第二節(0502)

 かなり安っぽい比喩ではあったと思う。でも実際に、私たちはある瞬間まで永遠にそうした道の上に身を置き続けるの。それは紛れもない事実で、顔を伏したままではいられないんだ。


 いや、つまりさ、イッタと私の関連性にかこつけてというわけではないんだけれど、ちょうどいいから私はいまここで、そういう話まで君に聞かせておきたいって思ったの。美しいだけの十七歳の夏という坂道の先に、何が待ち受けていたのかっていう話をさ。


 まずはイッタの話から始めよう。彼はなぜかはわからないけれど幼少期に自分の特性に気付いてしまって、おかげで私と似たような境遇を回避してきたし、自分の特性と折り合いをつけることで彼なりの処世術だとか学力的な知能の高さを獲得することさえできた。彼なりの処世術というのはつまり、あの皮肉っぽい性格だとか、シィちゃんが言うところの、それと悟られない方法で優しさを差し伸べたりする方策だ。あれはイッタの根の性質ではなくて、表面にコーティングした『イッタ』という名の役柄の姿なの。


 もちろん合理的でマイペースなところや、どんな問題に際しても相手を言いくるめてしまうような口達者なところは、彼の地の部分として露出されている。だけどそれを隠そうとしないところもまた彼の計算で、結局はそうした方が楽に世渡りができると判断してのことなんだ。ある部分では偽りを演じ、ある部分では表出することを厭わない。そうやって彼は自分の性格を打算的に形成させている。


 でも多くの人は彼がごまかしや打算で生きているだなんて疑わない。長くイッタと付き合った人でも彼を自己本位で気ままな性格としか感じないだろうし、短い付き合いの人であれば彼の気さくさに騙されて、スマートな印象を受けるかもしれない。彼は自然体の演技がとても上手なんだ。その演技はときに自分自身をも騙ることで行われている。彼はあらゆる自分の欠点を精査して、そういう生き方しかできないのだと、人生のどこかの地点で断定したの。


 だから、逆にいえば彼は自分の本質が見抜かれることを極端に恐れてる。私やシィちゃんを別にすれば、彼は他人と深く付き合うことを好まない。ある程度のところまでは極めて社交的な関係を築くのだけど、相手が一線を越えようとした瞬間に彼は素早くその動きを封じてしまう。それは決して拒絶というようなやり方ではなくて、ごく穏やかに紳士的な方法でいなしてしまうんだ。拒絶というのは相手に疑念を与えるから全く上手な方法ではないんだよ。彼はそうやって常に相手を本質の中へ踏み入らせないよう心がけている。生活の一挙手一投足がすべて抜き差しならない状況だということを彼は知っている。


 多くの人は彼のこうした生き方を憐れむんじゃないかと思う。ううん、同情や憐憫だけでなく、彼の生き方を否定したい人だっているはずだ。そんな偽りの人生を送って、何が楽しいのだろう、って。でも一方でイッタ本人は彼の生き方について満足してる。私の内側に似た彼の特性では他人と深く付き合うことはできないだろうし、本人もそのことは十分理解しているはずだからね。


 社交の場で極めて友好的な態度を取りつつも、それは常に表面だけであるっていう彼の生き方は、ある人にとっては残念かもしれないけれど、今のところ彼の人生の成功を大きく支えてる。


 高校卒業後のイッタは綿入を出て、都心近郊の大学に進学した。いつか彼は大学院に進むかどうか迷ってると相談を持ちかけてきたことがあったけど、結局は四年で卒業し、それからはどこか適当な土地の市役所に勤務した。同じ公務員なら国家一種でも取得した方が良かったろうし、イッタにはそれを可能にするだけの頭もあったはずなんだけど、彼は多忙な官僚職の業務が自分の特性にどう影響するかを鑑みて、より抑えが効いてより安定した場所を定位置に決めた。もちろんこれは華々しい成功とはいえないけれど、彼の特性からいって(もしくは私の特性からいって)、イッタのいる位置は最上限の足場だといえる。


 一般的に、私たちの特性では事務職は適さないっていわれてる。それについては私も身を以て知っている。毎日決まった時間に就寝し、起床し、出勤した先で代わり映えのない事務仕事をこなし続ける。私からしてみたらそんな生活に一生拘束されるなんて考えられないことで、将来的に処理する作業量を想像しただけで気が狂いそうになってしまう。だけどイッタはそのあたりの感覚を上手にコントロールしてのけた。意識の調節ネジをほんのちょっと無機質な角度へ傾けてやるだけで、いくらでも合理的な生活が営めるんだってことを彼は知っている。もちろん言うは易しで簡単なことじゃない。それはイッタが幼い頃から積み続けてきた訓練の成果でもあるんだ。


 繰り返すようだけど、幼い頃から自分の特性を理解し、そして折り合いをつけてゆくということが、私たちにとっては何より重要な課題だった。


 さて、次にシィちゃんだけど、当時私に教えてくれたとおり、彼女も高校卒業後に綿入を出ていった。大学進学後も実家には度々帰ってて、私も彼女の家には何度か泊めさせてもらったことがある。跡継ぎ以外は寄りつけないという例の訓戒も、学生のあいだは大目に見られてたのね。もちろん大学を卒業してからは本家とは一切関わってないみたい。


 在学中に教員免許を取得して、しばらくは中学校の教員を務めてた。だけど二十代の終わり頃にあっさり結婚し、その翌年には妊娠を理由に退職をした。一人目の出産後に彼女と会ったけど、復職の予定はないって言っていた。事実彼女はその後も二人の子を生んで、今では三児の母として家事に追われてる。旦那さんとは職場恋愛らしかった。


 一度だけ彼女の旦那さんに引き合わせてもらったけれど、素朴で誠実で仕事への熱意もある、まるでイッタとは正反対の人だった。彼の横にいるシィちゃんがとても幸せそうだったから、私はそれで納得することにした。


 だけど今でも時おり悔しくなるんだけれど、どうしてイッタとは結ばれなかったんだろう。二人が別れたと知らされたとき私は愕然とした。その後も復縁のために骨を折ったつもりだったけど、結局は無駄だった。二人の間ではそれはもう完全に終わったことだったんだ。でも間違いなくイッタを理解できるのは唯一シィちゃんだけで、その逆もまた然りだ。破局の原因もよくわからなかった。単なる喧嘩別れやすれ違いの日々に耐えかねたというわけじゃなく、二人とも異口同音に「お互いのため」と言うばかりだった。突き詰めようとしてもそれ以上のことは決して口を割ろうとはしなかった。私の知らないうちに二人だけ前に進んでいて、私だけがその場に取り残されたような気持ちになった。ううん、今でもその気持ちは私の中でくすぶり続けてる。イッタとシィちゃんと、そして私と、この三人の関係は、現実を知ってなお、未だに十七歳の美しい日々のままで止まっているし、もしも二人が結ばれたなら、私たちは今でも三人寄り添って笑い合える間柄だったのにと、ずっと夢見を続けてる。


 それから私……のことを話す前に、トモ兄とナオ兄についても触れておこうかな。二人の顛末については少し前にも聞かせたはずだけど、彼らもある時期に仲違いして、それからはずっとぎくしゃくした関係のままでいる。祖母の葬儀のときにはまだ二人の関係は良好だった。でも、その後にトモ兄が結婚して、またその数年後に父が脳溢血で倒れると、二人の関係は徐々に悪化していった。父は一命を取り留めたものの、半身に後遺症が出て、どちらが面倒を看るかということで一悶着あったらしいんだ。簡単にいえばトモ兄が得意の舌先三寸で看護の義務がないことを主張し、ナオ兄がそれに愛想を尽かした形だ。私はもう下間の人間だから蚊帳の外だった。


 聞いた話では、トモ兄は最悪のところ父を本家に押し付けてしまっても構わないというようなスタンスで居たらしいんだ。もちろんそれはあくまでも最悪のところであって、長男という立場上、一旦は世間に義理立てをする格好で父の看護を引き受けた。ところが元々険悪な父とトモ兄だから、事あるごとに衝突もしたし、そこに奥さんも加えた三人の生活が上手く経営されるはずはなかったの。


 ナオ兄はちょうどその時期、長期出張で地元を離れてた。彼が父の置かれてる状況を知ったのは、出向命令が解けた直後、トモ兄が父を引き取ってからで計算すると半年も経ってのことだった。その半年の間に父の身に何があったのか、これについて具体的な内容は省くけど、とにかく父はトモ兄夫婦から邪険に扱われてた。


 当然トモ兄とナオ兄のあいだで激しい口論が交わされたんだ。その際にもトモ兄は自分を正当化するようなことしか口にしなかった。とっくに解決した昔のことを持ち出して、そんなことがあったにも関わらず父の介護を続けてやっている自分のほうが真っ当だと主張してみたり、もしくは父の世話のために仕事にだって影響が出ているのだから、自分のほうこそが被害者だというような口ぶりだ。後遺症に苦しむ父に対して、会話がまともに成立しないことまで責め立てていた。


 いや、これは後からナオ兄づてで聞かされたことだから、半分くらいは彼の主観が混じっていると思う。だけどその点を差し引いても、トモ兄だったらありえるなと私は感じた。彼の口達者な性質は、常に自分自身を有利な立場に置くことにしか発揮されないからね。


 とにかくその口論の場で、ナオ兄は彼が義理以外の理由で父の面倒を看る気がないんだってことを悟ったの。それでも一定の介護状態が保たれていればよかったのだろうけれど、ナオ兄いわくそれは家畜か飼いたくもないペットの扱いと同じだったらしい。それでナオ兄は父の介護を引き受けたわけだけど、それにつけてもトモ兄は「俺は長男としての義務は果たしたし、親父を引き取るのはお前が勝手にやろうとしていることだから、それなら俺は今後一切親父のことには関わらない」というような詭弁を用いたらしいんだ。この一言が仲違いの決定打になった。


 以来二人は口も聞いてないっていう。あの夏の時期に建てていた家はトモ兄とナオ兄の共有名義だったのだけど、口論の際にナオ兄が啖呵を切って父と一緒に出ていった。今はアクセシビリティの高いマンションで二人で暮らしてる。共有名義の家の権利がどうなったかとか、そのあたりの詳しいいきさつは知らない。いずれとっちらかった状況だ。


 だから私はずっとトモ兄の口先だけの生き方を危惧していたんだよ。事実、まるで双子のように仲のよかったナオ兄とも決別してしまった。一応ここでイッタの口達者ぶりを引き合いに出しておくと、彼の場合は周りとの調和のために用いているから、本質がまるで違うんだ。逆にいえばイッタにしても自己本位の方向に彼の能力を用いたら、結果はトモ兄と同じことになるだろうね。だけどその点に関してだけはイッタのことを信用してる。もう会わなくなって何年にもなるけれど彼がその部分だけは変わってないってことは絶対的に自信を持って言えるんだ。トモ兄と違ってイッタは自分の性質をちゃんと弁えているからね。


 さて、それじゃあ最後に私のことだ。イッタと、私と、そしてトモ兄と、この三人は根っこの部分でおんなじ性質を持っていて、だけどその中で私だけ生き方が不器用だった。トモ兄もあれで社会的な面だけは器用な人だ。そして私の不器用さはこの帰郷旅行を終えた後から目に見えて顕著になっていった。


 帰郷旅行を終えたのち、まずはそれまでどうにか維持してきた母との関係が悪化した。高校を卒業する頃には修復不可能なほどになっていた。同じ家にいてもほとんど口をきかないくらいにだ。


 問題の多くは学資金についてだった。進路の問題が日増しに大きくなるに連れ、私もいよいよ大学への進学を志すようになったんだ。けれどもシングルマザーの家庭では自力で学費を用立てるのが難しかったし、当時は奨学金や学費免除の裾野も狭かった。私の学績ではそういった制度を受けることが叶わなかった。


 はじめのうちはそれで諦めがついていた。大学を目指そうと思ったのも単にイッタやシィちゃんの影響でしかなかったからね。でも日を追うごとにそのちょっとした思いつきにいろんな希望が見えてきて、私は明確に……つまり確固とした理由を持って進学を望むようになっていったの。当然このことで何度も母とは口論になったんだ。


 口論の終点はいつも同じだった。私は働きながらでも進学することを決意していたし、今からでも頭金のためにアルバイトの示唆をした。母はそれに否定的だった。そんな姑息な手段では修了課程までの工面がつかないという正論をやや感情的に押し付けてくるだけだった。至極真っ当な意見だったから反論できなかったし、その口ぶりから母は頼れないということもよく伝わった。


 それに、結局私の方でも何一つ動き出せなかったんだ。何をするにしても母の承諾が必要だっていう縛られた考えが、常に私の行動を制限してた。誰かからの承諾とか肯定とか、当時の私はなぜかそういうことを重要に考えていた。ことが動き出してしまったあとなら、誰もそれを止めることなんてできないということが、私の頭には存在しなかった。


 だからもし母を頼れないのであれば、実家に頭を下げにゆくという選択も、やっぱり母の拒絶によって失われた。母の娘としてではなく、私個人として祖父母から借金をする方向で話を進めようとしていたの。でも前もって母に相談したところ、あまりに非常識だと説教された。


 今になってみれば自分でも馬鹿げた提案だったと思ってる。たしかに彼女の言う通り、あまりに非常識で自己本位な考えだった。母の実家はそれなりに裕福で、孫娘のためなら多少の蓄えを崩すくらい厭わないだろうと、どこか都合よく期待してる節もあった。何よりも残念なのは祖父母に頼るしか道がないと、私自身が決めつけていたことだ。同じ借金ということでは学生ローンや学内奨学金という考えも、すべてこの一点に収束されていた。


 それで何度も母に食い下がった。「あなたではなく私が頭を下げるんだ」って事あるごとに主張した。もちろん母の意見は曲がらなかった。ただ彼女の否定は、物の道理に反してるってことのほかに、シングルマザーとしての負い目もあってのことだった。金銭がらみで実家を頼るということが彼女の自尊心をひどく傷つけているようだった。私はそのことに気付いてて、だから無理にでも彼女に反発してた。


 彼女の自尊心の根底には父との離婚が潜んでた。連れ子が二人もあって十歳以上も年の離れた相手との結婚を、母方の実家は当初から反対してたのね。それでも母は父と結婚し、そして私を生んだ。そこまでは良かったけれど、私の八歳の誕生日を前にして起こった出来事は、当初から周囲が懸念していた通りの顛末だった。離婚ということに彼女はひどく負い目を感じてる。だからこそ母は意固地になって、ある程度は自立した生活というものを、実家に向けて誇示しておきたかったらしいんだ。どうしても大学に進みたいという娘の熱意も彼女の意地を揺るがすには足りていなかった。


 私の方では願書締め切りのぎりぎりまで進学の夢を捨てられず、だから就職活動をしないまま高校の卒業式を迎えることになった。これも冷静に考えれば失策だ。その後は求人雑誌から適当に引き当てた製造業に就いたけど、運が良かったのは新卒扱いで雇ってもらえたというところだけで、その先には苦痛しか待っていなかった。


 就職後も私は進学の夢を諦めていなかった。数ある職種の中から製造業を選んだのも、他に比べて給与待遇がよかったからだし、初めから私はその大半を学費に回す腹だった。初任給で十万円を預金に回せたから、二年も働けば当面の学費は用意できる計算だった。


 思い返すとこの時期の生活はずいぶん窮屈だった。製造業が好待遇とはいっても高卒でしかも世間が不況の中でのことだから、月に十万円の預金はそれなりに苦労が伴ったんだ。手取り給与のうち生活費として五万円を家に入れ、そこから昼食代と携帯端末の通信費を払ったら、私の手元に残るのはせいぜい三千円くらいだった。もし古着屋と古本屋がこの世になかったら、私の生活は破綻していたと思う。あとレンタルビデオ店もかな。


 とにかく貯蓄の密度を増やすことがこの時期の私の課題であり生きがいだった。会社は二年で辞められる計算だったけど、進学が目標であるならば、受験勉強のための時間も必要だ。目標の達成は早ければ早いに越したことはなかったの。


 でもね、その時期に限っていえば、それは苦痛とは無関係の素晴らしい日々だったんだ。私には明確な夢があって、夢のために熱意に燃えていた。まるで雲ひとつない澄んだ空のように私の心は遠くまで広がっていた。夢を叶えるという目標が情熱を一切冷まさなかった。その頃になれば祖父母に頼るという考えがどれだけ甘ったれだったかも理解できていた。自分の道は自分で拓く、当たり前だけどそれ以外に方法なんてない。


 当時の私は心理学に興味を持っていた。もうちょっと具体的にいうと臨床心理士の資格が欲しかった。そして最終的な夢はスクールカウンセラーになることだった。スクールカウンセラーになって私と同じ悩みを持つ子どもを、そう、誰か一人でもいいから救ってあげたいと、真剣に考えていた。この時分私は私の性質を理解し、そしてもう私自身が手遅れであることを痛いほどわかってた。自分の性質を矯正し、そのあいだ世間には静観してもらうということが、十八歳という年齢からではあまりに遅すぎるのだと、わかってた。だからこそ、まだ間に合う子どもたちの助けになりたいと考えていた。それが私の生まれてきた意味だとか、使命だとか、そういう恥ずかしいことも、本気で信じてた。ところで臨床心理士の資格を得るには指定大学院の修士課程が必要なわけだから、前提として大学へ進学しないわけにはいかなかったんだ。


 だから受験勉強のことは棚上げするにしても、学費の工面ということに全ての情熱を注いでた。月に三千円ぽっちの窮屈さも嬉しさに変換されてたし、それは夢に近づく過程であると同時に私が初めて自分の人生を自ら切り拓いてゆくことの実感にも繋がっていた。


 工場では毎日同じことの繰り返しで、勤務中にはたまに体の中で何かの導火線に火がつく感覚を覚えることもあった。もしもその火が行き着くところまで行き着いたなら、私の社会的立場は完全に終わっていただろうけど、当時は夢というものが全ての歯止めになっていた。夢のために私は私の特性まで制御できていた。意識の調節ネジを無機質の方向に傾けさせられていたってわけだ。


 ところが就職から半年ほど経った頃、私の情熱は大きな氷山にぶつかった。それはちょうど給料日の翌日で、家に入れるためのお金を引き下ろしに銀行へ向かったときだった。パネル端末を操作していると、なぜか自動預け払い機にエラーが起きた。引き出そうとした金額に対して残高が不足してるという旨をモニターは告げていた。初めは単なる機械の誤作動だと思った。振り込まれた給与と合算すれば口座には八十万円近くの預金があるはずだったのに、なにしろモニターは数百円の残高しか表示していなかったんだ。これが機械のエラーではないとすると、次に私はなにかの犯罪に巻き込まれた可能性を考慮した。でもそうではなかったの。犯人はもっと身近にいて、それは母だった。


 家に帰って問いただすと、母はあっさりと自供した。消費者金融への返済が滞って、督促状が届いてたことも、私はこのとき初めて知った。その額がきっかり八十万円だったことも私は知らなかったし、ううん、きっとそれは半分嘘で、母はそのうちの何割かを懐に収めてた。運の悪いのは給与日と犯行日が重なったことで、おかげで私はほんのちょっとの手立てまで奪われた。


 なにより私を衰弱させたのは母に反省の色がないことと、預金を引き抜いた方法のためだった。彼女は私の部屋から預金通帳を探し当て、それを握りしめて銀行窓口まで向かったと、どこか自慢めいた口調で説明してくれた。もちろん、今では考えられない方法だ。でも当時はそういうことも可能だった。つまり近しい血縁関係であるならね。


 私は本当に衰弱させられた。たった一回の打撃で半年分の苦労を水の泡にさせられたんだ。でも諦めてはいなかった。まだたったの半年だ、それはまた一から仕切り直せばいいって考えた。いよいよ私の情熱が沈没したのは、この犯行がその後も繰り返されたためだった。


 一度目の犯行から先、私は常にキャッシュカードと預金通帳を持ち歩くようになったのだけど、母はどういう方法でか、確実に私の預金を空にした。一度目の犯行が給与日と重なったのは本当に運が悪かった。おかげで母は充分にこの鉱脈の甘さを知った。


 毎月私の手元に残るのはわずかに一万円くらいのもので、そういうことが三ヶ月も続くと、私の中で何かがぽきりと折れた。それから先のことは抗う気力もなくなった。つごう九ヶ月分の苦労が無駄になったというだけでなく、将来的にも彼女の行いがやまないだろうって想像が途方もなく、私の心を砕いていった。


 例えば銀行口座を新設して給与の振込先を変更するとか、彼女より先に全額引き出してしまうという方法も、もちろん考えはしたんだ。だけど常に平然とした態度をとる母を前に、そういうことが全くの無駄に思われて、私は何一つ対策を取れなくなっていた。それに私が糾弾したときも、親族間での窃盗は刑事罰として問われないというお題目を、母はしきりに唱えてた。一体どこでそんな悪知恵を仕込んできたんだろう。


 いや、いずれにしてもそんなこと、私はまったく興味なんてなかった。私はただ、どんな形にしても私の夢を叶えたかっただけで、この時分の興味はすべてそこに向けられていた。だけどその夢が潰えたと知ると、私はひどくくたびれた。もっと早い段階で適切な対処をしていれば結果は違ったかもしれない。けれど初犯から半年も過ぎた頃になると、全てが手遅れのように感じたし、彼女の行いに対しても、なるように落ち着くのを勝手に任せてた。


 結局母の犯行はそれから二年近く続いた。時期を追うごとに抜き取られる金額は徐々に減少していったけど、それでも彼女は半ば公認のように私の所得を着服し続けた。犯罪の終わりにも特に言葉は用いられなかった。罪の意識は彼女の中で勝手に芽生えて、そして勝手に成就されたらしかった。そもそもそれが罪の意識と呼べるものかもわからない。強いて自分の行動に対する違和感というようなものでしかなかったと思う。いや、そんなことはどうでもいいんだよ。


 私はそのころ運命という言葉の脅迫に遭っていた。どちらかといえばそちらのほうが重要だ。幼い頃から失敗続きだったり周囲から褒められることのなかった人の陥りやすい精神状態だ。つまり見えない手が背中を掴んで、情熱的に赴こうとしている場所から私を引きずり戻すんだ。何度振り切ろうとしてもそれはバンジージャンプのゴムみたいに決して私から離れず、そしてあたかも私の居場所がそこにしかないんだと訴えたいみたいに、暗闇の一点に固定する。どうやっても振り切れないこの手が私の人生を始まりから終わりまで決定してる。私は実際にその手の感覚をはっきりと認識してた。要するに私はちょっとしたノイローゼにかかってた。


 職場でも自宅でも生きてる実感が湧いてこなかった。周りの風景や時間がぼんやり過ぎてゆく感じがあって、その中で私だけが灰色の存在だった。唯一私に色が与られたのはイッタやシィちゃんと遊んでいるときだけだった。社会人という都合上、彼らに会えるのは数ヶ月に一度くらいだったけど、そのときだけは私も気丈に振る舞った。遊興費についてもその時だけはどうにか工面した。彼らだけが私の生き甲斐だった。だけど、同時に二人を恨めしく感じてる自分もいた。どうして私だけがこんな立場にいなければならないんだろう。常に心の片隅にそういう思いがあったんだ。あるいは二人に対して引け目を感じてることもあった。二人の歩んでいる道は私には眩しすぎて、ここに居るべきではないのかもしれないとも。本来の孤独の空間で体育座りをしておくことが、正しい姿のようにも思われた。


 就職先を給与の高さだけで製造工場に選んだのも、そういう意味では失敗だった。内定をもらったときはどうせ二年か三年で辞めるものと軽く請け合っていたけれど、夢と自我が崩れてみると、十年近くもこの生き地獄に浸かり続ける羽目になった。もう私には夢を再燃させる気力もなかった。再燃させた瞬間に、悪魔が私の背を掴む。


 私の勤務していた工場は重機の製造を基幹としていて、主にはユンボやショベルカーや掘削機といった大型機を扱っていた。入社時から本社とは別の、工場だけが独立した部署に配属され、その施設の中だけでも200人近くの従業員がいた。全体の規模でいうとブルーカラーの社員だけで600人を超す大きな会社だったんだ。その中で女性社員は2割に満たないくらいいた。それもほとんどが別の持ち場に配属されていたから、会社の内外を問わず会話を交わすことは稀だった。更衣室で隣り合った人同士が気まずさを回避するために一言二言社交的な挨拶をするくらい。みんなそうだった。


 その工場で私が担当していたのはエンジン用部品の組み立てやステッカー貼りといった現場で、それ以外の定例業務としては備品納入の際に数量や欠損の確認を行うくらいだった。組立作業は図面を見ずにも行える簡単なものだったし、納入品の確認もビスやワッシャーをチェッカーに通して、納品書に書かれた数量との差分を確かめる程度のものだった。もし間違いがあればリストに過不足分の数量を書き込み、なければナイキのチェックを入れる。欠損の有無は目視だったけど、機体の組立時にも備品の欠損確認を行う決まりだったから、一目でそれとわかるものだけ省いておけば問題はなかった。


 生産台数はロットで区切られて、おおよそ週に一回の頻度でロットが更新された。でもはっきりいって時間には余裕があった。前のロットが終わって次のロット分の製造が始まるまでに、丸一日くらい手持ち無沙汰な時間が生じるの。つまり私が従事していたのはラインに流すための部品づくりだったから、終日忙しそうにしているライン作業の社員と比べて、どうしてもこういう、時間の穴に落ち込む必要があったんだ。そんなとき私たちは棚卸しの真似事をしたり、やっても意味がないような汚れきった床の掃除をして時間を潰してた。たまにトルクレンチの加圧チェックをやらされることもあったけど、そこまで無駄な時間が作られることはめったになかった。なにしろ加圧チェックは就労前に毎朝行うことが義務付けられていたから、それは本当に無駄な時間だった。でもそうでもしなければ、ここでは本当に何もやることがなかったの。例えば後学のためにライン工程を勉強するということも煙たがられた。この工場ではひとたび仕事が与えられると、半永久的にその業務に従事させられた。業務内容を評価されてライン作業に昇格するというようなことは基本的にはあり得なかった。特に女性社員は閑職に回されることが多かった。だからロットの始まりを週の始まりとするならば、第一に納品チェックを行って、それから部品を組み立てて、緑色の薄汚れた床をほうきで掃いていれば、それで一週間が簡単に過ぎてった。次の週も、そのまた次の週も、同じことの繰り返しだ。


 それでも情熱を抱いていた時期はよかった。夢という支えが私のよろしくない性質を抑え込んでくれていたし、着実に希望の光へ近づいてゆく毎日に充実感さえ感じてた。だけど情熱が冷めてみると、無味乾燥としたこの毎日は悪影響しかもたらさなかった。情熱とともに自我まで失っていた精神に、驚くほどたやすくこのルーチンワークが入り込んできた。私の二十代はあまりにも早い速度で過ぎ去っていったんだ。


 その間に多くの女性社員が職場を辞めてった。トイレは男女共用で、冬の日でもほとんど空調の効かないこんな職場では、むしろ早期に見切りをつける女の子のほうが正常だった。同期で入った女の子のうち八割は三年以内に辞職したし、上も下も似たような状況だった。


 それでも会社に留まり続ける残り二割の女の子は、控えめにいって、どれもアクの強い子たちばかりだった。工場内でヒロインのように振る舞う底抜けに明るくちょっと男勝りな女の子か、どうしようもないほど内向的で常に怯えたような表情を浮かべている女の子か、大体の子はこのどちらかに分類できた。


 入社当初の私はちょうど彼女たちの中間にいた。底抜けに明るいわけでもないし内気なわけでもない。きっと多くの先輩社員は私を三年以内に辞めてゆく側の人間だと踏んでいたはずだし、私自身もそのつもりでいたわけだ。でも例の件で気を病むと、事情は一気に変わった。夢とか希望とかを失った私は途端に内向的な女の子の仲間入りをした。


 入社から三年が過ぎた頃には母の犯行もすっかり収まっていたわけだけど、依然として私は気を病ませたままだった。少なくともそこからまた再起をかけるという気にはならなかった。すでに私は見えざる手に背中を掴まれていて、私が動き出そうとした瞬間に、彼らが私を逆側へ引っ張り返すだろうということを、私はありありと感じてた。母の犯行が収まったことで、むしろ私はそのことを強く感じるようになった。彼らは物事が適切な位置からずれようとしたときにだけ、極めて能率的に仕事にかかるんだ。だから元の位置に戻された私は放っておかれているし、もしももう一度動き出そうとすれば必ずなんらかの妨害行為が発生する。思い返してみると幼い頃からずっとそういう人生だった。両親の離婚に関しては泣き言を吐かないにしても、なにか決心をするたびに、私のよろしくない性質はいつも私の邪魔立てをした。今まで内的原因だったものが、私がその性質を理解したことで、外的原因に変わっただけのことだ。常に彼らは私の背を掴んでる。だから何をやっても無駄なんだろうと私は考えていた。


 イッタとシィちゃんの破局を聞かされたのも、ちょうどこの時期だった。私にしてみればそれはとどめの一撃でもあった。すべてが元の位置に戻されたんだ。私には親友さえ必要ないと背中の手は言っていた。


 私はどうしようもなく打ちのめされていた。夢が潰えたときはまだ、絶望というものに層があることを知りはしなかった。だけど私の人生はまだまだ転落を続けてく。そして気づいたときには両手で目を覆ってもわからないくらいの闇に包まれる。あの帰郷旅行を境に、だ。私はこのときはっきりと、私の人生がどういう動きを見せているのかを認識したの。美しいだけではすまされなかったあの帰郷旅行をそれでも美しいだけの十七歳の夏だったと表現するのは、それが理由だよ。あの日々にだけ私は輝けていた気がするんだ。


 二人の中では復縁という可能性も存在しないようだった。それが彼らにとって正しい選択、正しい道であると信じて疑っていなかったし、どこかでくすぶっている風でもなかった。私だけがよりを戻そうと奔走してた。そんなとき彼らは決して嫌な顔をせず、むしろ清々しそうに微笑むばかりだった。私にはその態度が余計に辛かった。二人とも別々の空間で申し合わせたようにおんなじ顔をするんだ。そこまで似通った相手なのに、どこでどうやって歪んでしまったんだろう。


 それ以来私は趣味だった読書や映画鑑賞や、そうしたものを全て捨て去ることにした。別に、イッタやシィちゃんへのあてつけというわけではなくて、ただそういった生への執着みたいなことがたまらなく嫌になったんだ。イッタとシィちゃんと私と、三人でどこかへ行ったり遊んだりすることが、どれほど生きる希望になっていたかわからない。けれどもそれも失われて、私はいよいよ生きるということを生体的な反応としか考えられなくなっていた。


 過ぎ去る日々になんとなく身を置いてるだけの毎日だった。弱音を吐くほど人生に執着してもいなかったし、この人生をやめにするほどの希望も持ち合わせていなかった。その頃にもイッタやシィちゃんとは個別に会っていたはずなんだけど、彼らの前で私はどんな顔をしていたかわからない。いや、たぶん、そのときだけ人間の振りをしていたんだと思う。


 無味乾燥としたまま時間だけが進んでいった。二十代という華々しい時代を、私は重油にまみれた容器の澱で過ごしてた。いま思い返せばそれは本当に残虐な行いだった。もしもいま当時の彼女に伝えられることがあるとすれば、それは背中を掴んでいる手なんて勘違いだということだ。もう一度立ち上がって、そして万全の対策をとっていれば、次こそはきっと上手にいった。少なくとも夢の挫折についてはその程度ですむはずだった。でも私はたった二年計画が狂ったというだけで、その後のすべてを捨ててしまったんだ。あまりにも愚かで残虐だったと後悔してる。


 でも同時に思うことは、時間の貴重さは年齢によって大きく異なるということだ。情熱に滾らせている二年、ううん、たった数ヶ月が、その後の十年にも匹敵するということが、若いうちには往々にして起こりうる。おかげで私はどうしようもなく青春を歩む権利を失ったし青春を失わされた。


 十年、そう、ちょうど十年だ。

 あるとき私はふと正気に戻った。それは二十代という華々しい時期が終わりを告げる直前のことで、正気に戻ったのと同時に恐怖に襲われた。空白で埋め尽くされた二十代の、その空虚さが、そのまま物事が終わる瞬間の恐怖としてやってきたの。体中に凍えるような悪寒が走った。世界がぐらぐらと揺らめいたんだ。


 その恐怖に私はいついかなる状況でも襲われた。日常の些細な中でも襲われたし、仕事中にもよく襲われた。思考に余裕があるときほど苛まれ易かったけど、残念ながら私の従事している業務は知能を必要としなかった。そして一旦この恐怖に苛まれると治まるのにいくらかの時間を要した。就労中は必死に抑え込んでいたんだけれど、作業中のミスが目立って注意を受ける回数も増えてった。


 二十代を無為に過ごした後始末が、こんな形で返ってくるとは想像もしてみなかった。運命の指し示す方向に従って自分をただの肉の塊と見立てたことが大きな過ちだったと、私はそのときになってようやく気がついた。私はいつだってそうなんだ、取り返しのつかないところまで行き着いて、初めて間違いに気がつく。


 一ヶ月経っても二ヶ月経っても状況は改善しなかった。返って症状はどんどん悪化していった。挙げ句には四六時中この恐怖について考えている始末だった。なにか改善策を見出したかったけど、解決の糸口なんてどこにあるかもわからなかった。このままではまずいという焦燥感が新たな恐怖を生むだけだった。


 発症から三ヶ月経ったとき、ひとまずの打開策として、封印していた趣味を再開することにした。そんなことで恐怖が拭われるわけないと思っていたけれど、あらゆる面で支障が出ているいま、何も対策を取らないのはまずいとわかっていた。それになにか没頭できるものがあれば、少なくともそのあいだだけは気が紛れるかもしれないと考えてのことだった。


 読書や映画鑑賞を再び趣味としてからも、しばらくはそれらしい変化が起こらなかった。思っていたとおりなにかに没頭している最中であれば恐怖心は薄らいだけれど、それは文字を追っている最中の、あるいは物語を眺めている最中の、ほんの一握りの時間でしかなかった。常に頭には恐怖がこびりついていたし、果たしてこれが正しい対処療法なのかという焦りが、読後やエンドロールの流れているあいだに、反動のようにほとばしってくることもあった。趣味の再開自体に疑いを持つようにさえなってきた。


 それでも根気よく続けてゆくと、次第に症状は改善されていった。恐怖に襲われる回数も減っていったし、やがてそれより先の段階になると、ある程度なら感情をコントロールできるようにもなってきた。それは私が今までの思考形態を回復させる過程とぴったり一致してもいた。本や映画を反復的に読み解くことで、本来の私の思考の取り方が、まるで脱ぎ散らかした服を着直すように、徐々にではあるけれど私の肉体に戻っていった。


 半年間このリハビリを続けた。続けた結果私は、恐怖への克己心を得、思考形態はかつてのものを取り戻し、そのうえであるかないかの十年分の経験を加えた形として出来上がった。そうするとこのリハビリは、もう真っ当な趣味と呼んでいいものに変わってた。


 本当にリハビリが功を奏したのかはわからない。恐怖は単なる一過性のもので、無視してもいずれ自然消滅する類のものだったかもしれないし、たまたま解決に乗り出した時期が消滅の時期と一致していただけかもしれない。だけど仮にそうだとして、結果的に私は生きる糧を引き戻すができたんだ。それは十年間同じ場所に留まり続けていた私の、小さくも意味のある前進だった。


 ただ、一つの問題が解決したからといって、ほかの事柄まで万事うまくいくとは限らない。禍福は糾える縄の如し、つまり物事っていうのは常に多面的で、一方の害が他方では利に転換されているってことがままあるわけだ。それを私のことに置き換えていうと、灰色の目だからこそ維持してこれた十年が、ここにきて何よりもの苦痛に変わったということだった。本来の思考形態が蘇ってみると、工場勤務というこの環境は、継続してゆこうとするにはやや困難だった。


 半年かけて内面的には変わったはずなんだけど、対外的に見ると勤務態度は恐怖に患っている期間となんにも変わっていなかった。場合によってはひどくなってる部分もあった。悲しいことに調節ネジを無機質の方向に傾ける術を、私はとっくに失っていた。


 ある日の勤務中、私は直属の上司に話があると呼び出された。応接室の椅子に腰掛けて、彼からしばらく仕事を休んでみないかと打診されたんだ。断る理由もなかったから私はその提案を素直に受け入れた。新卒から十年も経つとたまにこういう社員が沸き出るらしくって、私の場合もその一例とみなされていた。


 最初は一週間の有給が与えられた。それから職場復帰して一週間経過観察した後に、正式に休職手続きという流れになった。休職ははじめ一ヶ月の予定だったけど、ほとんど無期限にずるずると延びてった。


 いや、有給処分の時点で私にはもう後がないってわかってたんだ。一週間の職場復帰でそれが間違いでないこともわかったの。継続的に行ってきたことを一旦リセットしてしまうと、今まで見えなかったものまで見えてきてしまう。それでもうこの職場での勤続は無理だと理解してしまった。だから休職というのはこの時点ではもう単なる口実で、私は次の働き口を考えていた。


 といっても、ねえ、一体私に何ができるだろう。ベルトコンベアに流されるようなルーチンワークが無理だとわかっていても、私には転職を有利に運ぶ資格もないし、変えの効く経験もほとんどない。他人と違う思考の取り方は自分でもある程度認めていたけれど、それが職業選択の場で一体どれだけ有利に働くのか。答えは多分ゼロなんだ。


 さて、だからこの休職中に何かしらの資格を取ることも考えた。だけどそれは間違いなく付け焼き刃だし、第一、さして興味のある資格もなかったの。スクールカウンセラーという言葉が脳裏をよぎりもしたけれど、どうにも気乗りしなかった。失われた青春のあいだに、それはとうに終わったことだった。血と肉が戻ってきたあとも、その情熱だけはとうとう戻ってこなかったんだ。


 色々と考えた末に、私はある業界に飛び込んだ。それは無資格や無経歴の人にも間口が広く、とりわけ私にはうってつけのように思われる場所だった。ウェブライターという、まあ、聞こえの響きだけは冴えている職業だ。


 以前からウェブライターというものに関心はあったんだ。だけど実際にその肩書を名乗るための手順は知らなかった。つまりさ、インターネット上に自分の文章を公開すれば、誰でもその肩書を名乗れるだろうけど、どうやればそこから利益を生み出せるのか、その仕組みについてはまったく暗闇だったわけ。


 調べてみるといくつか方法があることを知って、私はその中でも最も簡易な方法を取ることにした。頼ったのはクラウドサービスのサイトだ。そこでは随時多くのクライアントがライターを募集してる。ライターの利益は原稿料や執筆料という名に代えられて、一からウェブサイトを作って収益のメソッドを学ぶより、これはとても楽な手段に思われたんだ。原稿料の一部は手数料として仲介者であるクラウドサイトの取り分になるけれど、それについてもノウハウのない私にしてみたら文句はなかった。取りも直さず私が即戦力で通用する場所は、こういう世界にしかないと思ったんだ。一応、私には思考の取り方の他に、優れた作品から学んだ文章性という武器があった。それを武器と呼べるかどうか、この時点ではまだ未知数だったわけだけど。


 いや、おかげでさ、飛び込むといってもずいぶん躊躇したんだよ。ライターとしてアカウントの登録だけは済ませたけれど、初心者歓迎という募集内容にも簡単には応募できなかった。何かを始めようとするとき、事の大小に関わらず私はいつも二の足を踏んでしまう。とりわけこのときは、私に一体何ができるのかということと、私の文章が全世界的に公開されたときの重責を考えて、なかなか前に進めなかったんだ。重責だなんてさ、いま考えると笑っちゃうような理由なんだけどね。


 で、私は一旦この計画を保留した。重責うんぬんは差し置いても、私に一体何ができるのかということが重要だった。もっと重要なのは、それを私自身が知らなかったことだ。優れた作品の数々によって思考の取り方は知っている。だけどその思考を文章として浮かび上がらせることは、また別の作業だと気づいたの。それで私は手始めに日記をつけてみることにした。


 日記、というよりは感想文といったほうがいいのかな。休職中で時間はたっぷりあったからさ、その日見た映画や読んだ小説の所感を日記という形で綴ってゆくことにしたんだ。


 ところが、これが思ったより難航してね。今まで読み手側でしかなかったところから書き手側に移ったことで、文章という世界は爆発的に広がってしまったの。それこそ私が危惧していた通りの結果になった。読み返してもあまりにも稚拙な文章なんだもん。言いたいことはわかる、でも形として為してない。構成もむちゃくちゃだ。辛うじて文章が破綻してないというところだけが見どころだったかな。勢いでライターの世界に飛び込まずによかったと、このときは真剣に安堵した。


 ただ、それはちょっと楽しい時期でもあった。あまりにも稚拙がすぎるから成長は著しかったし、それに、少しずつ文章性が改善されてゆくことは、目標に近づいてゆくことの証明でもあった。


 やがて三ヶ月も過ぎるとある程度の範囲なら自由に文章を構成できるようになっていた。それはあくまで直感的なものだったけど、どこを山場にしてどこを流すかということも感覚的にわかるようになってきた。それでやっと私も踏ん切りがついたんだ。もしくはそれ以上先延ばしにしても成長曲線が頭を垂らすだけだと感じ始めていたからね。


 それで、初めに請け負った仕事はなんだったかな。そのクライアントとは今でも交流があるんだけど、最初にもらった仕事ってなるとちょっと覚えてない。とにかく私は例のクラウドサイトに掲載されていた募集内容の一つに応募して、要項に従って一本のパイロット記事を提出したの。


 提出した記事はいくらかの指摘とともに返ってきた。私の書いた記事はちょっと堅苦しくて、それに常用的でない語句も多かった。小説だとか出版物と違って、これは万人が目にするものだから、記事は全体的に柔らかくわかりやすい方がいいとのことだった。


 ただ、彼は私を採用してくれたんだ。執筆の基礎はできていたし、見どころはあると思ってくれたんだろうね。もしくはもっと利己的な思惑だったとしても、理由は別になんでもよかった。私からすると、これでウェブライターとしての道に一歩踏み出せたわけだから。


 実際にウェブライターの世界に飛び込んでから、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、そして三ヶ月が過ぎると、休職の期間は半年にまで延びていた。でも会社からは特にお咎めもなかった。月に一度工場に顔を出す必要があるくらいで、それも上司と少し話をして、一時間もすれば解放された。ライター業が副職の類に属するかは今の今でもうやむやになっている。結局そのことは会社になんの相談もしないままだったし、源泉徴収の処理がどのように行われていたかも知らない。だから、もしかすると今頃になって税務署の職員が私の部屋のドアをノックしにくることもあるかもしれない。まあ、その頃の原稿料なんて、たかが知れていたけれど。


 休職の始まりから数えて九ヶ月が経った頃、ようやく私は別のクライアントとも契約を結ぶようにした。曲がりなりにも執筆業と呼べるものを始めてからだと半年だ。でも別に半年って数字に特別な意味はない。単にその頃になると、私にもずいぶん余裕が生まれてた。


 いちど複数の契約を結ぶと、それから先は順調な速度で契約本数が増えてった。最初は高校生のアルバイト代くらいでしかなかった原稿料も徐々に嵩を増していったし、反比例して原稿一本あたりにかかる作業時間は減少する一途だった。初めは一本の記事を作成するのに半日がかりだったけど、この頃になると、たしか三時間もあれば事足りた。


 会社に退職願を出したのはこの頃だった。自立した生活を送るにはライター業の収入だけでは不十分だったけど、そろそろ原稿料の言い訳がつきにくくなってきた。それに十年間の灰色の生活で預金は十分にあった。それは母の手にも染められず、私の手元に残り続けてた。


 もちろん不安ではあった。執筆業による収入は着実に増えてはいたけれど、そもそも私が請け負っていた依頼はウェブライターの中でも末端がやるような、キュレーション記事の作成ばかりだった。この手の記事作成には特別な技能はいらない。クライアントの依頼内容に沿った情報を収集し、それを自分なりの文章に再構成するという、慣れてしまえば誰にでもできる簡単なものなんだ。


 例えばペット関係の依頼で、そして例えば君のような仔猫を飼う場合の記事を依頼されたなら、ペットショップでの仔猫の相場や、ペットフードの種類、特定の食品が猫に与える害毒性、飼い手が猫アレルギーだった場合の対処法、そういった情報をインターネット上から拾い集めて、記事に使えそうなものだけを取捨選択し、それから一つの記事としての構成を考えて、あとはその記事内に『仔猫』というキーワードを適切な回数散りばめる。たったこれだけのこと。初めは難しく感じていたけれど、文章構成を除けば自分で考えることは一切ないから、要領をつかめば小学生の読書感想文より楽だってことがすぐわかる。本当に誰でもやれる仕事だよ。逆にいえば誰でもやれるからこそ立場はひどく脆かった。第一に著作権侵害すれすれの行為だということには目をつぶっても、これ一本で生き抜こうとするにはかなり無理がある。


 それでも私は長いあいだキュレーション記事の作成だけを請け負っていた。焦って手を広げすぎて自滅することだけは避けたかったからね。そうして続けてゆくと、キュレーション記事の執筆にはパターンがあることに気がついた。いくつかのパターンを覚えてしまえば、あとは型にはめ込むだけで一本の原稿が出来てしまう。そうなれば専門的であれ一般的であれ執筆の難易度は変わらなかった。ううん、むしろ専門的な分野の依頼である方が収集する情報も具体性に富んでいて楽だった。具体的な情報は噛み砕いて平板な情報に変換してやればいいだけだけど、曖昧な情報を誤謬なく記事にすることは、よっぽど面倒なんだ。でもそれにしても難易度はほとんど変わらない。今では依頼を受けてから一時間もあれば原稿一本くらい完成させられる。


 ライター業を始めて一年近く経つと、文字単価が最高で1.0円を超えた。最初に契約を結んだクライアントからの評価だった。


 請け負いのウェブライターの場合、原稿料は基本的に、この文字単価というシステムによって算出される。この場合でいうと記事内に使用された文字一つに対して一円が支払われる計算だ。彼からは一記事四千字前後の執筆を依頼されていたから、単純計算、記事一本四千円の原稿料が支払われてた。当然クライアントによって文字単価は異なるし、不安材料もまだまだ拭えてなかったけれど、生活の基盤ということではそろそろ一つの目処が立ってきた。


 二年目になるとクライアントとの契約数も十件近くなり、収入も会社に勤めていたときの給与をゆうに超えていた。ここに至って私はようやく家を出る決意を固めた。

 常々母とは距離を置きたいと考えていた。空白の十年のあいだにも何度かそれは考えた。でも長く続いた白い季節のあいだには、そんなことはどうでもいいことだった。それで自立という考えはずっと棚上げになっていたんだよ。だけど自宅を仕事場に選んでからは、たびたび彼女に集中力を乱されることがあって、そういった方面からも自立の志しが高まっていったんだ。


 決断にはちょっとだけ時間が要った。長いこと母子二人の生活を続けてきたせいで、家を出ることを彼女への裏切り行為のように感じてしまってた。このまま母を捨てるつもりじゃないかという後ろめたい気持ちが私の中にあったんだ。あれだけのことをされてなお、私は彼女を憎むという気になれなかった。私はどうもそういう部分の感情が欠落してるらしい。


 一方でこんな年齢まで親と一緒に暮らしてるのが情けなくもあった。その情けなさを強く意識して、ようやく踏ん切りがついた。


 一人暮らしについては思っていたより苦ではなかった。母からは「あんたに一人暮らしなんて」ってさんざん脅されたものだけど、あれは彼女の負け惜しみだったんだなと後になって痛感した。第一、時間の規則に縛られない自由業というのは私の性質に有利に働いた。それだけでもかなりこの生活を楽にしていると思う。


 加えて面倒な家事はできるだけ簡略化するようにした。といって、元から気の向いたときにしか食事をとらないから炊事は手間にはならなかったし、工夫したことといえば洗濯の回数を減らすために衣服を必要以上揃えるようにしたくらいだ。自動車免許を持っていないから買い出しだけが手間のうちではあるけれど、それも近くにスーパーマーケットのある物件を選んだから、苦労はだいぶ緩和されている。スーパーマーケットの隣にはコインランドリーが併設されていて、実のとこ洗濯はいつもそこで済ませてる。あれは本を読む空間としても適してる。


 不動産契約から始まって住民票や支払いや、諸々の手続きはあったけど、そのあたりは一度済ませてしまえば後は楽だと言い聞かせて踏ん張った。踏ん張りでもしないと私の特性からいっておざなりになることがわかっていたからね。ただ、毎年の年度末のことに関してだけは、これはもう仕方のないことだと割り切っている。そこは一年のうちで最も気を張らなきゃいけない時期だ。すでに前科に近いものがあるとはいえ、できるだけ税務署の職員にはドアをノックされたくない。


 なんにせよ三十歳を超えてからの新生活は今までに比べて概ね快適だ。物事への過集中ぐせと散漫さが同居する私にとって、他人に煩わされずに済むことは何よりの恩恵だった。仕事の能率は以前より上がったし、誰かのちょっとした言動に悩まされることもない。こうなってみるともっと早くから私は私の特性に対処するべきだったんだとも思えた。矯正に比べて対処というのは一時しのぎにしか過ぎないけれど、それでもないよりは遥かにましだ。二十代という青春は代償として支払うにはちょっと大きすぎたよ。


 ああ、それで、私の特性だけど、これには明確な名前があった。一人暮らしの生活にも落ち着いてしばらく経ってから、私は精神科の門を叩いたの。キュレーション記事の作成を続けていると余計な情報を拾うことが多くって、あるときそのうちの一つに目が留まったんだ。そこで、正式に医師から診断してもらうことにした。


 二回目に通院したとき、黒いスツールに腰掛けた白衣の彼はADHDという言葉を口にした。別に驚きはしなかった。彼の診断は私の予想を裏切っていなかった。だから納得だとか拒絶だとかの感情も湧いてこなかった。その瞬間の感情を端的に表すなら、たぶん無だった。


「これは現在、精神科または心療内科の管轄ですが、れっきとした先天性の脳の病気です。最近ですと後天的に発症したもの、特に大人になってから同様の症状が現れた場合にもADHDと見なされることがありますが、しかし下間さんのお話を伺いますと幼少期からこちらの症状が現れていたようですし、ご家族のうちでも思い当たる節があるということで、おそらくは遺伝的なものと思われます。この分野はまだ未成熟な部分がありまして、いつごろ発症されたかについては検査を通してもはっきりしない点が多いのですが、しかし、まあ、前述したとおり、先天性のものと見て間違いないでしょう。もし治療を望まれる場合、現時点では抜本的な療法が確立されていませんので、カウンセリングと服薬による対症療法で一先ず経過を見ます。下間さんには今後も定期的に通院してもらうことになると思います。しかし悲観することはありません、同様の症状の方でも十分に社会生活を送ることが可能ですし、何よりこの分野は日進月歩です、そう遠くない将来には抜本的な治療法が見つかるかもしれません。いえ、これは気休めかもしれませんが……。しかし、いいですか、下間さん、肝心なのは今回の診断に落胆せずに、根気よく治療を続けるということです。そうすればいつかあなたもこの病気から解放される日がくるかもしれない」、彼はそのときそう言った。


「それっていつのことなんですか?」って、だけど私はこう答えた。「もしも七十歳や八十歳になって治療法が見つかったとして、それって意味があるんです?」

 彼は返事に窮してた。まだ若く、情熱に溢れているように私には見えていた。可哀想なことをしたと思う。


 その診察の終わりに処方箋を書いてもらって、その時の薬はしっかり消化した。けれど三回目の診察の分は今も部屋のどこかに眠ってる。四回目の診察は私の方からキャンセルの電話を入れた。それからはこの性質のことで病院には通ってない。


 私にはそのとき2つの選択の自由があった。精神科の先生に従って薬物療法を続け、一歩でもまっとうな人間に近づくか、それともありのまま私の特性を受け入れて今後を過ごしてゆくか。


 一般的な常識や価値観からいえば間違いなく前者を選ばなければならなかった。社会的に完全に自立した人間というのは私の憧れでもあったし、多くの私と似た特性の人もきっとそういう自分を望むと思う。多分それが正しい選択なんだ。だけど私は『まっとうな人間』や『社会的に完全に自立した人間』という印象を一種の強迫観念と受け取った。もしくは同調圧力とでもいうのかな。なぜ私が私の特性のままでいることがこの社会では許されないのだろうって感じたんだ。子どもじみた理屈だといえばそれまでだけど、既にウェブライターとして生計を立てていた私にとって、自分の特性が平坦化されることはちょっと問題でもあった。特性が収まるのと同時に執筆の能力まで失うんじゃないかって、そこが恐ろしくもあったんだよ。クライアントからの評価は上々で、利用しているクラウドサービスからは急上昇のライターとして数行のインタビューを受けたこともあった。そういう地位を丸々手放すことにだけはなりたくなかったの。


 ううん、理屈でどうこう言っても仕方がないね。診断された直後には、私の腹はもう決まってたんだ。もしも対症療法を続ける気があったなら、あのとき無感情になんてなっていなかった。病院を出たあとでそれを不思議に感じたくらいだよ。それならどうして私は自分の特性を詳らかにしようとしたんだろう、って。


 そう、だから、自分の特性に名前が与えられてからというもの、私は自分の特性や欲求に、むしろ今まで以上に従順になることにした。一人暮らしという環境、それからフリーのウェブライターという肩書は、充分にそれを可能にしてくれたし、そうすることのほうが自然のように感じられてきた。


 社会的な大人としてのあり方だとか、規則正しいバイオリズムだとか、バランスの取れた食生活、行動規範……そういうものを一切捨てることにしたの。やりたいことをやりたいようにやる。ごく恣意的に。だけどその結果どうなったかといえば、身体の故障や精神の破滅が待っていたわけではなく、むしろ肉と心が潤いに満たされたんだ。


 今のところ、私が心がけているのはほんのちょっとの抑制だけだ。本当に些細な度合いで日常のあらゆることを抑えてる。ちょっとの運動、ちょっとの食べすぎ注意、ちょっとの身だしなみ。決して過度にはやらないし、気が向かなければ無視したりもする。半開きの水道の蛇口みたいなだらだらとした自制心だけど、それが私には、いや、私の特性には適度な水量になっている。


 それまでの私は周囲の言葉に苛まされてきた。特にテレビやインターネットから流れてくる、いわゆる成功者たちの訳知り顔の啓発に、よく打ちのめされていた。彼らの言い分を額面通りに受け取ると、あまりにも私の性質とはかけ離れてた。それをある種の社会通念、つまり現代社会が目指すべきところの社会通念と思い込むことで、私は勝手に自分の精神を汚してた。


 でも、あるがままに生きることを選んだら、そういう思い込みが決して正しくはないんだと気がついた。人には人それぞれ限度があって、やれることはやれるしやれないことはどう頑張ってみても結局のところやれなくなってしまう。努力というのは確かに美しくはあるけれど、何かの強迫観念に圧迫されながら続けるのは間違っている。僅かな自制心と、僅かながらでいいから前へ進んでゆこうという指向性と、そして後退しても気に留めない僅かな柔軟さがあれば、それで案外うまくゆく。少なくとも私の場合は。そしてその場合、周囲の声は蚊の羽音みたいなものだ。


 気づくのにずいぶん時間がかかった。三十年以上も私はこんなくだらないことに悩み続けていたんだよ。そして気づいてみれば、それはあの夏の当時から、イッタが自然とやっていることだった。ああ、私は彼のニヒルな態度をどこか冷めた目でみていたけれど、あの性格こそ私に必要な防御機能だったんだ。あの十七歳の夏の日々から十年以上が経って、私もようやくあるべきところに落ち着いた。悔しいけれどその時間の差こそが私とイッタの違いだった。いや、悔しいっていうのはイッタに対してじゃなく、無為に過ごしてきた時間に対してだ。そのことを思うと本当に悔しいよ。


 一応、過去の私を擁護しておくと、こういう生き方には多少の資本も必要となった。日常的に起こる煩わしさを、私はいちいちお金の力で解決することにした。例えばエアコンや除加湿器は過集中時にも適切に動作するように自動運転のものに切り替えた。正直にいうと掃除も自動機に任せてる。今は、ほら、あそこで充電中だけど。空気清浄機に至ってはこんな狭い部屋なのに三台も置いてるの。デスクと枕元と玄関と。不意にやってくる訪問販売や道路工事にも対応できるように耳栓だって常に山程揃えてる。色々試してみた結果モルデックス社のカモプラグが一番だった。安眠対策に人間工学の枕とベッドも買い揃えた。睡眠の質は実にどうしようもなく大事だからね。あとは瞬間沸騰の電子ケトルとか業務用の電子レンジとか、時短につながるものには特に糸目をつけてない。お湯を沸かしているあいだの待機時間、食品をチンしているあいだの待機時間、こういった些細なタイムラグが私にとっては大敵だ。なにか行動を起こそうとしたときにシームレスに移行できないと、そのあいだの目移りで仕事や生活に支障が出てしまう。


 おそらくだけど適切な通院と投薬を続けていれば、こんなにもお金のかかる環境を整える必要はなかった。でも仕方がない、私という存在を純然に保っておきたいならば、これくらいの代価は支払わなくちゃね。でもちょっと愉快なのは、現代社会を否定しておきながら、いつしか私の部屋が先端技術の見本市みたいになってることだ。私の生き方はだいぶ矛盾してる。


 矛盾、ということなら、たぶん仕事の面でもそうだ。ある時期私は執筆の手を広げてみることにした。キュレーション記事の作成以外にも、クラウドサービスには多くの募集内容が転がっている。ニュース原稿や取材記事の作成、音声データの文字起こし、第三者が作成した記事の添削、商材案内、専門知識を要する解説文、リンク用の見出し、キャッチコピー、企業名やサイト名の提案、SNS投稿用文章の作成、ウェブサイトの文章編集やウェブログの記事編纂、動画内文章の作成ならびに校閲、同様に会議や講演会での配布用文書の……。とまあ、とにかく私の属する世界は膨大な量と種類の依頼で溢れてる。動画やアプリケーションに主流を持っていかれてもなお、インターネットの世界は文字媒体に大きく依存をしてるんだ。変わったところでは個人向け小説の執筆依頼なんてのもあったし、思いを伝えたい相手がいるから代わりにラブレターを書いてほしいなんていう、ちょっと可愛い依頼もあった。クライアントは年齢も性別もさまざまで、個人であったり法人であったり、時には少年であったりもする。


 ライターとしての経験値を積みたいという思惑から、私はそれらの依頼を手当たり次第に受けてみたんだよ。報酬とか文字単価とかはその際二の次だった。だけどさ、色々と手を広げてみたあとで、仕事の主体は結局のところキュレーション記事の作成に戻っていった。


 それは一つに依頼主を出し抜くためでもあった。この手の依頼を発注するクライアントは大半がインターネット上の広告収入で生計を立てている、名もない個人事業主たちだ。彼らにとってはライターに執筆させる記事こそが生活基盤であり、だからこそ彼らが私たちへ指示する内容には利益を生み出すための明確なメソッドが含まれている。もちろん彼らは決して口を割ったりしない。けど、そこに意図が含まれているのなら、勝手に読み解いてしまうことはいくらでも可能だ。で、そうして読み解くのには、キュレーション記事の作成が最も適してた。


 それはつまり、キュレーション記事には特別な技能がいらないからさ。他人の知的財産を盗み取ってコピーライトの外された文章に敲き直すという作業には、純粋な、利益を生み出すためのノウハウしか備わってない。だから多くのクライアントと関係を持って、彼らが指示する内容の共有項をなぞっていけば、それが収益を上げるための正解の道筋になっていた。


 雇われのウェブライターという肩書きだけでは限界があったからね。なにより将来の不安もつきまとう。それで個人的にウェブサイトを立ち上げようと思い立ったんだ。キュレーション記事のノウハウはその点で大きく役立った。


 クライアントからの依頼を受け続ける一方で、現時点で5つのサイトを個人的に運営してる。基本的にはどれもうまくいってる。彼ら個人事業主と違って経営には誰の手も借りてない。だから収入は以前と比べて見違えるほどに増えた。そのぶん手間や執筆量が増えはしたけれど、それでも年間で六百万字程度だ。日記の延長のような駄文ばかり作っているせいで、それも数字に見えるほどの辛さはないの。インターネット上で求められる噛み砕いた表現というのは私にとって肩の力を抜いて書くってことと同義だった。


 唯一の心配は運営しているサイトをクライアントに発覚されることだけど、それもたぶん杞憂だ。運営場所ごとにそれぞれ筆致を変えているし、それは雇われのウェブライターとしての記事とはまた違った文体だ。彼らは一人の人間が複数の文章形態を用いれるなんて信じてないし、仮に気づいたとしても言い逃れはいくらでもできる。幼い頃から優れた本ばかり集めていたことが、こんな形でも武器として通用するとは、こうなってみるまで思いもしなかった。


 だけどこんな生活を、私はいつか辞めたいと願ってる。文章を書くのは楽しいよ、それが仕事として成立してるなら尚更だ。でも問題なのはその文章のあり方と、私が属している世界での文章というものの取り扱われ方だ。例えばウェブライターという職種を見ても、私のように生活基盤として関わってる人はそう多くない。ほとんどは手空きの主婦か学生の領分で、彼らからは本業の傍らに小銭を稼ぐ場所と見られてる。いや、それ自体は別にいいんだよ。良いと思えないのは、彼らには執筆に必要な土台と、その土台を形成しようという意欲がないことだ。今までまともな文章に触れてこなかった人たちがそのままの状態で記事の作成を続けてる。そしてクライアントの多くも、利益が得られるのなら、提出された記事の文章がちょっとくらい破綻していても気に留めない。


 双方の思惑が混ぜ合わさった場所を起点にして、インターネット上の文章は劣化を続けてる。現在進行系で。そして、その環境に私も身を置き続けてる。劣化を提供する側の一人として。それって結構辛いことなんだ。なにしろ優れた文章によって自己を救われた私が(いっときは同じ境遇の子どもを救いたいとも考えていた私が)、自らの手でまったく反対の社会の手助けをしてるんだから。矛盾というのはそういうことなんだ。この世界がはびこってしまったら、誰も救われない。


 真実どちらに傾いてるのかについて、言い争うのはよしておこう。実際は私が感じてるほど劣化の進んだ世界ではないかもしれないし、またはそうではないのかもしれない。少なくとも私の目には劣悪な状態に変化してるよう、見えている。でも大切なのはその点さ。そう見えているのに、相変わらずクライアントと手を切ろうとしないんだから。


 それというのもクライアントと関係を持ち続けることは、情報の獲得にも繋がっているからね。自主的にものを調べるというのが苦手な人種だからさ、私はキュレーション記事の作成を情報収集の代替行為として続けているの。どんな情報がお金になるか、どんな情報のもとに人が集まるか、そういうことはクライアントの方がよく知っている。私はただ彼らの依頼からそれらの情報をスポイルして、自分の運営しているサイトに転換してやっているだけなんだ。ね、よく出来た構図でしょ、まるで狐と狸の化かし合いだよ。自分でいうのもなんだけど、あまりに馬鹿らしい。


 ねえ、仔猫くん、それで君はこんな人生をどう思う? 私自身は他に解答のない正解の道だったと信じてる。でも同時に、成功の道ではなかったとも信じてるんだ。卑怯で孤独で場当たり的な、泥をすすって生きてるような人生だ。


 金銭的なことをいえば、おそらくはイッタの収入を上回ってると思う。時間的な余裕でいっても私の方がきっと多い。だけど人間的ってことになれば、それはもう比べるべくもない。彼が社会的地位の適当なところに身を置こうと決めたのは、ひとえに人間的であろうと望んだからだった。正直いって私は彼の成功を羨ましく思う。彼は人間的であると同時に自己に対しても誠実だ。


 誠実な人生を、できることなら私も送りたかった。純粋であるということが唯一私たちの優れている点であるらしい。三度目の問診で精神科の先生はそれに近いことを言っていた。それならその点にだけは従順でありたいと願うのは、間違ったことではないと思う。でも私の手はご覧のとおり綺麗ではなくて、これからもきっと泥を染み込ませてく。だけど他にどうしようもなかった。誠実なままでいられるほど器用な生き方を私はしてこなかった。


 だからせめて、私は一つの誓いを立てた。誠実な物に対するこちらからの誠実さだけは失わないようにしようって。その一例は、いま君に話して聞かせてる、これがそう。でも本当に、私の持てる誠実さは、ただこれだけなんだ。


 それが私の選んだ、そしてたまたまたどり着くことができた正解の道で、だけど成功の道はというと、きっとこの坂の先には続いていなかった。その道は私の人生のもっともっと後ろの方で坂から分岐した。

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