第六節(0506)

 日陰の駅舎で電車を待っているあいだ、私はふと妄想した。

 もしも七歳の私がこの綿入に留まり続けたなら、いまこうして隣町まで向かうようなことがなくとも、彼らと時間を共有した物証が、アルバムやフォトブックの中にごまんと存在したんだろうか。ひいては……三人で同じ学校生活を過ごし、色んなところまで旅をし、思いつく限りの遊びをしてはしゃぐような姿が、あったんだろうか。

 中学校の空中廊下でも似通った事柄に思い至ってた。だけどここで沸き起こったことは、それよりももっと肉感的で肌にぴったりと吸い付く種類の妄想だった。頭の中では線と色と動きのある絵が描かれていた。


 そこにいる私は(十七歳当時から既に持ちかけていた)斜に構えた態度を失って、イッタも皮肉屋なんかじゃなく、シィちゃんにしても例の薄らいだ笑いを浮かばせはしなかった。どこかわからない一面の野原のような場所で私たちは笑い合い、ときに川の字になって寝そべったりもした。季節は春のようだった。たんぽぽの綿毛が風に舞ってきて、草むらのどこかに落ち込んでいた。来年には黄色い花が咲き誇る。また来ようねと私たちは言い合った。あるいはシィちゃんから恋愛相談を受けて、イッタとの仲を取り持つようなことも、あった。きっとその坂の上では二人はめでたく結ばれて、私たちは今でも親友でいる。


 もちろん過去をどの地点から捻じ曲げたとしても、その先の未来はいくつも枝分かれして、だからこの妄想にしても単なる理想論の一つにすぎないの。そのことは充分わかってた。だけど、少なくともそういう理想が七歳当時を分岐点として存在してたって事実は、やっぱりというか、どうしようもなくこの帰郷旅行中に私を感傷的にさせていた。その感傷が日陰の駅舎と混ぜ合わされたことにより、具体的な幻覚として現れていた。


「次まで、何分?」って私は訊いた。壁際の席にかけていたイッタは時刻表を見上げながら、


「あと十五分」ってにべもなく言った。

「十五分か。中途半端だね」

「仮に半端じゃなくても、やることなんてないけどな」ってイッタは実にイッタ的らしい皮肉っぽさで言う。

「そんなことないよ、それこそ一昨日の喫茶店で時間を潰せたかもしれない」って私はお昼のことを引き合いにだして言った。


 イッタは私の態度にちょっと興味を惹かれたらしく、背もたれにもたせかかっていた状態から前のめりに、猫背の姿勢になって、


「なに、そんなにあの店のこと、気に入ったの?」

「時間を潰すにはちょうどいいって話だよ」

「いや、昼にも行きたがってたからさ」

「雰囲気はね」って私は言った。「良いお店だと思ったよ」

「じゃあ、営業してるようだったら、帰りに寄るか」彼は上機嫌にそう言った。

「開いてるといいね」横からシィちゃんも言う。


 駅からアンさんの喫茶店までは、自転車を使えば一分くらいで楽に往復できた。それで私は今からでも営業中かどうか確認してこようとしたのだけど、二人はそれを冗談としか取り合わなかった。

 だから電車が来るまでの十五分、私はとことん暇を持て余してた。


 この場では特別に会話らしい会話も生まれなかった。出会ってまだ数日も経ってなかったけれど、私たちは既にお互いを友人と呼べるようになっていた。それってつまり余計な世間話で緊張をごまかさなくてもいいってことだ。思い思いの方向に目をやっていても、誰も気まずさを感じてはいなかった。


 妄想から帰ってきた私は、次にイッタの家を出てからのことを思い返してた。今からわずか三十分か四十分前のことだけど、コンビニに向かう前、私たちは一旦生家に立ち寄っていた。


 イッタの家を十メートルも進んだところにある丁字路からは、その辺りでは特徴的な青い屋根の家が見えている。それが生家の目印で、目に飛び込んできた瞬間に、私は無意識にブレーキレバーを握ってしまってた。


「どうしたの?」とは二人とも言い出さなかった。丁字路の先に何があるかは二人とも知ってたし、なんであれば朝のうちにシィちゃんには、こうなるであろうことを予言もしてた。それが現実となった瞬間にも、二人は気を遣って黙ってくれていた。


 といってもそこに留まったのはほんの一瞬だった。はずみで自転車を止めてしまっただけで、私はすぐにペダルに足をかけた。


「ちょっと様子見ておこうか?」って、でもイッタがそう言ってくれたの。

 私はちょっとのあいだ悩んだ。悩んだ末に、働きかけられた方向に舵を切ることにした。そこに特別な思惑があるわけじゃなかった。ただ働きかけられたから、その道に曲がっただけ。自己のない子がよくとりがちな選択だ。


 生家には人気もなく、車一台停まっていなかった。中に入れるなら入っていただろうけど、あいにくと玄関には鍵がかかってた。それは二日前、イッタやシィちゃんと綿入を謳歌していた日の終わりごろに施錠されたもののはずで、同じ日に私の二人の兄はこの家の最後の始末をつけていた。私はこの家の空っぽ具合を既に知っていたけれど、この瞬間には私が知る頃より何倍も生家の中は虚しかった。外から壁を眺めるだけでも、そのことは容易に伺いしれた。


「庭まで回ってみるか?」

「そこまではいいよ」

「そっか」って彼は言う。「昔はよくコオリんちにも遊びに行ったんだけどな」

「しょうがないよ、そういうことになっちゃったんだから」

「そうだな」

「うん」って私も頷いた。感情は特に定まっていなかった。


 待合室の中で思い返された数十分前のその出来事は、不思議と私にすんなりした気持ちを与えてた。寂しいには違いなかったけれど、どこか胸のつかえが取れた感覚だった。


 物事がすっかり終わったあとだったからこそ、私はそういう感情を覚えられたんだと思う。だから、もしトモ兄やナオ兄に付き添っていたとしたら、こうも納得はできていなかったはずなんだ。最後の後始末を誰かに任せきったおかげで、少なくとも生家については感傷だとか名残惜しさを感じずに済んだ。もちろん自分本位な意見には違いないけれど、あまりにも重荷を負いすぎたら私はどこにも行けなくなってしまう。兄たちには申し訳ない反面、私自身はそれで正解だと感じた。


 例のメタリックシルバーの電車は、きっかり十五分後、寸分の狂いもなく綿入駅のホームにやってきた。この国では電車ということならどんなローカル線でもダイヤグラムに忠実だった。


 整理券をドア付近の発行機から抜き取って、私たちは車内の適当な位置に腰かけた。乗客の減った時代から、この電車はワンマン制に切り替えられていた。


 私たちのほかに車内に乗り合わせてたのは、六十歳そこらのおじいさん一人だけだった。彼は端っこの席にぽつねんと腰かけている。平日の日中、それも中途半端な時間帯には、この電車は旅客列車から貨物用に成り代わる。主に窒素と酸素を運んでた。


 二日前の朝、シィちゃんと落ち合うために駅まで向かう途中、私はこの電車が行き過ぎるのを間近で目にしているけれど、内側から外側を眺めるようになってみると、あのとき感じたよりも更に一つ輪をかけて電車の進む速度は緩慢だった。窓越しの住宅地や田畑の風景がのんびりと後ろに下がってく。牧歌的な綿入に、その速度はよく似合ってた。


 いつかに横断した踏切や、サヤコさんの車の中から見た信号機が、一段高い位置から俯瞰的に過ぎてゆく。そうしてみるとこの風景は、私の生まれ育った綿入というよりも、どこかの名もない、だけどどこでにもある匿名的な田舎町という感じがして、私をひどく驚かせた。


 やがて電車は住宅地を抜けて、完全な田園地帯の中をゆく。左右には青々とした水田しかなくて、空気が霞んでしまうほどの奥の景色にだけ、住居やビル群や、人の生活が存在してる。


 水田に働いている人の姿は一つもなかった。広大な田園風景に、あるのはこの電車の中の私たちの人影だけだった。それは間違いなく美しい光景であるのと同時に、どこか切なさに似た感情も兼ね備えてた。ちょうど私は人気のない中学校の校舎にも同じことを感じていたけれど、収容力の満たされないことに感傷を抱くのは建物でも大地でも変わらなかった。


 二つの無人駅を過ぎて、次の駅が目的の町だった。綿入から三つ目のその駅はこのローカル線の終点でもあった。所要時間十分強の、小さな旅だ。


 駅前には全国展開のショッピングモール(イッタがいうところのデパートだ)や複数のテナントビルが建ち並んでた。華やかなのは駅前だけで少し道を外れると急に田舎の景色に取って代わられたけど、綿入に比べるとそれでも繁華街の分類だった。ロータリーには次のバスを待つ乗客もいた。


 目当ての使い捨てカメラはショッピングモール一階の写真屋さんに売られてた。専用のスタジオがあったりプロのカメラマンが経営しているわけではなく、装置の販売と現像だけを扱っている、ごく簡素なお店。当時はこうした販売店もまだ細々と営業を続けてた。


 店先で、私たちは五分くらい買うべきカメラについて揉めあった。イッタは頑然と二十七枚撮りを主張し、シィちゃんは遠慮がちにも三十九枚撮りの意見を変えようとしなかった。どっちにしたって使い捨てカメラにはその二種類しかなかったのに、その二択がなかなか結論に達しなかったんだ。


 私たち、とはいったけど、それはあんまり正確ではないね。突然発生したこの痴話喧嘩を私は遠巻きから眺めてた。二人が口論している姿はなかなか新鮮で、正直いってちょっと微笑ましくもあった。


 ところがいよいよ長引き出すと、お店の人の愛想笑いが固まりだしたのに私の方が堪えられなくなった。結局シィちゃんの側につくことで決着にした。


「どうせ何枚か余ると思うけどね」ってイッタは店を離れてからも愚痴をこぼしてた。

「いいじゃん、たかだか数百円の違いなんだから」

「そうかもしれないけど、無駄になるとその何倍も損した気になる」

「イッタって意外と貧乏性だよね」

「枚数とか時間とか、数字が関わってくるときっかりさせておきたくなるんだよ」

「自分の部屋みたいに?」って私は何気なく言った。

 でもなぜかイッタを黙らせるには効果的だったみたいで、彼は肩をすくめると、それで完全に諦めをつけたようだった。


 ところで写真屋さんでの用を終えてからは、ショッピングモールの中を目的もなくうろついていた。施設の一階は中央に総合売り場を、その回りに各種テナントを置いた設計になっていて、それらのあいだに設けられた通路を、ただただ目に入った印のように辿ってた。


「これって、いまなにをしてるんだろう」しばらくあってから、私は目的がないことに気付いて言った。

「せっかくだから、もう少し見て回らない?」ってシィちゃんは言った。

「なんか買うものあった?」

 イッタもシィちゃんもはさっきの喧嘩のことなんかすっかり忘れたらしい様子だった。すっかり元の二人に戻ってる。


「思いついたんだけど、ゴマ山に登るときのもの、ここで揃えていったらどうかなって」

「各自用立てられると思うけど」

「うん、そうなんだけど」


 シィちゃんがそう言うと、イッタは急に思い直したように、どこか納得した顔をした。使い捨てカメラ一つを戦利品に綿入まで取って返すのが、急に惜しくなったのかもしれない。もしくは再び彼女と口論をするのに嫌気が差したのか。ともかく彼は恋人の意見を尊重することにして、私たちは明日の計画に必要なものをショッピングモールの中で見て回ることにした。


 ペンライト型の懐中電灯や油性ペン、虫除けスプレーと、大抵のものは中央の総合売り場に取り揃えられていた。シィちゃんの思いつきからコスメティックの雑貨店でアメリカンヘアピンも買ってゆくことにした。もしかするとゴマ山で浴衣の裾上げが必要になるかもしれなかったからだ。


 一階での買い物を済ませてから、私たちは上階の服飾コーナーに向かった。そこでは夜の山中に備えて防寒着を選ぶことになった。


「わざわざ買うくらいなら、俺がジャケット用意してやるよ」ってイッタはエスカレーターで運ばれてるあいだに言った。「一着いくらするかわからない」


 だけど服と小物類との値段の違いなんて、私もシィちゃんもすでに気にかけていなかった。それよりも純粋に買い物を楽しんでたんだ。必要な資金は帰郷旅行へ旅立つ前に充分に引き出してあった。


 売り場にはちらほらとだけど先物のジャケットが出始めてた。どれも取り急ぎの客に一先ず店頭に並べてみましたってものばかりで、気に入った柄を探すのはなかなか骨だった。相手の肩に合わせてあげたり、首を傾げてみたり、アクの強いデザインに笑い合ったりした。


 私たちがいくつかの売り場を見て回っている最中、イッタは飽きもせずよくついてきた。彼は家から自由にジャケットを持ち出せるから、服選びの時間は明日の夕方まで取っておくとのことだった。一方の私たちは、まさか花蘂祭の会場まで羽織ってゆくわけにいかない。


「それなら、柄なんて別になんでもいいじゃない。実際に着るのはゴマ山にいるときだけだろ?」ってイッタは理解し難い風に言った。でもどうせ買うなら後にも着られるものを選ぶのが普通だよ。


「じゃあ、ついでにもう一つ訊くけど、それって買った後はどうすんの?」

「一旦ヒデくんに預けるよ。たしか、そういう話だったよね?」

「ああ、祭りの前にゴマ山まで行って、仕込んでおくって段取りだったけど」


 そこまで言うと、イッタはますますわからない顔をした。それなら初めの疑問に立ち返って、どうしてわざわざ買う必要があるんだろうとでも言いたげだった。俺がいくらでも用意してやれるのに、って。


 でも結局、自分には理解のできない感情が働いてるって納得の仕方をして、彼はこの疑問を引き取った。それが納得と呼べるかどうかは別として。


 紙製のショッパーを提げて店を出ると、イッタは近くのベンチにかけて待っていた。彼は腰を上げる間際に携帯端末を見て時間を気にしてるようだったけど、私たちの服選びは三十分とかからなかった。売り物が少なかったから私もシィちゃんも無難な柄を選んでた。


 ショッピングモールを後にしたとき、イッタは再び携帯端末を開いて時間を確認した。彼いわく帰りの電車がやってくるのは二十分ほど後だった。まだ余裕はあるけれど、そろそろ駅まで向かっておこうって話になった。

 いや、そのつもりだったんだけど、その途中でシィちゃんがふっと足を止めた。


「どうかした?」

 シィちゃんはバスロータリーの奥にあるテナントビルを指差した。


「プリクラ」って彼女は言った。

 看板を見ると、ビルの地下がゲームセンターになっているようだった。小さな道一本挟んでそのテナントビルは建っていた。私はそれよりも、シィちゃんの子どもっぽい言いぐさに驚いた。


「カメラ買ったんだぜ」

「でも、まだ時間あるよね?」


 その日、シィちゃんはどこか大胆だった。いつもなら私たちのあいだで何かを働きかけるのはイッタの役なのに、この日に限っていうと私たちを導いてたのはシィちゃんの方だった。


「撮りにいくんだとしたら、かなりぎりぎりだけど」

「電車逃がしちゃうかな?」

「じゃあ、急ごっか」って私は控えめに言った。


 写真もプリントシールも、たしかに苦手なんだけどね。だけどなぜだろう、本心とは裏腹に、私はシィちゃんの望むことを受け入れていた。


 狭い地下階段を下りてくと、ゲームセンターの入り口は強化ガラスと防音素材で構成されたぶ厚いドアによって封じられていた。おかげで扉を開けるまでは静寂だったのが、イッタが力任せに引っ張ると、途端に騒音が飛び出した。


 電子ドラムやシンセサイザーを模した音楽系の筐体、対面式に無数の箱型が列をなすビデオゲームの筐体、クレーンゲーム、スロット台、あらゆる機械が音をがなり立て、店内は暴力的な騒ぎだった。


 普段私が利用するゲームセンターとは、音の持つ性質が明らかに違ってた。クラスメイトの子たちに誘われてついてゆく彼女たち行きつけのお店は、ターゲットを女子高生に絞り、だから店内の音量も適切に抑えられていた。比べてここは完全に男性客を中心に考えられていた。音だけでなくレイアウトもそうで、目当ての筐体は店のずっと奥に押し込まれてた。


 そこに着くまで私はずっと顔をうつむかせてた。日頃から些細な足音や物音によく気づく、音には敏感な方なんだ。それこそさっき君を発見したのだって(さっきとはいっても、もう数時間も前のことだけど)ドアの前で鳴らす君の小さな足音を聞き漏らさなかったからだ。何度も繰り返すけど私は音には敏感なんだ。過敏といってもいい。


 店の奥は半ばデッドスペースと化していて、そこまで来ると幸いなことに大きな音の出る機械は置かれていなかった。ひとたびプリントシールの筐体に入り込むと、間仕切りのカーテンもいくらかノイズを吸収してくれた。


 音に敏感だってことについては、サヤコさんの車中で落ち着きを失った、例の匂いと同義だった。ほかに、他人の視線によく気がついたり、怪我をするとその箇所ばかり気にかかるということもある。要するに五感のすべてが鋭いの。歳を経るごとに鈍くはなってきてるけど、それでも今もってアイスピックのようだ。刃先は常に私の方に向いている。なかなか不便だよ。


 だから撮影の合間のことはあんまり覚えてない。とにかく頭がくらくらしてた。ただ、隣で無邪気にはしゃぐシィちゃんの姿を見て、そんな気持ちに水をさしちゃいけないとだけは感じてた。私は無理にでも口角を上げた。


 元々写真嫌いということもあって笑顔はぎこちなかった。興味があれば後でそのときのシールを見せてあげるよ。もしかすると君にはそうは見えないかもしれないけれど、笑っちゃうくらい硬い表情だ。


 それでもこのとき撮られた一枚は大切な思い出の結晶だ。高校のクラスメイトと撮ったものは引っ越しの際に処分しちゃったけど、イッタとシィちゃんと私の写る、こればっかりは捨てられるはずがなかった。思い出用の箱の中にしっかり保管されてる。


 時間的にいって撮影はその一回が限度だった。二十四分割されたシールを筐体の外の排出口から抜き取ると、私たちは急いでゲームセンターを後にした。そして駅に着くと電車は二分と待たずにやってきた。


「切り分けてる暇はなかったな」

「危なかったね。本当にぎりぎり」ってシィちゃんは嬉しそうに言う。

「一本くらい遅らせても、良かった気もするけれど」

「こんな状態で一時間もさまよう気はないよ」、彼は買い物袋を持ち上げて言った。荷物係を買って出てくれてたの。


 帰りの電車は貸し切りだった。時間は三時半をちょっと回ったくらいで、夏休み中のこんな中途半端な時間には、田舎方面行きに乗り合わせる客の方が稀だった。それで私たちは、誰の邪魔にもならないならと、さっそく使い捨てカメラの包装を破いた。


 最初の一枚には私とイッタが選ばれた。ロングシートに腰かけて、二人ともぎこちない笑顔だ。カメラを握るシィちゃんは妙にはしゃいでた。本当に、この日のシィちゃんはどこか子どもっぽかった。


 シィちゃんが撮ってくれたその一枚も今になってみると貴重な思い出だ。もちろん、どんな思い出にしろこの帰郷旅行のあいだのことはどれも大切ではあるけれど、そのとき撮られた一枚に限っていえば、大切というより貴重な一枚だった。


 隣町まで行くために乗り込むことになったこのローカル線は、美しいばかりの夏の日々から数年後、運行会社の経営不振と運転手の後継不足から全線廃止となった。廃線が伝えられた直後には撤回を求める署名活動も盛んだったけど、結局は雪解けの季節の運行式を最後に、綿入から電車が消えた。


 文化保存の名目でしばらくはそのままの状態で保存されていた各地の駅舎も、歳月を経て人々の情熱とともに風化した。メタリックシルバーの車体が田園地帯を駆け抜けてゆく姿も、駅舎の光景も、あとはそこに住む人たちの記憶に託されるだけとなってしまった。もちろんそれだってやがては薄れてく。稼働する車内で撮られたこの写真は、だから本当に貴重な一枚なんだ。


 使い捨てカメラを用意することになったのはシィちゃんのちょっとした思いつきによるものだった。でもその思いつきのおかげで、私は貴重な電車に乗り遅れずに済んだ。この機会を逃せば永久にやってこない電車だった。

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