第三節(0503)

 その長い長い坂の途中から、大きな建物が見えてくる。地中海風の教会とでもいうような、真っ白で様式的な建物だ。厳密にいうとそれは坂のまっすぐ先ではなくて、坂を中ほどから折れた、田畑の隙間のようなところに建てられていたのだけれど、ともかくそれが私たちの目指す中学校だった。


 昇降口の近くに自転車を停めて、私たちは一旦、外から校舎を伺った。多角形の出っ張りに窓とガラス戸をはめ込んで、前面には円い石柱を等間隔に走らせたエントランスの様式は、近くから見てもまさしく古代ギリシャの建築だった。周りの田園風景とはちょっと不釣り合いなほどだ。


 敷地の奥の方には体育館が見えていて、運動部の掛け声がそこから絶えず聞こえてる。

 小学校を訪れたときとは違って、私はその声たちになにか温かいものを感じてた。彼らの青春の肉感がそうさせていた。


「シィちゃんの妹さんは、何部だっけ」って私は訊いた。

「吹奏楽部」ってシィちゃんは端的に、はにかむようにして言った。

「ああ、じゃあ、校舎の中なんだ」


 見た限り昇降口のドアはどれもきつく閉ざされていた。イッタがそのうちの最も手前にあるドアを引っ張ると、実際にびくりともしなかった。


「でも、どこかは開いてるんだよね?」って私は振り返ったイッタの、なんとも形容しがたい仕草を見て言った。

「手当り次第だな。二人は近場のドアを調べてよ。俺は奥の方を見てくる」って言うと、イッタは何枚かのドアを素通りして多角形の角を曲がった。


 けれども私たちがいくつかのドアの施錠を確認しているあいだ、彼はたった一枚のドアの前に立ち続けていて、なんであれば取っ手に肘をついて体を休めてもいた。


「真面目にしないと、怒っちゃうよ」ってシィちゃんは茶目っ気に言った。

 するとイッタは今まで無目的にぼやかしていた表情を急にぱっと華やがせて、そのあまりにも得意になった顔で目の前のドアを開いてみせた。


「ヒデくん、知ってたの?」ってシィちゃんはちょっと驚いたように言った。

「さあ。どうだろうね」

「自分だけ正解選んでさ」って私は言った。

「だけど問題はこれをどう処理するかだよ」そう言うとイッタは、いま開けたばかりのドアを、ひどくゆったりとした、まるで空気圧に抵抗されでもしているような速度で押し戻した。


「正面切るんじゃなかったの?」って私は再び蓋されたドアを見て言った。

「別に、俺はそれでもいいけれど。不安がってたのはコオリの方だからね」

「ああ」って私は言った。つぶやいてから、後方に振り返った。


 体育館の奥の奥の方からは、ときおり白球を弾く金属音が鳴っていた。体育館の横っ腹に部室棟らしい二階建てのプレハブが並んでいて、二つの建物のあいだには細い吹き通しの通路が敷かれてる。どうもその通路をたどってゆくとグラウンドに着くらしかった。


「やっぱり挨拶しておいたほうがいいのかな」

「大丈夫」って、だけどそれはシィちゃんが言った。「万が一のときはヒデくんが場を収めてくれるんだから。ね?」

「見知った先生ならな」

「ほら」

「ああ、うん」


 シィちゃんにしてはちょっと軽はずみな言動だと感じた。昨日一日お預けを食らったことで、どうやらみんな妙な興奮を覚えてるらしかった。


 来賓用の出入り口でスリッパに履き替えたとき、受付の窓はカーテンで閉ざされていた。それは私たちには都合がよくて、融通の効かない事務員さんを相手にせずに、難なく校舎の中へ侵入できた。


 外装の真っ白さと違って、校舎の中は木の雰囲気に包まれていた。壁にも床にも浅い色の木材が使われてたの。私たちが動くたび、マツかヒノキか、ふわっとその香りが漂ってくるんだ。人影は廊下のどこを探しても見当たらない。ただ艶のある床が突き当たりまで続いてる。古い木造校舎というよりも、おしゃれなコテージに近い印象だった。


 ここが私の母校なんだ、ふとそう思った。隣でシィちゃんが「懐かしいね」って言うと、私はそれを自分に向けられた言葉だと錯覚しそうになった。


「二年ぶりか。なんにも変わってないけれど」ってイッタはつぶやくように答える。

「卒業したら、見に来ることもないもんね」

「そうなんだ?」

「とりわけ用事もないし」

「なるほど」って私は言った。


 実際に私が卒業した中学校は当時通っていた高校の途上にあって、ほとんど毎日路線バスの窓から目にしてた。もちろん内側と外側でまた印象は違ってくるだろうけど、それでもこのとき二人がぼんやりしていたほどには、卒業した中学校というものに特別な感情を抱いてはいなかった。私がここを母校だと感じたのは、それとはまた違う感傷だ。


 階段をあがって、私たちがまず目指したのは、イッタとシィちゃんが中学校生活の最後を過ごした教室だった。昇降口側の北校舎は通常教室の棟になり、三年生の教室はその三階に位置してた。


 廊下をゆくあいだ、北校舎の中はひっそりと影に飲み込まれてた。音というのは私たちの会話や足元のスリッパがペタペタと発するくらいで、別棟から聞こえてくる吹奏楽の音色や、グラウンドからの掛け声や、それからたまに鳴る金属音は、どれも壁の外にあるものだった。それらはまるで遠くのラジオから流れ出す古い歌謡曲みたいに、ちょっとノイジーだけど心地よく私たちの耳に届けられていた。


 そのせいで北校舎三階の廊下はすこし倦怠的だった。ゆるやかに膨張を続けて、気がつけば元の大きさに戻ってる、ここにはそういう、疲労感を伴う気だるさが漂っていた。施設や建物の収容力が充分に満たされていないとき、その手の感傷はよく引き起こされる。


「そこだよ」ってイッタが唐突に指をさす。「そこの教室」

「2組?」って私はルームプレートを見ながら言った。廊下に連なる教室は、なぜか昇降口に近いほど大きな数字が割り当てられていた。


 整然と並んだ三十数個のスクールデスクと井桁状に走る通路、半開きのカーテンとスチール製のスクールロッカー、文字の消された黒板には埃のようなチョーク跡が浮かんでる。それはどことをとっても一般的な教室の風景とおんなじだった。スクールロッカーの上では教科書や体育館シューズが、夏休みなのに置き去りにされたまま、持ち主を待っている。


「俺の机はここだったかな」

 教室の中心よりちょっと外れた位置にある机の前に立つと、イッタはそう言った。真似するようにシィちゃんも、「私はここ」って壁際に近い席に立った。


「そういえば、二人とも同じクラスだったんだよね」

「九年間な」

「考えてみれば同じクラスで付き合うって、勇気いるね」って私は特に何も考えずに言った。シィちゃんは恥ずかしそうに微笑んだ。

「コオリの席はどの辺りだったんだ?」

「私は、たしか窓際だったと思う。後ろの方の席」言ってから私も、彼らの行動を真似てみた。「多分、この辺りだよ」


 ぽんっと両手を置くと、机の表面はその瞬間だけひんやりとして心地がよかった。そのときふと視界に映ったカーテンは、風もないのにかすかに揺れていた。


 もわっとした暑さに包まれた教室の中に、半開きのカーテンから何本もの光線が入り込んでいる。覗いてみるとベランダの奥に花壇や噴水の景色があった。それより奥には南校舎の壁が立ちはだかっていて、左右にも校舎の壁がある。この学校は、アラビアン映画なんかでたまに見かける隊商宿、いわゆるキャラバンサライのようなロの字型になっていて、中央のくぼみに中庭が広がっていた。


 室内の影の世界と、一歩外にゆけば在る日向の世界。カッターで切り分けたような明確なコントラストが、夏の静寂の倦怠感をより強くしかけてた。視線は中庭に注がれてるはずなのに、どんどん影の世界に吸い込まれてく。


 そのとき私はある冬の日のことを思い出していた。中学三年のある日のこと、卒業式間近の、私たちにしてみれば受験シーズン真っ只中の日のことだ。受験と追い込みで教室の半分ほどが席を空けていて、しばらく前から三学年の生徒には自由登校・自由学習という措置が取られてた。まだ冬の厳しさが残る季節と、閑散とした室内は、それだけで寒々としたものがあった、けど、本当の切なさは僅かに顔を出していた生徒も下校する放課後にこそ待っていた。


 誰もいなくなった教室でなぜか私は読書に耽ってたんだ。そうしてふと顔をあげたとき、がらんとした室内の様子に気がついた。文字通りそこには私しか残されていなかった。


 あと一ヶ月もしないうちに、やがてこの光景が本物になるんだなと、私はそのときぼんやり考えた。特に印象深い三年間でもなかったけれど、そう考えると急に疲労感に襲われた。


 夏の静寂の中で見る教室にもそうした種類の倦怠感が備わっていた。でも、微妙なところでそれはどこか違ってた。冬には心を抉るようなそれも、夏になると眠気を誘うような感傷に変わってる。寂しさにも幅があるんだってことを私は初めて知った。それが季節によって変えられるということも。


 窓の外から室内に目を返してみると、イッタやシィちゃんの顔にも、なんとなくそういうった種類の感傷が浮かんでるように思われた。いや、それは私の勘違いだったかもしれない。そう見えたのはほんの一瞬だけだったから。


 というのは、すぐに彼らの顔色を変える事件が起こったの。そういっちゃうと大げさだけど、つまり廊下の奥から足音が聞こえてきたんだよ。乾いた木目の床に、足音は小さいけれどよく響いてた。靴がコツコツと鳴っていて、音の種類から正体が来賓や生徒じゃないってことがすぐにわかった。

 一瞬、私たちは顔を見合わせた。すぐにイッタがベランダを指差した。


「おい、早くしないとやばい!」

 彼は小声で叫ぶように言った。口元にはなぜか楽しげな笑みが浮かんでた。


 足音は三年二組の前で止み、不幸にもドアががらりと開けられた。もし私たちが逃げ遅れていれば、間違いなくその場で出くわしていた。不幸中の幸いだったのは、彼が教室に入ってきただけで、ベランダの陰までは調べ尽くそうとしなかった点だ。間一髪で私たちは難を逃れた。いや、それが不幸もしくは難だったどうか、後のことを考えると判断しづらいんだけど、でもとにかくこのときは逃げ切った。彼はしばらく室内に居座ってから、やがて踵を返して教室を出ていった。

 コツコツと、廊下の足音が復活すると私たちは肩で息をした。


「ぎりぎりだったね」ってシィちゃんが笑う。

「いやあ、危なかったね」


 イッタは顔だけちょこんと出して、窓から教室の中を伺った。それから万事危険がないことを身振りで私たちに知らせた。


「ねえ、だけどさ、隠れちゃってよかったのかな」って私は言った。

「良かったよ、スリルは味わえたからな」

「リッちゃんはもうちょっと真面目に聞いてるんだと思うよ」

「いや、ほら、相手の顔がわからない以上はさ」ってイッタはいま思いついたらしい言い訳をもっともらしく付け足した。素直なシィちゃんはそれを素直なまま受け止めた。

「たしかに、知らない先生だったら追い払われてたかも」

「とりあえず、中に戻ろうよ。外からだと丸見えだよ、ここ」って私は言った。


 室内に戻ると廊下の足音は消えていた。それで私は一瞬ほっとしたけれど、いや、考えてみると返ってその方が厄介だった。足音の動線を追えないことは、どこにでも危険が潜んでる恐れを意味してた。例えば、足音の正体はいま隣の教室にいて、こちらの物音にじっと耳をそばだてているかもしれない。


「さっきの先生、見回りかな」ってシィちゃんはなるべく声を小さくして言った。

「教師って決まったわけじゃないけどね。まあ、でも、大方見回りだろうな」

「っていうと、先生以外の可能性も、なくはないの?」

「いや、言ってみただけ」


 私は冷ややかな視線を送った。まったくさ、たまにイッタは面倒くさい。


「だけど知らない先生が見回りをしてるとしたら、大変だね」ってシィちゃんはようやくこの計画に怯えだしたように言った。

「そうだな。毎回ベランダに隠れるのもユーモアに欠けるし」

「どの先生か、わかればいいんだけれど」ってシィちゃんはイッタの不真面目を無視して続けた。


 こうした場合イッタは、他人の深刻さが自分には響かなかったことを示すように、必ず興味なさそうに肩をすくめてみせる。このときもそう。だけど彼は動作の終わりがけに、「あっ」って何か思いついた顔をした。


「どうかした?」

「なあ、さっきの足音、一組の方に向かっていったよな?」

「だったと思う」ってシィちゃんがうなずいた。

「よし。ちょっと戻ろうか」

「ねえ、どうかしたの?」って私は言った。でもイッタはそのまま踵を返し、またしてもベランダに出ていった。


 私とシィちゃんも仕方なくついて行く。

 イッタは両手で手すりを掴むと、前のめりに身を乗り出した。ベランダから体半分を外に出した状態で、顔を右手側、西校舎の方に向けた。


「イッタ、危ないって」

「まあ待てよ、たぶんそこを通るんだ」


 彼が顔を向けていた西校舎は一階部分が渡り廊下になっていた。二階にはドーム型の空中廊下が張り出してたのだけど、イッタはそこには注意を向けず、ただずっと石造りの廊下にだけ注目してた。

 しばらくすると北校舎の方から人影がにゅっと現れた。


「きたきた」ってイッタははしゃいで言った。


 年齢は三十代中盤、白いスポーツウェアを着た男の人だった。背丈は周囲との比較で一七〇センチくらいかなって思われた。顔の雰囲気は遠すぎてよくわからなかったけど、整髪料でツヤ出しをした刈り込みの髪型と、それから大きめの丸眼鏡が印象的だった。


「知ってる先生?」

「えっと」ってシィちゃんは言った。思い出せないというよりは説明の手順に悩んでいるようだった。事実イッタが「社会科の教科担任」っていうと、シィちゃんは「うん」ってうなずいた。


 丸眼鏡の彼はこちらに気づく様子もなく、石造りの廊下を渡ってそのまま南校舎に消えてった。


「よし。これで見回りが誰か確認できた」

「それって、もう安心?」

「一応、三年間世話になった先生だね」

「私たちのことも覚えてると思う。同じ学年のクラス担任だったから」

「あとは交渉次第だな」イッタはようやく地面に足をつけて言った。


 それなら黙って見送ったりせずに、声をかけてもよかったかもしれない。って、私がそんな感じのことを言うと、「わざわざこちらから身を晒すこともないだろう」ってイッタは答えた。校内にいる全般、逃げ切れるなら逃げ切ろうという腹だ。正体を確認したのはもしものときの保険を求めてだった。


 そしてこの保険が私たちにちょっとたちの悪い大胆さを与えてしまった。次はどこをさまようかという算段に、私たちもまた南校舎を挙げてしまったんだ。北校舎には他に見て回るようなところもなかったし、となると特殊教室の並ぶ南校舎は格好の的だった。


 ひとつ下の階におりて、南校舎へはドーム型の空中廊下を使うことにした。単純に渡り廊下より距離が近かったということもあるけれど、イッタいわく丸眼鏡の先生と同じ道を使うのでは面白みに欠けるとのことだった。気分はもう鬼ごっこだよ。私もシィちゃんも楽しんでいた。


 空中廊下は粒の粗いコンクリートの床と全体を覆うアクリル板からなっていて、透明な屋根からは容赦なく真夏の日差しが降り注いでた。それが地面に照り返されると、筒型の中はちょっとしたサウナのようだった。


「珍しいね、学校にこんな廊下があるなんて」むせ返るほどの熱気と、それから来賓用スリッパの歩きづらさに気をもみながら、私は言った。


「たしかにね、一般的ではないとは思う」

「でも、移動教室のときは便利なんだよ。わざわざ一階まで降りる必要がないから」

「東校舎からは回って行けないの?」

「あっちは職員室とか校長室が集中してるから、なんとなく使いづらいんだ」

「そうなんだ」って私はそのときためらいがちに言った。そして何かをごまかすように、額の汗を拭う振りをした。


 誰にも気づかれないのなら、それでもよかった。ううん、むしろその方が良かった。だからなんでもない振りをしたんだけれど、シィちゃんは一瞬の違和感を機敏にも見逃さなかった。


「どうかした?」って彼女は言った。

「うん?」って私は言った。

「ううん、なんだかそんな気がしたから」ってシィちゃんはそのとき言った。


 私はどきりとした。心を見透かされてしまったことよりも、それですっかり意思の疎通ができてしまったことに驚いた。いつ会話の前後が噛み合ったかもわからない速度で彼女は文脈を一つに束ねあげてしまった。そういうスリムな会話ができるのは、大人たちだけだと私は思ってた。急に気後れをして言葉を詰まらせた。


 私たちの会話に違和感を感じたのか、イッタが不思議そうに振り返る。彼は立ち止まったまま続きを待っているようだった。それで私はとうとう観念をした。


「いや、私もさ、この廊下を使うようなことがあったのかなって、ちょっと思っただけなんだ。本当にそれだけなんだけど、ちょっと寂しくなっちゃって」


 そんなことを打ち明けたらせっかくの雰囲気が台無しになっちゃう気がしたんだよ。でも二人は平坦に受け止めた。


「なにをいまさら」って、まずイッタが鼻で笑ってくれた。「中学校を案内することになったのだって、第一それが理由だろ」

「そうなんだけど、いざ見て回ってみるとさ」

 シィちゃんは微笑んでいた。例のあの、薄らいだ笑みとはまた違ってた。それよりは少し柔らかみがあって、暖かい表情だった。

「なんか、ごめんね、急に」

「ううん。私も似たようなこと考えてたよ。リッちゃんがいてくれたら、もっと楽しい中学校生活になってただろうなって」

 私はためらいがちに笑い返した。

 でも、たしかにそうだ。私も本当にそう思う。私の横に、絶えず二人がいてくれたなら。


 だけどそんな未来だか過去があったとして、その場合の私たちはどうなっていたんだろう。十年間の空白がシィちゃんの特別な思いを育て上げたのだとしたら、私たちがともに時間を過ごしたという仮定の先でも、彼女とはこうして気さくに話し合える仲を保てていたんだろうか。


 私の性質には他人を幻滅させるという副作用がある。私の本質はあまりにも人付き合いに向いてない。それでもできるだけ人当たりよく接しようと意気込むのだけど、長く続けていると次第にボロが出る。そうしていずれ誰もが距離を置き始めるわけだ。だからもしかするとシィちゃんだけでなく、イッタとも単なる幼馴染みというだけの関係に落ち着いてしまったかもしれない。いや、きっとそうなっただろう。ある程度分別のついたこの年齢だからこそ、二人との再会に価値があったんだ。


 ねえ、それなら人生っていうのは玉石混交で、表と裏でなんとなく噛み合っているとも考えられるんだ。このときの私はそれを良い方面に捉えてた。そこになにか運命的な発見を覚えたりもしてね。


 南校舎に着くと吹奏楽の音色は一回り大きくなった。空中廊下のドアを開けると目の前には階段があって、彼らの演奏はその階段の上の方から、段差をなめるようにするすると流れてきた。金管楽器が力強く響いてる。


「ナッちゃん、頑張ってるな」ってイッタは階段の吹き抜け部分を見上げながら言った。

「担当はどのパート?」

「トランペット」ってシィちゃんは言った。「本当はサックスをやりたかったみたいだけど、高すぎて駄目ってお母さんに断られちゃった」

「サックスってそんなに高えの?」

「練習用だとそんなには変わらないみたい。でも高校生になったら本物を買ってもらうって約束をして、今は繋ぎに別の楽器を使ってるってことなんだよ。本当は吹奏楽じゃなくてジャズバンドがやりたいみたいなの」

「ジャズバンド」って私は言った。

「確かにそんな小洒落た部活、こんな寂れた田舎にはないわな」

「私の母校にもなかったよ。相当珍しいと思う」

 シィちゃんは一旦うんってうなずいた。


「だけどトランペットも本気で打ち込んでるよ。繋ぎのパートでそこまでやれば、お母さんたちもきちんと納得してくれるだろうって」

「それでわざわざ別の楽器を選んだってわけ?」イッタは手すりに背中を預けて天井を仰ぎ見る体勢になっていた。それをむっくり起き上がらせて、「殊勝だねえ、ナッちゃんも」って続けた。

「ちょっとは意地もあると思うけど」

「いや、良い意味でな」って彼は語弊を直すように言った。


 第二理科室、被服室、調理室、情報処理室と、南校舎の二階には各種の特別教室が無節操に並んでる。そうした配置は私の学校でもそうだったのだけど、どうして特別教室っていうのは常にこうも場当たりな設計なんだろね。

「もっと順序立てて並べておけばいいのに」って私が言うと、二人は愛想笑いした。

 そういう並びの中に音楽室があった。いま三階から奏でられる吹奏楽の音色は、彼らのために部室化された空き教室を中心に響いてくるものだった。


 階上の賑やかさに中てられて、私たちの足は自然と音楽室に向いてった。

 特別変わったところのない、普通の音楽室だ。水玉模様の吸音壁と、グランドピアノ、教室の正面にはちょっと小高い指揮台も置かれてる。でもベートーヴェンやモーツァルトは貼られてない。長方形のウッドブロックが積み上げられて、室内の一部が階段状の仮設ステージになっていた。


 載ってみると仮設ステージの足元はちょっと心もとなかった。しっかり固定されてあるわけじゃなくって、積み木遊びみたいにただウッドブロックを重ね合わせてるだけなんだ。重みのおかげである程度は安定していたけれど、段差に蹴躓くとわずかに隙間が空いた。私は二段目、シィちゃんは三段目まで登っていって、そういう可能性があったかもしれない授業のワンシーンを切り抜いた。

 で、振り返るとイッタは、指揮台の端っこに腰かけていた。


「ヒデくんだけ仲間はずれ」

「そこに立てばいいだけじゃん」

「遠慮しとく」ってイッタは挑発的に笑って言った。「そこに立って何がしたいんだよ、君たちは?」


 確かに単なる悪ふざけだった。なにかのコンクール向けらしいハイテンポの楽曲が、私たちをごっこ遊びの夢中に引き込んでるだけだった。でもそれも、仮設ステージを登りしなにぴたっと止んで、行き場を失ったままここに立ち呆けてる。

「先輩たちの悪ノリには付き合ってられないってさ」ってイッタは天井に人差し指を突き上げながら言った。


「さっきは自分がはしゃいでたのに」って私は言った。

 それからシィちゃんと目を見合わせて、仕方ない、ステージを降りることにした。

 だけどそのとき、吹奏楽の音色がぱっと蘇ったの。


 聞こえてきたのは井上陽水の『少年時代』だった。イントロを省いてヴァースから始まったから、すぐにそれだと気がついた。でもさっきまでの曲と比べるとテンポはずいぶん落ちたのに、返って演奏はぎこちなくなっていた。降りかけた足を止めて聞き入ってると、演奏はサビの前で何度も中断されて、彼らはそのたびに頭まで戻って再開するを繰り返してた。


 イッタと目が合うと、彼は首を傾げた。「息抜きに遊んでるんじゃないの?」


 うん、たしかにそうらしかった。音のリズムが合っていないのはおそらく指揮者の先生がいないからで、彼らは小休憩かなにかを利用して自由に演奏してるだけだった。だから初めは少ない音色でしかなかったのが、繰り返すうちに段々と参加するパートも増えてきて、それから徐々に、旋律も調和がとれてきた。


 五度目の再開は、いよいよサビまで止まらなかった。物悲しいメロディが力強い演奏で奏でられている。そしてとうとう、この曲の中でも特に心の締め付けられるフレーズが始まる。そのとき、シィちゃんが静かに歌い出した。



 夢が覚め夜の中

 長い冬が窓を閉じて呼びかけたままで

 夢はつまり

 思い出のあとさき



 とてもシィちゃんらしい歌い方だった。っていうのは決して優等生的な歌い方ではなく、穏やかで、口ずさんでるようでもあったんだけど、そこには過去の後ろ暗い感情が込められている、そういう彼女らしい歌い方だった。要するにシィちゃんは、そのとき心のなかで薄らいでいた。声は澄んでいて、それが余計に悲痛にさせたし美しかった。

 彼女の歌声にうっとりとする。

 ああ、だけど、それでも私はまだ夏の中にいた。私はかねてこの曲のことを知っていた。私の卒業した中学校でも『少年時代』は課題曲として使われて、そのときから私は悲しい旋律の曲だと感じてた。そして十七歳の当時にしても、ただそう感じているだけの状態には変わりがなかった。

 この曲の本当の悲痛さを知るのは、いくらか年齢を重ねた今になって、ようやくのことだった。



 夏が過ぎ風あざみ

 誰の憧れにさまよう

 青空に残された私の心は夏模様



 夏の盛りを終えたのち、私たちは一体どうすればあの輝かしい時代を取り戻すことができるんだろう。ううん、取り戻すことは不可能だ。それはもう私たちの手には届かない。ただ遥か後ろの方で輝いているばかりなの。だからいま夏の中にいる子どもたちを隣に置いて、彼らの躍動を眺める形でしか、あの頃の暑さを思い出せなくなってしまってる。


 それは祖母やサヤコさんが高校野球に見入っていたのとおんなじことだった。若さの中で青春を作り上げている高校球児の活躍が、ほんの少しだけど自分たちの時代をその胸に戻してくれる。私たちは「誰の憧れ」にさまようことで、どうにかあの日々に感じていた熱情を呼び戻すことができるんだ。でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに凍える季節がやってくる。熱情はまた秋の高い空に帰っていって、冬にはただ輝かしかった時代の残滓がたゆたうだけだ。


 こういう曲を青春の只中にいる子どもたちに歌わせるのは、ちょっと残酷な気もする。


 でもシィちゃんは、ただ口ずさんでるようにみせながら、しっかりとその感情を歌声の中に込めていた。彼女には何度も驚かされるよ、私がいまになってようやくわかりかけてきたことを、すでに十七歳のあの夏の日々には、歌に載せることができてたんだから。


 流れに乗った演奏は、しばらく止まらなかった。シィちゃんもそのどこかで担当しているはずの妹さんと、密かにセッションを続けてた。私はその両方に聞き惚れていた。黒い暗幕のカーテンに閉ざされた明かりのない音楽室だ。室内が夏の気だるさに満たされていた。


 でもそのとき唐突に音楽室のドアが開けられて、緊張は一息に破られた。

「なんだ、誰かと思ったら、由利と滝沢じゃないか」って彼は言った。


 それは例の丸眼鏡の先生だった。ツーブロックの刈り込みと白いスポーツウェアが特徴の、さっきベランダから見かけた見回りの先生だ。近くで見ると体育会系の精悍な顔立ちをしていて、全体の印象からすると、むしろ丸眼鏡の方が妙に浮いていた。


「どうしたんだお前たち。それに、こんなところに忍び込んで」って彼は続けた。

 あまりの急さに私たち三人顔を見合わせた。目があったときシィちゃんはちょっとバツが悪そうにした。それがほんの数秒続いたあと、指揮台に腰かけてたイッタが、

「いやあ、ちょっとね」っておもむろに立ち上がった。それから丸眼鏡の先生をよくよく観察するようにして、ああ、彼に明確な敵意がないんだってことを知ると、「いずれ見つかるとは思ってたんだけどさ」


 丸眼鏡の先生は呆れたように肩で息をした。


「いつからうろついてたんだ、まったく」

「さっきだよ、ついさっき」


 それからイッタは、暇な夏休みのちょっとした余興だというでっち上げを丸眼鏡の先生相手に聞かせた。その作り話によると私とシィちゃんは高校のクラスメイトで、彼は私たちがいるところにたまたま出くわしたという設定だった。


 十年ぶりに故郷にやってきた幼馴染みなんて説明は、まあ確かに、この場では必要ないんだろうけど、それにしたってよくもそんな嘘がすぐに出てくるものだ。大きく吐かれる嘘よりも、話を折りたたむための細かい嘘の方が、私は感心してしまう。それに、丸眼鏡の先生もすんなり信じ込んでいた。


 いや、どっちかっていうと丸眼鏡の先生は、イッタの話が嘘でも本当でも、特に関心はないって素振りだった。それよりも懐かしい卒業生の姿に気を良くしてた。


「あのな、最近はこういうことにも許可が必要なんだから」ってそれでも彼は立場上、釘を刺すように言う。「今日は大目に見てやるけど、あまり目立ったことはするなよ?」

「唄うのは音楽室の中だけでだよ」イッタが軽口を叩くと、丸眼鏡の先生は穏やかに笑った。それで私はちょっと驚いた。


 私はそれを不用意な冗談だと思ったの。だから丸眼鏡の先生が急に態度を豹変させるんじゃないかと、一瞬間のうちに想像してた。でも実際にはそうはならずに、むしろこの軽口が緩衝材として機能した。前もってイッタは、なにかことが起こっても「後からどうにでもなる」って言っていたけれど、なるほど、たしかにその通りだった。


 小学校のプールサイドでもそうだったけど、イッタはとっさの危機回避能力がずば抜けて高かった。彼は相手の表情からすぐに自分の立ち位置を決められてしまう。それって相手の感情に機敏な私とよく似てた。けど、肝心なとこでちょっと違ってた。私は彼みたいに立ち位置をころころ変えたりなんて、そんな器用な真似は出来ないからね。


 ついでに丸眼鏡の先生に触れておくと、彼はイッタとシィちゃんの関係を察しているらしかった。それもどうやらこの場で発見したという風ではなくて、彼の目の動きは前々からの状態を再確認している風だった。在校当時、二人は必死に交際を隠してたと言っていたけれど、どうも大人の目は騙せてなかったみたい。とにかくそういうこともあって、彼はイッタたちの訪問に気をよくしたんだと思う。


「そうだ、せっかくだから部活の方にも顔を出してやれ。大会に向けてみんな励んでるぞ」

 最後にそう言って、丸眼鏡の先生は音楽室を出ていった。


 イッタはやれやれって感じで肩をすくめる。

「OB風吹かせろってか」

「テニス部だっけ?」って私は言った。「で、シィちゃんはバレーボール部」

 シィちゃんは、うん、ってお愛想にうなずいてから、

「あとで挨拶に行ってみようか?」ってイッタに問いかけた。


「面倒だな」って彼は言う。「暗に交換条件だよな、これ」

「じゃあ、校内を回った後でだね」ってシィちゃんが言った。

「そうだな。免罪符も得たわけだし」

「なんか、思ってたより簡単に受け入れられちゃったね」

「ベランダで確認しておいたのが役立った」

「もし知らない先生だったら?」

「俺は即刻、シズカに唄うのをやめさせてたね」


 だけど、それでもイッタなら、どうにか切り抜けてしまいそうだった。というのは買いかぶり過ぎかな。小学校では結局追い出される選択しかなかったわけだからね。でもだからこそ私が彼を人間的だと思うのは、こういう他人との関係づくりがあるからなんだ。同じ卒業生でも音楽室で唄える人と唄えない人がいる。


「ねえ、ところで、このあとってどうするの?」って私は言った。

「こうなったからには三階だろ」

「そうだね、ナツの様子も見ておきたい」

 ああ、二人とも更に大胆さが増してるようだった。


 だけどずいぶん前から演奏はコンクール向けのお遊びではない曲に戻ってて、そこへ乗り込むほどの無謀さまで持ち合わせなかった私たちは、三階へ上がると、ひとまず隣室の美術室へ避難した。


 入り口から中を覗くと幸いにも室内は無人だった。元文芸部員の身からいわせてもらうと、それはとりわけおかしなことでもなかった。多方面にコンクールの展かれる美術部の生徒は私たちよりいくらか忙しそうではあったけど、それにしても意欲的に夏休みを活動に費やそうとする部員は稀だった。文化部は右も左もそんな感じで、吹奏楽部は拠点を校舎内に置いているだけの運動部だ。


 私たちが美術室に潜り込んでからも彼らは青春の結晶をかき鳴らし続けてた。壁一枚隔てた向こうから聞こえてくるはずの音が、だけどなぜか、この部屋の中ではぶ厚いフィルターを通して聞いてるように心もとなかった。カーテンが閉め切られて、暗室だったのがそう感じさせてたのかもしれない。


 暗い室内の片隅のほうに、途中の絵が二枚、イーゼルに架けられていた。どちらも似たような風景画だ。一つは何輪かの淡い紅色の花に焦点を当てていて、もうひとつは紫色の花を大きく中心に描いてた。室内の薄暗さがキャンバスにかぶさると、色合いは実際より落ち着いて感じられた。寂しい花だなと私は思った。


 隣室からの喧騒と、この薄暗い美術室。二つはまるで対照的だった。それが部屋の入り口の引き戸のあたりでないまぜになって、居心地がいいとも悪いともわからない、不思議な感覚を生み出していた。

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