第五節(0505)

 正午のチャイムを聞いたのは体育館の横をすり抜けて昇降口まで引き返してる最中のことだった。義理立ての挨拶は彼には残念なことに三十分近くまで及んでた。


「もうお昼だ」ってそのチャイムを聞きながら私は言った。部活に励む生徒のために、夏休みでも時報として機能するように設定されてあるらしかった。


「早いもんだね」ってイッタは時間の勤勉さに呆れるように言う。「どうしようか、今なら時間も取れるだろうし、もう一度ナッちゃんに挨拶しとく?」

「あんまり捕まえるのも可哀想だよ。ナツだって友だちと一緒の方がいいだろうし」

「だよな」ってイッタは端的に言った。「だけどそうなると、もうここには用事がないけれど」


「あんまりこだわらなくても、大丈夫だよ」って私は言った。イッタは私に遠慮してると思ったんだ。

「それなら、私たちもお昼にしよっか」

「そうだね。うん」って私はうなずいた。


 シィちゃんはすっかりいつものシィちゃんに戻ってた。イッタが校庭から引き返してきたときに、私たちは何にも気兼ねなく、夏の日向の世界に戻っていった。


「なんだよ、もう見納めか」ってイッタは少し残念がった。

「充分堪能したよ。ありがと」って私は、今度こそ彼が私のためにそういう演技をしてるんだと理解して言った。

 自分の腹づもりが知られたことを察して、彼は肩をすくめた。


「まあ、色々とイベントが多くて助かったよ」

「素直じゃないね」

「コオリを案内しておきたかったのは本当」って彼は言った。


 自転車にまたがって後ろを振り返ると、地中海風の真っ白な建物は、少し色味がかってるように見えた。二日前の夜にイッタから提案されたとき、その中学校について私はまだぴんと来ていなかった。実際にこうして訪れてみると、ありえていたかもしれない母校という想像に、いくらも肉がついていた。彼に「ありがと」って言ったのは紛れもなく本心だ。


「それで、昼飯にするのはいいんだけど、どうする?」ってイッタは自転車を走らせる前に言った。

「今からだと、ちょっと遅くなっちゃうね」

「じゃあ、一昨日のカフェはどう?」って私は訊いた。いや、訊いただけで、アンさんのカフェを候補に挙げたのは、単なる思いつきだった。


「今日は店開けてるのかな」

「定休日?」

「いや、不定休なんだよ。週末は間違いなく開いてるんだけど」

「行ってみないとわかんないんだ?」

「もし閉じてたら無駄足だね」って彼は言った。


 不便なことに、こんな古い時代の携帯端末には、お店の情報を調べる機能なんて備わっていなかった。直接お店に問い合わせるのも違う気がして、さてしもどうしようって私たちは頭を悩ませた。そうして結局、イッタの家が選ばれた。キッチンを借りて簡単になにか作っちゃおうってことになったんだ。


 行きに比べて帰りは早かった。あの長い長い坂もいまはゆったりとした下り坂になっている。車の姿も稀な一本道を、私たちは横一線に自転車を並べてするする下っていった。山から吹き下ろす小さな風が、私たちの背中をちょこんと小突いてた。


 庭先のガレージは相変わらず車一台分のスペースをすっぽり空けていた。鍵のかけられていない玄関扉の中も、しんと静まり返ってる。イッタの家は午前中から代わり映えしなかった。


 唯一の変化といえば日中の気配を建物が吸い込んでいたことだ。リビングに上がってすぐ、イッタはエアコンのスイッチを入れた。


「おじさんたち、本当に帰って来てないんだね」って私は部屋の中を見回して言った。

「そりゃね。帰ってこないって宣言したんだから」

「でも急に気が変わったりとか」

「そんなことで俺を驚かせるような親じゃないよ」ってイッタはキッチンカウンターにもたれかかりながら言った。「実際のとこ、もう三日くらい留守でもいいんだけどね、俺は」


 その余裕が気に入らなくて、ふと、なにかいじわるを言ってやろうって気になった。

「夜になったら帰ってくるんでしょ?」

 そうするとイッタは心底いやそうな顔をした。


 部屋が涼しくなってから、私たちはぼちぼち食材探しを開始した。それでわかったのだけど、もし本当にあと三日、あるいは一週間と留守を預かっていたとしたら、先に音を上げるのは間違いなくイッタの方だった。


 ここ数日の怠惰な一人暮らしによって、冷蔵庫はほとんど空っぽになっていた。マヨネーズの容器やチューブ型のわさびがぱっと目に飛び込んでくるほどに中身がすかすかだ。辛うじて料理に使えそうなのは、半端に余っていた冷凍ピザと、それからラックに保管されていた乾麺タイプのパスタくらいだった。


「長靴は嫌いなの?」って私は訊いた。

「何が? ああ、イタリアンか」ってイッタは冷たく笑う。「単に茹でるのが面倒だった」

「野菜室の残り物で、サラダくらいは作れそうだよ」ってシィちゃんが言う。たしかに、ある程度選別すれば使えば食べられそうではあった。

「じゃあ、決まりだな。二人とも頑張ってくれ」

「イッタもやるんだよ」

「俺に調理を求めるなよ。そういうコオリは?」

「私も全然」

「とりあえず、お鍋に水入れて、まな板と包丁も用意する」ってシィちゃんが言った。


 シィちゃんは日頃から料理の手伝いをする子だったみたいで、全般手際よく働いた。初めは何をすればいいかわからなかった私たちも、彼女の指示で気づけば一つ所に落ち着いていた。ヒデくんお鍋の様子を見てて、リッちゃんは野菜室からレタスを取って。まるでお母さんだ。


 ありあわせの野菜をカットして、上からシュレッドチーズをまぶしたら、見かけはどうにかイタリアンサラダっぽくなった。茹で上がりのパスタはオリーブオイルで炒めずに、夏らしく氷水に浸けて冷製にした。それと冷凍ピザは五枚入りのうち二枚が消化されていて、差し引きここにいる人数分でちょうどよかった。汁物が欲しいっていうイッタのわがままには、コンソメと顆粒だしをブレンドして適当に一品こしらえた。大体がシィちゃんの発想だ。


 そうしてキッチンが賑やかになってるあいだは、みんなの心もどこか浮かれてた。ちょっとした調理実習の気分になってたの。


「なあ、これって塩は茹でる前に入れるんだっけ?」

「ピザの袋は捨てちゃった? 加熱時間がわかんないんだけど」

「ああ、リッちゃん、ごめん、その葉っぱまだ使う」


 初めての共同作業に私たちはいっとき華やいだ。その瞬間に私はこれが帰郷旅行の中にあるってことを忘れてた。毎日繰り返されてる日常のように錯覚してたんだ。あるいはそういう願望かな。

「出来上がったお皿から運んじゃって」ってシィちゃんは言った。


 お昼を済ませたあとは紅茶を淹れて午後を過ごした。カーテンの開放された窓より向こうでは、庭先の青々とした芝生が風にそよいでる。ガラス一枚隔てた涼しい部屋からだと、その姿は夏の悠久そのものだった。


 気温はいままさに頭頂部だ。しばらくは暑さを忘れていたい。でもそう思う一方で、私は早くも夏の一部になりたがってた。あと一日で帰郷旅行が終わってしまう、その事実を考えると、あまりのんびりはしていられなかった。今日という日がもう半分も過ぎてしまってる。


 それなのに相変わらず身を持て余してたのは、この狭い田舎に行く宛がなかったからだ。つごう二日の地域探訪で回るべき場所は回り尽くしてた。


 一応付け加えておくと、ほかにも綿入やその周辺には、それらしい場所がいくつかあった。ツツジで有名な自然公園や、フジバカマの見える丘、千段以上もある石畳の境内が秋にはモミジで真っ赤に染まるお寺、そういうちょっとした観光スポットが点在してた。山間の上の方には温泉施設もあった。ただ私の懐郷を軸としていた地域探訪とは、趣旨が異なっていただけだ。将来的に私はそれらの場所を見て回りもしたのだけど、この日々には彼らとは無関係だった。


 だから何か動き出さなければならないっていう焦りや熱情だけが、この部屋の気温とは正反対に高まってった。その気持ちは二人もおんなじらしかった。


 庭の景色は刻一刻なにも変化がないように思えるけれど、私たちの目にはわからない度合いで少しずつグラデーションを濃くしていっている。ぼんやりしていればいずれ赤焼に染まってしまう。


「アルバムでも開いてみる?」って、ふとシィちゃんが言った。

「アルバム?」って私は反復した。シィちゃんはそれには答えずイッタに訊いた。

「小中学校のアルバム、あるよね?」

「あるにはあるけど」ってイッタはあまり気乗りしてないようにうなずいた。

「何もすることがないよりは」ってシィちゃんは続けた。

「まあ、定番だね」ってイッタは答えると、他に目的も思いつけないしといった様子でゆっくり腰を上げた。「どこにしまってあるか、わかんないよ?」


 彼に続いて、私とシィちゃんも階段を上がっていった。リビングで待つよりはその方が自然だって思われた。


 新しく出来た友人に古いアルバムを見せるのは、まあ、在り来たりといえばその通りだね。でもこのときはそれしか思いつけなかったし、私も他人の写真を眺めるのは嫌いじゃない。自分が撮られるのが苦手だってことと、色彩加工されてある写真が気にかかるというだけだ。


 ああ、そうだ、だけど色彩加工ってことなら、私とシィちゃんにはアルバムを広げる前に、一つ課題があった。階段を登りきってコの字型の廊下を踏んだとき、そのことに気がついた。彼の部屋全体が鮮やかなモノクロームに加工されている。


 部屋の前で一つ深呼吸をした。それくらいの覚悟がないと、この中は受け入れられない。だって、何度も訪れてるはずのシィちゃんだって、隣でおんなじことをしてたんだ。

「慣れろよ」ってイッタは端的に言った、けど、まったく無理な注文だ。


 部屋の電気が点けられた瞬間に、私たちは思わず顔をうつむけた。廊下の窄まった位置にあって日光の届きづらいイッタの部屋は、照明の灯された瞬間に強烈な印象として網膜に焼き付けられる。そこは非世界の空間だ。


 直線的に切り分けられた白と黒の模様がさ、自然に許されるはずがないんだよ。あの人気者のパンダでさえ丸みを帯びてるから愛される。完全で精緻で立体的なオセロ盤の部屋に、私たちが拒絶反応を起こすのは、世界の道理からいって当たり前のことなんだ。一体こんな非世界の部屋で、イッタは何を感じながら生活してるんだろう。


「シィちゃんはさ、この部屋のこと、訴えてみようと思わなかったの?」

「思うには思ったけれど」

「でも口に出してはみなかった」

「言っても無駄だもん」ってシィちゃんは達観してた。


 当のイッタは知らぬ存ぜぬでアルバムを探してる。でもなかなか目当てのものを探し当てられないようだった。私もそれっぽく手伝う振りをする。ものを見下ろす視線から辺りをきょろきょろ見回した。


 そうすると、目的のアルバムは見つからなかったけど、代わりにこの部屋の欠点がいやというほど目についた。


 何日か前にもわかったことだけど、この部屋の境界線はどれも直角に縁取られてる。アメリカの州境みたいにすべての線が鋭利に描かれてたし、壁の模様も床の模様も一律の長さを保ってる。イッタはこの模様を作り上げるために専用の工具を使ったと言っていた。彼の中では89度も91度も不正解で、それはちょっとした床の盛り上がりや壁のへこみによってもずらされるのに、どんな場所からも視覚的に真っ直ぐになるように工夫されている。


 同じように色合いも、すべての白はカラーコード的にいう#から始まるfの6並びで、黒は#から始まる0の6並びに統一されていた。樹脂の滲みや傷にどう対処したのかわからない。けど、とにかくこの部屋は徹底的に計算しつくされた平坦と直角と白黒で構成されていた。妥協のない欠陥だ。あまりにも偏執的で、ちょっと怖くもある。


 だけどそんな中に、実世界的な物質も存在してた。たとえばクマのぬいぐるみ、それからジグソーパズル。初めてこの部屋を訪れたとき、私はそれを単なるアクセントだと思いこんでいた。いまシィちゃんという恋人に出会ってからだと、この部屋にも人間味が許されていることを私は知った。


 そもそも二人の関係について、私はシィちゃんが一方的にイッタに付き従ってるだけのように感じてた。そういう昔かたぎな男女のバランスで成り立ってるんだと思ってたんだよ。でもそうではなくて二人はちゃんとお互いに支え合っていた。非世界というイッタの内側に、シィちゃんの居場所がちゃんと用意されている。


「ヒデくん、まだ見つからないの?」ってシィちゃんは言った。

「ああ、もう。シズカがアルバムなんて言い出すからさ」ってイッタは言った。

 いま思うと二人は不必要に名前で呼び合っていた気がする。まるで何かを確かめ合うみたいに。


「別のところなんじゃない?」

「いや、この辺にしまったはずなんだけど」


 彼が物色していたクローゼットの中は、機械的に整理された室内と違ってゴミの集積所というような有様だった。なるほど、臭いものには蓋か。私は思った。


「そこにしまったって、勘違いしてるだけかもしれないよ」って私は言った。「例えばこの本棚の中とか」

 私の真後ろに、ツヤの消されて暗黒みたいな本棚がある。納められている本も専用の黒いカバーがかけられてあって、まるで商品不足のレンタルビデオ屋みたいな光景だ。私はおもむろに、中でも大ぶりの一冊に手を伸ばしてみたの。


「ああ、触らないでくれ、そこにはない」って、だけどイッタはとっさに言った。

「無いって、なんでわかるの?」

「そこの本は全部管理してる」

「なるほど」って私はなんとなく納得した。

「男の子の本だよ」って横からシィちゃんがふざけて言った。私たちは笑いあったけど、イッタはアルバム探しに真剣で聞こえてもないようだった。


 アルバムは結局、シィちゃんがクローゼットを探したことですぐに見つかった。イッタが思うよりもずっと奥の方で、ダンボールの下敷きになっていた。

「おかしいな。そこも探したはずなんだけど」

 そのときイッタは本当に腑に落ちない様子というか、どこか元気を失った様子で首を傾げてた。


「ちょっと見落としちゃっただけだよ」

「いや、絶対に確認したんだけどな」、彼はしばらくそのことにこだわっていた。


 アルバムは全部で三冊あった。そのうちの二冊は小中学校の卒業アルバムで、残りの一冊はイッタの成長記録を収めた個人用のフォトブックだ。彼は個人用の一冊だけ元あった場所に戻そうとしていたけれど、最後はシィちゃんの勢いに負けて三冊ともローテーブルの上に広げられた。


 イッタの気が変わらないうちに、私たちはその個人用の一冊から手を付けることにした。

 それは確かにイッタのごく個人的な成長記録だった。生まれたばかりの赤ちゃんの頃のものから、幼稚園の入園式、小学校の入学式と、おそらくは彼の両親が撮影しただろう写真が数多く保管されている。そういう幼少期の姿を納めた写真の中には半分くらいの割合で私も写ってた。そうした写真のうち更にまたその半分くらいは、どうやら私の父か母が撮影したものらしかった。というのは彼が私の家族にまぎれ込んでる写真が何枚かあったんだ。


 近所に同い年の子がいなかった私たちは、ある時期まで双子のようなものだった。毎日顔を合わせて遊んでいたし、悪巧みも冒険も、常に隣には双子の君がいた。ただ住んでる家が違うだけだった。だから家族だけの行事に双子の彼が紛れていてもなんにも不思議はなかったし、イッタの家族の中に私が紛れ込んでる写真も何枚かあった。


 私やイッタからすると、それらは厚かましい子ども時代を思い起こさせるようで恥ずかしくもあった。ただシィちゃんだけはそれらの写真をどこか羨ましそうに眺めてた。


 だけどやがて写真のイッタが成長すると、私は忽然とフェードアウトする。特に悲しいとも感じなかったけど、私の知らないところで成長するイッタにはちょっと驚きもした。小学校の運動会や臨海学校の写真の中で、彼はクラスメイトの男の子とはしゃぎあっている。


 でも中学時代の写真に移ると、そういった学校行事の中でも、イッタはよく一人だけの被写体として写されていた。盗み撮りのように横顔を納められた写真も何枚かあった。そんな中で特に目を引いたのは、どこかの運動場を背景に賞状を広げてみせている写真だ。それは例のソフトテニスの大会でイッタが地方予選突破を果たした瞬間のものだった。写真の横には当時の新聞の切り抜きも保管されていた。


「驚いたよ、イッタがスポーツ得意だったなんてさ」

「別に、得意ってわけじゃないけどね」って彼はシィちゃんと似たようなことを言った。

「でも結果は残してる」

「まあ」って彼は言った。なんとも気のない返事だ。

「どうして今はやめちゃったの?」

 そう訊ねると、彼はきょとんとした。「というより、中学のときはどこかの部に所属しなくちゃいけなかったから」って彼はしばらく考えてから答えた。


「でも続けてればよかったのに。これだけ実力があったなら」

「本当に実力があったら、全国区も勝ち上がってたよ」って彼はどこか他人事のように言った。「それに、一番は飽きたんだ。本戦で初戦敗退食らった途端に、急に面倒くさくなった」

「面倒って」って私は言った。「限界を感じたってこと?」

「いやあ、ちょっと違う」って彼はぼんやり言った。「なあ、俺の話なんかに興味あるの?」


 だけどシィちゃんも続きを待っていた。世間話が転がって突然窮地に立たされるということを、彼はこの場で味わっていた。


「なんだろうな。つまりさ、虚しくなったんだ。勝っても負けてもコートの中じゃ俺一人が喜んだり悔しがったりしてる。声を掛け合う相手もいないし、肩を叩いてくれるやつもいない。そういうのって案外、原動力になるんだなって、そのとき気付いたんだよ」

「それなら、ダブルスに転向しても良かったのに」

「ところが俺はなんでも一人でやらないと気がすまないの。普段は一人で打ち込んでいたいのに、大事な場面だけ誰かに一緒にいて欲しいなんて、そんな虫のいい話もないだろ。だから手短に言って、面倒になったんだ」

「イッタらしいっちゃ、らしいけど」

「能力的限界っていうよりも性格的限界」って彼は言った。


 そういう諦めの姿勢って、私たちの年頃で真似るには本当ならちょっと背伸びが過ぎている。本人は格好つけてるつもりでも、似合わない服を無理して着てる形の悪さがあるんだ。だけどイッタの場合、そんな大人の服をすんなり着こなしていた。彼が本心からそう感じていた証拠だ。


「残念だね」ってだから私はこれ以上は軽く流すことにした。

「それより、さっきから黙って聞いてるけど、部活を続けてないってことに関していえば、シズカも同じだろ」って、だけどイッタは、照れ隠しで意地を張った子どもみたいに、標的をシィちゃんに移して言った。「俺より成績よかったくせにさ」

「団体競技だもん、私一人の力じゃないよ」

「それでも二年連続で地区大会入賞だぜ」

「ずるいなあ、ヒデくんは」ってシィちゃんは言った。


 彼らの中学校はそれくらい運動部に力を注いでた、というわけではなくて、山と川との間に拓かれたこの町では元来足腰の強い子が多かった。ちょうど二次性徴の始まるころに、それはスポーツという分野で大きな利点となってたの。彼ら以外にもこの中学校では陸上部や野球部が定期的に何かの成績を残してる。だから私の故郷では彼らの活躍も、一時的に注目の的にはなっても、すぐに色あせてく部類のものだった。そうはいってもシィちゃんは、回りに恵まれた選手がいるなかで、二年間レギュラーメンバーに選ばれ続け、ポジションは攻守の要であるミドルブロッカーだった。当然地区大会入賞にだって大きく貢献していたはずだ。


 中学校の卒業アルバムを手繰ってみると、その瞬間を収めた写真がしっかり残されていた。体育館を背景にユニフォーム姿の女の子たちを整列させたものが二枚ある。そのうちの一枚はシィちゃんが中心に立って表彰状を手にしてた。


「な。バレーボール部のエース」

「さっきシィちゃんもおんなじこと言ってたよ。テニス部のエース」

「俺に話を戻すなよ」って彼は言った。

「でも、シィちゃんも部活動は続けてないんだね」

「私は、ほら、家の手伝いがあるから」ってシィちゃんはやや控えめに言った。


 その卒業アルバムの中で、イッタとシィちゃんの出番はやけに多かった。部活動の記録という部分でもそうだし、日常の何気ないシーンを切り取った写真でも、二人はよく被写体に選ばれていた。


 それぞれ部活動のエースだと認められ、学績も優れていたし、とりわけシィちゃんは三年生のときに生徒会の書記も務めてたわけだから、こんな二人が学校という社会で耳目を集めないはずがなかった。


 彼らの記録を見るに連れ、いまこうして二人を相手にしてるのは場違いではないのかと、徐々に感じだしてきた。


「まあ、だからさ、苦労したんだよ。付き合ってるのを隠すのも」ってイッタはなぜか自発的にそのことに触れた。

「いま考えてみると、みんな知ってたのかもしれないね」

「それならもっと騒いでたでしょ」

「私たちがそうさせない雰囲気を出してたのかも」

「俺が裏で脅してたからね」


 そんな馬鹿げた冗談を耳にして、私はすこしほっとした。彼は面白くもない冗談を面白くもないと知りながら口にするやつなんだ。そういう態度で彼は一歩私に近づいた。


 でも、実際そうだったのかもしれない。イッタが脅迫めいた手段を用いていたかは別にして、回りの生徒がイッタたちに配慮してたという予想は当たっていたのかもしれない。だってこれだけ多くの写真に選ばれてる彼らなのに、二人同時に写されているものがほとんどなかったの。同じクラスで似たような立ち位置にいる二人なら、ふざけてくっつけられることだってあっただろうに、そういう写真は一枚も載せられていなかった。シィちゃんがピースサインをする一枚に、イッタの後頭部が写り込んでる写真ならあったけど、あってその一枚だ。卒業アルバムの中で彼らの距離はわざとらしいくらい遠かった。


 だけどそれが中学校生活における実際の二人の距離でもあった。この距離感を彼らは卒業するまで維持してきたわけだ。普通ならどっちかが音を上げる。我慢だとか忍耐って言葉を意識すれば尚更だ。でも二人はその状態を素直に受け入れて、今ここにある。まったく、いやになるほどお似合いの二人だった。


 ところで同じ卒業アルバムでも中学校と小学校のものではちょっと毛並みが違うんだ。体育祭や文化祭、修学旅行、そういうイベントをスポイルした写真には、どれも生徒の顔に笑顔が刻まれている。それが運動会とか遠足って名前になると、みんな楽しんではいるけれどどこか表情が硬かった。いや、それは私たちの時代だからそうだったのかもしれない。でもとにかく、小学校の場合、それは思い出というより記録に近かった。体育測定のカードに記入される数値のような、羅列された単なる記録。


 とりわけ私にしてみると、イッタやシィちゃん以外は名前も知らない生徒の記録を見せられているわけだ。一年間同じクラスで過ごしたって事実は、この場合なんの助けにもならなかった。幼稚園で一緒だった子でさえ、指を差されても誰だかわかんなかったんだ。


 それにさ、アルバムを手繰ってゆくあいだに私たちが期待していたものは、それがどんな偶発的な一瞬を切り抜いたものだとしても、ここにいる三人が同時に写し出されている写真だった。だけどそれは全体のたった一枚、新一年生を記録する集合写真でしか再現されていなかった。


「遠すぎて、誰だかわかんない」って私はややピンボケした七歳の私を見て言った。

「ああ、せっかくの可愛い顔が台無しだ」ってイッタは深刻そうに言った。それから十七歳の私を見上げて、「いや、そうでもないか?」

「別にいいけどね」

「ヒデくんは素直じゃないだけだから」

「もう、やめてよシィちゃんまで」

「でも本当にリッちゃんの写真残ってないんだ」

「転校した生徒の写真なんて、わざわざ載せたりしないんじゃないかな」

「たしかにな。それにコオリの写真があれば、俺たちの方で覚えてたはずだし」

「残念」ってシィちゃんは言った。


 だけどそのとき、ふと閃いたんだ。つまり残念なのは私の写真だけじゃないってことを。

 私はもう一度イッタの個人用フォトブックを手繰ってみたの。主には中学生時代から今に至るまでの後半部分に注意した。そうしてみるに、やっぱり私の感じたことは間違っていなかった。


「ねえ、二人の写真も、全然ないよ」


「え?」ってイッタは眉をひそめて言った。「だから、そういうことは避けてきたって説明したろ」

「そうじゃなくて、もっとプライベートなやつ。第一、高校に入ってからは自由でしょ?」

「ああ、ああ」ってイッタは呆然とつぶやいた。

「もしかして、二人の写真は別のアルバムに取ってある?」

 でもシィちゃんはためらいがちに首を振った。

「考えてみれば、そういうこと、したことなかったね」

「言われてみればね」ってイッタは絞るような声で言った。本当にいま気がついた様子だった。

「特に気に留めてなかったな」ってシィちゃんが言う。


 悲しいことに、彼らは私が想像する以上に成熟してたんだ。クマのぬいぐるみやジグソーパズルのような例外はあったにしても、彼らは普通の恋人のように時間を共有したり、思い出を形として残したり、そういったことに特別な関心を持っていなかった。精神的なつながりとお互いの信頼だけで彼らの関係は充分に成り立っていた。それはどこまでもプラトニックで、あまりにも高校生らしからぬ恋愛だった。


「ねえ、それならさ、三人での写真、残しておかない?」

 そう切り出したのはシィちゃんだ。

「写真って、今から?」ってイッタは怪訝そうな顔をした。

「今じゃなくても、明日の花蘂祭にでも」

「だけどカメラなんて持ってないよ。シズカんちになら、探せばある?」

 ううん、ってシィちゃんは申し訳無さそうに首を振る。


 この時代になると携帯端末にもカメラ機能は標準搭載されていた。でも機能が搭載されていただけで、残念ながら画質はそれほど優れていなかった。バス停の時刻表を納めておくのには役立ったけど、およそ思い出の保存には向いていなかった。


「ねえ、カメラってどんなカメラでもいいんだよね。使い捨てでも」って私は言った。「それならコンビニに売ってない?」

「え。売ってるか?」

「地元のコンビニなら普通に扱ってるけど」

「ああ。あるかもな。コオリの地元なら」って彼は頭をかきながら言った。「だけどコオリな、田舎をあんまり甘く見ちゃいけない」

「カメラ一つで?」

「そう。世の中には需要と供給、あるいは供給と需要って観点がある。で、誰がこの需要のない田舎でそんな商品を扱う?」

「そうかなあ。お祭りだって明日あるのに」

「行ってみないとわからないよ」ってシィちゃんは、なんだろう、どこか子どもっぽいわくわくした様子で言った。

「そうね。ここで議論しててもね」ってイッタも仕方なさそうに同意する。


 そうと決まればイッタの行動は迅速だ。ぱっと立ち上がってエアコンのスイッチを切ると、もたもたしている私たちをけしかけた。こいつは寝起きには人を待たせるくせに、いざ物事を動かそうとすると、いちいち他人の準備を考慮したりしないんだ。いや、イッタだけじゃなくって、男の子ってみんなそう。


 さて、それでようやく私たちは黒白にまみれた彼の世界から解き放たれて、一路コンビニを目指すことになった。コンビニは大通りのほかにもう一軒、綿入の中だけでつごう二軒あって、だけど結論からいうと、そのどちらにも使い捨てカメラは売られていなかった。


「一個くらい置いてあっても、良さそうなのに」

 二軒目のコンビニを出た先で、私は驚くというよりうなだれた。

「花蘂祭の前日でこれだからな。よっぽど写真嫌いなんじゃないか、ここの連中は」ってイッタはどこか自嘲気味に言った。

「じゃあ、どうしよっか」ってシィちゃんは半分だけ袋から取り出したアイスキャンディを咥えて言った。


 一軒目のコンビニでは飲料水を、二軒目では60円のアイスキャンディを、私たちは入店した義理としてレジカウンターまで運んでた。なんともなしに退店することもできたけど、その辺りの感覚は三人とも同じらしかった。


「どうするもなにも」ってイッタは万策尽きたように言った。でも次の瞬間になにかひらめいて、「ああ、隣町か」

「隣町?」

「電車使えば、駅前にデパートがある」って彼は言葉少なに言った。

「わざわざそこまですることかな」


 シィちゃんに目をやると、彼女は目があった瞬間に視線を適当な位置にそらした。本当は甘えたいんだけれど上手に甘えられない子どものような、シィちゃんらしからぬ可愛い仕草だった。写真のことは彼女が言い出したことだった。


「本当に隣町にしか売ってないの?」って私はイッタに振り返って聞いた。

「少なくともこの辺りには。それとも自転車で橋向こうの町まで行く? 俺はどちらでも構わないけれど」って彼はもうカメラの調達が決定事項のように言った。「ただ、確実に売ってる店ってなると、やっぱり電車のほうが早いと思う」

「確実なら、確実な方がいいよね」って私は言った。

「なんだか大事になっちゃった」ってシィちゃんはどこか嬉しそうに言った。「単なる思いつきだったのに、ごめんね」


「でも、たしかに載ってみたかったかも。綿入の電車」

「子どものお使いじゃないんだから」ってイッタは笑う。「いうほど大したものじゃないぜ」

「私にしてみたら、それも貴重な体験」

「コオリがそう思うなら」って彼は私の気持ちを尊重するように言った。半分くらいは。


「とりあえず、食べ終えたらさっさと行くか。一時間のうち三十秒だからな」

「なにが?」

「電車が停まるタイミング」

「ああ」って私は彼の回りくどさに呆れて言った。

「ぎりぎりで間に合わなかったら、差し引き二時間のロスだ」って、それがどういう計算に成り立ってるのかよくわからないことを言いながら、彼は携帯端末を開いた。


「二時半か」って彼はそのとき寂しそうに言った。


 いや、単にそう聞こえただけかもしれない。それからイッタは空を見上げて物憂げな表情をとってみせたけど、それもただ時刻表の記憶を底の方から引っ張り上げてただけかもしれない。夏はまだ青かった。

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