第四節(0504)
「ねえ、いつまでいるつもり?」
美術室に避難してから、かれこれ二十分も経とうとしてた。吹奏楽部の演奏は中断しそうな気配もなく、さっきからずっと響いてる。シィちゃんは教壇にもたれかかって、イッタはその近くにある頑丈な長机の上に腰かけ、私は更にその横の席に座って、それぞれぼんやりと隣室の成り行きに耳を傾けていた。
「あとどれくらいかな」ってイッタは携帯端末に目を落としながら言った。「休憩にでもなれば、そのとき出ていこうと思ってるんだけど」
教壇の真上にある時計は十一時十分をさしている。「お昼まで、まだだいぶあるよ」って私は言った。
「その前に一回休憩が挟まれそうな気がするんだけどな」
「休憩っていうなら、さっきのがそうだったんじゃない?」
音楽室でシィちゃんが唄っていたときの自由演奏は、時間にして十分あまりの出来事だった。休憩って考えるならちょうどいい時間の幅だ。それに、イッタ自身も息抜きの余興だと踏んでいた。
「いや、俺もそう思ってたんだけどね」って彼は言った。
私は続きを待っていたんだけど、彼はそれ以上なにも言わなかった。
「違ったの?」って、だから私はじれったく催促した。
「え。ああ」って彼はぼんやり言う。「いや、あれが本当に休憩時間だとしたら、上の廊下がやけに静かだったんだよな。普通誰かしらトイレに発つだろ。結構な部員数いるみたいだし」
「足音なんて、聞いてたの?」
「そこまで注意深くないよ。思い返して気になっただけ。で、コオリには聞こえてた?」
ううん、って私は首を振った。「じゃあ、さっきのって?」
「さあ。顧問がちょっと席を外したとかじゃない?」
「当て推量」って私は笑った。
「でも、本当にお昼まで通しだったら、どうしよっか」ってシィちゃんがちょっと不安そうに言う。「もしかしたら、先に校庭まで挨拶に行った方が正解だったかな?」
「じゃ、あと五分待って、それでも変化がなければそうしよう」
「一旦外に出てまた戻ってくるの?」
「二人が手間じゃなけりゃ」
「この中だとイッタが一番の面倒くさがりだよ」
「とりあえず、あと五分」って彼は言い切った。
それで、隣室では本当に、五分も経たないうちに演奏が中断された。やにわに廊下が活気づいて、イッタは勝ち誇ったように笑ってみせた。なんとなくわざとらしい笑顔だった。
「良かったよ、これで二度手間は免れた」
「なんか、初めからわかってたみたい」
「うまいこと推理がはまると、俺の直感は当たるんだ」
「それってみんな同じだと思う」ってシィちゃんが愛らしく言った。
「そうね」ってイッタも笑う。「じゃ、俺たちも出ましょうか」
美術室を出ると廊下はすでに吹奏楽部の部員によって賑わいでいた。でも私たちの周りには人通りがまるでなくて、みんな美術室とは反対方向のトイレに吸い込まれてた。
制服姿の生徒がトイレに消えるたび、同じ数だけ新たな生徒が部室から顔を覗かせる。でもなければトイレ帰りの生徒が反対方向からやってきて、絶えず廊下には二十くらいの人影が確保されていた。ときおり部室へは戻らずに廊下にたむろする子たちもいた。その大半が女子生徒で、肝心のナッちゃんはといえば、イッタとシィちゃんの様子を伺う限り、まだ発見されてないようだった。
私たちはその場に三分くらい立ち尽くしてた。彼女たちからすればかなり不審な団体だったと思う。でも彼女たちは、ちょっと怪訝そうな目をくれつつも、変に騒ぎ立てたりだとか、あるいは小学校のプールサイドで起こされた災難を再現してみせたりだとか、そういうことはしなかった。小学生よりもちょっと大人に近づいていた彼女たちは危険に対して消極的だった。
「とはいえ早く出てきてもらわないと困るけどな」、私がそのことについて触れると、イッタはつぶやくようにそう答えた。
「もしかして、もう部室を出ちゃったのかな」
「にしても、そろそろ戻ってくるでしょ」
ううん、彼女は戻ってこなかった。それよりも部室から出てきたところで私たちに捕まった。でもお互い助かったのは、彼女が仲間連れではなく一人で出てきたことだ。顔を認めるなりシィちゃんはすぐ彼女に呼びかけた。
「お姉ちゃん!」って、こっちに振り向いたナッちゃんはだいぶ驚いていた。そのときの仕草がまるで小動物みたいで実に可愛らしかったんだ。
手招きに応じて、彼女は小走りに駆け寄った。
「どうしたの?」ってナッちゃんは言った。「それに、由利先輩まで」
「様子見に来たよ」ってシィちゃんは言った。
「わざわざ学校まで? 本当に?」
「よう、ナッちゃん」ってイッタは遅れて返事した。「いや、別にさ、単に遊びに来たんだよ」
「遊びに?」ってナッちゃんは言った。「あ、わかった、卒業生の悪ふざけだ」
「まあ、大体合ってるよ」ってイッタは苦笑交じりに答えた。
「練習頑張ってるみたいだったから、ちょっと挨拶だけでもしていこうと思ったんだよ」ってシィちゃんが言う。
「お姉ちゃんって、いつもそうやって私を驚かせる」って彼女は言った。それからちらりと私の方を見た。
「リッちゃんだよ、ナツも会いたがってたよね」
「ああ、瑚和、先輩」ってナッちゃんは私の名前を聞くにつけ、急にかしこまった様子になった。「初めまして。静香の妹の、茉夏です」
「こちらこそ。よろしくね」って私はしゃちほこばって礼をした。
外見からいうとシィちゃんの妹さん、つまりナッちゃんは、姉妹というほどは彼女と似ていなかった。あどけない顔立ちで、部分的にそっくりなところはあったけど、全体をとると可愛らしい童顔だ。特に目元はシィちゃんの切れ長とは反対に柔らかみのある優しい形をしてた。長い髪を後ろで一本に束ねてる。
で、私はかねてから、容姿にはその人の人格が現れるものだと思っているんだけど、そういう意味でいうとナッちゃんの性格も、彼女の外見そのものだった。とても人懐っこくて、健気で、そして明るい子。後輩であることを最も得意とするタイプの女の子だ。私にも嫌味のない気さくさで応じてくれて、それに関していえばむしろ私のほうがまるで準備が整ってなかったくらいだよ。
一応の挨拶をすませると、ナッちゃんは口角をぐっと吊り上げた。
「お姉ちゃん、一昨日から瑚和さんに夢中なんですよ」
「夢中?」
「家でもずーっと瑚和さんの話ばっかり」
「え?」って私はちょっと反応に困って薄笑いを浮かべた。
「私が違う話を振ってもね、気付くと瑚和さんの話に変わってるんです」
「そう、なんだ?」って私は言った。普段人から褒められていないと、いざってときに褒められ方がわからない。
「たぶん、瑚和さんに恋してるんですよ、うちのお姉ちゃん」
私は困惑してシィちゃんに助けの目をやった。でも更に困ったことに、シィちゃんはなぜか満足そうにしてたんだ。いたずらっ気の強い妹を叱りつける姉の態度というのは全然なくて、どちらかといえばこの話をナッちゃんの口から聞かせたかったという風でもあった。
「それより、ごめんなナッちゃん、せっかくの休憩中に」って、結局助け舟を出してくれたのはイッタの方だった。
「ああ、いいんです、マウスピースを洗っておこうかなと思っただけだから」ってナッちゃんは言った。彼女がトランペットを担当してるってことは、さっき伝えておいたよね。「それに、すぐお昼ですし」
「なんだよ、気まで遣わせちゃって」
「全然そんなことないです、練習詰めで息抜きも必要だったから。それに、瑚和さんにも会えてよかったです」
「私も」って私は口早に言った。「こんなに可愛い妹さんだなんて、思わなかった」本心半分、もう半分は私なりに社交的な態度を考えてのことだった。
ナッちゃんはそれを素直に受け取って、実に後輩らしい笑い方をした。「お姉ちゃんのこと、よろしくおねがいします」
そう言って彼女はうやうやしく頭を下げた。
ナッちゃんのそういう場面は、なるほどやっぱりシィちゃんの妹さんだった。社交の場になると急に大人びてしまうシィちゃんに比べて、彼女の受け答えにはいささか相手に寄りかかる親しみやすさが残されていたけれど、いずれにしろ二人とも公的な側面をしっかり持ち合わせてるに違いはなかったの。
「じゃあ、私、そろそろ行きますね。休憩時間、十分しかないの」
「うん。引き止めて悪かったね。部活頑張って」ってイッタはどこかいつもより丁寧な口調で言った。恋人の妹として、彼もナッちゃんを可愛がってるらしかった。
去り際にナッちゃんは「あ、それと、瑚和さんも、また」ってこちらに向き直って言った。私はそれをていのいい挨拶と受け取ったのだけど、彼女は間を置かず「多分、明日も会えますよね」って付け加えた。
「明日?」
「お姉ちゃんが浴衣を貸すんだって張り切ってましたよ」
「ああ」って私はぼんやり言った。その間にもナッちゃんは部室のドアに手を差し出しかけていた。
「明日って部活は?」ってシィちゃんが訊くと、
「休み!」
彼女は最後に手を振りながら本当に部室の中に戻っていった。結局私たちは彼女からマウスピースを洗う時間を奪ってしまったわけだ。
廊下にはもう他の生徒の姿もなかった。突風のようにやってきたナッちゃんがすべてを運び去ってしまったようだった。忽然と、あとには私たちだけが残された。
「ごめん、ちょっと驚いちゃった」って私は言った。
「シズカのコピーを想像してた?」
私は素直にうなずいた。「でも、本当に可愛いんだね」
「ナツって誰に対しても妹なんだよ」ってシィちゃんは言った。
それからしばらくもせずに、南校舎の廊下は再び吹奏楽の音色に満たされた。私たちは顔の動きで合図してその場を立ち去った。
これでもう校内での用事は済んじゃったわけだ。あとは丸眼鏡の先生との約束を果たしにゆくだけだったのだけど、私たちはキャラバンサライの東校舎を通り抜けずに、昇降口までは来たときの順路を引き返す形で向かっていった。東校舎にはつまり教員用の部屋がいくつもあったから彼らの目を盗むためでもあったし、このまますんなり帰ってしまうのではもったいなくもあったんだ。
南校舎を一階まで降りて、北校舎へは例の空中廊下ではなく渡り廊下を突き抜けた。渡り廊下は中庭の側だけ吹きさらしになっていて、反対側には木工室や金工室の教室が入ってた。裏手が校庭になってるらしく、アクリル板に覆われた空中廊下を使うときよりも、運動部員の声はより鮮明に私たちの耳に届いてた。
それで、どうしてかはわからないのだけど、彼らの活気ある声を聞いてるうちに、私はさっきナッちゃんが言っていたことをふと思い出したの。
「そういえば、浴衣って」って私はシィちゃんに訊いた。
花蕊際に浴衣を着てゆくということは、二日前にゴマ山のあずま屋で約束したことだった。でもそのときは妙な興奮に包まれてたし、あれ以来私たちの会話にのぼることもなかったから、私はその約束が流れたものだと勝手に思い込んでいた。
「うん。もう話はついてるよ」
「ああ」って私はぼんやり言った。「本当に貸してもらえるんだ?」
「迷惑だった?」
「ううん、そうじゃないけれど」
シィちゃんの口ぶりからすると、どうも浴衣については家族の許可を得ているらしかった。だけどそれって問題なかったんだろうか。私たちがその浴衣を使うのは花蕊祭の最中で、その最中には夜のゴマ山に登ることにもなっている。まともな大人だったらそんなこと許してくれるとは思えない。
そう感じたことをシィちゃんにどう説明すればいいのか、私はちょっと考えあぐねてた。そのとき頭の中に閃いたものはもっと抽象的なイメージでしかなくて、言葉をうまく論理だてられずにいたんだ。そんな私をシィちゃんは不思議そうに見つめてた。
「多分、ゴマ山のことが気になってるんじゃないか、コオリは」ってイッタが横から言った。その推察に私はいきおい相槌を打った。
「そのことなら大丈夫」ってシィちゃんは言った。「相談したのはおばあちゃんだけだから」
「おばあさん?」
昨日シィちゃんの家にお邪魔したとき、私は彼女の祖母とも会っている。帰りがけに居間へ挨拶に伺ったとき、ちょうど彼女もそこにいた。二言三言の簡単な挨拶だったけど、終始物腰が柔らかく、そのとき感じた印象としては、うん、たしかに問題なさそうだった。私のファーストインプレッションはほとんど外れることがないし、彼女からはそういう包容力の高さが伺えたんだ。
「ゴマ山のことも伝えたの?」ってイッタは訊いた。
「うん。もしかすると汚しちゃうかもしれないから」
「それなのに、よく許してもらえたな」
昨夕のことを思い返して納得しているあいだ、二人はそうして着々と話を進めてた。
「ちょうど古い浴衣が物置に眠ってるから、それならいくら汚しても構わないって」
「へえ。古い浴衣。いったいシズカんちには何枚の浴衣が眠ってるんだろう。なあ、コオリ?」
「え?」って私は言った。ようやくぼんやりした世界から引き戻された。「なに? なんか言った?」
「あのな」ってイッタは呆れた様子で笑った。
だけどシィちゃんにしてもイッタの面倒な冗談には付き合わなかった。
「どっちにしろ私たちだけじゃ着付けができないから、おばあちゃんに相談しておく必要はあったの」
「そっか。着付けの問題があったんだ」って私は言った。
「昨日の雨で、地面がぬかるんでなきゃいいんだけれど」ってイッタは皮肉というよりも、純粋に気にかかってる様子で言った。
北校舎のドアをくぐるとき、視界のはずれでは夏の緑が中庭に茂ってた。
昇降口の元あった場所にスリッパを戻しながら、ふと後ろを振り返ると、この校舎には今きたばかりで、そしてこれから探索を始めるんだという錯覚が起こされた。錯覚というより願望で、そうであってほしいと私は感じてた。満足ゆくまで時間をループさせてから、ストップウォッチを押すように任意のタイミングで正しい時の流れを再開させる。それが出来ないのはなぜなんだろう。イッタとシィちゃんは既に外靴に履き替えていた。
殊勝なことにイッタは丸眼鏡の先生との約束を反故にしようとはしなかった。校舎を出たあと、彼はまっすぐに体育館や校庭のある方へ向かっていった。こちらの用事を済ませてしまえば、あとからいくらでも心変わりはできたはずだけど、イッタはその点、しっかり義理を通してた。
だけど最初に訪れた体育館で、私たちはちょっと出鼻をくじかれた。かつてシィちゃんが所属していたバレーボール部は夏休み中の合宿期間に入ってて、この日は学校に不在だったんだ。夏に大会のあるテニス部と違って、中学バレーの大会は冬に設けられていた。だからこの季節は主に強化練習に割り当てられていたらしいんだ。
「やっぱり」ってシィちゃんは館内の様子を見て言った。「そうじゃないかなとは、思ってたんだ」
体育館の横っ腹にある大きなドアは夏場の換気のために初めから全部開放されていた。目の粗いグリーンネットを網戸代わりにして、その奥で多くの生徒が部活動に励んでる。声を張り上げたり、きゅっきゅと乾いた音で床を鳴らすのは、ほとんどバスケットボール部員の役割だった。つまり、二人の想像によれば私が所属していたはずのバスケ部だ。
リバウンドを拾ったミディアムヘアの女の子が、髪をなびかせながらジャンプシュートを放ってる。
「まあ、居ないならいないでいいさ。返って手間が省けたろ」
「かなあ」ってシィちゃんはちょっと残念そうだった。
「いや実際に、シズカは楽でいいよ」ってイッタは羨ましそうに言う。「おんなじに、テニス部も不在なら助かるんだけど」
それならそれでイッタの中では義理を通したことになるみたい。だけどそこまでは簡単にいかないわけだ。体育館と部室棟のあいだの吹き通しの通路を抜けて、いくらか低い位置にあるグラウンドを見渡せるところまで着くと、ソフトテニス部の姿はすぐ目の前にあった。階段の真下にあるコートを使って、多くの部員が練習に打ち込んでいる。
彼はまったく苦りきった顔をした。
イッタがグラウンドまで降りてゆくのを私とシィちゃんは見送った。部室棟の並びからちょっと窄まったところに柔道や剣道の授業に使う格技室があって、私たちはそこの日陰で待つことにした。
格技室の日陰からでもフェンスを通してイッタの姿はよく見えた。私たちが建物の出っ張りに腰をおろしたとき、彼はちょうど手を上げて、ソフトテニス部の顧問らしき先生に挨拶してるとこだった。
「顧問の先生は昔と一緒?」って私はシィちゃんに訊いた。
「うん。まだこの学校に在籍してたみたいだね」
「そうすると、思ったより長引くのかな」
「かもしれないね」ってシィちゃんは言った。「でも、どっちにしてもヒデくんは簡単には逃げられないよ」
「うん」って私は言った。
格技室の前で待っていようと提案したのはシィちゃんの方からだった。つまり彼女は腰かけて待つほどの時間が必要だってことを最初から予見していたわけで、だから私もすんなりうなずいた。でもシィちゃんは、それだけじゃ物足りなそうな顔をした。ああ、って私は気づく。
「つまり、それってどういう意味?」って私は訊いた。
「ごめんね」ってシィちゃんは謝った。それから校庭の方を指差した。「ほら、もうみんな集まってきてる」
眼下に目をやると、彼女の言うようにイッタの周りには数人の人だかりが出来てた。遠くからでも彼らの目の輝きが見て取れた。
「ヒデくん、テニス部のエースだったから」
「エース?」って私は言った。「あの……あのイッタが?」
シィちゃんはおかしそうに笑った。
だけどあんなイッタでも中学時代はずいぶんソフトテニスにのめり込んでたらしい。特に三年生の夏、彼は地方予選を順調に勝ち進み、二位入賞、そして本戦出場という結果を出した。県内ではその年の唯一の本戦出場者ということで、地元新聞社から取材を申し込まれるほどだったし、学校側からしてもソフトテニス部創設以来初の本戦出場選手ということで、彼はいっときこの小さな社会の中で脚光を浴びることとなった。
本戦はあえなく初戦敗退だったものの、彼の残した功績はその後いくつもの余波を生んだ。その余波の一つが、現在イッタを取り巻いている状況だ。彼の周りに集まったのは当時の一年生部員で、それが二年経って、小さな伝説を知る最後の生き字引になっていた。しかもイッタが訪れたのは最後の大会を目前にしたこの瞬間だから、喜びも一入だったに違いないんだよ。
「でも意外だな、イッタの運動神経がそんなに良かったなんて」
「うーん、ものによるんだよ」ってシィちゃんは言った。「団体競技はあんまり得意じゃないみたい。でも個人競技になると、とにかく飲み込みが早かった。テニスもそうだし、野球も」
「野球って、団体競技じゃない?」
「ほら、打つときは一人だから」
「なるほど。たしかにバスケとかバレーとは違うかも」
「たぶん、戦術とか連携を気にするようになると、だめなんだと思う。テニス部でもダブルスは絶対に組みたがらなかったから」
「ああ」
「一人で集中する環境が適してるんだよ。スポーツでも勉強でも」
「そう、なんだ」って私はためらいがちにうなずいた。
この十七歳の夏に、私はイッタのことを完全には理解しきれていなかった。ううん、そうではなくて、私は私のことも理解していなかった。つまり私が高校生だった頃、世間はまだ私の特性に名前を与えてはいなかったんだ。だから私のどうしようもなく不器用で不合理な性質は、ただ私の特殊な個性だって風に捉えてた。他人にも同じ特性が備わってるなんて考えてもみなかったし、イッタの場合にも、昨日シィちゃんから聞かされたことは、私の性質とは関係のない、イッタ独自の生まれ持った悩みだと考えていた。
「似ているかもしれない」って、そんな風に感じだしたのは、シィちゃんとのこの会話の中からだった。いや、一応厳密に線引しておくと、それでも私はまだ違和感程度にしか感じていなかった。明確に彼と私を同一視するようになったのは、もっとずっと後のことだ。それは精神科に通ったことで私自身の特性に名前が与えられてからのこと。
さて、それでこの会話の最中、イッタはというと、彼は過去の伝説に雁字搦めにあって動き出せずにいたわけだ。
「長引くね」ってシィちゃんは再確認するように言った。
「イッタだけ送り出して正解だ」
彼らがどんな会話を交わしてるのかは、部活動の音や声にかき消されてほとんどわからなかった。ずいぶん距離もあったからね。そうなると私たちはいよいよ彼らから視線を引き取って、別の世界で時間を潰すことにした。ありがたいことに背中の格技室は無人のようだった。
その世界で私たちははじめ取り留めのない会話を交わし、それは本当に単調で取るに足らないものだったからここでは省くけど、そういう女の子同士に必要な通過儀礼を越えたのち、徐々に中身を花蘂祭の本題に迫らせてった。
というのは夜の登山を別にすれば、明日の予定は浴衣を借りるということが決まっただけで、他はすべて宙に浮いたままになってたからだ。
「そういえば、浴衣って何時に借りにいけばいいんだろう」って私は本題の取っ掛かりとしてシィちゃんに訊いてみた。
「明日は、たぶん、午後になってからじゃないと動けないと思う」ってシィちゃんは言った。「二時頃っていえば、もう自由になってると思うんだけど」
「そうなんだ。忙しいの?」
「花蘂祭の日は、夕方にお客さんを迎えるの。お客さんといっても近所の寄り合いみたいなものなんだけど」
「お客さん」って私は言った。「じゃあ、そのお客さんの相手をしたりとか」
「ううん、それは大丈夫。私とナツは準備だけ」ってシィちゃんは端的にそう言った。
その淡白な印象は、私の頭にふっと昨日の彼岸花を思い起こさせた。彼女たちが来賓の相手をしないのは、シィちゃんが言うところの「あだ花」的な家訓のためだって閃いたんだ。それを裏打ちするかのように、
「うちでは親族の集いみたいなものがないから、代わりに近所の人をもてなすことが多いんだ」ってシィちゃんは続けた。「春先や秋口にも、畑のお手伝いさんを招いて、ちょっとした食事会を開いたりしてる。うちでは慰労会って呼んでいるけれど」
私は返事に迷ってた。「大変だね、シィちゃんちって」って、とりあえずそれだけのことを言葉に注意しながら口にした。
でもこういう場合、往々にして当事者の方が健全だったりする。
「本当に大変なのはお父さんとお母さん。あと、兄貴もかな」ってシィちゃんは言った。その付け足しに深い意味があるなんて、自分ではどうも気づいてないようだった。
私はそのときクリーム色の夕日をどう処理するべきか迷ってた。昨日シィちゃんの家で聞かされて、それから一時間もしないうちに体験することになった、夕暮れの大通りの光景だ。彼岸花的家訓のおかげでそのことに行き着いて、今この場で切り出すべきかと躊躇った。で、結局そのまま伝えそびれてしまった。あまりにも唐突だし、それにまだ聞いておかなきゃいけないことがいくらかあった。大切な事柄ほど触れるタイミングって難しい。
「とりあえず、じゃあ、二時過ぎ頃にシィちゃんちに行くね」って私は言った。
「うん。こっちの都合で時間を限っちゃって申し訳ないけれど、できるだけ早い方が良いと思う」
「お祭りは何時からなの?」
「夕方の、たぶん六時くらいから」
「それなら余裕を持って行動できるよ」
「でも、三人分の着付けだから、どれくらいかかるかわかんない」
「三人分?」って私は言った。「あれ。イッタも数に入ってる?」
「ううん。ナツも浴衣を着たいんだって」
「ああ、ナッちゃん」
「私がおばあちゃんに相談してるのを聞いてたの。そうしたら」
「自分も着たくなっちゃった」
「そう。いつもはそのまま遊びに行くのに」
「羨ましいな、そういう妹さん」って私は言った。でもシィちゃんからすると、それには別の心配があるらしかった。
「おばあちゃんも夕方の準備をした後だから、適度に休んでもらわないと。それで時間には余裕があった方がいいかなと思ったんだ」
「ああ。なるほど。羨ましいなんて、ちょっと軽率だったかな」って私は目元を掻いた。
「ナツは無邪気だけど、後先考えないから」って彼女は言った。
「シィちゃんのことが好きなんだよ」
「うん」って彼女は微笑み、それで納得したようだった。
「でもさ、私たちのことに話を戻すけど、古い浴衣とはいえ、よく許してもらえたね」
「誰も着なくなってずいぶん経つから」
「ゴマ山のこともおばあさんに話したんでしょ?」
「うん。おばあちゃんになら何でも相談できる」ってシィちゃんは言った。「お祭りの最中に山へ登るって伝えたときも、若いうちには悪いこともしておいた方がいい、って」
「理解あるんだ」って私は言った。
「おばあちゃんくらいだよ、こんなこと話せるの」
「ああ」って私は、そう、特定の誰かを思い浮かべながら言った。それで余計なことを口走りそうになったけど、ぎりぎりのところで引っ込めた。
だけどシィちゃんも私の顔色で察したみたい。なにか含みのある笑みを浮かべてた。
「それで、浴衣のことなんだけどね」ってシィちゃんは気を取り直して続きを引き取った。「事前に確認してみたんだけど、思ってたより古そうなの」
「生地が傷んでたり?」
「ううん、保存はよかったよ。けど、ほら、柄がちょっと」
「ああ、今風じゃないんだ?」
「浴衣だからあんまり気にならないとは思うけど、念のため伝えておいた方がいいかなって」
「だと思う。浴衣ならあんまり気にならないよ」って私は反復した。
「良かった。お揃いの浴衣が、それしか残ってなかったから」
「うん?」って私は言った。「待って、シィちゃんもその古い浴衣を着ていくの?」
「そのつもりだよ。まずかったかな?」
「えっと。でも、シィちゃんは自分の浴衣を持ってるんだよね?」
「うん、でも、せっかくだから」って彼女は急に態度を改めて言った。
その瞬間のシィちゃんにはちょっと迫るものがあって、例えるならパンとスープを前に十字を切る敬虔な信者の姿に似てた。私の鼓動が不意に高鳴った。
彼女と出会った当時からうっすら感じていたことだけど、シィちゃんの私を見る目にはどこか異質なものがあった。憧れっていう以上の、尊敬とか崇拝に近い感覚だ。いや、そう感じるのは私が自意識過剰だったからなのかな。でもシィちゃんの表情にはときに鬼気迫るものがあって、私はそんな表情に触れるたび、飽きもせず繰り返したじろいだ。
いや、誰でもそうなると思うんだ。私はシィちゃんから能力以上の評価を受けていた。
「シィちゃんが、そうしたいなら」って私はどうにか言った。
「リッちゃんは困らない?」
「困らないよ、全然」
「そう」って彼女は安心したように微笑んだ。ただその表情にはどこか陰が差していて、それが美しくもあったし、または空気を張り詰めさせもした。
「でも、お揃いの浴衣なんて、よくあったね」って私はできるだけ話を逸らそうとして言った。
「お父さんに妹が二人いたの。私から見ると双子のおばさん」
「そうなんだ。双子の」って私は言った。だけどその後が続かなかった。だってその先を広げようとすると、どうしたって彼岸花的なシィちゃんちの家訓に行き着いてしまう。
格技室の周りが静かになった。下を見ると、イッタは顧問の先生と話し込んでいた。それでもまだ後輩の子たちはイッタを取り巻いていて、再び自分たちに順番が回ってくるのを待っている。
これは気まずい種類の沈黙だ。シィちゃんがそうさせてるのは明らかだったけど、なぜ彼女が突然そうなったのか、私にはわからなかった。
「ねえ、やっぱり私は自分の浴衣にするよ」ってシィちゃんはどこか振り絞るように言った。
「え?」って私は彼女に向き直る。「どうかした?」
「リッちゃんの迷惑になりそうだから」
私は目で驚いた。そんなこと全然考えていなかった。
仲の良い友だちがお揃いの浴衣を着合わせる。その映像を急いで頭に描いてみた。お祭りのさなかに、他の子たちは色鮮やかな浴衣を羽織っているけれど、その中で私たちはモノトーンのように浮いている。その映像は一瞬だけ鮮明だった。だけど次第に人混みにまみれて、どんどんぼやけていった。
要するに私にはなんにも気にかかるところなんてなかったんだ。
「迷惑っていうことが、わかんない」って私は言った。
シィちゃんは続きを待つように黙って私の目をじっと見た。
「思い出にしようよ、良い思い出に」、私は言った。
彼女は小さく口元を笑わせた。そこには何かの思慮深さや過去からの投影といったものが含まれていなかったから、それもまた薄らぐ笑みとは違ってた。ただ、陰は差したままだった。印象はだいぶ柔らかくなってきたけれど、彼女はまだ儚げなままでいた。
その表情で彼女は力強くうなずいた。まるで高価な食事を味わうように、ゆっくりとだけど確実に、彼女は「うん」って言った。
そしてまた静寂が訪れた。間近にある部活動の喧騒や虫の声たちはこの世界、この透明な薄膜より外のことだった。格技室の日陰に私たちは佇んでいる。そういう夏の日陰に包まれてると、なぜだか別の世界っていうのがすぐに作られる。
「思い出か」ってシィちゃんはおもむろに遠くを見上げて言った。「私、多分、この夏のこと、一生忘れられないと思う」
それからシィちゃんは、またおもむろに私の方を見た。
「リッちゃんに会えたから」彼女は言った。
私は何かの返事のために口を動かした。かすれた声さえ出なかった。
「本当に、嬉しかったんだよ、もう一度会えたこと」
「私も、シィちゃんに会えてよかったと思ってるよ」、私は静かに言った。
シィちゃんはほっとしたように、柔らかに微笑んだ。顔に差す陰は消えかかってる。でもほんのちょっとのところで彼女を美しいままにした。その表情を崩さずに、私の手にそっと自分の手を置いた。
手の甲にぴったりと吸い付いた。「え?」って注意深く私は言った。
「また会えるなんて、想像もしてみなかった」
「うん」
「私にしてみたら、これは神様からの贈り物」って彼女は言った。「なんて、大げさかな?」
「そんなことないよ」って私は声を振り絞る。
シィちゃんの手がゆっくりと後ろに下がり、そして私たちは指と指とを絡ませて手を握りしめあった。
いくらかその状態で見つめ合っていた。これが友情の正しいあり方なのか、そんなことさえ私にはわかんなかった。指のあいだで二人の熱が綯い交ぜになって、密閉された空間に蓄積されてゆく。少し汗ばんでもいた。
だけど頑なに握りしめ合った。神様からの贈り物、シィちゃんはそう言った。それは確かに大げさな表現だった。私を贈り物に選ぶ神なんてのがいるとしたら、それは寝起きに着るべき服を間違えるような神に違いない。だけどそれでもいいと私は思ったの。決して能力以上の評価を受け止めたわけではないけれど、シィちゃんの感じてることを無下にはしたくなかったんだ。……それに、私の方でもこの美しいばかりの十七歳の夏の日々が、既に思い出として結晶化され始めてた。そしてそんな場合にはきっと、日常とは違う別の世界を否定しなくてもいいんだと、そこに身を委ねることにした。
いや、もちろん、私たちの友情はある瞬間にちょっと度を越していた。それはちゃんとわきまえている。でもね、それでも私たちは、十年越しに出会えた感動と、それが一旦は短い間隔で閉ざされること、あまつさえそうして閉ざされようとしている門がこの瞬間にも刻一刻近づいてきてること、そういう私たちを取り巻いてる状況のために、感情を抑えることなんてやめにした。今ここで躊躇ってしまったら、大切な何かを得られない気もしてた。
ずっと見つめ合っていた。握りしめ合っていた。汗が滴り落ちてきても、私たちはお互いの手を離そうとはしなかった。そこに結ばれはじめてる友情を、決してほぐさせはしないとでもいうように。
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