バックパックを背負ってこの町に下りてから、早いことに六日も過ぎた。明日の朝は慌ただしく、朝食をとったあと間を置かずにサヤコさんの車に載せられてターミナル駅まで送られる。それは帰郷旅行の最中というにはあまりにも事務的過ぎて、だから実質的な帰郷旅行の最終日は夜に花蘂祭を控えたこの日のことだった。
その最終日の前半を、私はほとんど無為に過ごしてく。朝ごはんをとったあと祖母とサヤコさんとお茶の時間を共にして、それからは自室に戻って帰り支度に費やした。必要な荷物をすっかりバックパックに納めてからは文庫本のページを手繰ることにした。綿入の中でやり残したことは、特に思いつきもしなかった。
午後からの予定はお茶の合間にサヤコさんたちと話し合っていた。いつもより帰りが遅くなるだろうことも二人は快諾してくれた。
「最後なんだから、たんと遊んで来たらいい」って祖母は言っていた。
祖母はいつだって物腰が柔らかく鷹揚な人だった。これで若いときは八人の子どもを育て、戦中戦後には疎開してきた小舅一家の世話までしてたっていう。祖母が亡くなったあとで父からそんな話をされたけど、私にはどうも別の女性のことを聞かされてるようにしか思えなかった。それくらい穏やかな人だったんだ。
自室へ引く間際にも、彼女は穏やかな性質で高校野球に見入ってた。
母屋のまわりは静寂で、文字に目を通している合間にはときおりのトンビが耳元で囁くくらいだった。窓から見える空は昨日シィちゃんが言っていたとおり青々としてた。既に暑さの漂いかける、あまりにも夏らしい陽気だった。気の早い扇風機が文庫本のページを手繰ろうとする。
今でいうと私は長編小説の方を好んでいて、とりわけロシア文学は読み物に不足しているときの愛読品だ。文学史上最大の謎といわれれば迷わず『カラマーゾフの兄弟』の真犯人を挙げるくらいだよ。だけどこの時期は短編か中編小説ばかり気に入っていた。それで一昨日からの続きで読んでいた短編の文庫本を、この日の早いうちに消化してしまい、後半は別の短編集を開いてた。
持ち込んだ文庫本でいうとそれが最後の一冊だった。元々綿入には三日しか滞在しない予定だったから、三冊といっても余分が出るはずだったのだけど、思いがけず滞在が長引いてみると、それでも不足になっていた。
自分の家だとこんな読書ペースは信じられなかった。とにかく目移りの対象が多すぎて、せいぜい週に一冊が限度だ。
それに、私はなにかに適した環境づくりというものをあまりしない。そりゃさ、君が見ているこの部屋のことに関していえば例外だけど、つまりそういうことではなくて、要するになにかに適した環境を整えてしまうということは、そのなにか以外から得られるものを排除してしまうということさ。
夜が白む早さに季節を感じてみたり、外ではしゃぐ子どもたちの声に人生を感じてみたり、そうやってぼんやりしている時間も大切だ。そうした時間もまた私を構成する要素の一つになってゆく。もちろん本に描かれている情景に思いを馳せてみることだってある。決して速く読むことが私の仕事ではないし、優れた作品というのは小説や映画の中だけにあるとも限らない。
適した環境は受動的にやってくるときにだけ受け入れればいい。
祖母の家という受動的な環境のなか、十一時を回った時点で最後の一冊も残り半分ほどになっていた。そのまま環境が維持されてればその一冊も午前中には読了の蓋がされるはずだった。
物語の終盤を読み進めているときに、仕事に出ていたはずの父が急に帰ってきたんだ。駐車場の音に気がついて窓から下を覗くと父が大きく手を振った。
彼は玄関まで回り込み、大きな声で私を呼んだ。なんだろうと思いながら階段を下りてった。
「今からお父さんと一緒に出かけるぞ」って彼は出会い頭に言った。
「仕事はどうしたの?」
「ええ、もう休みにしちまったんだ。今日しかないからな」
「そんなに急ぎの用事?」って私は言った。
父はきょとんとして、それからすぐに大きく笑った。
「なにせってんだい、瑚和が今日までだろう」
「ああ、私」って私は言った。
「ほら、早く支度してこい」
だけど父以上にきょとんとしていたのは私の方だ。「うん、それじゃあ、車で待ってて」って私はぼんやりうなずいた。
父が駐車場へ引いてから、私は居間に目をやった。祖母とサヤコさんは穏やかに微笑んでいた。
「お父さんもきっと寂しいんですよ」ってサヤコさんは言った。
「はあ」
「瑚和のために時間を作ってやったと思ってるんだ」って祖母が言う。「可哀想だからちょっと付き合ってやんない」
ぼんやり返事して、支度のために一旦自室まで引いた。といって行き先もわからないような状態だったから、スウェットからよそ行きの服に着替えて、あとは財布をヒップポケットに納めるだけだった。
「それで、どこまで行くの?」って助手席に乗り込んでから私は訊いた。
「ええ、そこまで遠出はしねえよ」
「そう」って私は言った。それじゃ困るんだけどな、と頭の片隅でつぶやいたけど、声に出してはみなかった。父に対してはまだどこかに遠慮があった。
「一応、二時には友達と会う約束になってるから」ってそれだけは父に伝えた。父は大きく「大丈夫だ」と受けあった。
エンジンモーターが回転を始めると、ちょうどよく沈黙をかき消した。
私はぼんやり綿入の景色に目をやっていた。窓の外を流れてゆく牧歌的な風景を、いや、感慨とかそういうものもなく、ただぼんやりと目に映る景色として眺めてた。ときおり背後に父の視線を感じたけれど、かといってこれ以上こちらから切り出す話題もなかった。
車の中はいわゆる加齢臭に満ちていて、だけどそれも特に気にはかからなかった。
父が一つ咳払いをした。私は音に引き寄せられて父へ振り返った。彼の表情はどこか気弱そうだった。私は無理に微笑んだ。言葉は用いれなくても、親子だからそれで伝わった。
午後の予定に間に合えさえすれば、別に私はなんでもよかったの。祖母の家で読書に費やすでも、父に連れられてどこへ向かうでも、余暇を潰すことに変わりはなかったんだ。感情は平板だった。あるいは父からすると、私がそんな意欲しか持ち合わせていないのでは物足りなかったかもしれない。でも本当に私はどちらでも構わなかったし、半強制的に置かれたこの状況も既に飲み込めていた。
車は一旦、綿入の大通りに抜けて、それからバスストップのある五叉路の交差点に出た。十年ぶりに綿入の大地を踏んだ、あのバスストップだ。そしてその後の行き先も初日に私が辿った道とおんなじだった。つまり私たちは生家に行き着いた。
父は生家の駐車場に車を停めるまで、一言も声を発さなかった。サイドブレーキを引きしなに「よし、着いた」って言っただけで、彼はすぐに車を下りた。
「ああ」って私はつぶやいた。なにか訊ねようと思ったけれど、ばたんと閉まるドアの音に遮られて、仕方なく父に倣った。
私が車から降りたとき、父は施錠された玄関を解いていた。
「鍵、持ってたんだ」
彼は何も言わずにうなずいた。そのまま生家の中に入っていった。
まさかこの帰郷旅行中に再び生家を目にするなんて、思ってもみなかった。それも昨日の今日ですっかり納得した心境で足を運ばせるだなんてね。それに、第一の疑問として、なぜ父が生家に立ち寄ろうとしたのかもわからなかった。
「ねえ、どうかしたの?」って私は訊いた。父は三和土に立って玄関を見回していた。「お父さん?」
「うん」って彼は生返事に言った。
「なにか忘れ物?」
「そういうわけじゃねえんだ」
「でも、家のことはトモ兄たちに任せてあったんじゃ」
「明日んなったら入れなくなるからな」って父は小さく言った。
ああ、私はすっかり忘れていたけれど、生家の引き渡しは明日、つまり花蘂祭の翌日に行われる手はずになっていた。数日前にトモ兄からその話を聞かされたとき、私はここまで長くこの町に留まるだなんて思いもしなかったから、それはどこか他人事のような感覚だった。いま思い返してみるとたしかにトモ兄も「お盆の前にはけりをつける」って言っていた。
「ああ」って私はつぶやいた。
父は乱暴に靴を脱いで居間まで向かっていった。なんとなく気になって、私はその靴を折り目よく直してから、一息遅れで彼についてった。三和土には私と父の靴しか残されていなかった。だけどそれは最後に生家の中を見回した四日前にしても同じことだった。
居間に着いても特に変化らしい変化は見られなかった。壁の一辺を大きく占有している飾り棚は、結局運び出しを諦められたらしかった。棚の中には銀色のティーポットや白磁器のティーカップが並んでる。
父はその飾り棚の前に立っていた。私の起こす物音にも動じず、彼は佇んでいた。
「お父さん?」
「ああ、ちくしょう」って彼は言った。「一点物なのにな」
「高かったんだ?」
「そりゃあ」って父は言ったけど、続きは喉を鳴らして濁してしまった。
「でも、運び出すのは無理そうだったよ」
「わかってる」って彼は言った。「業者でも頼みゃよかったんだ」
私は何も答えなかった。引っ越しに関してトモ兄とナオ兄がどれだけ骨を折っていたかを、私も曲がりなりにだけど知っていた。そもそも債権者に掛け合って差し押さえ期限を延ばしたのも兄たちだ。はっきり言って父はこの件について何も手を下してはいなかった。だけどそれとは別に、目の前の背中には訴えるものがあった。私はここにきて父の無念さを知った。色んな思いが綯い交ぜになって、掛ける言葉が見つからなかった。
「トモ兄たちも、頑張ってたよ」って私は力なく言った。
「ええ、いいんだ、第一あいつらに全部任せたんだから」って父は言った。言ったけどどこか燻っている様子でもあった。
父を居間に残して、私は玄関横の遊び部屋に足を踏み入れた。かつて私たち三兄弟の共有スペースになっていた部屋だ。
その遊び部屋からは本棚が消えていた。とりわけ語るべきところもない普通の本棚だったけど、たったそれだけが運び出されただけで、部屋の中は思いのほか広かった。テレビも、テーブルも、ゲーム機も、何もかも空っぽだ。
部屋を出て、すぐ横手の階段を上がった。だけど二階には特に変化らしい変化は見られなかった。もちろんマスキングテープの貼られた家具が運び出されているというような変化はあったけど、あくまで印象としての変化には乏しかった。結局のところ目に見える変化は、生家全体をとっても遊び部屋の本棚が運び出されたくらいだった。
私はそれらを過去のものとして見ていた。昨日生家に立ち寄ったことで私には一つけじめがついていた。私の中ではここはもう終わった場所だった。だから内部を詳細に覗き込んでも、父のような感傷に出会うことは無理だった。一つ二つ心に引っかかるものはあったけど、それにしても到底感傷と呼べるものじゃなかったの。
それより不思議だったのは、私がイッタやシィちゃんと地域探訪をしているあいだに、いったいトモ兄たちが何をしていたかだ。友人まで呼んで大々的に引っ越し作業をすると豪語していたはずなのに。
試しに各部屋の押入れを開けてみると、どれもがらんどうだった。一階へ引き返して遊び部屋の押し入れも確認した。寝具や雑貨類の運び出しということなら、たしかにありそうだった。
押し入れの戸を閉めて、私はその前に体育座りした。そうして遊び部屋の空気と一体化すれば、なにか沸き起こるものもあるんじゃないかと期待した。
だけどそれでも何も沸き起こってこなかった。何かを感じ入りたくはあったのに、それらしい感情はどれも遠くにあった。生家が生家ではなくなるという事実だけが客観的な印象として私の横にいた。父に比べて私はずいぶん薄情かもしれないと考えた。
少し、退屈だった。なぜ父が最後の訪問に私を巻き込もうとしたかの疑問は別にして、いまこの退屈は問題だった。
きっと父にしても予想外だったはずだ。いや、つまり、私が特別な感傷を引き起こさなかったことではなく、彼自身が生家の変貌に心揺さぶられてしまったことがだ。そうでなければ私を迎えにきたとき、あんなにも溌溂としていたはずがない。
だけど行動の先で何が起こるかを明確に予見できる人なんて、多分この世の中には一人もいないから、そんなことを理由に父を非難する気持ちでもなかった。ただ私は退屈だった。
憾むらくは祖母の家に文庫本を置いてきてしまった。だって、生家に訪れるなんて聞かされていなかった。夏物のパーカーのカンガルーポケットに手を突っ込むと、中では両手が組まれるだけだった。ため息をついて膝を抱く。
あまりの退屈さにイッタにちょっかいを出そうかとも考えた。それもちょっと考えてやめにした。私が生家にいると知れば、あの怠け者のイッタでも万が一に飛んでくる危険がある。いまは父をそっとしておくべきでもあった。
それで私は妄想の世界に飛び込むことにした。目を閉じて、昨日の出来事を思い描くことにした。私の母校になったかもしれない中学校の、地中海風の真っ白な外壁と、木の香りに包まれた校舎の中を想像したの。丸眼鏡の先生に追われてベランダに逃げ込んだことや階段の上から聞こえてきた吹奏楽部の音色。空中廊下の蒸し暑さがありありと蘇ってくる。
あの空中廊下でのことは失敗だった。相手がイッタやシィちゃんだったから見過ごしてもらえたけれど、みんなが楽しんでいる最中に身勝手な感傷を抱くのは悪手でしかなかった。
「どうかした?」と妄想の中のシィちゃんが言った。「暑すぎて、ちょっとね」って私は妄想の中で自分の言動を書き換えた。「ほんと、暑いよね」って彼女は同意した。前をゆくイッタは振り返りもせず、襟元を掴んでうちわにしてる。何もかもが平然と過ぎ去ってゆく。それでいい。
もしもこれを妄想と呼べないのなら、たとえば回想とか追憶って言葉に置き換えてもいい。回想や追憶に少し手を加えたものが、多く私にとっての妄想だ。これは『あのときああしておけば』っていう後悔に、綺麗な解決策を提示してやる作業なの。次に似たような状況に遭遇した時の予行演習だ。といって、まあ、実際にこうした反省が活かされることは、そんなに多くはないんだけれど。でも私が私の性質を矯正するということは、優れた作品に出会う以外に、こうしたやり方でも行われてた。
「リッちゃんだよ、ナツも会いたがってたよね」ってその妄想の中でシィちゃんが言った。
「瑚和、先輩」ってシィちゃんの妹さんも過去を正確になぞる。
「初めまして。お姉さんの友人の下間です」って私だけが妄想の中で言った。彼女の目をじっと見て、「シィちゃんにそっくりなんだね」
つまりそうやって私は私の理想を作り上げてゆく。例えば寝ているあいだに見る夢が脳の整理に寄与しているのなら、私の脳は起きているあいだにも同じ作業に従事しているの。昨日を都合よく振り返ることで今日や明日を華々しく彩ってゆく。成功例が数少ないとしても、それでも着実に未来への動線は浮かび上がってく。過去を振り返らないという生き方は私には無理だから、せめてその汚穢を指向的なものに塗り替えて再利用しているわけだ。
「お姉ちゃん、一昨日から瑚和さんに夢中なんですよ」ってナッちゃんが言う。
「夢中?」
「家でもずーっと瑚和さんの話ばっかり」
「そうなの?」
「そうなんですよ。私が違う話を振ってもね、気付くと瑚和さんの話に変わってるんです」
「まいったな」って私は言った。「でも、そこまで思ってもらえると、私も嬉しいよ」
「たぶん、瑚和さんに恋してるんですよ、うちのお姉ちゃん」
「恋か」って私は笑った。そうするとみんなも笑ってくれた。
休憩時間が終わってナッちゃんが部室に戻ってゆくときも、
「それと、瑚和さんも、また!」
「うん、また会えるといいね」って私は言った。
「お世辞じゃないですよ、たぶん明日も会えるはずです」
「え?」
「お姉ちゃんが、浴衣を貸すんだってはりきってましたよ」
「楽しみにしておくね」って私は言った。
いや、それじゃちょっと偶像的過ぎるかなと私は考えた。「楽しみにしておくね」よりも、もっと簡素に「そうなんだ」の方が、多分いい。妄想の中で私は勝手気ままに演技をしたいわけじゃない。そうすると「楽しみにしておくね」ではちょっと印象が強すぎる。第一、まるで前もってわかっていたような反応だ。
「そうなんだ」って私は時間を戻して言い直した。「じゃあ、明日、ナッちゃんちにお邪魔するね」
するとナッちゃんは大きく笑って「待ってます」って手を振った。
私の中にすとんと何かが落ちてきた。こういうことを続けていけばきっとまともな人間に近づける。手応えを感じて私は膝を抱く力を強くした。
遠くから父の呼ぶ声がした。
居間に戻ってみると、だけど父はそこに居なかった。代わりに奥の襖が開いていた。
「どうしたの?」って私は居間より向こうの仏間に父の姿を認めて言った。
「おお、やっときたか」畳に片膝をついていた父が振り返って言った。「ここにあるもの、このままでいいのか」
「そこにあるもの?」って私は言った。父の陰になっていて段ボール箱が見えてなかったの。
幼児期に使っていたおもちゃや母の忘れ物を納めた、あの段ボール箱だよ。忘れ物といっても母はあえて生家に残していったのだから、そこにあるのは時代遅れの家電製品かアンティークとしての価値もない大量生産品だけだ。四日前、私はその中身に手を付けず、そのまま封印してしまおうと決めていた。
「ああ、その箱」って私はようやく父の奥に段ボール箱を発見して言った。「うん、トモ兄たちにも『そのままでいい』って頼んでおいたの。家の中にあるものは業者さんの方で処分してくれるって聞いたから」
「そうか」って父は言った。
「なにか、まずかった?」
「いや、瑚和が喜ぶかもしれないと思ってな」って彼はつぶやくように言った。それで私ははっとした。その段ボールの中身に限っては父の直接の指示によるものだった。
「ああ、ごめん」って私は急に悪びれて言った。「でも、もう遊ぶようなこともないし……」
「そりゃそうだ」って父は笑った。「高校生にもなって、こんなもんで遊んでたらな」
それはもちろん、物凄くわざとらしい態度だったんだ。それが私の芯に刺さって、だけどどう返事をしていいかわからなかった。
「なにか、思い出に一つ持っていこうかな」って私は言った。
でも父は無理に笑って、「いいや、いいんだ、荷物になるだけだ」
「そうだね」って私は少し考えて同意した。
それって、まさに反抗期の態度だった。手当たり次第に苛立ちを放出してしまうのと、火種を無理矢理もみ消してしまうのとでは、見かけが異なっているだけで、真っ当に感情を表現できないという点ではどちらも同じことだった。
父はその場に立つと、私の肩を叩いて仏間を後にした。彼はそのまま玄関まで向かっていった。
「もう、いいの?」って私は背中を追いながら言った。
「靴箱だけな」って父は気丈に言った。
三枚の中棚で仕切られた靴箱は、思っていたより中身が詰まってた。といっても大半は使い古されたサンダルやスニーカーの類で、もしサイズが合っていたとしても履いてみようとは思わない。辛うじてまだ使えそうだったのは、全部で三足ある革靴のうちの一足で、それはまだ革もへたってないし磨きさえすれば新品としても通用しそうだった。父は三和土に膝をつくとその革靴を手にとった。
「持って帰るの?」
「使えそうには使えそうだな」って父はどっちつかずに言った。手の中で革靴を回転させて、上下からよくよく点検してた。
長くなりそうだな。そう思って私は階段に腰かけた。
すると父は革靴の点検を中断して、こちらに目を向けた。彼は思い出したようにふっと笑って、
「なあ瑚和、覚えてるか」って言った。「そこの階段から転げ落ちたこと」
「え?」って私は背中を見上げた。
生家の階段は途中から直角に曲がっていて、二段目か三段目に腰かけた私の目からでは、二階の廊下までは見通せなかった。同じように父の言ったこともすぐにはわからなかった。私がそのとき思い出したのは、階段下のデッドスペースをよく秘密基地代わりにしていたことだけだった。階段は曲がり角の手前だけ蹴上の板が取り払われていて、階段下の空間から腕を差し出すことで、簡単にお化け屋敷の仕掛けを真似られた。幼い頃、私は階段を通行する家族をその方法でよく驚かせてた。
「思い出したか」って父は言った。
私は申し訳無さそうに首を傾げた。だけど父は、むしろその反応をこそ期待していたようだった。
「まだ瑚和が二つか三つのときだったか」って父は言った。「お前は昔からやんちゃでな、人形遊びとかにはあまり興味を示さなかったんだ。与えてやっても怪獣ごっこに使う始末でな。それであるときウサギのおもちゃを買ってやったんだ。ハンドルがついていて、車の形をしたやつだ。お前はそれを気に入って、家の中でも外でも、どこへ行くにでもその車のおもちゃを乗り回してたんだ。本当は室内用だったのにな」
「ああ」って私はつぶやいた。そのおもちゃには覚えがあった。「うん、そのウサギのやつなら覚えてるよ。あれはどこに行っちゃったんだろう」
「ええ、その転げ落ちたときに駄目にしちまったんだ」
「そうなんだ」って私は言った。それからもう一度階段を見上げたけれど、父が指している記憶は戻ってこなかった。「そっちは覚えてないや」
父は革靴を三和土に置いて、その時の様子を丁寧に聞かせてくれた。
あとになって私も当時のことを思い出すんだけど、それは私が幼稚園に上がる前のことだった。父が買い与えてくれてからというもの、私はいつでもそのウサギの車に載って遊んでた。そして当時の私は母のことが大好きだったから、彼女の後を追うためにもウサギの車が使われてたの。
ある日、ベランダの洗濯物を取り込むために母は二階に上がっていった。私はウサギの車と一緒にそれを追いかけた。普通に考えれば階段の下に乗り捨ててゆくものだって、子どもでもわかるはずだけど、そのときの私はなぜか懸命にウサギの車を二階まで引き上げた。
母はそんな私を愛おしく思い、洗濯物で塞がった手をどうにか工夫して、頭を撫でてくれた。そのあとなにか一声かけて、彼女は一階に降りてった。「気をつけて降りてくるんだよ」とか、多分そういう一言だったと思う。
ところで私はそのときの言葉を覚えてない。頭を撫でてもらったことは確かなんだけど、きっと髪に残る感触が嬉しくて他のことはなんでもよかったんだ。つまり母が何か言ったことを、初めから聞いてなかったんだよ。
頭を撫でてもらって、気だけ大きくなっていた。すぐにまた母を追いかけようと思ったの。ところで私の手はウサギの車を握ってた。これを引っ張って階段を下りるには、上がってゆくときと同じ労力を要するはずだ。それよりもこの子に載って下りてしまった方が早い。私の考えではそれですんなり一階まで下りられるはずだった。
一段目か二段目か、映像としての記憶かもしくは記憶としての映像は、そこで途切れてる。そこから先のことは幼い私の脳の許容量を越えていた。父が言っていた通り私はウサギの車と一緒に階段を転げ落ち、気がつけば曲がり角の辺りで泣きじゃくってた。
そのとき父は家に不在だった。日中の、たしか平日だったから、トモ兄もナオ兄も学校から帰っていなかった。家には私と母しかいなかったはずだ。
「病院まで連れて行っても泣き止まなくてな、大変だったんだ」って父はそれが自分の手によって行われたもののように語った。「幸い大事はなかったけどな」
家族が正しく家族であるとき、思い出はその中で一つに統合されているらしかった。日常の些細なアクシデントだったその出来事を、父はよく覚えてた。
「後先考えないのは、今も一緒かな」って私は言った。父は愉快そうに笑った。
革靴は、結局そのまましまわれた。
「まだ使えそうだよ」って私は言った。
「考えてみれば履くこともないし、必要になったら新しく買えばいい」
「じゃあ、もうおしまい?」
「そう催促するな」って父は言った。
「そういうわけじゃないよ」
父は再び靴箱の整理に取り掛かった。框に近い方の戸を閉めて、次は外側に近い方の戸を開けた。そのとき私は携帯端末を開いて時間に余裕があることを確かめていた。一方で父は、戸を開けてすぐ、
「おお、まだあったのか」って嬉しそうに声をあげた。
彼が取り出したのは革の擦り切れた古い野球グローブたちだった。一つは茶色の表面がほころびて、中から綿が見えている。
「トモ兄たちの?」って私は言った。
「小さい頃に、あいつらに買ってやったんだ」って父はうなずいた。
「年季入ってるね」
「これは……中学生のときに買ってやったやつかや。いくつか買ってやったんだけどな」
トモ兄たちが中学生の頃というと、ちょうど私がウサギの車事件を起こした頃のことだ。私の記憶にも兄たちがキャッチボールをして遊ぶ光景がかすかに残ってる。
二つ一組の野球グローブは一方がもう一方の全身にかぶりつく形で保管されていた。父が引き剥がしてみると中から野球ボールが転がった。階段から腰を離して私はそれを拾い上げてみた。
「ぼろぼろだね」って私は言った。縫い目の紐はほつれかかって、表面もだいぶ傷んでた。「どうするの?」
「ええ、どうするもんでもない」って父はぶっきらぼうに言った。
私は白球を宙にあげて弄んだ。父はまたしても野球グラブの点検に取り組んでいて、どうしようもなく手持ち無沙汰だったんだ。力の加減を間違えてボールを天井に当ててしまっても、父は無言で笑うだけで、大した反応もしなかった。
「暇か」しばらくして父は言った。
ボール遊びに熱が入って、私はそれとなく答えた。
「外に行こうか」って父は続けた。
「え?」
父は一方の野球グローブを私に押し付けて、靴を履くなり表に出ていった。
私は自分の両手を見た。左手には綿のはみ出していない薄茶色の野球グローブが、右手にはくたびれた野球ボールが、それぞれ握られていた。
父から渡されたグローブは私の手には少し大きいようだった。口をぱくぱくさせてみると、手のひらか甲のどちらかに空間が出来てしまう。限界まで手を中に押し込んでも具合は変わらなかった。
表に出ると父は適切な距離をとるべく道の先を進んでた。私とは反対に、彼の手には中学生用の野球グローブが窮屈だったようで、歩きしな必死に手に食い込ませてた。不格好な背中がちょっと愉快でもあった。
道の上で向かい合うと、「やったことあるか」って父は言った。
私はなんと答えていいかわからず、「どっちともいえない」って言った。
一応これでも女の子だからね、野球やキャッチボールなんて触れた試しもないんだよ。それでもソフトボールなら小学校の球技大会で経験してた。練習中には先生から「筋はいい」って制球の良さを褒められもした。
「最初は軽くな」って父は言った。
そのとおりに投げてみると、白球は向こうのグローブにすっぽり収まった。飛んできたボールを父は胸元でキャッチする。
「なかなかうまいじゃないか」
「小学校の授業でやったんだよ。ソフトボールだけど」って私は答えた。
「それなら、あんまり遠慮はいらないな」って父は言った。
彼は体を横に向けて投球の体勢をとると、体全体を使った綺麗なフォームで白球を手元から放した。遠慮はいらないとは言ったけど加減のされた球速だった。ボールの未来は容易に追えた。そこにグローブを差し出すと、パンッ、って乾いた音が手元で鳴った。
「お父さんこそ、うまいじゃん」って急いでボールを投げ返しながら言った。
「若い頃は草野球のピッチャーだったんだ」
「そうなの?」、「それってすごいね」
「あいつらが小さいときは」って父は言った。「よく教えてやったもんだ」
多分それは私が生まれる前か、生まれても物心がついてない時期のことだ。父の手にグローブがはめられている姿を見るのはこれが初めてだった。
「瑚和にもな」って父は言った。
「私?」って私はボールを投げながら言った。「私がどうかした?」
「なに、お前にも教えてやるつもりだった」、「大きくなったらな」
「いま教えてもらってる」って私はボールを受け取って言った。会話のキャッチボールなんていうけれど、この表現は一体誰が考えたんだろう。実際のキャッチボールの最中には会話もいみじくもキャッチボールだった。捕球のとき相手の言葉に反応し、投球時に一旦息をついて余韻に代え、必要とあればボールが宙を飛んでいるあいだに相手に投げかける。よく捉えた言い回しだと思う。
「こんなもの、教えたうちに入るもんかい」って父は嬉しそうに答えた。
「でも、悪くないよ」って私は言った。「親子のキャッチボール」
「そうか。楽しんでるか」
「まあ、大体のところはね」って私はちょっと素になって強がった。
真実私は楽しんでいた。何より父の顔に明るみが差したのが嬉しかった。
父は私の目からも問題の多い人に見えたし、十年も離れていれば心も他人に近い距離ではあったけど、それでも父は父だった。キャッチボールを通して父に近づくことも、嬉しさの一つだった。
決して本質には触れないキャッチボール中の会話が、あらゆる意味で私たちを本当の親子に戻してた。ところがしばらくすると、
「よし。これくらいにしておこうか」って父は最後のボールを受け止めて言った。
「え?」って私は言った。「もう終わり?」
「久しぶりにやると、えらく疲れる」って父は言った。
「ああ」って私は言った。父は肩で息してた。
彼は綿のはみ出た野球グローブを苦労して引き抜いていた。私のもとに近づきながら「歳にはかなわないもんだ」って照れ隠しのように小さく微笑みながら言った。
ぶかぶかの野球グローブを私はしばらく外さないままでいた。唐突な終わりにちょっと呆然としてた。「本当に終わりなの?」って心の中で問いかけ、もしくは父が気まぐれを起こして踵を返すことを期待した。だけど父は正直にキャッチボールを終わらせた。
彼はすっかり手から切り離したグローブで私の肩をぽんぽんと叩いた。それは何にも変え難くゲームセットのサインだった。
生家に下がってゆく父に私は体を向けた。
お父さん、私、まだ続けたいよ。
父の背に、私の表情はあまりに無力だった。
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